メッセージブログ

2024.06.09

影響力のある信仰 (ダニエル6)

『正しいことをしたければ偉くなれ』「踊る大捜査線」というドラマの有名なセリフになります。もう何十年も前のドラマなので、完全に若者を置き去りしてしまう形になりますが、30代後半以上の方は知っておられる方多いのではないでしょうか。詳細を省いて言葉の意味だけを説明するなら。先輩刑事から主人公に向けて語られるセリフ。堕落した警察組織を変えたいなら、正しい思いだけを持っていてもダメだと。上の、つまり決定権や影響力のある立場にまで出世しなければ本当の変革は起こせない。まあっざくりいうと

そういう意味です。サラリーマンとか組織に属している人間であれば心に刺さる名セリフです。「あー気持ちだけあってもダメなんだ」と

 

 えっ急に何の話?って思われますよね?いやダニエル書は?と。しかしながらある意味、実際に偉くなって正しいことをした人ということで言うと、まさにダニエルがそうだったんじゃないかなと思います。ダニエルは正しい思いや信仰を持っていただけではなくして、能力を認められ国のトップまで出世した人だったんですよね。今日見ていく箇所でもそうですし、1章からこの6章までを通してもその姿が描かれてきました。どのようにダニエルがこのバビロンという異国の地において、信仰を失わず、逆に成功をおさめて影響力を持つ存在になっていったのかということが一つの中心的なテーマとしてあるのではないのかなと思うんですね。

今日でダニエル書最後ということで少し振り返ってから初めて行きたいと思います。イスラエルは罪の結果、主の裁きがくだりバビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。そして民衆はバビロンに連れて行かれます。これがいわゆるバビロン捕囚というやつですね。バビロンの意図としては故郷から民を切り離し、バビロニアまで連れてきて、そこの生活に慣れ親しませて、気づけばいつのまにか祖国のことを忘れている。そのようにして反乱が起きないように民を手なづける、治める。そのような政策をとっていました。

このバビロン捕囚を経験したのがダニエルと彼の友人3人です。彼らは異国の地、で自分たちの信仰と信念を全く理解しない社会の中でどのように生きていくのか?要はこの異国の地で、彼らは信仰を貫けるのか、それとも異国の文化、価値観に染められてしまうのか?っとそういうことですね。でその問いかけは、バビロンに移住した民すべてに問われていることでありました。そんな彼らがとった行動は大きく分けて二つです。一つ目それは、とにかく異国にアジャストする。悪く言えば流される、あるいは染まってしまう、です。もう一つのパターン、それはとにかく自分たちを守る、異国の文化や価値観にできるだけ触れないようにする。距離を置く、異国の人たちとなるべく関わらないようにする。ダニエルはどうしたのか、今までも見てきました。彼は染まってしまうことはありませんでした、1章で見ましたね、並べられた王のごちそうを自分の信仰と確信のゆえに、食べないという選択をしました。3章ではシャデラク、メシャク、アベデネゴは、金の像を拝まないという選択をしました。つまりしっかりと流されず、信仰に立ってNOと言ったわけです。けれど彼らはこの異教の世界、異国の地のすべてに足して何も考えずに「NO」と言ったわけではありませんでした。積極的に置かれた環境で異国の文化、学問を学んだ、だからこそ王の側近になるべくトレーニングを受けた若者たちの間でトップの成績を収めた。(これも1章でみました)そしてダニエルは王のために、夢の解き明かしをして、王にアドバイスまでする存在になっていきました。2章、4章、5章ですね。

っとこのように異国の地で、信仰に立ち、流されず。けれども自分の殻に閉じこもるわけでもなく、逆に影響を与えるような存在になっていくダニエルの姿は、私たちクリスチャンが信仰をもちながら、この世にあってどのように生きていくのかと言いう点で多くのことを教えてくれます。前置き長くなりました、今日はこのクリスチャンがこの世で持つ影響力という視点で6章を読んでいきたいと思います。例のごとく、要約しつつ必要なところは、聖書を6章を開いていきたいと思います。

先週みましたがついにバビロンはメディア・ペルシャという国に亡ばされてしまいました。ですから王様も変わってダリヨス王になっています。1-2節では政権が交代してもダニエルは大臣として登用されたということが書かれています。120人の太守(今でいう県知事みたいなローカルのリーダーたち)を束ねる3人の大臣の一人に選ばれたと。さてそれだけではなくして3節

ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。(王は)彼を任命して全国を治めさせようと思った。

ダニエル6:3

なんとその3人の大臣の中のトップ、つまり王様は自分の下にダニエルをおいて国のナンバー2にしようとします。でこの時ダニエルの年齢は何歳だったかと言うと、ちょうどダニエルがバビロンに来て70年たった時ということが9章を読むとわかりますので、80代だったのではないかと言われています。もうおじいちゃんですね、にもかかわらず国のナンバ-2を任せたい。それほどにダニエルは際立って優れていた。非常に有能で信頼に厚い人だったということです。

でこれは、この世を生きていくクリスチャンにとってもものすごく重要なのではないでしょうか。いやもちろん、みんながみんな国のトップになれるわけではない。ダニエルには才能があった、そして何より神様が祝福されたからこそ国のトップにまでけたんだ。そういってしまえばそれまでです。しかしながら、ダニエル自身も努力したに違いない、勉学に励み、一生懸命与えられた仕事をこなした。好きでやっていたわけではないと思います。完全に異国の文化、しかも敵国に仕えるというそういう状況なわけで。この仕事は生きがいだと思っていたわけではないと思います。けれども彼はベストを尽くしました。だからそれらが認められて国のトップまで行くわけですよね。でその地位を通して何度となく、バビロンの国中に神様の栄光を示してきたのをシリーズを通してみてきました。

で私たちもまた、自分に与えられている、仕事、役割、学生なら勉強、そういったものにおいて、良い成績をあげる、ベストを尽くす、いい仕事をするっということは実はとても大事な事なんだということをダニエルから学びたいと思います。どれだけ、聖書の知識があり、どれだけ毎日祈り、どれだけ教会の奉仕していたとしても、普段の仕事は不真面目、まったく適当な仕事しかしない。そういう人の話を誰が聞きたいのかということはやっぱりあるわけで。結局人は成功者、あるいは功績をあげた人から話を聞きたいと思いますし、そういう人の影響力というのがこの世においては大きい。もちろんクリスチャンにとって、社会的に成功するということが第一の目標ではないです。けれども主の栄光を証するためには、その要素もないがしろにはできない。結果がすべてではない、けれど仕事にしろ、勉強にしろ、主のためにベストを尽くすことが大事だと。

 さてダニエルがその能力を評価されてナンバー2に昇進します。当然それをよく思わなかったのは、残りの大臣でした。ですから彼らはダニエルをおとしめようと、身辺調査をして、あら捜しを始めます。何かスキャンダルがないかということですね。4節

大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。

ダニエル6:4

探しても、探しても一点の汚点も出てきませんでした。いやスキャンダルどころかダニエルは忠実で、怠慢も欠点も見られなかったとあります。つまり人格者としても文句がつけようがなかったということですね。ダニエルはただ仕事ができたわけではない、ものすごくいい人で、周りからの信頼も厚かった。でそれは公的な場のみならず、プライベートにおいても変わらなかったということではないでしょうか・

 

ですからクリスチャンもこの世にあって影響力を持つのであれば、仕事だけできてもダメですね。どれだけ才能があり、有能で仕事ができたとしても嫌な奴じゃあだめだと。「自分はとにかく出世するんだ」といって、その過程で人を押しのけたり、優しくできなかったり、人格を置き去りにしてしまうようであれば元も子もない。もちろん逆もありますね、めちゃくちゃいい人なんだけれども、全然仕事できないみたいな。(そっちのほうがましかなと思いますが)いずれしにろ両方、両方必要なんだと思います。もちろんパーフェクトである必要はない、けれども仕事、あるいは与えられた責任に関してベストを尽くしつつ、周りの人に対しても誠実であるということ。ダニエルはこの両面において非常にバランスの取れた人物でありました。

ダニエル書戻りましょう。どれだけ身辺調査を行っても何のスキャンダルも見つからないダニエル。それならということで他の大臣たちは、今度はダニエルの信仰心を逆手にとって罠にはめようとある法令を制定すべく、ダリヨス王に提案します。7節

国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。

ダニエル6:7

30日間王様以外に祈りをささげるものは処刑されると。この提案をした大臣たちは当然ダニエルが熱心に毎日祈っているということを知っていました。ですからこの法令を制定さえしていまえば、王様にサインさせてしまえば、確実にダニエルを殺すことができる。そういう思惑ですね。

 

さてこの法令が制定されてからダニエルはどうしたのか。10節

ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。—彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。—彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

ダニエル6:10

ダニエルはいつものように祈りました。しかも窓を開けて。今や国のトップの大臣にまでなっていたダニエルには他にもいろいろ選択肢はあったのではないかと私たちは思います。例えば、そんな法令は不当だとして訴え出るとか、王に直談判するとか。いやそんな直接的な方法に出なくても、30日という期限が定まっているわけですから、その間は祈らないということもできたのではないか。別に信仰を捨てろと言われているわけではないわけですし。ほかの偶像を拝めと言われているわけでもない。だからちょっとブレイクではないですけど30日だけ祈りをストップする、それは許容範囲だったのではないか。いやもっというと、祈るにしたって窓を閉めて誰にも見られないところで静かに祈るということができたはずです。そうすればだれに師も知られることはない。何故ダニエルは窓を開けてエルサレムの方向を向いていのったのか?おそらくそれは、かつてソロモン王が神殿奉献の時に祈った祈り、この聖書箇所がもとになっているのではないかと言われています

捕らわれていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、 あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。

2歴代誌6:38-39

それはバビロン捕囚を預言するような内容だったわけですよ。もし民が罪を犯して裁かれて違う土地に連れていかれるようなことがあっても、このエルサレムの神殿の方向を向いて祈るなら、その祈りを聞いてやってください。っというソロモンの祈り。ダニエルはこれをベースにエルサレムに向かって一日に3回祈っていました。しかしながらこれよく読んでくださればお分かりになると思いますが、命令ではない。絶対にエルサレムの方向向かって祈りなさいという命令として聖書に書いてあるわけではないんですね。つまり窓を開けずに静かに祈る形をとったとしても、神の律法を犯すということにはならない。罪ではないわけです。それでもあえてダニエルは、窓を開けて、エルサレムの方向を向いて祈るということを選択しました。なぜか?でそれは大きくわけて二つの理由があったのではないかなあと思います。

まず一つ目それは妥協なき信仰です。ダニエルにとって、信仰とは聖書に書かれているすべてのルールを守り、チェックリストをクリアするということではありませんでした。いやそうではなくして、自分の心が主にまっすぐ向いているのか?主だけを自分は恐れているのか?それこそが彼にとって最も重要な事だったのではないでしょうか。先ほども申し上げたとおり、もちろん戸を閉めて静かに祈ること自体は悪いことではないです。けれどポイントは、10節にありました、

彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。(10節)

ダニエルは今まで毎日窓を開けてエルサレムのほうを向いて祈ってきました。毎日いつも。で、この法令が出されたからと言って、窓を閉めて静かに祈るといことを自分が選んでしまうとしたら。それは彼にとって自分が主ではなく、その法令を、獅子の穴に入れらえるということを神様以上に恐れるということ、を意味したのではないでか。主のみを恐れるなら、神様だけを恐れるなら窓を閉める必要はないと、妥協はできないと。でそれに対して私たちは思います、いやそれはさすがに厳しすぎないか?と。しかしながらダニエルにとってこれは小さなことではなかったのではないでしょうか?

このバビロンという異国の地にあって、少しでも、たとえそれが心の中のことであったとしても妥協するということは、信仰にとって命とりであるということを彼は知っていました。異国の地で70年間も信仰人生を生き抜いてきたダニエルだからこそ、そのことを骨身にしみてわかっていたに違いありません。主だけを恐れるなら、他に何も恐れないというのであれば、自分はいつものように、窓を開けて、エルサレムの方を向いて祈るんだ。そういう覚悟と決心が彼の信仰を70年間も支えてきたんだと思うんですね。

 

 まったく価値観の違う異国ということを思う時に、やはりなかなかどうして日本のことを思わずにはいられない。私自身、15年ほど前NZ留学をおえて日本に帰国した時のことを思い出します。私はNZでクリスチャンになり、聖書の学校を卒業して日本に帰国、就職しました。日本人なので、日本が母国であるにもかかわらず、NZに長くいすぎたせいか、もはや日本の社会は私にとって異国となっていたんですね。逆カルチャーショックというやつでしょうか。加えて、日本のクリスチャン人口は1%以下。信仰面でのチャレンジもたくさんありました。私はとにかくこの新しい環境に慣れなければと必死でで気づけば、聖書を読むこともなくなり、祈ることも減り、なんだかんだで「仕事が大事」とか、「お金が大事」とか、そういう価値観に流されている自分がいたんですね。目立った罪を犯したとか、完全に道を外れたとか、そういうことではありませんでした。けれども小さな妥協が積み重なり。気づけばこの世の価値観に流されている、そういう感じでした。

 皆さんどうでしょうか、日本に比べればNZでのほうが信仰を保つのが難しくないかもしれません。けれどそれにしたって小さな心の中での妥協が積み重なり、気づけば流されているということが大いにありうる。でそれは何か表面的に罪を犯す、そういうことではないのかもしれない。けれど自分は主を第一として生きているのか、主だけを恐れて生きているのかということを、常に自分の行動と心に妥協なく問い続けるということをしなければ、気づかないうちに流されていくということが大いにありうる。ダニエルは心の中での妥協を良しとはしませんでした。

さてダニエルが窓を開けて祈ったもう一つの理由はなんだったのか。二つ目の理由は、証のためだったのではないかなと思います。ダニエルの信仰は隠れた信仰ではありませんでした。そもそもダニエルが毎日三回窓を開けて祈るということを、他の大臣が知っていたからこそ彼らはこの法令を作ってダニエルをはめようとしたわけですよね。結局ダニエルは、祈っている姿を目撃され、王に告げ口をされてライオンの穴に放りこまれることになってしまいます。14節に王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めたとあります。どれだけダニエルが王様に気に入られていたのかが伺い知れます。けれども王様も法令にサインをしてしまった以上、それを取り消すことはできませんでした。王様にできることは、ライオンの穴に投げ込まれるダニエルに声をかけることだけだった。16節

…「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」

ダニエル6:16

これはダリヨス王がダニエルに向かって語っている言葉です。つまりダニエルの信じている神様のことをダリヨス王はこの時点で認識していたということです。「あなたがいつも仕えている神が」特別なことがあったからとかではなくして、普段から「あっダニエルはこの神様に仕えているんだな」と言うことが敵の大臣含め周りの目にはあきらかだった。ダニエルの信仰のことを知らない人はいなかったということです。彼にとって信仰とはプライベートなものではありえなかった。『いやこれは個人的に信じていることなんで』特に周りには伝えず、そういうスタンスでダニエルは歩んでいませんでした。言葉、行動、生き様すべてが彼の信仰を語っていた。

 皆さんどうでしょうか、証をする、伝道する、神様のことを人に伝える。っと聞くとどのようなイメージを持たれるのか。苦手意識があるという人も多いのではないかと思います。下手したらあまり良いイメージを持っていないという、そういう方もいるかなと。「いきなりそんな神様の話を人にしても、引かれてしまって逆効果だ」とかですね。実際私もそういうイメージあります。牧師が伝道苦手ってどうなのと?正直自分でも思いますけれども。。。でそこでよく言われるのが、行動で、生き方で証をしてきましょうというお話ですよね。信仰をもって愛をもって誠実に人と接していくなら、それを通して神の栄光が周りに表されるというお話。私自身そういうメッセージをしたことがあります。そしてそれは間違いではない。ダニエルの生き方もある意味、行動で神の栄光表すという、そういうものだったと言えると思います。しかしながら本当に神様のかの字も一言も発せず、信仰の話を一切しないのだとしたら。本当に行動だけっとなると、それで神様のことは伝わっていくのか?難しいでしょうね。というか伝わらないでしょうね。行動で示す。めちゃくちゃ重要です。けれども機会があるごとに信仰の話をしていく、自分の信仰をオープンにしていくということもまた同時に大切なんだと思います。ダニエルの信仰は隠されたものではありませんでした、周りの人たちは、ダニエルが仕えている神様のことを知っていた。私たちはどうでしょうか、私たちの周りの人、同僚、友人、家族は、私がクリスチャンであるということを知っているだろうか。考えさせられます

 もちろん空気を読まずに、ただいきなり神様の話をすれば良いというわけではない。ダニエルだってそうですねよ、普段から神様の話ガンガンしていたわけではないと思います。あるいは大臣という立場を使って、国中に主を礼拝するようにという政治的な動きをしたわけでもないでしょう。伝道という観点から言ってダニエルは自分からアクティブに攻めていったという印象はありません。けれども機会があるたびに、彼は自分の信仰をオープンにし、証をしてきた。だから今回の法令が制定されて、命の危機にあっても、ダニエルは自分の信仰を隠さないということを選んだのではないでしょうか。

さてその後どうなったのか。ダニエルがライオンの穴に入れられて一日たった後、王様は様子を見に行きます。21節から

すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

ダニエル6:21-22

 神様はダニエルを守ってくださいました。23節にある通り、それは彼が神に信頼していたという見事な証だったんですね。結果ダリヨス王は国中にダニエルの神、主を褒めたたえるようにということを書き贈ります。絶体絶命のピンチにあって、ダニエルは神様を信頼したことによって、逆にそれが用いられて主の栄光があらわされるという結末で6章は幕を閉じます。っと本来はここが一番ドラマチックで説教としてもメインで語られるところなんでしょうけれども、今日はちょっと違った視点で。ダニエルが異国の地にあって持っていた影響力という角度から6章を見てきました。

まとめましょう。ダニエルが持っていた影響力の秘密、4つくらいあったのではないかなと思います。まず一つ目、ダニエルは仕事ができた。彼は与えられたエリアでベストを尽くしました。その結果影響力のある地位に行くことができた。二つ目、仕事ができるだけでなく、人格も素晴らしかった。「いやな奴」ではなく「いい人」だった。三つ目、妥協のない信仰。ただ罪を犯さない、だけでなく、主だけを恐れるという覚悟をもって歩む人生でありました。それこそ今回命を懸けてその信仰を貫きました。四つ目、自分の信仰をオープンにしていた。決して人に押し付けるわけではなく、けれども周りに自分の信仰が伝わる、そういう人生をダニエルは歩んだんですね。

 結果異国の地にあって捕虜としてスタートしたダニエルの人生は、王様をも動かし、国中に主の栄光を表す、そんな影響力を持つようになった。

 さて結果だけ見るとすごすぎて、完璧すぎて、いや私はダニエルみたいにはなれない。そう思ってしまいますね。けれど最後に覚えたいのは、そんなダニエルの信仰人生を支えたのは、おそらく毎日の祈りだったのではないかということです。10節で見ましたね、彼は「いつものように」日に三度祈ったと。信仰は一日で一気に成長するということはない、ダニエルの信仰人生も日々祈りを積み重ねることで、成長していったのではないでしょうか。あるい人は言いました。

卓越性とは行為ではなく習慣なのだ  (ウィル・ダラント)

‘Excellence is not an act, it’s a habit.’ Will Durant

 英語のほうがわかりやすいかもしれません。まあ要はよく言われる「習慣が人を作る」というよというやつです。急に命の危機にあって、信仰を選ぶということはできないかもしれません。しかしながら日々祈る、聖書を読む、神様と時間を過ごすっということを、選んでいくということは私たちもできるのではないか。そしてそれを積み重ねていく時に、影響力のある信仰を養っていくことができるんだと思うんですね。

 で最後余談ですけれども、28節

このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。

ダニエル6:28

さらっと書いていますが、クロス王というの出てきますね。彼にもダニエルは仕えたわけです。じゃあこのクロス王ってだれかというと、2歴代誌36:22-23にのっていますが、実はこの王様が、ユダヤ人たちにエルサレムに戻って神殿を再建するようにという指示を出すんですよね。いやもちろん主の霊が、王様の心を動かしただから、そのような命令をが出された。間違いないです。そう書いてありますから。ただもしかしたらダニエルの影響というものもあったのかなあ。ね、あくまで推測ですけれども、だとするとかなりかっこいい。ダニエルの信仰は、ダニエルの人生は国を動かした。

私たちはダニエルのように立派ではないかもしれない、才能もダニエルに比べれば微々たるもので、持っている影響力も限られているでしょう。けれどもそれぞれに与えられた場所があり、与えられた人々が周りにいるわけで。地の塩、世の光として、今いるその場所で主栄光を証するものでありたいと思います。

2024.05.26

傲慢という病と 試練という治療薬(ダニエル4)

 

ネブカデネザル王が見た夢はどういうものだったのでしょうか。さっそく夢の内容を見ていきたいと思います。10-17節の部分になりますが長いので夢の前半は私の方で要約させてください。

まずものすごく巨大な木が王様の夢の中に登場します。その木の高さは天に届くほどで、地の果てのどこからでも見えるほどでした。そしてただサイズがでかいだけでなくして、その木は豊かに実り、あらゆる動物を養っているそんな木でありました。っとここで夢は終わりません、後半はちょっと聖書を実際に読んでいきましょうか

ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。その心を、人間の心から変えて、獣の心にそれを与え、七つの時をその上に過ごさせよ…

ダニエル書4:13-16

 さてこの夢を見たネブカデネザル王は、この夢を見て恐れおびえてしまったっと5節にあります。そしてどうしたか、呪法師、呪文師、星占いたちを集めて夢の意味を聞き出そうとします。けれど残念ながら彼らには解き明かしができませんでした、結果ダニエルが呼ばれます。ここまでの流れ、ほぼ2章と同じですよね。

 ここで少し思うのは、「いや最初からダニエル呼んでよ」ということです。2章であれだけの解き明かしをして見せたダニエルを真っ先に呼べばいいじゃないっと。けれど性懲りもなく、ネブカデネザルは、呪法師、呪文師、星占い、まあ当時で言う王の相談役、を集めます。つまりこの世の知恵に頼ったということです。2章で経験したことから何も学んでないではないかと私たちは思います。けれど同時にどうでしょうか、私たちもまた人生で何か問題が起こるたびに、まず祈るではなくして、まずネットで情報を集めるっという流れになっていないでしょうか。最近AIも話題になっていますが。近しい未来には、祈る前にAIに聞くなんて言う時代がすぐそこまで来ているかもしれませんね。とこのように世の知恵、情報っというものは力があるように見えてしまうもので、考えさせられます。

 さて話を戻しまして、ではこの夢の意味は何だったのか。ダニエルの夢の解釈、解き明かしが20節から始まっていきます。ここも長いので前半は私の方で説明して後半の部分は聖書を開くという形にしたいと思います。まずダニエルは率直に「その夢に登場した巨大な木はあなたです。」と王様に伝えます。この4章の出来事いつ頃の話かというと、おおよそネブカデネザルの統治の晩年だったのではないかと言われています。飛ばして読みませんでしたけれども、ちょっと4節ご覧になっていただいて。

私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき

ダニエル4:4

私の家で気楽にしており」とありますがこれ別にリビングでコーヒーを飲んでた、とかそういうことではないんです。意味合いとしては、もうかなりの領土を征服しきって目立った戦争がなく平和な状態だったということです。つまりかつて彼が抱いていた、偉大な王国を建てあげるという野望が実現した後ということですね。2章の時にもやりました、ネブカデネザル王の時代にバビロンは当時世界で最も富と力のある国となったということが歴史的にわかっています。ですから文字通り、世界で一番巨大な力のある国を建てたあなたはその巨大な木です。っとダニエルは言います。ここまでは特に解き明かしが必要ないくらい誰にでもわかるんではなかなろうかと思います。しかしながら問題は天の御使いが来て、その木が切り倒されてしまうっという夢の後半ですよね。

その部分の解き明かしが24節から始まります。ここは聖書を開きたいと思います。

王さま。その解き明かしは次のとおりです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。(24-25節)

木が切り倒されるということは、ネブカデネザル王に起きる神様の裁きだというんですね。じゃあそれは何に対する裁きなのか、それは明白です。25節の最後のところ、このことによって「あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国を御心にかなうものにお与えになることを知るようになる。」つまり王の傲慢、プライド、自分の力、栄光ばかりを誇っている心に対しての裁きだというわけです。では具体的にどういうことがおこるのか?人間の中から追い出されて、獣のような生活をするとありました。はて?これは何かの例えなのかと思いきや、文字通りのことが起こります。33節

彼は(王様は)人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり爪は鳥の爪のようになった

ダニエル書4:33

実際にボアンソロピー(Boanthropy)と呼ばれる精神疾患が現代でも報告されているそうです。どういう病かというと、もう自分は人間じゃなくて動物なのだと思い込んでしまうという精神病です。ネブカデネザルもそれに侵されたのではないか、そして実際に野で生活するようになり、髪の毛も爪も伸びっぱなしで見た目まで動物に変わっていった。そんな状態になってしまえば、偉大な国の王でもなんでもありません。当然国を治めるどころの話ではない。いやそれどころか人間以下です。パンパンに膨れ上がった王様のエゴか砕かれる、そんな裁きでありました。一つ救いがあったのは、傲慢になったネブカデネザルを神様が完全にほろぼされるということではなかったということですね。26節

ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。

ダニエル4:26

つまり悔い改めて謙虚になって、主こそが、神様こそが、真の支配者であるということを認めれば再び国は固く立ちます。っとそういう救いのある内容でした。だからこそダニエルは裁きが下らないように誠心誠意王様に進言します。27節

それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。

ダニエル4:27

結果どうなったのか。残念ながら結局ネブカデネザルは悔い改めることなく、裁きが下ります。先ほど33節でみた通り、王は獣のようになり、人間以下の生活をするようになります。

っとまあ大筋のあらすじをおってきましたが、ここまで見てきますと冒頭でも申し上げたように2章と非常に似ているのがお分かりいただけると思います。そして似ているのは、話の流れだけではなくして夢を通して語られているテーマも非常に近しいものがあります。それは、主を支配者として王として認めるのか、それとも自分が王なのか。そういうテーマです。覚えてらっしゃいますでしょうか、自分の人生の王座に座っているのは自分なのか、神様なのかということを2章のメッセージでやりました。


 でですね、まあこれは説教者としての都合なので、皆さんには関係ないんですけど。ぶっちゃけ、私はえ?また同じようなメッセージになってちゃうじゃん。っとこう思ったわけです。けれどまあ考えているうちに思いました。いやそれこそが重要なポイントなのではないか。つまり新しい内容では別段ない、中心的なメッセージはかわらない、繰り返しと言ってもいいかもしれない。まさに繰りかえしです。けれど問題はなぜ繰り返されているのかということ。

 ネブカデネザル王が夢を見て、その意味を知りたいというところから、4章は話がスタートしました。つまりネブカデネザルが求めていたのは、知識、「もっと知りたい」ということだったんですよね。で最終的にダニエルが夢の意味を解き明かしをしその夢の意味を「知る」ことができた。しかしながら解き明かしが本当に必要だったのかというと、どうなんだろうかと思わざるを得ません。先ほどお読みしませんでしたが、夢の内容を説明しているシーンに戻っていただいて16節の次17節

それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。(17節)

これ王様本人がダニエルに夢の内容を語っているシーンです。いやもうほとんど、夢の中で夢の意味が明かされてるではないか?っとつっこみたくなります。へりくだって神様を、主を認める。はたから見れば語られていることは明らかだろと思います。しかしながらネブカデネザルにはそれが見えていない。なぜか?でそれは、ネブカデネザルに必要なものは、知識ではなかった、新しい情報ではなかったからです。

ちょっと振り返ってみたいと思います。いいですか2章ではダニエルの夢の解き明かしによって、王様はこんなことができる神はダニエルの神以外いないとほめたたえ(2:47)3章では、先週やりましたね、シャデラク、メシャク、アベデネゴが炎の炉から救い出されたのを見て「このように救い出すことのできる神は、ほかにいない」(3:28)と本人が言ったわけですよ。さすがにネブカデネザル王は心を入れ替えるのではないか。っとこうダニエル書を読んでいる私たちは期待するわけですよね。けれど相も変わらず、主の前に遜ることはなく、自分こそが偉大な王であるという傲慢な態度を持ち続けるネブカデネザルがいます。そして今回4章では三度目の正直だっと言わんばかりに、神様の前に遜りなさい、というメッセージがもう直接にダニエルの口を通して語られます。(27節)悔い改めてください王様と。でどうなったのか29-30節

十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」

ダニエル4:29-30

まず注目すべきは、出だし「12カ月の後」、つまり裁きが下るまでそれだけの猶予が与えられたということです。正確に言うと12カ月どころではないですよね、2章から始まって長いこと、主はネブカデネザルの傲慢を裁かず、あわれみ深く忍耐深く待ってくださった。ダニエルを通して悔い改めるようにと忠告もした、にもかかわらず、彼の口から出てくる言葉は、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。私、私、私、どこまでいっても私の人生。これこそが傲慢という、プライドという、霊的な病です。

ネブカデネザルに知識は十分にありました、主の御業も見た、もう充分「知って」いました。にもかかわらず彼の心の姿勢は変わることはなかった。つまり信仰というのは知識だけでは不十分だということです。先ほどこの世の知恵に頼るのではなく祈りが、御言葉が大事だっという話はしました。まあだからこそ、このように毎週礼拝では聖書からメッセージをし、聖書を読みましょうねと皆さんにお勧めしています。しかしながらその目的が何か新しい情報を得る、つまる「知る」というところだけにとどまってしまうなら意味がない。御言葉を通して、心の姿勢が変えられ、生き方が変えられていかなければ意味がないんですね。

 残念ながらネブカデネザル王の場合、神様のことを「知る」ということだけでは心を入れ変えるまでには至りませんでした。それほどにこの傲慢というもの、プライドという霊的な病は根深い、そして何より本人が気づきにくいものなんですね。さてだとすると私たちはどうでしょうか。私たちも知らず知らずの間に、この傲慢という病が心に根を張ってしまうということはないでしょうか。それに対して「いやいや私はそんな、ネブカデネザルみたいに大成功を収めているわけではないし、所詮庶民だし、俺はすごいんだっと言って誇って傲慢になることはないですよ。」っそう思われる方も多いかもしれません。特に日本人はおそらくそうですよね。控えめ、謙虚っていうんでしょうか。けれども傲慢というものは成功者だけが抱える問題ではないのではないかと思うんですね。

そもそも傲慢、プライドのエッセンスはなんでしょうか?それはネブカデネザルの言葉に良く現れていました。私の権力、私の威光、私が建てた、私、私、私、どこまでいっても私の人生。でこれは人生がうまくいっているとき、つまり成功しているときの症状は割とわかりやすいです。まさにネブカデネザル王のように、私の功績を見てくれ、私がこれだけ良いものに囲まれているのは、私が頑張ったからだ。まあそれを口に出すかどうかは別として、そのように心の中で思っている状態という感じでしょうか。

では物事がうまくいっていない時、プライドはどのような形で表面にあらわれてくるのか?でそれは、愚痴とか、妬みとか、時には鬱、落ち込みっといった形で表面化します。「なんで自分の人生はこうなんだろう」「なんで私だけこうなるんだろうフェアじゃない」「どうせ自分の人生はもうだめだ」っというそういう思い。いやいやこれらのマイナスな思いのどこが傲慢なのかと、思われるかもしれません。しかしながらこれらの思いを掘り下げていくと、そのおおもとに実は、「自分はもっと良いものを受ける資格がある」っという思いがあることに気づきます。なぜなら本当に心底自分が嫌いで自分の人生などどうでもよいと思っているなら、人は落ち込まないからです。現実と理想、つまり本来こうあるべきだと思っているものの間にあるギャップに人は苦しむんですよね。

 さてではこの根深い霊的な病、傲慢、プライドはどのようにしたらとりのぞくことができるのか。どのようにすれば、表面的にだけではなく、本当に心からへりくだり謙虚になることができるのか。 

ネブカデネザル王に必要だったのは、聖書の学びではなく端的に言って試練でありました。遜ることのなかった王様は結局裁かれて、獣のような姿になり、人間以下の生活をすることになりました。そして7つの時が過ぎたと32節に書いてあります。これが具体的に7カ月だったのか7年だったのか、それはわかっていません。まあ重要なのは実際の長さよりも、その数字が持つ意味です。ユダヤ人にとって7というのは完全数、つまり完成するという意味合いがあります。じゃあ何が完成するのか、それはネブカデネザルの悔い改めです。言い換えると「7つの時」とはネブカデネザルが悔い改めるのに必要な年月という意味ではないかと言われています。ここも重要なポイントですね、悔い改めるには時間がかかるということ。何かレッスンを学んですっと心が変わるならば、そもそも試練はいらなかったでしょう。人の心が変わるには時間がかかります。

 そうしてその期間が終わった時34節

その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。

ダニエル4:34

ネブカデネザルはついに天を見上げます。あの傲慢に満ちて全てを見下している状態から、見上げる。自分の目線が、私、私、私と自分にばかり向いていたのがついに神様を見上げるようになる。これが遜るということなんですね。

皆さんもどうでしょうか、霊的に成長したのはいつですかと聞かれたらどのようなお答えになるでしょうか。教会でバイブルスタディをしていて、あるいは説教を聞いていてっという話にはあまりならないのではないでしょうか。やはり帰ってくる答えは、病気をしたときにとか、人間関係で問題を抱えていた時にとか、仕事で悩んでいた時にとか、将来や進路で悩んでいた時にとか。そのような話を聞くことが多い。でそれはやはり試練というものを通して、ある程度の時間をかけて、自分のプライド、傲慢というものが砕かれてはじめて私たちは遜り、霊的に成長するということが多いからだと思うんですね

 かくいうわたしもこのネブカデネザルの物語は読むときに他人事とは思えない。いや俺はすごいだろっというそっちの傲慢はおそらくほとんどないと思います。どちらかというと自分には自信がないタイプです。しかしながら、自分の人生に納得がいかず、落ち込むっというそっち方面の傲慢さというものは長いこと抱えていました。一応過去形にさせてください、まだ完全に治ったわけではありませんが、少しはましになったのではないかと思います。もう何度もメッセージでシェアさせていただいていますが、私は5年前NZに移ってくる前、日本で生活をしていました。そのころの私はずーっとこの傲慢という病に憑りつかれていたんだなっということを今振り返って思います。当時私には理想というものがありました、日本の社会で立派にクリスチャンとして生活する、ある程度社会的にも成功したい、経済的にも安定したい、結婚をして家族をもってっと。いやもちろんそれらすべてが叶うなんてことは思っていませんでした。けれど思い描いたものが何一つ実現しないまま35歳をむかえた私は、静かに自分の人生に絶望していました。「どうせ自分の人生はだめだ」っというそういう思いに憑りつかれていたんですね。そしてその根っこの部分には「もちろん完璧ではない、けれどそれなりに努力してきたじゃないか、自分はもっと良いものを受ける資格があるんじゃないか」っという思いがあったのだと思います。そんな鬱っぽい状態の私を心配して、父がこのような事を言っていのを覚えています。「感謝できることを書き出してみたらいいんじゃないか」っと。非常に知恵ある言葉ですね。傲慢に対する良い薬は確かに感謝だと思います。しかしできませんでした。「感謝だって?どこに感謝することがあるんだ?」っと当時思っていました。これを傲慢と言わずして何というのでしょうか。っとまあ獣のような生活を強いられたわけではありませんが、そのような心の状態で何年も過ごした。次第に私のプライドは砕かれ、主に委ねてNZに来たのが5年前っとそういう感じです。ではNZに来て心の姿勢がすぐ良くなったかと言うと、それでもなかなかこのマイナス思考というのは抜けませんでした。けれども時間をかけて主は、妻を与えて下さり、息子を与えて下さり、この至らないものに牧師という役目を与えて下さり。最近やっと、ふと心から自然に感謝だなあと思うことがあります。

 逆に思います。日本で自分の理想とする人生がかけらでも手に入っていたとしたら、いまでも自分は傲慢という病を患ったままであったろうなと。長い試練の時があり、はじめて、ああ自分の頑張りで人生をどうにかするのではなく、すべては主が与えてくださるものなのだ、受ける資格があるとか、どうとか、そういうことではないのだなと、まあ少しは思えるようになったんだと思うんですね。

遜るということは、すべては主からの贈り物なのだということを信じることなんだと思います。自分の人生がうまくいっているのであれば、自分の頑張りではなく、主が与えてくださった祝福に感謝し、試練に会うのであれば主が何か自分に語り掛けておられるっという見方で受け取る。なかなか難しいですね。特に試練の真っただ中にいるときそれは非常に難しい。けれどそのくらいトンネルを抜けるときに、その先には喜びと賛美が待っている。悔い改めた後のネブカデネザルにそれを見るうことができます。

 ネブカデネザル王は天を見上げ、理性が戻ると、ダニエルが言った通り王国もその手に戻り、何なら以前より栄えたと36節にあります。全ては元通り、けれどネブカデネザルは自分の王国が自分の力で建て挙げたものではなく、主より賜った、与えられたものだということを試練を通して、頭ではなく心で深く学んだんですね。で実は4章冒頭戻っていただいて1-4節を読むと、この顛末を語っているのはネブカデネザル本人だということがわかります。自分が経験したことを思い出しながら王様本人が証を語っているという具合です。注目するべきは2節、

㉑いと高き神が私に行われたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。

ダニエル4:2

真にへりくだる心を学んだネブカデネザルはもはや自分の栄光ではなく、主の栄光を伝えるものへと変えられました。でなにより「私の喜びとする」というところ。遜るものの心は、賛美と感謝と喜びで満たされます。そしてそれはこの世のどんな富、権力、名声にも代えがたい。

皆さんどうでしょうか、ご自身の心をご覧になって、賛美と感謝と喜びがあるのか、それとも、傲慢、自分の力でどうにかしなくては、あるいは自分の人生はダメだという苦々しい思いがあるのか。もし傲慢という病が芽を出しつつあるなら、やはり十字架を思い出していただきたいなあと思います。ネブカデネザルとは対照的に、すべてを捨てて自ら遜り、この地上に来てくださったイエス様。そしてそのイエス様の十字架のゆえに、私たちは受けるに値しない救いを与えられました。そして救いだけではなく人生の全ては恵、与えられたものなのだということを十字架に見出だしていただきたい。さてとはいえ、試練の真っただ中でそのようなこと思うのは難しい。さきほどもいったように心が変わるには時間がかかります。けれど焦る必要はない。なぜなら主は忍耐強くネブカデネザルに寄り添ってくださったように私たちにも忍耐強く寄り添ってくださるに違いないからです。


2024.05.12

人の王国、神の王国(ダニエル2)

 

2章に入っていく前に少し、ダニエル書の舞台となる時代背景についておさらいをしておきましょう。時は紀元前600年ごろになります。当時イスラエル、ユダ王国はどうのような状態にあったかと言いますと。まあ端的にいって外国に侵略されてしまいます。長い間にわたって預言者を通じ、神様はユダ王国に罪を悔い改めるようにと警告したにもかかわらず、イスラエルは罪を偶像礼拝を辞めることはありませんでした。そうしていよいよ主の裁きがくだり、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。結果民衆は捕囚としてバビロンに連れて行かれます。これがいわゆるバビロン捕囚というやつでして。まあ無理やり移住させられるというやつですね、バビロンの政策としては故郷から民を切り離し、バビロニアまで連れてきて、そこの生活に慣れ親しませて、気づけばいつのまにか祖国のことを忘れている。そういう取り込み方っというんでしょうか、そのようにして反乱が起きないように手なづけるといいますか、そのような政策をとっていました。


 そのバビロン捕囚、強制移住を経験したのがダニエルと彼の友人3人、シャデラク、メシャク、アベデネゴですね。彼が異国の地、異郷の地、で自分たちの信仰と信念を全く理解しない社会の中でどのように生きていったのか。それが描かれているのがダニエル書の前半になります。先週は王の側近になるべく様々なトレーニングを受ける彼らの前に、並べられた王のごちそうを自分の信仰と確信のゆえに、食べないという決断をし、それでも主は彼らを守られたということを学びました。でそれはですね、ダニエルはただ、この異教の世界、異国の地のすべてに足して何も考えずに「NO」と言ったということではなく、積極的に置かれた環境で異国の文化、学問を学びつつも(まあだからこそトップの成績で卒業したわけです)、これは信仰的に譲れないというものには、謙遜にしかしはっきりと「No」ということができたということを学びました。流されるでもなく、ただ自分の殻に閉じこもるでもなく、しっかりとおかれた場所で根を張り、積極的にかかわりながらも、妥協しない生き方。まあこれがダニエル書前半のメインテーマとなっています。


 ですからダニエル書を読むときに私が思い出すのは、かつて15年ほど前NZ留学をおえて日本に帰国した時の自分です。私はNZでクリスチャンになり、聖書の学校に通って日本に帰国し就職しました。日本人なので、日本が母国であるにもかかわらず、NZに長くいすぎたせいでもはや日本の社会は私にとって異国でした。逆カルチャーショックというやつですね。加えて、日本のクリスチャン人口は1%以下。信仰面でのチャレンジもたくさんありました。私はとにかくこの新しい環境に慣れなければ、それに必死でした。そうしていく中で気づけば、聖書を読むこともなくなり、祈ることも減り、なんだかんだで仕事はとかお金はとか、そういう価値観に流されている自分がいました。私の場合は、世の価値観に流されるという結果になりましたが、一方で逆のパターンの話もまわりで聞きました。つまり自分はクリスチャンだからと言ってほとんど教会以外の人とは関わらないとか、教会のことはまじめにやるけれど仕事は適当だとか、地域の活動には全く関わらないとか。まあこれは世界から自分を切り離してしまうという逆パターンですね。ダニエルは、流されず、切り離さず、逆に信仰に固くたち、周りに影響を与えるそんな人生を歩んでいきます。

 

 でもちろん今私たちが生活をしているのはNZなので日本よりはクリスチャンとして生活しやすいと思います。信仰に対する理解、あるいは周りのクリスチャンの数、そういった意味でバビロン感はそこまでない。けれどまあ私以外は、皆さん基本的には教会の外で仕事や生活をしておられるわけで、なんだかんだNZもクリスチャンの国ではないわけですよね。この世で信仰を持ちながら生活していくにあたってこのダニエル書が語り掛けるメッセージは大いに学べるポイントというのがあると思います。前置きだけで5分以上しゃべってしまいました。

今日の箇所は2章ということで49節までありますので非常に長い箇所になります。当然全部を朗読しているとかなり時間がかかってしまうので、全体を要約しながら、必要なところだけ読んでいくという形にしたいと思います。できれば皆さんお時間のある時全部読んでいいただきたいと思います。


ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。

ダニエル書2:1


バビロンの王ネブカデネザルが夢を見て眠れないというところから話がスタートしていきます。皆さんどうでしょう、寝つきは良いほうでしょうか?私悪いですね。まあとにかくすっと眠れることのほうが少ない。どこでもかしこでもふっと寝れちゃう人うらやましいなあと思います。まあそういうもともとの性質で寝付きにくいということもありますし、単純に日本の夏とかめちゃくちゃ暑くて眠れいないとか。眠れない理由はいろいろあります。しかしながら人が眠れない理由の上位にランクインしてくるのは心配事や不安ではないでしょうか。でどうやらネブカデネザルが眠れなかったのもそれが理由だったようです。夢を見てそれが気になって眠れないと。


 さてどんな夢だったのか?その内容がわかっていたほうが話が入ってきやすいと思いますので、ちょっと飛びまして31節から35節までを読んでしまいたいと思います。この後いろいろありましてダニエルが王様に夢の内容を話しているシーンですね。


王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。 その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。


ダニエル2:31-35


当時夢というものは非常に重要な神様からのメッセージあるいは預言、予知そういった意味合いがあるものとされていました。で1節見ていただくと、いくつかの夢と書かれている、つまり複数形。おそらく何度も同じ夢を見たんでしょう。それは気になりますよねえ。


ですから2-3節その夢の意味を知りたいということでネブカデネザル王は、呪法師、呪文師、呪術者、つまり知者と呼ばれる国のトップのインテリを集めます。すると集められた相談役たちは言うわけですね。「もちろんです王様、でその夢というのはどういうものだったのでしょうか」それに対して王様はいや夢の解釈だけならば適当なことを言ってごまかしてお前たちは時間稼ぎをするにちがいない、夢の内容まで言い当ててこそ、その解き明かしを信用することができる。もしそれができれば、多大なる褒美を遣わすし、できなければ手足を切りおとして、お前たちの家を滅ぼしてしまうぞ」っと。怖いですねーいやですねーこんな上司がいたら会社即辞めますね。まあでも王様ですから、それくらいのことできてしまうわけです。さすがの部下たちも食い下がります、11節


王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。

ダニエル2:11

人間には無理ですってという言い分ですね。もう必死です、命がかかっていますから。けれど王は赦してはくれません。無理ならもう連帯責任だと言わんばかり、ネブカデネザルは12節怒り、バビロンの知者すべてを滅ぼせという命令を出します。 全ての知者ということは、先週見ました一生章で王に仕えることになったダニエルも当然そこに含まれてくるわけで、ピンチが訪れます。さあここからどうなっていくのか。


王はなぜこれほどまでにめちゃくちゃな命令をだしたのでしょうか。当時の文化背景的に夢は非常に重要な意味をもっていた、だから夢の意味が気になるのはわかります。しかしながら、それがわからないからと言って怒り狂うほどのことか、それも国中の知識層を滅ぼしてしまうほどに。何がそんなに彼を悩ませたのか。

ここでですね皆さん想像していただきたいんですが、ネブカデネザルの気持ちになって考えてみたいと思います。彼には野望がありました、この世で最も偉大な王になるという野望です。っとそんなことは聖書には書いていません。しかしながら歴史を見ればですね、バビロニア帝国はネブカデネザルの時代に最も栄えたということがわかっています。権力・富ともに当時ナンバー1だった。しかしながらダニエル2章の段階では1節にありました、彼の治世の第2年ですから。まだこれからですね。これから自分は巨大な王国を建てあげていくのだという野望、強い願いを持っていたに違いありません。そんな中、あの巨大な像が壊されるという夢を見るわけですよね。ですから何と言いましょうか、ネブカデネザル、夢を解き明かしたいと言いながら、なんとなく夢の意味わかっていたんじゃないのかなと思います。きっとこの壊される像は自分なのではないか、あるいは自分が築き上げてきた、そしてこれから築き上げていこうとしている自分の王国のことをさしているのではないか。そのような一抹の不安が、どんどん膨らんでいった。だからこそ不安になって、心配になって眠れず、自分のもっているあらゆる権力をもってしても何もできないことにいら立ち、怒り狂ったのではないでしょうか。加えていうなら、この後3章では、実際文字通り黄金でできた像をネブカデネザルは自分のために作るんですよね。ですからこの夢に出てきた像と自分を重ねていてもおかしくないかなと思います。


でその姿を見て私たちは思うわけですよ。ああやっぱり権力って人を狂わすのね、クレイジーな王様と。けれどこのネブカデネザルの姿は、程度は違えど私たちの姿なのではないかなと思います。もちろん皆さんには、世界で一番の王になりたいという野望を持っている人はいないでしょう、王国を建て挙げていくという使命を持っている人もゼロだと思います。しかしながら、自分の人生を王国と置き換えてみれば、少しはネブカデネザルの気持ちがわかるのではないでしょうか。理想像と言ってもいいかもしれませんね。この仕事に就きたい、家を買いたい、結婚したい、家族がほしい、お金持ちになりたい、いい環境の職場がほしい、ビジネスをしたい、はやめにお金をためてリタイアしたい、夢をかなえたい、美人でありたい、経済的な安定とそれぞれ人生においてこうありたい、これは欲しい、というものはそれぞれかなあと思います。そしてその思いが強ければ強いほど、もしかしたらそれがかなわないのではないかと思わせる何かが起こった時に不安になったり、心配になったり、時には眠れなくなるということがあるのではないでしょうか。


あるいは、ある程度年齢を重ねるとこれからの人生に関しての夢というよりは、今まで気づき上げてきたものの心配ということもあったりするかもしれません。ネブカデネザルもこの夢を見た時点である程度の成功をおさめ、富も力もありました。けれどもそれがもろくも一つの石によって崩されるという夢を見る。そりゃあ不安になるでしょう。私たちも自分が気づき上げてきた人生、キャリア、貯蓄、家庭、人間関係、それらが失われるかもしれない、そういうことが起きるときに不安になり、心配になり、眠れなくなり、何ならネブカデネザルのように、常にイライラしてしまうということがあるのかなと思うんですね。


さてここでついにダニエルの出番です。ダニエルは、王様に少しの猶予を下さいというと、帰って祈り。主が夢の内容と解き明かしをビジョンの中でダニエルに示してくださいます。ダニエルは感謝と賛美をささげて後、ネブカデネザルの前に出ていき夢の内容と解き明かしを説明します。36-45節あたりのところですね。夢の意味とはどんなものだったのでしょうか。ここもかなり長いセクションなので要約しながらいきたいと思います。


38節後半から40節をまず読みたいと思います。

あなたはあの金の頭です。あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。

ダニエル書2:38-40


まずダニエルはネブカデネザルにあなたは夢に出てきた像の金の頭です。と伝えます。つまり金の頭はバビロンだと、そしてその後で3つの国がおこる、銀、青銅、鉄っといふうに移り変わっていくというんですね。そして41節からはこの第4番目足の部分にあたる鉄の国の詳細が説明されます。全部読むと長いので割愛させてください。


そして注目すべきは44節-45節


 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅しています。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。

ダニエル書2:44-45


最終的に夢に出てくる像を壊す原因となる石は、神様によって建てられる国だと。つまり人間の国々を滅ぼす神の国が、人間の手によらず神様によって建てらえる。そしてその神の国は永遠に立ち続ける。これがダニエルによる夢の解釈でした。


はい、で良く説教ではじゃあこの4つの国は実際どの国なのかっということをまあ世界史と照らし合わせながら見ていくということをしますよね。ネブカデネザルの国、つまりバビロンが金の国ということは、その次に覇権をとるメディア・ペルシャが銀の国、でその次に出てくるアレクサンダー大王率いるギリシャが青銅の国、そして四番目の鉄の国はローマ、鉄の国と言うだけあって一番強いのだけれど、結局分裂してしまう。一部が鉄で一部に土が混じっているということもそのこととマッチします。とここまで見て、さすが神様、未来まですべてを見通して居らえる方。とまあそういう具合に説明されることが多いと思います。そして実際に、第4の国ローマ帝国の時に、イエス様が表れてこうおっしゃる。時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)だからイエス様が人の手によらない神の国をもたらす石だと、まあね、処女マリアから生まれるわけで、そういった意味でも人間の手によらずにこの世に来てくださる石ですよね。


もちろん、この解釈は間違いではない。正しいと思います。ここまできれいにマッチすると気持ちいいなあと思いますし。やっぱり聖書はすごい、正確に書かれているんだと胸を張ることができるかなと思います。そういった意味で意味はある。


しかしながら、じゃあこの夢をみたネブカデネザルはそんな先のことまで知る必要があったのかと言うとどうなんでしょうか。注目すべきは29-30節ダニエルが夢の内容と解き明かしを始めるシーンです。


王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。この秘密が私にあらわされたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。

ダニエル2:29-30


29節後に起こるをあなたにお示しになったのです。まあですから未来の預言であることは間違いない。しかしながら30節この秘密が私に表されたのは、、、、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためですつまりこの夢を通して神様はネブカデネザルに何かを語っておられる。単なる未来予知だけということではない。じゃあネブカデネザルの心にあったものはなにか?それは偉大な国を建てあげるのだ、自分が最強の王になるのだという野望とそれに伴う不安だったのではないかという話でした。


さてこの夢が単なる未来予知だけではないとしたらこの夢が持つ意味とは何か?また私たちはこの夢の意味をどのように受け取ったらいいのでしょうか?


夢の意味まず一つ目のポイントそれは「人の作り上げる王国は、もろい」です。頭は純金で始まり、銀、青銅、鉄、土とどんどん価値が下がっていくのがわかると思います。まあ鉄は強さで言ったら強いんですけれども、価値としてはさがります。しかも一番した足の部分は粘土と。土は価値もなければ、素材としても一番弱い。ですから頭が純金でできていようが、つまりパッ見すごく力があるようなものでも、足元はぐらぐらで不安定。人の作る王国とは不安定なもの。そしていつの世も権力というのは、移ろいで行きますよね、一つの国が台頭したら、次の時代には全く違う国、そういう不安定さを持っています。日本も今ね円安でどうのこうの言っていますけれども、アジアナンバー1だった時代もあるわけで、いつの間にか中国に追い越されて。まあ移ろいで行く。脆いものですよね。で何より重要なのは、そんな弱く脆い、人間の国が力を一時でも持つとしたら、2つ目のポイんとそれは、「神様がその力を権力者に与えられるからに他ならない。」ここがポイントですね。ダニエルも37-38節で言っています。


王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、 また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。

ダニエル2:37-38

ネブカデネザルはそんなことをかけらも知りませんでした。ネブカデネザルは自分の力で王国を築いてきたのだと思っていた。逆に言えばだからこそ不安だったと言えるのではないでしょうか。


少し前に王国と自分の人生というものを置き換えてお話をしましたけれども。人生も同じです。今皆さんの人生が少しでもうまくいっているのであれば、もちろん皆さんの努力もありますが、究極的にはそれは神様が与えてくださった祝福であり、恵みでしかないということを忘れてはならない。でこのことを知らない、あるいは忘れてしまうととどうなるか。ネブカデネザルが自分の国の王であって、自分の力でこの王国を建てあげてきたと思っていたように、私たちもまた自分の人生の王は自分だと思ってしまう。ある意味今の時代は、みんながみんな王様の時代なのではないかなと思います。生まれたときから身分が決まっている時代ではない。だから人に迷惑をかけない限り誰にも何も言わせない。自分の好きなように生きる、自分の人生は自分の選択によって決まっていく。まあそう信じているからこそ、必死に幸せをつかもうと皆頑張るわけですよね。全部自分次第。自己責任と。


自分が王様の人生は、もろいです。だってどんなに頑張ったって人生うまくいかないことは出てくる。そんな時私たちは自分の大事にしていたものを失いそうになって、不安になり眠れなくなります。一方そんな脆い人間の国を軽々打ち砕くのが神の国であり、その神の国は永遠に固くたつと言っていました。これが三つ目のポイントですね。人の国と神の国のコントラストですね。いうなれば自分のための人生なのか、神様のための人生なのか。自分のための人生は不安定です。けれど神の国、神様のための人生は安定感が違う。

でそれは何も問題が起こらない人生という、そういう安定感ではない。問題はおこるんです、クリスチャンだって人生いろいろある。で時に眠れない夜、不安な夜があるかもしれない。しかしながら自分の人生の王は自分ではなく、神様だということを知っているからこそ、全部自己責任っという暗闇に完全にほっぽり出されることはない。神様が自分の人生の王様として責任を持ってくださる。それが神様のための人生。神の国



人の国か、神の国か。自分のための人生か、神様のための人生か、この対比はネブカデネザルの人生とダニエルの人生にもよーくあらわされているのではないでしょうか。


ネブカデネザルは自分の王国を自分のために、大いなる権力と力をもって建て挙げようとしていました。がゆえに不安と恐れにとらわれてしまう。そしてその恐れからすべての知者を滅ぼせという命令を出します。それによって命の危機にあうダニエル、けれど彼には恐れはありませんでした。ちょっと飛ばしましたけれどもその命令が出されたときどうしたか。逃げ出したのか?そうではない16節


ダニエルは王のところに行き、王にその解き明かしをするため、しばらくの時を与えてくれるように願った。

ダニエル2:16

いや今めちゃめちゃ機嫌がわるいんですよ、皆殺しにしろっといた王に直談判し、時間を下さいというダニエル。8節では時間稼ぎをするということに関してめちゃくちゃ怒っている王に対して堂々とそのことを願い出るダニエル。その勇気はどこからくるのか?


でそれは、ダニエルが本当の王はネブカデネザルではないということを知っていたからですよね。神様がすべてを治める方だと知っていた。だからこそネブカデネザルを恐れる必要もなければ、命の危機にあっても不安に押しつぶされるわけでもなく、冷静に対処することができた。本当にダニエルの運命を握っているのはネブカデネザルでもなければ、自分でさえない、それは神様だということをダニエルは信じていました。そこから来る勇気ですね。


そしてもう一つ対照的なのは、ネブカデネザルは国中のトップを集めて、それでも夢のことがわからない。つまり自分の圧倒的な力つくしても解決できない問題に対して絶望し彼は不安になります。一方ダニエルはどうか、いやそりゃあダニエルにだって、夢を言い当てるなんてことはできない。ダニエルももちろん自分の力では無理だということを知っていました。けれどそこで絶望、ではないんですね。なぜなら、ダニエルの人生の王は、主なる神様だからです。だから彼は18節、祈ります。ダニエルと3人の友人は心を合わせて祈る、結果人には不可能なことが主に拠って明らかにされ解決がもたらされる。自分の力が及ばないことに絶望ではなく、神様の力に頼ることができる。そこに神様のための人生の強さがあります。


まあこうやって比べますと、やっぱりダニエルのほうがかっこいいなあと思います。さて最後ではどのようにすればネブカデネザルではなくダニエルのようになれるのか。


夢の解釈において金、銀、青銅、鉄、それらが具体的にどのくになのかという区別はそこまで重要ではないというお話をしました。しかしながら最後夢に出てくる像の足元を打ち砕く石がイエス様である、っということは非常に重要です。いろいろな点で予言とマッチするという話はしました。ルカの福音書20章でご本人が神の国を建てあげる基盤の石は自分だということを話されています。


イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

ルカ20:17-18

 イエス様を土台とする人生そこに鍵がある。ということですね。


神のための人生、とは神様を自分の人生の王とするということだと話をしました。クリスチャンはイエス様を主と呼ぶのだからそんなことは頭では知識的にはわかっていますよね。にもかかわらず、気づけば私は自分のための人生を歩んでしまい、心配ばかりしてしまうと言ことがやっぱりある。でそれは、自分の人生にとって何がベストな事なのかを知っているのは自分だと無意識にでもどこかで思ってしまうからです。いまいち神様を信頼しきれない自分がいる。そんなときに私たちにはやっぱりイエス様の十字架が必要なんだと思います。イエス様の十字架を思い出すときに、命をさえ惜しまれずに私のためにささげてくださった方が、私を愛し、最善を願っていてくださるならば、この人生のかじ取りを主にゆだねてもいいのではないかと思えるのではないでしょうか。

 

 っと偉そうなことを言ってきましたが、私は以前にもシェアした通り心配性で、寝つきのいいほうではありません。で数日前ですね、そのような話をやすさんとしていました。まあ次のメッセージこんな話をするんですということを軽く話していて、「やすさんは、寝つきがいいほうですか?」と聞いてみました。すると「そうですね、気づいたら寝てます」とおしゃって。イヤーうらやましいなと思いながら「いいですねえ、昔からそうですか?」と聞くと、「いや昔は寝つきがわるくて、信仰をもってからだいぶ変わった気がします。洗礼受けて1年くらいですけど、以前はいろいろな悩んで寝付けないこともありました。でも神様をしって、いやそりゃあ今でも心配なることはあるんですけど、まあ祈ってこう思うようになったんですよ。「自分ではなにもできない。神様に任せればいいじゃん」って。それから寝つき良くなった気がします。」


 イエス様を土台とする人生がこれです。「自分では何もできない。神様にまかせればいいじゃん」という人生。皆さんの人生どうでしょうか。よく眠れていますでしょうか。いや不眠イコール不信仰ではないですよ、色々なメディカルコンディションやもともとの体の性質もありますから。けれどももし不安で眠れない夜を過ごしているなら、皆さん自分に問いかけてほしいと思います。自分のための人生なのか、それとも神様のための人生なのか。自分が自分の人生の王なのか、それとも神様が王なのか。そしてすぐには「神様のための人生だ」と思えなかとしても、祈ったうえで「自分では何もできない。神様にまかせればいいじゃん」ということができるなら、ダニエルのような人生を歩んでいけるのではないかなと思うんですね。そして何よりその土台となるイエス様のことをまだ知らない、信じていないという方がいらっしゃったら、イエス様に是非出会っていただきたいと思います。


2024.04.14

求めることは信頼すること(マタイ7:7-11)

マタイ7: 7-8を読みたいと思います。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

マタイ7:7-8

「求めよさらば与えられん」という言葉、教会や聖書に馴染みない人でも、もしかしたら耳にしたことがあるのではないでしょうか。さまざまなドラマや映画で引用されています。実はこの聖書箇所が引用元になっていますが、一般的にどういう意味として捉えられている言葉なのでしょうか。インターネットでこのような定義づけがされていました。

「求めよさらば与えられん」とは、「与えられるのを待つのではなく、積極的に自分から求め、努力する姿勢が大切である」という意味を持つことわざです。

いやまずことわざではないんですけどねーっと思うわけなんですが、なるほど確かに7節だけを取り出してパッと読むと、こう読めなくはないのかとも思いました。「とにかく夢をもって頑張りましょう」「自分の心にある願いを恐れず求めて行動を起こしていきましょう」「あきらめずに努力すれば、求め続ければ夢は実現します!」的な自己啓発本とかに書いていそうな感じでしょうか。もちろんそういうニュワンスが全くないというわけではないと思います。クリスチャンの間でも言いますよね、ただただ祈って何もしないのは信仰ではないと。求めるのであれば、祈るだけではなく自分のできることをしていくべきとか、問題がたちはだかりドアが閉じているように見えても、あきらめずにドアをたたき続けなさいとか。なんならそれが信仰だ、くらいのことを言いますよ。そういう意味で私たちは祈ることそして信仰を持って行動する。この両面の大切さをもちろん知っています。


しかしながらしっかりと文脈を捕らえて読んでいく時に、この箇所は単純にあきらめず積極的に求めて行動していくことの大切さをメインに語っているのではないということは明白だと思います。なぜなら9節以降、後々詳しく見ていきたいと思いますが、父親が子供に良いものを与える、もっと言うと天の父なる神様が私たちに良いものをくださるということが語られていきます。つまり神様と私たちの関係というものがメインのテーマとしてあります。実は平行記事であるルカの福音書11章には、ここと同じことばが登場します。「求めなさい。そうすれば与えられます。」(ルカ11:9)時間がないので詳しく読みませんが前後関係で言うと、その直前ルカの福音書11章の一番最初にはイエス様が弟子たちに祈り方をお教えになるシーンが登場します。いわゆる主の祈りの場所です。それがあっての「求めなさい」っというながれにルカの福音書ではなっています。つまり、この求めなさいっというのは、強く願って行動をおこせというよりは、遠慮なく大胆に神様に祈り求めなさい。っという意味合いが強いんですね。


さてその前置きをしたうえで、皆さん「求めなさい。そうすれば与えられます。」と聞いてどのようなことを思われるでしょうか。本当にそうだな思われるでしょうか、いやそう単純ではないと思われるでしょうか。もちろん素晴らしい約束だなと思いますし、励まされる御言葉です。しかしながら信仰生活が長くなればなるほど、祈ったけれども、求めたけれども、与えられなかった。探したけれども、見つからなかった。叩いたけれども、結局は、開かなかった。っという経験が1度や2度ではななくなっていくというのが現実ではないでしょうか。では私たちが経験するその「現実」とこのイエス様の仰った言葉と、どのように折り合いをつけて理解していけばいいのか考えていきたいと思います。


先ほど9節以降親子関係ということをベースに祈りということが語られていくといいましたが、このメッセージを準備していてちょっと笑ってしまったことがありました。私にも2歳の息子がいます。家では日本語、保育園では英語、まあそんな環境も手伝ってでしょうか。決して言葉という面では成長が早いほうとは言えません。ですからまだ彼のしゃべる言葉、覚えている言葉というのは限られています。ミルク、肉、パン、ジャム、っと。まあ好きこそものの上手なれではないですけれども、ほとんど食べ物ばかりでして。毎朝うちで一番早く起きるのがだいたい恵信です。寝ている妻あるいは私のところまできてまず第一声「パン」そして次に「ジャム」それの繰り返し。もう少し寝ようなんて言う交渉が通じるはずもなく、私か妻、いや正直ほとんど妻がやってくれていますが、そのリクエストに応えてパンをトースターにセットします。9節「自分の子供がパンを下さいという時にとでてきますので、」ってこんなに文字通り当てはまることあるかなっとちょっと私は笑ってしまいました。


息子が喋れる言葉が少ないということももちろんあります。でもたとえ「おはよう」という言葉を知っていたとしても、おそらく彼から最初出てくる言葉は「パン」なのかもなあと思います。でそれは良い意味で、私たち親と息子の関係の中心にあるものは多分シンプルなんですね。少なくとも息子にとってはシンプルです。パンっといてそれが出てくる。。肉と言って与えられる。ミルクと言って与えられる。チーチと言っておむつを替えてもらう。つまり求めて与えられるとういうシンプルなこと。そういうシンプルなやり取りを繰り返して愛とか信頼とか、いわゆる親子関係というものになっていくんだと思います。親子だけでなくして、人間関係の中心にあるものってやっぱり、この「求める」ということなのではないでしょうか。大人でもそうですよね。ちょっと困ったことがあって助けてもらった、逆に自分が助けてあげた。そういうことを通して人間関係というものは育まれていきます。求めるということがなければ信頼は生まれません。人には頼らず生きていくんだ、助けなどいらないと思ってそれぞれが生活をしていれば、一向に距離感は縮まっていかないでしょう。現代人が孤独に悩む原因がそこにあるのではないかと思ったりしますが。


話を戻しましょう。ですからシンプルに「求めなさい、そうすれば与えられます」というのは、何かこうアマゾンで注文したものが確実に届くとか、自動販売機お金を入れてボタンを押したら好きな飲み物がでてくるとか、そういうことではないわけですよね。求めなさいっと神様はがおっしゃるとき、それは言い換えると「私と関係を持とうよ」とこうおっしゃっている。ということなんだと思うんですね


 ではそれはどのような関係かというと、9節戻っていただいて親子のような関係だとイエス様はおっしゃる。神様が父親で、私たちが子供ですね。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

マタイ7:9-11

 親は子供に良いものを与える。まあこれは当たり前なわけですよね。基本的には子供の欲するものは全て与えてあげたい、それが親というもの。しかしながらじゃあ何でもかんでも与えたらいいのかっというともちろんそうではない。そんなことをすれば大げさに言えばですよ、その子の人生がめちゃくちゃになりかねない。無責任な親になってしまいます。


うちでは食事中に息子も私たち親と同じメニューをだいたい食べます。けれど時にちょっとスパイシーなものもたべますので、そういう場合は別の味付けになります。で好みでラー油とかコショウとか、キムチとか後で足しながら食べたりします。すると当然息子のめにはいって「アレ」ちょうだいっとなる。けれどそれに対しては「いやいやこれはあんたには辛い」と息子のリクエストに対してNoっと父親である私は言います。あるいは息子はミニオンというキャラクターの登場する映画が好きなんですが、そのテレビを見たい、見たい、と隙あらば言ってきます。もちろん見せるときもあれば、いや今日はちょっともうテレビは見すぎだなと思えば、ハイもうおしまいっと言ってテレビを消す。当然息子は怒り、泣き崩れます。「No-!」みたいな。この世の終わりだみたいな。で当然親は決していじわるしてそうしているわけではないですよ。本人が欲しがっているものでも、与えてしまえば害になるものがやっぱりこの世界にはあるわけですよね。それこそラー油なんて赤くておいしそうだなと息子は思うわけです。けれども実際口に入れようものなら確実に吐き出して、泣くでしょうね。テレビばかり見ていれば目が悪くなるかもしれない。そんなことは一ミリも本人は気づいていない、けれど親である私たちはわかっています。がゆえに彼のために愛を持ってそのリクエストに対してはNOっという。


 同じように神様も私たちのことを思って私たちの祈り、リクエストにNoとおっしゃるときがあります。

あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

ヤコブ 4:2-3

 

まあよく言われることですが、私たちの祈りもまた自分たちの願っているものが本当に自分にとってベストなものなのかどうか実は判断できていないということが良くあります。なぜなら私たちの視野はやっぱり狭い。どれだけ情報を集め、客観的に考えれたとしても、神様が持っておられる視野、知恵に比べれば比較にならないでしょう。ですから祈神様は私たちの祈りを無視しているのではなくしっかりと聞いたうえで、それにたいして「NO」という事もあれば、「まだもうちょっと待とうか」と言われるときもある。ラー油は成長したらしっかりと味わえるようになるわけですよ。けれどタイミングがいまではないと。でそうしたときに人間側から見るとなかなか祈りが答えられないなーと感じてしまうっという具合でしょうか


 クリスチャン生活が長くなっていくとそういう経験は増えていきますよね。振り返ってみて、あああの時祈り求めていたものは与えられなくて逆に自分のために良かったんだなと今となっては思えるようになったというような経験。皆さんもあるのではないでしょうか。


 私で言うと結婚についてですかね。正直に言いましょう、私の計画ではもっと早くに結婚しているはずだった。30歳になる前に結婚するのが理想でした。ですからそのために祈りましたよね、いい出会いがありますようにとか。でもそううまくはいきませんでした。私が結婚したのは35歳になってからです。しかしながら振り返ってみるとこれでよかったなあと思いますよね。もっと前に結婚していたら、今の妻にも出会えず、恵信にも出会えず。っというわかりやすいところももちろんそうなんですが、例えば若くして結婚していたら、そのありがたみとかわからなかっと思うんですよね。まだまだ足りませんけれども、あの結婚できない期間が私のなかに少なからず謙虚さというものを育てたのではないかなと思っていますし。そういった意味でも、正しいタイミングというものがあったのだろうなと思います。


さて、まあここまでは割とスムーズにストンっと降りてくるというか納得しやすい。なるほど自分が欲していることがベストかどうかというのはわからない。神様は私たちよりも何倍も広い視野で物事を捕らえ、私たちにベストな道へと導かれる。がゆえに祈りにNoあるいはNot yet(まーだだよ)が神様から返ってくることはあると。なるほどなあと思います。ただ一方でひねくれている私はこうも思ってしまうわけです。結局何を与えるかは完全に神様が決める、つまり御心にかなうものだけが与えられるのだとしたら、私たちが祈るか祈らないかなんて関係あるのだろうかと。でもっというと少し前の6章ではこうもおっしゃっているわけですよ


あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

マタイ6:8


ならなおさらなぜ祈るのか?そしてこの思いに追い打ちをかけるのは、やはり「聞かれない祈り」ではないでしょうか。もちろん自分勝手な祈り、あるいは自分の視野が狭くて、後になってやっぱりこれでよかったと思えることに関しては時間がたてば納得がいくのかもしれない。けれどもその「聞かれない祈り」の内容が、たとえば家族の病気を癒してください、命を救ってください、あるいは信仰を持っていない家族の救いを願う。そういうものだったとしたらどうか。やっぱり思いますね、さすがにこれは神様も望まれることなのではないだろうか、さすがにこれは御心にかなう祈りなのではないのか?っと。それでも主から一向に答えは返ってこず、沈黙が保たれる。そんな時間が長く続いたらどうでしょうか。

 

どれだけ私が祈ったとしても結局主は御心をなさるというのなら、何のために祈るのか?祈っても祈らなくても一緒じゃないのか。そうして次第に祈りが減ってきてついには祈らなくなるという事もあるかもしれない。期待するのに疲れてしまう。求めなければ傷つかなくて済む。けれどその代償は何かというと、神様との距離感ではないでしょうか。何度かメッセージでシェアしていますが、私は持病である神経痛がありまして、いまだに良くなったり悪くなったり繰り返しています。まあもちろん生死にかかわらないだけ感謝ですし、間違いなく忍耐とか自分の霊的成長、人格形成に役立っているとも思います。でもやっぱり思っちゃいますね。なんで治らないの?なんでこれが御心じゃないの?まあもちろんそういう思いも、時間とともに「受け入れる」という方向には向いていきます。神様との関係性において決定的なダメージとはなっていないと思います。でも今回のメッセージを準備するうえで気づいたんですね、私はどこかで自分の求めるものをサイズダウンする癖があるなあっと。これはたぶん無理だよねとか、まあこれは別に自分が頑張るべきことだよねとか、祈るほどのことじゃないよねとか。で心を掘り下げていくとやっぱり根っこにはこの「求める」ということを恐れてしまっている自分がいるということに気づかされました。でそれは確実に神様と自分の関係の距離感に影響を与えていると感じたんですね。ちょっと一歩下がっている感じというのでしょうか。


 何故神様はある人の命を救ってくださいという祈りにはこたえられて、ほかの人の同じような祈りにはNOと言われるのか、ある人は奇跡的に癒されて、ある人は何年たっても癒されないのか。それに納得のいく答えなんて正直持ち合わせていません。わからない。牧師でもわかりません。けれどもはっきりしていることがあります。それは私たちはそれでも祈るべきだということです。


 何故それでも祈るのか?に対する最もシンプルな答えはおそらくイエス様も祈られたからという答えになるでしょう。そしてイエス様ご自身も神様から祈りの答えとしてNOを頂くという経験をされたということにやはり目を留めたいと思います。イエス様は神様です、にもかかわらずこの「聞かれない祈り」というものを経験された。しかも命がかかった場面でです。どこででしょう? ゲツセマネ、ゲツセマネの祈り。十字架につく前の夜イエス様が祈られた有名な祈りですね。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

ルカ22:42


さすがイエス様、最後は御心の通りにと祈られている。ってそう簡単な話ではない。聖書には血の汗を流されたと書いてあります。つまりそれほどに必死だったということです。しかも一度ではなく三度祈られました。つまりそれだけ避けたかった。当たり前です誰も世界の罪を背負って十字架になど行きたくはない。そして神の御子がこの窮地から救われる、これこそが神の望むこと、神の御心だって普通は思いますよね。結果どうなったか。その願いはかなえられずイエス様は十字架で苦しみを受けられます。父なる神様から帰ってきた祈りの答えはNOでした。求めたものは与えられなかった。ではなぜ祈られたのか?イエス様は神様ですから、ご自身祈りの、リクエストの答えがNOであるということはわかっていたかもしれない。それでも祈られた。なぜか?それはイエス様の祈りの最終ゴールは祈り求めたものが与えられるということではなかったからですね。求めたものは与えられなかった、それでも、それでも父なる神様あなたを信頼しますというところにイエス様ご自身が祈りを通してたどりついたというところに非常に重要な意味があるんだと思います。そしてこれは最初からあきらめてしまうのとはわけが違う。求めることなくして、信頼関係というのはあり得ない。求めたうえでゆだねるということが信頼でしょう。


 求めるということはリスクです。答えがNOかもしれないから。けれど私たちが祈りのなかで恐れず求めるときにそれは、「神様、私はこれだけあなたを信頼します」っというしるしなんだと思うんですね。

 ある人がこんなことを言いました。


どちらのほうが優れた奇跡だろうか?癒されえることか、それとも癌に侵されてもなお、神に礼拝を捧げる心なのか?私にはわからない。ただ、私はそんな心が欲しかった

What was more supernatural? A healing or a heart that still worshipped as cancer ravaged the body in which it beat? I can't say. I just wanted a heart like that

Jack Deere


私もそんな心が欲しいなあと思います。

最後にちょっと使徒の働き12章開いていただきたいと思います。ちょっと時間ないので全部は読みません。ぜひご自身で時間のある時に読んでいただきたいと思います。まあざっくりあらすじを言いますと、イエス様のことを福音を宣べ伝えている使徒たちはその福音の広がりとともに迫害に会うようになります。その迫害のゆえにペテロがヘロデ王という王様に捕らえられてしまうということが起きるんですね。で5節見ていただければわかりますけれども、教会はそんな捕まってしまったペテロのために熱心に祈ります。すると真夜中ごろ御使いがあらわれて、奇跡的にペテロがつながれていた鎖は落ち、牢屋の門も開いて助け出されるということが起きます。ペテロは彼のために祈っている教会のところまでいってサプライズ!と言わんばかりに皆会う。で皆神を褒めたたえると。まざっくり言うとそういうエピソードが17節ぐらいまで展開するんですね。で今日注目したいのはその奇跡ではなくして、12章の1-2節、迫害が厳しくなっていった様子がかかれています。


そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

使徒12:1-2

この流れでペテロが捕まっていくわけなんですが。2節ヤコブは殺されたとさらっと書いてある。これペテロと同じ12使徒のひとりのヤコブです。なぜペテロは奇跡的に助けられて、ヤコブは無残にも殺されたのか?どちらも使徒です。福音を伝えていくという重要な役割があったはずです。なぜペテロだけ助かったのか?


 その理由を答えられる人はいないでしょうね。わからない。わからない。けれど明らかなのは、ペテロのために祈った教会は、ヤコブのためにも熱心に祈ったに違いない。ヤコブが助かるように、ヤコブが救われるように、皆で心を一つにして祈ったことでしょう。そのうえでヤコブは殺される。そうして間もなくしてペテロが捕まる。もしかしたらヤコブが殺された次の日だったかもしれませんね。教会はどうしたか、祈った。ペテロのために祈りました。ヤコブを救ってくださいという祈りが聞かれなかったという現実直前に経験してもなお、教会は熱心にペテロのために祈ったんですね。


 どちらのほうがより優れた奇跡だろうか?鎖が落ち、牢屋が空き、ペテロの命がすくわれたことか?それとも聞かれない祈りを直前に経験してなお、あきらめることなく主を信頼し熱心に祈りつづける教会か?私にはわからない。ただ私はそんな教会の一員でありたい。と思うんですね。

 祈りというのは深いです。説明しつくせません、なぜならロジックではない、リレイションシップ/関係だからです。そしてだからこそ難しくて時に混乱します。これが正解の祈りだということは言えないでしょう。しかしながら祈りに関しての不正解はあります、でそれは祈りを辞めてしまうということ。なぜならそれは神様との対話を辞めてしまう。関係を断ってしまう、あるい距離を開けてしまうということだからです。祈るこころ、求める心を主が与えてくださるようお祈りしたいと思います。

2024.03.24

心配の特効薬は信仰(マタイ6:25-34)

 

さあっということで今日も山上の説教、マタイの福音書続きをやっていきたいと思います。今日の箇所、繰り返し出てくる言葉があります。「心配」ですね。この短い箇所で実に7回登場しますので必然的に今日のメッセージは「心配」をテーマとして取り扱っていきます。

心配に関するアンケート結果インターネットにいろいろ転がっていましたのでいくつか見ました。様々な統計の仕方がありますので一概には言えませんが、日本人の成人の約70%~80%が何らかの不安を、心配を抱えているという結果になっていました。皆さんはどうでしょう、心配事あるでしょうか?あるならどのようなことを思い煩っておられるのか?イエス様はここの箇所でおっしゃいます、「心配してはいけません。」心配する必要はありませんではなく、心配してはいけません。です。いったい心配の何がそんなにいけないのでしょうか?「心配するな」とは何も考えるなということなんでしょうか? そのような疑問を頭の片隅に置きながら聖書を開いていきたいと思います


マタイの福音書6:25-34


だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6:25-34


早速25節から見ていきましょう。だからっというふうにスタートしていきます。

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。(25節)

つまりここまで語られたことを踏まえて考えるならという意味ですね。では24節以前は何が語られていたのかというと、先週Sho君がカバーしてくださいました。富に仕えるのか、主に仕えるのか、お金か神か、そのようなことがテーマでありました。その文脈で25節が始まっていきます。ある人は言いました「大切にしていないものについて心配する人はいない」逆に言うと、もし心配している自分がいるなら、そこには必ずあなたが大切にしているもの、失いたくないものが心配の裏には隠れているということです。


確かにそうだなあと思いますね、学生の皆さんがアサイメントの締め切りと常に戦っておられるという話を聞きます。もちろん祈ってほしいと言われればそのために祈ります。けれどもその方のアサイメントがちゃんと終わるか、あるいはいい評価が得られるかと心配で私自身が眠れなくなるなんてことはないわけですよ。正直次の日に気にもとめていない。でもご本人はそうはいかないわけですよね、自分がパスできるか、いい成績をとれるか心配で時には眠れないということはあるでしょう。なぜならその方にとってそれが大事なことだからですよね


 っとこのように、人は自分が本当に大事にしているものに関してのみ心配をします。だからこそイエス様も、主に仕えるのか富に仕えるのか、つまり神かお金かという文脈で「心配」について語られるんですね。もちろんお金以外のことに目が行く、他のことに心乱されるということは大いにあります。けれどもお金というものはやっぱり多くの人を惹きつけます。学生の時はそうでもないかもしれません、けれど自分で収入を得生活をし始めれば急に真剣な問題になります。だからこそお金の心配っというのは「大人」の間ではよく聞く話なのではないでしょうか。でそれは裏を返せば結局私たちクリスチャンでさえも神様ではなくお金に信頼をおいてしまっているということがあるからなんだろうなと思うんですね。イエス様はそんな私たちに問われる、いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

(25節)

お金を大事にすることが悪いわけではないです。食べ物も着るものも、生活というのはお金があって初めて成り立つ、必要なものです。けれど本当の意味で人生を豊かにするのはお金なのか?いやそうではない、なぜならそんなものよりはるかに大事ないのちそのものを与えてくださったのは神様ご自身です。そんな主が生きるのに必要な食べ物や着るものを、生活の必要を満たしてくださらないはずがない。空の鳥と野の花を見ればわかるではないかっと続いていきます。まずは26節

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(26節)


住宅ローンや税金、貯蓄、生活費のことで頭を悩ませている鳥を見たことがありますか。もちろんそんな鳥はいない。野生の鳥はその日暮らしです。それでもしっかりと神様によって養われている。鳥でさえそのよう養われているのだから神様は私たちを養ってくださらないはずがないということですね。さてここで気をつけたいのは、働かなくてもいいよっていうことではないということです。何の計画も持たずに、お金なんか気にせず適当に使ってその日暮らしをしましょうということではない。もちろん私たちは与えられた仕事、責任を主にあって果たしつつ。与えられたお金、祝福を計画的に使っていく責任はあるでしょう。けれどもそのことで思い悩む、つまり心配する必要はない。なぜなら最終的な責任を持ってくださるのは天の父だと。ここポイントですね。神様は私たちの父親です。私にも2歳の息子がいますけれども、彼にしっかりとごはんを食べさせる、必要なものを与えるのは親である私と妻の責任ですね。2歳の息子に全て自己責任で、とはもちろんなりません。心配をしなくていい、なぜなら私たちは必要を満たしてくださる父なる神を信じているからです。次28-30節


なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

マタイ6:28-30


ここまずポイントは「着飾る」という言葉です。しかもその比較対象はあのソロモン王。ソロモン王と言えばイスラエルの歴史の中で最も裕福で栄華を極めた王様でありました。どうでしょうクリスチャンが神様は必要なものは与えて下さるっという時に、どこかイメージ的に最低必要減、質素、ぎりぎり生活できるくらい与えられる。なんかそのような感じを想像してしまうのは私だけでしょうか。けれどよくよく読んでみるとそうではない。30節 明日は炉に投げ込まれる野の花さえそのソロモンよりも美しく装ってくださる神様があなた方に良くしてださらないはずがない。といいます。Tシャツとジーンズ、冬はヒートテックとダウンがあれば何とかなります。けれどそうではない。美しく装ってくださるとあります。つまり神様はただただ生き残るために必要なものを下さるだけでなく、プラスアルファ、私たちが楽しむための祝福というのも大いに与えてくださる。神様はそのような愛にあふれた父親のようなお方だとおっしゃっているんですね。


 そのような愛ある父親として神様を信頼しているのか、ここがまあ「心配」というものを考えていく時にポイントになってくるわけですよね。繰り返しになりますが、働くな、計画を立てるな、準備するな、貯金するなではない、問題は優先順位です。先週やりましたね自分の人生のNo1が何になっているのかということ。自分の必要や自分の楽しみを守ってくれるのは、お金だと信じてしまう時に、私たちは否が応でも心配になります。お金を失ったらどうしよう、お金が稼げなかったらどうしよう、お金が足りなかったらどうしたらいいんだろうと。イヤイヤそれらすべてを満たしてくださるのが神様だということを忘れてはならない。神様を第一にしているか。ですから今日の箇所最も大事なのは33節です


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 マタイ6:33


 どうでしょうかこれ読み方によっては単純に、神様を求めたら、裕福になる。っといったようなご利益的な意味にとれてしまうかなと思います。がしかし、もちろんそうではないんですね。とにかく神様に従ったら、ご褒美で与えられるっというような意味合いではないんだと思います。ではどういう意味か詳しくみていきましょう。


神の国とその義とをまず第一に求めなさい神の国ってなんなのかは、あとでちょっと詳しくやりたいと思います。ここでは簡単に神様の御心、つまり神様の願うことと理解していただければいいと思います。神様の御心を一番に求める、第一に求めることが大事だとおっしゃる。そもそもなぜイエス様は心配してはいけませんとおっしゃったのか。心配する必要はありません、ではなくして心配してはいけませんっとちょっと厳しめの表現になっています。その理由は、心配の裏には必ず偶像礼拝が隠れているからなんだと思うんですね。ずーっと見てきました。心配するということは何か自分が大切にしているものがあると。そして多くの場合、それらを神様よりも大事にしている、神様よりもそれらに頼っている状態にあるのではないでしょうか。言い換えれば「まず第一に」神を求めていないからこそ私たちは心配になる。お金ということをメインの文脈として語ってきましたが、それ以外にもいろいろあると思います。家族、子供、人間関係、仕事、学校の成績、結婚、健康、それらが失われそうになって、あるいはそれら本当に得られるかどうか人は「心配」になるわけでしょう。もちろんそれらを求めてはいけないわけではない、けれども「これがなくては私の人生はおしまいだ」そう思ってしまう時に、私たちは非常に不安定な土台に自分の人生を据えてしまうんですね。そうではなくして、まず第一に神様を、神様の御心を求めなさい。神様を私たちが求めるなら、それは確実に満たされる。けれどそれ以外が第一に来るときに、私たちはそれがなくなったらどうしようと心配になる。神様のなさることを信頼しなさい。愛にあふれた父である神様があなた方に最善をなしてくださらないはずがない。これを信じれるかどうかで私たちが抱える「心配」のサイズ感というのは変わってくるのではないでしょうか。


 さてとはいえですよ。とはいえ現実問題どうなんですかっていう、心配は簡単に拭うことはできませんよね。だってこの世はいいますよ。全てが自己責任だと。自分で頑張らなければ、しっかりと努力しなければ誰も面倒は見てくれない。だからみんな必死に頑張って、それでも心配を抱えて生きているのではないでしょうか。


 さてそこでも一度33節もどります。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 マタイ6:33

神の国を求めなさい。この神の国とはなにか、天国のことか。まあもちろんそれも含まれるんです。これ英語だとkingdom of Godという表現になります。神様がking、王様つまり神様の支配っという意味なんですね。神の御国とはつまり主の御心が100%反映される場所、空間っていうんでしょうか。ですから神の国を求めるとは、神の支配を求めるっということです。ちょっと抽象的にな表現でわかりにくいかもしれませんが。神の支配、神様に自分の人生の王様になっていただくということを求めるということなんですね。


 ある人は言いました。心配は自分にはどうにもできないことを、どうにかしようとする、つまりコントロールしようとする行為であると。34節このようにあります。


だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 マタイ6:34


人は明日のことを心配します。つまり未来のことを心配するんですね。まだ起こっていないこと。人の心配することの9割は実際はおこらないというのはよく言われていることで皆さんも聞いたことあるんじゃないでしょうか。明日、来週、来月、来年、数十年後、未来はどうなるかなんてわからないんですよ。わからないのに、いやわからないからこそ心配してしまう。けれどイエス様はおっしゃる、それはあなたの仕事ではないよと。だって私たちが変えられるのは過去でも未来でもなく、いま現在、今日しかないからです。そういう意味で労苦はその日その日十分にあるとおっしゃる。いやもっというと今日というこの日でさえ自分でどうにかできることは本当に限られている。にもかかわらず、それを自分の思う通りにコントロールしたい、だから思い悩む。こうなったら、ああなったらと自分の中でシミュレーションして、最悪のケースまで考えて心配する。そんな私たちにイエス様はおっしゃいます27節

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(27節)


答えは当然NOですよ。心配したら状況が改善するのか、いやそんなことはない。心配しようがしまいが、災難や試練は来ますよ。だからそれを前もって自分の中で言リハーサルしてそれを何度も味わう必要はない、その時にできることをやればいい。わかりますよ、わかります、ガッカリしたくないからあらかじめ最悪のケースを想定するんだとか、その時になって慌てたくない。だから最悪のケースを考えるんですよね。そのための準備することは必要です、悪いことではない。しかしながらその結果、心配という感情にとらわれて、今やるべきことができなくなってしまうようであればそれはどうなんでしょうか。


 もう20年くらいまえですがバイブルカレッジの最終学年のことです。当時今までにない大きな課題があって、頑張ってはいたのですが締め切りが近づいてくるのに思うように進んでいませんでした。いよいよ、これは間に合わないのではないか。そういう思いが心配となり、焦りとなり、その思いに押しつぶされて、なかなか机に向かえず、集中できず、結局は教授に頼み込んで締め切りの延長をしてもらったということがありました。


心配は変えることのできない未来にばかり私たちの目を向けてしまい、今は果たすべき責任から目をそらさせてしまうんですね。心配するだけで疲れてしまう。さてじゃあそれと、神の国とどう関係あるのかということですが。それは私というこの人生を本当は誰がコントロールしているのか、誰が支配しているのかっというそういう問いかけになってきます。神の国とは、神様の支配だということをお話ししました。私の人生において、本当に主の支配を、神の国を求めているのか。それとも自分の支配、つまり思い通りにしたいと思っているか。思い通りにしたいと思う時に、心配はしつこくつきまとってきます。


 このメッセージを準備していて、正直非常に難しかったです。何が難しいのかと言えば内容ではない。何なら解説はあまり必要ないくらい、この箇所のメッセージはクリアなのではないのかなと思います。しかしながら、それを語る私自身がどうにもこうにも心配性であるということは否めない。一このメッセージを準備しながら、うまくできるだろうかと「心配」していました。「心配するな」というメッセージに関して心配しているのだから世話ないなと思います。まあそんな話をABCの牧師であるヘイデンさんに雑談でしていました。すると「ほかにどんなことが心配なの」っと聞かれましたので「そうですね、常に日本人教会の今後どうなっていくのかはまあ心配になるときが正直あります」そう答えました。すると彼はすごくフランクですから。ふつうに聞いてくるんですね「最悪のケースはどんなことが考えられるの?」でまあ私もいいますよね、「そりゃあまあ経済的に、とかその他いろいろな理由で教会が続けられなったら単純に僕は職を失うよね、で日本に帰らなければいけなくなるかもしれない。」と。ごめんなさいね牧師としてこんな話をするのはどうかと自分でも思うんですよ。でもまあ牧師同士の半分冗談交じりの会話っていうやつです。でそれを受けて「なるほどノブは日本に帰らなきゃいけなくなることが怖いんだね、それを恐れているんだね」っとヘイデンさん。情けないかな、おそらくそうなんだと思います。教会としてのこの先どうこうよりも自分のことを心配している。つまり私にとってNZで生活を続けるということが偶像になりつつある、その運命を主にゆだね切れていない自分がいるのだなということを思わされました。


もちろんそうならないように私自身最善を尽くす、できることはやる、そういう責任はあります。けれどその後は主に任せする。それこそが神様の支配を自分の人生に願うということなんだと思うんですね。


 34節最後「労苦はその日その日十分にあります。」とありました。いいですか、信仰をもって神様の御心を求めれば、交換条件ですべてがうまくいくってそういう話ではないんです。労苦はあるんです。そして時には本当にこのままで大丈夫かと追い詰められることもある。それでも、それでも、神様が最終的な責任は持ってくださる。この人生は自己責任だけではない、私は私の人生の王ではない、主よあなたが王です。どうかわたしの人生を支配してください。あなたの心を信頼します。この真実にどれだけ根差して歩めるか。そういった意味で心配に対する特効薬はやはり信仰しかないと思うんですね。


 っとこのようにお話をしますとね。心配性の人は不信仰で、心配しない方は信仰があるみたいに思われるかもしれません。けれどもそういう単純な話ではない。心配をしない=信仰ではないんです。人が心配をしない理由はいくらでもあるでしょうね、そもそも細かいことは気にならないという性格だとか、下手したらただの無責任とか。あるいは生まれ持っての体力、適応力、精神力、才能そういったもので過去いろんな問題を自分の頑張りで乗り越えてきた。そのような経験を持っている、がゆえに心配しないと。それらは素晴らしいことです。正直うらやましいなあと思います。けれどそれが信仰かどうかはまた別の話ですよね。いいですか、だから人はいいんです。人と比べる必要はないんです。私はなんでこんなことで心配になってしまうんだろうと自分を責める必要もない。ただイエス様はおっしゃる。人はいい、私を見なさい。私をもう少し信頼してくれてもいいのではないかっと。


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ8:32

私たちが自分ではなく主を信頼し、お任せする根拠がここにあります。イエス様はご自身の命を私たちのためにささげてくださった。命がけで愛してくださった。その証が十字架です。ですから私たちがじぶんの願いに、思いにしがみついて心配になるときに、十字架を思い出したいと思うんですね。そんな命がけで愛してくださる神様が私たちの人生一番良いものを下さらないはずがない。自分の人生を自分で握るのではなく、その愛ある力強い神の御手にすべてをゆだねたいと思います。


さて長らく語ってきました。まあもちろんこのメッセージ一発で心配が吹き飛ぶなんてことはないと思います。けれどせっかくですから少しエクササイズをして終わりにしたいと思います。紙とペンをお配りします。いいですか、隣の人のは絶対にのぞき込まないでください。ご自分が心配に思っていることを、箇条書きでいいのでかきだしていただきたいと思います。そして声に出しても出さなくてもいいので、今書き出したことについて祈る時間を少しとりたいと思います。一つだけ自分は何を握りしめているんだろうかということを思いめぐらせながら、それをゆだねることができるように祈りましょう。


何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ピリピ4:6-7


カレンダー

«7月»
 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31    

ブログ内検索

カテゴリーリスト

Copyright (C) ajccnz.cloud-line.com All Rights Reserved.