メッセージブログ

2024.01.07

幸せとは?(マタイ5:1-12)

 

新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。さてマルコの福音書のシリーズ昨年末で終了しましたので、新しいシリーズに入っていきます。新シリーズはマタイの福音書5-7章ピックアップしたいと思います。よくこの部分は山上の垂訓、あるいは山上の説教と呼ばれる部分でして、福音書に記されているイエス様の教えの中で最も長い部類に入ります。長いだけではなくして非常に内容がぎっしり詰まっているといいます。キリストの弟子になるということ、イエス様につき従っていくというのはこういうことなんだよ、ということが教えとしてまとめられている有名な箇所です。読んでいただければ、聞いたことあるなという言葉がいくつか出てくると思います。日本語のことわざのもとになったものも出てきますね『豚に真珠』とかその代表なのではないでしょうか。だいたい4月くらいまでかかるかなあと思っていますが皆さんとじっくり学んでいければと思います。さて早速ですが聖書読んでいきましょう。

 1 この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。


 今読んでいただきました。この部分は山上の説教の中でも八福の教えと呼ばれている部分です。なんか七福神っぽい響きがありますが、もちろんそういうご利益的なことを言っているわけではありません。ここの部分繰り返し出てくる言葉がありますね、「幸いです」です。3節からずらーっとそのリストがあるっといった感じでしょうか。でまあもちろんカウントの仕方によっては9つあるわけなんですが、11節以降は10節の説明と考えると8つ「幸いです」とそれで八福の教えと呼ばれています。


どういう人が幸いなのか、単純にリストアップしてみますと

心の貧しいもの(3節)

悲しむ者(4節)

柔和な者(5節)

義に飢え渇く者(6節)

あわれみ深い者(7節)

心のきよい者(8節)

平和を作る者(9節)

義のために迫害されている者(10節)


このような人たちは幸いだとイエス様おっしゃる。リストご覧になっていかがでしょうか?どのようなこと皆さん感じられるのか。幸いとはいったい何でしょうか。幸い、まあ端的に言って幸せって何でしょう?誰しもが幸せになりたい、幸せでいたい。そう思うのは人間の常です。インターネットでこのようなアンケートを見つけました。20代から50代までの日本の男女500人を対象とした「幸せ」に関するアンケートです。

まず一つ目の質問「あなたは今幸せですか?」

30%くらいが幸せだと、これは多いと思うのか、少ないと思うのか?皆さん自身はこの質問にどのようにお答えになるでしょうか。

二つ目の質問「普段どのようなときに幸せを感じますか」。日常で感じる幸せ、一番身近なリアルな幸せっていうんですか。そういう瞬間それぞれあるかなと思います

おいしいもの食べるとか、趣味の時間とか、旅行、家族・友人との時間とか。

三つ目の質問、この質問が一番今日の箇所に関係あるかなと思いますが。「幸せに必要だと思うものは?」まあこれさえあれば自分は幸せになれる、あるいは幸せでいられるもの


お金

健康

自由な時間

家族・パートナー

精神的なゆとり

居住環境(家持ちとかでしょうか)

趣味

友人

っというまあいうなればこれが一般的な幸せのリストになるかなあと思います。今日読んだ箇所に合わせていうとすれば例えば

お金がある人は幸いです。人生が安定するからです

健康な人は幸いです。何をするにもまず健康でなければ始まりません

っといった具合でしょうか。

けれどもイエス様のおっしゃるリストに上にあげたものは一つも入ってきません。どういうこと何でしょうか。このポイントに関しては最後に戻ってきたいと思います。頭の片隅に置いておいてください。


さて今日お読みした個所。文章的にわかりにくいところはないのではないでしょうか?けれどその意味を深く考えていく時に、いったいイエス様はこのリストを通して何をおっしゃりたかったのかということはなかなかどうして読み解くのが難しいかなと思います。

まず八福の「教え」というぐらいですから、一見すると「このようにありましょうね」という目標にすべきリストに見えるのではないでしょうか。特に後半がそうですよね、7節以降あわれみ深い者(7節)心のきよい者(8節)平和を作る者(9節)義のために迫害されている者(10節)。迫害されるを除けば、あわれみ深くありましょう。心のきよいものでありましょう。平和を作るものでありましょう。まあそういう道徳的な教えとして通りそうです。けれど問題はリストの前半です。心の貧しいものでありましょう。あるいは悲しむものでありましょう。っというのはちょっとね。自分から進んでそうある必要はさらさらないわけで。どういうことなんだとなってしまう。


そこでよく言われるのが、心の貧しい状態というのは、とにかく謙虚にあるということなんだと。「心の」つまり霊的な謙虚さっていうんですか。自分の信仰や行いではなく、自分を空っぽにして神様に頼っている状態だという説明ですね。で悲しむというのは自分の罪に悲しんでいる状態のことを言うんだ。っと。だからこのリストにあるような生き方を目指しましょうっというそういうメッセージになってしまいがちです。もちろんそのニュワンスがないわけではない、先ほども申し上げたように、あわれみ深くある、心がきよくある結構です。しかしながらよくよく見ると、こうしたら幸せになりますよという構文にはなっていないわけですよね。「心を貧しくすれば、幸せになりますよ」ではなくて「心の貧しいものは幸いです」と言っているだけ。つまりこうなったら幸せにりますよという条件、あるいは目指すべき道徳的な要素ということでイエス様はこのリストを挙げられたのではない。っということです。では一体このリストは何なのか?


でそれを読み解く鍵はイエス様がどのような文脈で、どのような人たちにこの山上の説教を始められたのかというところにあります。誰に向かってイエス様語られたのか1節にありました。


この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。(1節)


弟子たちが身元に来た。っとここですぐに12弟子を想像してしまいがちですが、実はこの時点でまだ12弟子はいないんです。10章まで12弟子はでてきません。4章戻っていただくとわかりますが、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師が弟子になるシーンがでてきます。12弟子で言うとまだこの4人だけ、そして23-25節


イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群集がイエスにつき従った


マタイ4:23-25

4章がここまでで今日の箇所が始まっていきます。ですからイエス様はもちろんペテロ達弟子に向けられて語られたわけですけれども、同時にこのイエス様についてきた群衆に向けても語られた。ということです。でその群衆とはいったいどういう人たちだったのか。さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人でありました。そしてそれは単に身体的、精神的な病に苦しんでいる人たちということだけではなくして、当時社会からつまはじきにされ、虐げられていた人達を意味していました。なぜなら当時医療も福祉もあったもんじゃない。ですから病にかかっても、保険も病院もない。障碍者になったって障害年金もありません。ですからそのような人たちは生きていくので精一杯、いや生きていくのでさえ危うい、そういう状態の人たちです。加ええていうのであれば、当時ユダヤ教的な目線で言っても病気になるというのは、自分もしくは家族の罪の結果、呪われた者とみられていました。ですから一般的にも、信仰的にも底の底にいる。そういう人たちにイエス様はおっしゃる。


心の貧しいものは幸いです(3節)。です。

間違いなく集まっている人たちは貧しい人ばかりです。まず単純に経済的に貧しい。そして経済的な豊かさと貧しさはユダヤ教的に言えば霊的な面と直結します。そこに区別がそもそもない。当時の彼らの感覚からしたら、信仰的に霊的にしっかりしていれば豊かになる、罪人は貧しくなる。まあそういう世界観です。ですから現代的なお金はないけど、心はきよいなんて見られ方はしないんですね。ですから心の貧しい者というのは、物質的にだけではなく、霊的にでさえも、何もオファーできるものがない人たちっということです。そしてそれはまさにこの教えを聞いていた群衆のことでありました。その人たちに対してイエス様はおっしゃる。天の御国はその人たちのものだと。


続いて悲しむものは幸いです(4節)。

でこれは罪に悲しむものっとかそんなきれいごとではなくして、シンプルに悲しむものっととっていいのではないでしょうか。社会から追いやられ、自分の価値を見出すこともなく、病や、痛みを抱え、悲しんでいる人、落ち込んでいる人たちですね。


続いて柔和なものは幸いです。(5節)

柔和って言葉ほとんど使いませんね。もちろんそこにはへりくだる者。謙虚なものと言う意味もありますが。低くされているもの、もっというと押さえつけられている者、虐げられているもの、弱き者という意味にも訳せるみたいなんですね。つまりローマ帝国に押さえつけられ、パリサイ人にも、律法学者にも押さえつけられ社会の底辺にいるような人たち、聞いていた群衆はそういう状態にありました。


続いて義に飢え渇くものは幸いです。(6節)

これはどうか。なんかこうよさそうに聞こえますよ、義に飢え渇くって非常に道徳的な響きがあるじゃないですか。けれどよく考えますと、義に飢え渇いているっということはその人たちの周りに、義は「ある」のか「ない」のかどっちですか?ない、ないです。だから飢え渇くわけでしょう。義がない状態。つまり自分が罪を犯しているということもさることながら、周りから不当に扱われたり、人間関係がめちゃくちゃだったり、人生がとっ散らかっている状態っていうんでしょうか。そういう状態にあって義を欲している、そういう人たちが集まって来ていた。


そのような、当時おそらく周りからも本人自身も「きっと自分は神様から呪われているんだ」とそのように感じていた人たち対して、あなた方は幸いだとイエス様おっしゃった。


つまりこのリストは、こうすれば神の御国に入れますよっ、こうなれば幸せになりますよというそういう、目指すべき目標のリストではなくして、このような人たちにさえ、いやこのような人たちにこそ、神の御国は開かれているんですよっという宣言なんですね。だからイエス様あなた方は幸いです。呪いではなく祝福を宣言される。少なくとも今見たリストの前半は道徳的なリストというよりは、そこに集まった群衆のあるがままの状態を表しているように見えます。

 集まった群衆は、衝撃を受けたことと思いますね。きっと彼らは、どうすれば神の御国に入れるのか、どうすればこの最悪な状況から幸いになれるのか、ある意味ハウツーの教えを期待していたはずです。けれどイエス様はそんな彼らに対してまず祝福を宣言される。あるがままであなた方は受け入れられている、あなた方は幸いだと。山上の説教がここから始まっていくということにも注目して考えるとなおさら腑に落ちるかなと思いますね。まず祝福、そして誰ももれることなく、すべての人にしたいして、特に苦しんでいる人に対してイエス様の仰る神の御国は開かれている。っという宣言。それがあったうえで、その後キリストについて行く、弟子となるっというのはこういう生き方なんですよ、ということが展開されていく。こうこうこうしたら、受け入れられるではなくして、神様に受け入れられているという前提からスタートしていく。それが福音です。


 さてとはいえですよ、集まったすべての人間の病がいやされたのかっというと恐らく癒されない人もいたのではないかと思いますね。もっと言うと、すべての人は経済的には貧しいまま家に帰らなければならなかったでしょう。悲しみに暮れている人の悲しみがインスタントに消えたということでもないと思います。っとするとイエス様いったい何が幸いなんですかっとこういいたくなってしまいます。

もう一度リスト見てみましょう。

3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。


7節この世界で、あわれみ深い人は、いつもいつもあわれみを受けるでしょうか?そうとは限らない。3節柔和な人は、地を受け継ぐ、つまり国を治めたりするでしょうか?どちかというと権力と力が席巻していますよね。だからぱっと見これがすべてこの生きている間に実現するということを言っているのではないんだろうなということはお分かりになるかと思います。じゃあ天国に行ってから、つまり死んで復活して、イエスキリストが再びこの地上に来られる、そのときに癒されたり満たされたりっという、そういう未来の約束のことをここで語っていらっしゃるのか。別の言い方をすれば、今はつらいけど何とか耐えて、我慢してとにかく天国を待ち望めってっとそうおっしゃっているのかというと、必ずしもそれだけではないのかなと思います。


これ日本語で見るとわかりにくいですが、英語で見てみましょう。

“Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

“Blessed are those who mourn, for they shall be comforted.

“Blessed are the meek, for they shall inherit the earth.

“Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they shall be satisfied.

“Blessed are the merciful, for they shall receive mercy.

“Blessed are the pure in heart, for they shall see God.

“Blessed are the peacemakers, for they shall be called sons[a] of God.

“Blessed are those who are persecuted for righteousness' sake, for theirs is the kingdom of heaven.

 

 現在系の動詞と未来形の動詞と混ざっている。で現在系の動詞を見ると幸いです。っということと3節10節にある「天の御国はその人たちのものだ」っというこの二つです。でそれに挟まれるような形で2-9節までの約束(shall~)が未来形で書かれている。つまり既に神の御国はあなたがたのものなんだけれども、その祝福が100%になるのはまだだよ、それはキリストの再臨を待たなくてはならい。っというそういう状態に私たちはいるんですね


 っということは、イエス様が心の貧しいものは幸いだという時、それは遠い未来のことだけではなく(もちろんそれも含むんですが)、既に受け取ることのできる祝福が100%ではないけどはあるよと言うことなんですね。


 ではこの貧しいものが、悲しいものが、追いやられているものが、弱いものが、この世において価値のないとされるものが、おおよそこの世界において「幸せ」とはま反対にいる人たちが今受け取れる「祝福」「幸せ」っとはいったい何なのでしょうか。だってこの世は言いますよ、冒頭で見ましたね。幸せになるには

お金

健康

自由な時間

家族・パートナー

精神的なゆとり

居住環境(家持ちとかでしょうか)

趣味

友人

 

が必要だと。クリスチャンだってそう思いますよね。信仰を持ちつつ、わかりやすい形で祝福されたいじゃないですか。もちろんそれは悪いことじゃない、これらが与えられたら感謝です。しかしながらイエス様の幸いです。のリスト、八福の教えにはこういったものが入っていません。っというかどちらかというと、そんな状態は不幸ではないか、逆だろうっとというようなそういうリストでした。なぜか


 でそれは、おそらくイエス様はここで「幸せ」とはどういうことなのかということを再定義されたということなんだと思うんですね。再定義っていうちょっと難しい言葉使いましたけど、つまり私たちが思う幸せをひっくり返された。っということです。幸せをひっくり返すイエス様。ひとつ前の4章でこのようにあります。

 悔い改めなさい、天の御国が近づいたから

マタイ4:17


でこれこそがイエス様の福音のメッセージでありました。神の御国が近づいた、だから悔い改めよ。でこの悔い改めるというのは、よく言われることですけれども、方向転換を意味します。180度変えるということ言うことです。生き方を考え方を180度神様の方向転換する。そこでイエス様はまずもって、「幸せ」とは何かと言うことに関して180度考え方を変え方を変えましょう。そういうことをおっしゃっているのではないでしょうか。

 だってそうでしょう。もし幸せに必要なものが、お金であり、健康であり、家族であり、友人であり、精神的余裕であり、っということなのであれば、それを失ったじてんで終了。幸せにはなれない。けれどもイエス様はおっしゃる、いやいや神の御国の視点で考えるときに、幸せ、幸いというのは、周りの状況に依存しないんだと。むしろ心の貧しいものほど、悲しむものほど、自分には価値がないと思っているものほど、本当の祝福に目が開かれることがある。ではその本当の祝福とはなにか?シンプルですが神様との関係なのではないでしょうか。「主がともにいてくださる」というこのシンプルな祝福を最も感じやすいのは、お金持ちではなく、貧しいものであり、健康なものよりも病を負っているものであり、才能に満ち溢れ力があるものではなく、弱いものであり。っとそういうことがある。そういうこの世が定義づける幸せとは別の祝福に目を留めることができるなら、それこそが本当に幸いなことなのだっと。


 でこれは非常にチャレンジです。私個人的にもものすごくチャレンジでした。っといいますのも、ちょうどクリスマスあたりから、また例の神経痛が再発しまして結構よくない。なんとか薬で押さえていますが、痛みの中に今あります。めちゃくちゃひどいわけじゃないけど、強めの薬がないと気になって眠れないという感じでしょうか。まあそういう状況で、痛みや不便さもさることながら、ああまたいつ治るかわからない、治らないかもしれないっというこの不安の中を通らなければならないのかっと。まあ正直葛藤があります。もちろんね、来週には治っていてということもありうるし、ずーっと治らないかもしれないし、わかりません。でもそれが堪えます。

 でそのなかにあって、悲しむものは幸いです。というこのイエス様の言葉を真正面から受け止められるのか。確かに痛みがあるから自分の力ではなく、神様の力に頼るようになるんでしょうし、祈る時間も若干増えたような気がします。でもやはり私はまだどこかで、健康なほうが幸せだよなって。もっと正確に言うと、健康がなければ幸せになれないだろっと思う気持ち。そして一方で主はこの状況を用いてくださるのかな、そういう気持ちの間で葛藤している。これが私のリアルなところですね。でもおそらくそういうプロセスを通して、神様を近くに感じるようになるのではないでしょうか。

 皆さんの今の状況はどうでしょうか、イエス様が挙げられたようなリストに当てはまっているのか、それともいわゆるこの世が定義づける幸せのリストに入っているのか?誤解しないでいただきたいのは、お金がある、健康がある、余裕がある、そういう状態が悪いということではない。もし自分がどちらかというと、持たざるものではなく、持っているほうだなと感じるなら別に罪悪感を覚える必要はない。神様に感謝して受け取ってください。そして大いに人のため、神様のために用いてください。目に見える祝福があるということは素晴らしい間違いなく神様が与えられるものです。ですから自ら貧しくなりましょうとか、苦しみに会いに行きましょうというのは絶対に違います。けれどもし皆さんの中に、もし悲しんでいる人がいるなら、苦しんでいる人がいるなら、自分は貧しい、価値がない、そう思っている人がいるなら、イエス様の仰ったこの祝福、幸いを受けとることができるように、私も含め、お祈りしたいと思うんです。イエス様はおっしゃった。


心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちの者だからです。


神様はそのような人たちとともにいてくださる。この幸いに目を留めたいと思います。


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