メッセージブログ

2024.02.04

燃える怒りの取り扱い方(マタイ5:21-26)

 

マタイ5:21-26


21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

マタイ5:21-22

 

まず21節の部分、「殺してはならない」は出エジプト記20:13と申命記5:17にある十戒の第6戒の言葉です。6番目の戒め。いやというよりそんな解説は別に必要はないほど、人を殺してはならないっていうのは当たり前の話ですよね。特に聖書を知らなくたって、それに対して「いや、そんなことはない!」という人はいません。今の時代世界のどこに行ったって基本的に殺人は犯罪で、さばきを受けます。でそこが一般的によく善人と悪人の境目として見られているのではないでしょうか。よく聖書の中の「罪」についてお話をすると、「自分は善人ではないかもしれないけれど罪人と言われてもピンとこない、人を殺したわけでもないし。」というようなことをおっしゃる方いらっしゃいます。

 

 けれどイエス様はそこで終わらない。続いて22節しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。イエス様はいきなりハードルをぐんっと上げてこられる。この中で人を殺したことがある人はいますかっと聞いて手が上がることはまずないでしょう。けれども人に対して腹を立てたことがある人はどうでしょうか、と聞けば間違いなく全員の手が上がるのではないでしょうか。もちろん人によって怒りやすさには個人差があるでしょうね。あるいはその怒りの表現の仕方もそれぞれじゃないでしょうか。特に日本人は、本音と建て前がありますので、キレて怒鳴り散らすっとか、暴力をふるうというケースは多くないかもしれません。そうではなくて、たとえば口論になるとか、もうちょっと陰湿になると陰口を言うとか、愚痴をこぼすとか。あるいは最近で言うと、もはや直接自分の怒りの原因とは関係なくても、自分の抱えている怒りのはけ口として、ネットで誹謗中傷、暴言コメントを書くだとか、いろいろあるかなと思います、ただどのような表現になるにせよ、いやもっと言うと外に出さずに自分の中でぐっとこらえて持っているだけだったとしても、怒りというのはイエス様曰く裁きの対象になるということですね。


 さすがに当時聞いていた人は驚いたことでしょう。殺してはならない。っという戒めは守っている、けれど腹を立ててはならない、そんなこと言いだしたら全員アウトではないかっと思ったのではないでしょうか。でここは非常に重要なポイントです。どれだけ自分は善人だとおもっていたとしても、イエス様の仰ることに真摯に向き合おうとするときに、いやこれ人間には無理だっということを知る。私にはできない、やっぱり罪がある、だからこそイエス様の十字架が必要なんだと。さて話を進めていく前に、押さえておかなければならないのは、怒り=罪ではないということです。この箇所さっと読んだらそのように読めてしまうかもしれません。けれどそうではない、なぜなら福音書見ていく時にイエス様ご自身が怒るシーンが複数回出てきます。自分のためにというよりはどちらかというと、人のために怒るシーンですが。ということは聖書において怒り自体は感情として罪ではなくニュートラルな位置づけになっているということですね。しかしながら人間が怒るとき、それは要注意です。何に対していかっているのか、何のために怒っているのか。ここですね。悪に対する怒りは逆に必要だったりするわけです。けれども怒りの取扱いをまちがえるとエライことになります。パウロもこのように言っています。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

エペソ4:26

怒っても罪を犯すなということは、怒りと罪は別物ですね。しかしながら、怒っている状態というのは非常に罪を犯しやすい状態になるということなのではないでしょうか。だから続いて「憤ったまま日が暮れるようであってはいけない」とあるのではないでしょうか。たとえ正当な理由があって怒ったとしても、そのままの状態に長い時間自分をおいてしまうと、罪を犯してしまう可能性がどんどん高まるっということです。


 さてマタイの福音書もどりますが。怒りを表すギリシャ語はパッと燃え上ってすぐ収まるものと、長く根に持つものの2種類があるそうです。で今日の箇所22節で使われているのはこの後者の長く続く怒り、でそれが問題だと。人への怒りが長く続くと、どうなるでしょうか。段々その人のいろいろなところが鼻につき、気に入らなくなって赦せなくなっていく。そしてその感情は言葉となって出てきますね。直接相手にぶつける言葉なのか、あるいは陰口、悪口となっててでくるのか。そこらへんが22節後半ですよね、兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。最高議会っというのは今でいうところの最高裁という感じでしょうか。燃えるゲヘナっというのは、っちょっと馴染みないかもしれませんので一応解説をしておきますとイスラエルにある実際の場所の名前になります。ゲヘナで意味としてはヒノムの谷。そこはかつて旧約の時代に忌々しい偶像礼拝が行われている場所でした。自分の子供を偶像にいけにえにとしてささげらる場所だったんですね。(2歴代誌なんかで出てきます)。ですから後に穢れた場所とされ、ゴミ捨て場になりました。そこでは常にごみが燃やされ文字通り火が絶えない場所になったんですね。で次第に神の裁きの象徴の場所として見られるようになった。まあですから平たく言って地獄です。陰口、悪口を言ったら最高裁で裁かれて、地獄行。ちょっとさすがに厳しすぎませんって思いますよね。

 

 けれどイエス様がおっしゃりたいのは人の持つ人に対する怒りというのは、私たちが思っている以上に危険だということです。怒りを持ち続ければ、持ち続けるほど、私たちの心はむしばまれていく、どんどん膨らんでいくんですね。そして最終的には「あんな奴いなくなればいい」というところまで行ってしまう。「自分の人生から切り捨てる」っていうこと言ったりしますよね。でその究極の形が殺人だと。その大元とになっているのが、実は私たちの中にある怒り。だから表面的にただただ殺してはいけないという律法をまもっていても仕方がない、その原因となる怒りをどうにかしなくてはいけないと仰っている。さてとはいえ冒頭でも言いましたように腹を立てない人間なんていないわけで、それほど怒りというのは私たちの日常生活に転がっています。腹を立てないようにするなんてことは果たして可能かってやはり思いますよね。


少し話がそれますが、パワハラが良く問題になる昨今、ビジネスの世界ではアンガーマネージメントという怒りと向き合う心理トレーニングがあるというのを耳にしたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。一般的にも怒りという感情の取り扱いについては気をつけなくてはならないという認識が広まってきているということでしょう。でその中で言われているのはそもそも怒りというのは二次感情だというんですね。つまり怒りが起こってくる、さらに深い層には、本来分かってほしい感情である『一次感情』がある。でその一次感情というのは、悲しみ、虚しさ、心配、寂しさ、苦しみ、焦り、罪悪感などなど人それぞれです。そしてそういう感情が底にあるがゆえに結果として怒りが表面化してくるそういう仕組みだそうです。インターネットで見つけた記事ではこのように説明されていました。怒りの感情が起こる様子は、火をつけるライターに例えることができます。ライターに火をつけるには2つの要素が必要で、1つは着火石、もう1つがガスです。ガス、つまり燃料は先ほど言っていた一次感情、苦しいと悲しいとか疲れたとかですね。でもう一つの要素、着火石つまり火種の部分は「~するべき」「~あるべき」という自分が普段信じていること、判断基準だそうです。人によっていろいろありますよね、文化によっても違うんじゃないでしょうか。夫はこうあるべき、妻はこうあるべき、上司はこうあるべき、仕事とはこうあるべき、挨拶はするべき、クリスチャンはこうあるべき、常識的にはこうだとか、当然こうでしょっと思っていること。でそういった自分の中にある「べき」が裏切られると、火花が散って燃料である一次感情に燃え移り、怒りが燃え上がるというそういう仕組みだというんですね



なるほど確かに振り返ってみますと、自分が余裕があるとき、リラックスしているときに怒ることはあまりないなあと思いますし。「~はこうあるべき」という考え方が強い人ほど、自分にも人にも厳しめで怒る傾向にあるのではないでしょうか。


最近まさにそれを実感することがありました。まあ昨年末からですね、右足の神経痛が再発しまして。基本起きている間はずっと地味に足が痛い、しびれがあるっという状態です。でこの図で言いますと結果常に燃料のところに「痛い」、あるいは「不安」、「このままでやっていけるのか」という思いがたまっている感じですね。でそんな時にちょっとしたことがきっかけで数週間前、妻と口論までいかないですけど、私が一方的に悪いんですが、勝手に怒ってしまったということがありました。でそのきっかけは別に大したことではなかったんです。けれどもどこかで妻には私のこの痛みの状況を理解してほしい、(いや十二分にケアしてくれてるんですよ)それでも私の方の甘えで「もっとわかってほしい」「もっとわかってくれるべきだ」っという思いがありました。それが火種になって痛みや不安に引火して、勝手に私のなかで怒りに変わったんだと思います。妻には申し訳ないなあと思います。同時に相手が妻以外の他の人だったら、そこまでケンカにはならなかっただろうなあとも思いますね。一方的な期待っていうんですかそういうものがあったから怒りになってしまった。


 でまあ私の話はいいんですけれども、アンガーマネージメントの世界ではこの火種と燃料をなるべく減らしてコントロールしましょうっというのが一つあるみたいですね。そもそもなるべくマイナスな感情、つまり怒りの燃料となる思いを増やさないように、適度に休息しましょうとか、自分をケアしましょうよとか。そして火種に関しては、自分の中にある「~するべき」「~あるべき」っというのは本当にゆずれないものなのか、しっかりと客観的に考えて本当に許容できないものとできる者を区別する、そのような訓練をするそうです。


 なるほどなあと読んでいて思いました。ある程度そのようなテクニックも役には立つでしょうけれども、やはり罪人あある私にはそういう人間的なテクニックだけでは不十分なのかなとも思うんですね。では私たちクリスチャンはこの怒りの火種と燃料にどう向き合うのか。まず燃料の方から行きたいと思います。悲しみ、虚しさ、心配、寂しさ、苦しみ、焦り、こういった感情をどするか。3つぐらいオプションがあるんじゃないでしょうか。①とにかく我慢する、耐える、日本人ぽいですねえ。どうでしょう結局限界が来てある日プツンと切れてしまうかもしれません。②人にシェアする、助けてもらう。我慢するよりはよさそうです、コミュニケーション大事ですよね。けれども人間には限界がありますし不完全です。だから結局勝手に裏切られたと思ってしまうのがオチじゃないでしょうか。③それらのマイナスな感情、思いを主のみ前に持っていく。神様苦しいです、しんどいです、痛いです、どうか私一人では背負いきれないこの重荷を背負ってください。(マタイ11:28)と主のみ前に思いを葛藤を注ぎだす。もちろんそれでインスタントにそれらの状況がよくなるとか、マイナスな感情がなくなるっということではないでしょう。それでも主の前にただただ自分の重荷を下ろすということは非常に大事ですね。


次に自分の中にある「~するべき」「~あるべき」という火種の方の取り扱いです。どちらかというとこちらのほうが重要なのかなと思います。人としてこうあるべきだ、常識的にこうだ、それぞれ皆さん持ってらっしゃる、言い換えればそれぞれの正義っていうんですか。聖書的に言うと人間の義ですね。人が本当に腹を立てるとき、自分が本当は悪いんだけどなんて思いながら怒っているということはほぼないですよね。自分が正しいんだ、相手が間違っている、そう信じているからこそ、怒るわけでしょう。正義と正義がぶつかる、だからこそケンカというか中互いというのは深く大きくなってしまうわけです。


 私たちはそれぞれ自分が正しいと思っている、それが怒りの原因のひとつなわけです。。けれども本当の意味で正義、義を持っているのはイエス様しかいないと聖書は言います・(ローマ3:10)私たちはどこまでいっても罪人で完全な正義なんて持ってないんですよね。ですから本当の意味で「こうあるべき」といえる権利をもっているのはイエス様/神様しかいません。だから相手に自分の義である「~するべき」「~あるべき」をぶつけるのではなく、それを十字架の前に持ってくる必要があるんですね。今日の箇所、個人的に非常に刺さりました。というのも私は比較的「べき」が強い人間だと自分でも思います。これはこうあるべきなんだ、こうするべきなんだ、そういうこだわりが強くて(妻にもよく指摘されるんですが)。もちろん間違ったことは、間違っていると主張する、コミュニケーションをとる、それらは大事です。けれど自分の持っている「~べき」自分の義というのは絶対ではないということを忘れてはならないなと思います。下手をしたら、律法学者のように勝手に自分で作ったルールをあたかも絶対的なものであるかのように掲げ、正義だと思っていないだろうか。そしてそれら自分がもっている「べき」はブーメランのように自分に返ってきます。最終的にこうあるべき、あああるべきなんだと他人ばかりではなく自分の首を絞めてしまう。その「~あるべき」をすべて背負って十字架にかかってくださったのがイエス様なんですよね。だからそのイエス様が十字架につけてくださったそれらの「べき」、自分の正義を勝手に自分でまた持ち出すのではなく十字架の前で主にゆだねる。裁くのは私ではなくあなたですっと、明け渡すということですね。


 さてとはいえ、これで怒りが完全に解決するのかというと、もちろんそうではないでしょうね。やっぱりそれでも腹は立つだろうし、ケンカも、いざこざも起こしてしまう。それが人間なのではないでしょうか。


ある牧師さんが、面白いことをおっしゃっていました。世の「怒り」の対処、いわゆるアンガーマネージメントの目標は自分の感情のコントロールであるのに対して、聖書の「怒り」の対処の目標はそもそも相手との良い関係づくりを念頭に置いていると。そこが圧倒的に違うっていうんですね。ですからそもそも腹を立てないというのがゴールではなくて相手との良い関係づくり、これが大事だと。なるほどなあと思いました。ですからイエス様は腹を立てるなと言うだけではなくして、23節以降実際に怒りで関係が悪くなってしまった場合、その後どうするべきかということを語ってらっしゃいます。26節まで読んでしまいましょう。


だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら、 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

マタイ5:23-26


これ注目していただきたいのは、23節以降はもはや怒りの感情、あるいは恨みを抱いているのは自分側ではなく、すくなくとも文面上では相手側だということです。23節兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、25節ではあなたを告訴する者とは、っと。つまり相手が怒っている場合のはなしをしているわけです。でその場合においても和解に向けて自分から動きなさいっとイエス様はおっしゃるわけ。「自分だけ怒りの感情をコントロール出来たらそれでいいわ、勝手に怒っておいてちょうだいよ」とはいかない。ではなくて、自ら仲直りできるように動きましょうということ。これがどれだけ大事なのかということが、23節-24節から伝わってきます。供え物をささげようとしているときに、恨まれていると思いだしたなら、供え物は置いて仲直りをしに行けと。つまり神様の礼拝よりも、人間関係が大事だということではなくして神様との関係(縦の関係)と人間関係(横の関係)両方良好ではじめて礼拝が成り立つということですね。赦せてない相手がいるのに、神様を礼拝しても意味がないよっと。でもう一つ、供え物を備えるの場所はどこでしょうか。エルサレムですね、で今イエス様がこのメッセージを語られているのはどこか、ガリラヤです。距離にして歩いたら2日ほどかかる。エルサレムで「アッ私恨まれている」と思ったら2日かかって戻って、仲直りして、また2日かけてエルサレムに帰ってきて礼拝をする。いやそんなコスパのわるいっと思ってしまいますが。それぐらい和解するということは、最優先なんだとイエス様はおっしゃっているということですね。


 さてではどのように和解すればいいのか、さらっと仲直りしなさいと書いてありますが、そんなに簡単じゃあないですよね。特に相手側の怒りが持続している場合どうしたらいいのか。でまあ答えはシンプルで、自分の悪かったところは謝る、そして相手を赦す。これしかない。まあ口で言ったらシンプルなんだけどこれが難しい。難しいですね。大人になればなるほど難しいんじゃないでしょうか。自分が正しいと思っているから


ここでも重要になってくるのはが、やはり自分の中にある「べき」、自分の義、正義の取り扱いなのではないか。なぜなら自分に正義があると思っているうちは、自分から和解のために動くのは難しいです。和解するということは、自分側の非は認めて謝るということを避けては通れません。もしかしたら相手が9割悪いのかもしれない、けれども、相手に対してきつい言い方をしてしまった。悪口/陰口を言ってしまった。あるいは心の中でそのようなことを思ってしまった。それら含めて100/0で自分が正しい、相手が全て悪いということはおそらくないでしょう。ですからここでも自分の正義、をイエス様の十字架の前にもっていくっということが大事です。自分が正しいと思っているそのことは言ったんイエス様にお預けする。そして私たちは自分のちっぽけな正義を十字架の前に持っていく時に気づくんですね、圧倒的に大きく完全な正義を持ってらっしゃるイエス様が、まず私たちを赦してくださったということに。十字架の上で「父よ彼らをお許しください」っと100/0で悪い私たちのためにイエス様は祈ってくださいました。


 そうして自分は赦された者なのだ。っということに目を向けるとき、本当の意味で自分には正義がないということを私たちは知り、相手を赦す。自分の悪かったところは認め和解へとアクションを起こすことができるのではないでしょうか。


さてとはいえ、とはいえ、和解のため自分から動けばすべての人間関係が修復されるのかっというと、もちろんそうではない。自分が相手を赦し、自分の非を認めたとしても相手は怒ったままということは現実的にあるでしょうね。また和解するということは、イコール元の関係に戻るということでもないでしょう。ローマ人への手紙にこのようにあります。


だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。


ローマ12:17-18


自分に関する限りとあります。相手の反応までコントロールはできません。問題は自分側の責任として、できうる限り和解にむけてのアクションをとるということ。そして後は主に委ねる、ということです。


どうでしょうか、皆さん人生振り返っていただいて、赦せていないなあとか、逆にあの人に謝らなきゃなあというかた、頭に浮かぶでしょうか。赦すって、謝るって難しいですよね、難しいです。ほぼ不可能。自分の力だけではできません。だから十字架が必要で、主よどうか私が自分が赦されたように、人を赦すことができるようにしてくださいと祈りたいと思います。


 まとめに入ります。皆さんご自身が、イライラしている、怒りにとらわれているっということに気づいたなら。まず自分はなぜ怒っているのだろうかということに目を向けていただきたいなあと思います。悲しいから怒っているのか、苦しいから怒っているのか、心配だから、不安だから、恐れているから怒っているのか。そういった怒りの燃料になる、マイナスな一次感情、重荷を自分で頑張って背負うのではなく、是非一緒に背負って下さっる主のみ前に注ぎだしてください。そして自分の中にある義、「~するべき」「~こうあるべき」っというちっぽけな己の正義を、十字架の前にもっていくということ。そうするときにイエス様がまず私たちを赦してくださったんだということを知り、相手を赦し、自分もごめんなさいと言えるようなるのではないか。主がその力を与えてくださるようお祈りしたいと思います。


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