メッセージブログ

2024年05月

2024.05.26

傲慢という病と 試練という治療薬(ダニエル4)

 

ネブカデネザル王が見た夢はどういうものだったのでしょうか。さっそく夢の内容を見ていきたいと思います。10-17節の部分になりますが長いので夢の前半は私の方で要約させてください。

まずものすごく巨大な木が王様の夢の中に登場します。その木の高さは天に届くほどで、地の果てのどこからでも見えるほどでした。そしてただサイズがでかいだけでなくして、その木は豊かに実り、あらゆる動物を養っているそんな木でありました。っとここで夢は終わりません、後半はちょっと聖書を実際に読んでいきましょうか

ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。その心を、人間の心から変えて、獣の心にそれを与え、七つの時をその上に過ごさせよ…

ダニエル書4:13-16

 さてこの夢を見たネブカデネザル王は、この夢を見て恐れおびえてしまったっと5節にあります。そしてどうしたか、呪法師、呪文師、星占いたちを集めて夢の意味を聞き出そうとします。けれど残念ながら彼らには解き明かしができませんでした、結果ダニエルが呼ばれます。ここまでの流れ、ほぼ2章と同じですよね。

 ここで少し思うのは、「いや最初からダニエル呼んでよ」ということです。2章であれだけの解き明かしをして見せたダニエルを真っ先に呼べばいいじゃないっと。けれど性懲りもなく、ネブカデネザルは、呪法師、呪文師、星占い、まあ当時で言う王の相談役、を集めます。つまりこの世の知恵に頼ったということです。2章で経験したことから何も学んでないではないかと私たちは思います。けれど同時にどうでしょうか、私たちもまた人生で何か問題が起こるたびに、まず祈るではなくして、まずネットで情報を集めるっという流れになっていないでしょうか。最近AIも話題になっていますが。近しい未来には、祈る前にAIに聞くなんて言う時代がすぐそこまで来ているかもしれませんね。とこのように世の知恵、情報っというものは力があるように見えてしまうもので、考えさせられます。

 さて話を戻しまして、ではこの夢の意味は何だったのか。ダニエルの夢の解釈、解き明かしが20節から始まっていきます。ここも長いので前半は私の方で説明して後半の部分は聖書を開くという形にしたいと思います。まずダニエルは率直に「その夢に登場した巨大な木はあなたです。」と王様に伝えます。この4章の出来事いつ頃の話かというと、おおよそネブカデネザルの統治の晩年だったのではないかと言われています。飛ばして読みませんでしたけれども、ちょっと4節ご覧になっていただいて。

私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき

ダニエル4:4

私の家で気楽にしており」とありますがこれ別にリビングでコーヒーを飲んでた、とかそういうことではないんです。意味合いとしては、もうかなりの領土を征服しきって目立った戦争がなく平和な状態だったということです。つまりかつて彼が抱いていた、偉大な王国を建てあげるという野望が実現した後ということですね。2章の時にもやりました、ネブカデネザル王の時代にバビロンは当時世界で最も富と力のある国となったということが歴史的にわかっています。ですから文字通り、世界で一番巨大な力のある国を建てたあなたはその巨大な木です。っとダニエルは言います。ここまでは特に解き明かしが必要ないくらい誰にでもわかるんではなかなろうかと思います。しかしながら問題は天の御使いが来て、その木が切り倒されてしまうっという夢の後半ですよね。

その部分の解き明かしが24節から始まります。ここは聖書を開きたいと思います。

王さま。その解き明かしは次のとおりです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。(24-25節)

木が切り倒されるということは、ネブカデネザル王に起きる神様の裁きだというんですね。じゃあそれは何に対する裁きなのか、それは明白です。25節の最後のところ、このことによって「あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国を御心にかなうものにお与えになることを知るようになる。」つまり王の傲慢、プライド、自分の力、栄光ばかりを誇っている心に対しての裁きだというわけです。では具体的にどういうことがおこるのか?人間の中から追い出されて、獣のような生活をするとありました。はて?これは何かの例えなのかと思いきや、文字通りのことが起こります。33節

彼は(王様は)人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり爪は鳥の爪のようになった

ダニエル書4:33

実際にボアンソロピー(Boanthropy)と呼ばれる精神疾患が現代でも報告されているそうです。どういう病かというと、もう自分は人間じゃなくて動物なのだと思い込んでしまうという精神病です。ネブカデネザルもそれに侵されたのではないか、そして実際に野で生活するようになり、髪の毛も爪も伸びっぱなしで見た目まで動物に変わっていった。そんな状態になってしまえば、偉大な国の王でもなんでもありません。当然国を治めるどころの話ではない。いやそれどころか人間以下です。パンパンに膨れ上がった王様のエゴか砕かれる、そんな裁きでありました。一つ救いがあったのは、傲慢になったネブカデネザルを神様が完全にほろぼされるということではなかったということですね。26節

ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。

ダニエル4:26

つまり悔い改めて謙虚になって、主こそが、神様こそが、真の支配者であるということを認めれば再び国は固く立ちます。っとそういう救いのある内容でした。だからこそダニエルは裁きが下らないように誠心誠意王様に進言します。27節

それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。

ダニエル4:27

結果どうなったのか。残念ながら結局ネブカデネザルは悔い改めることなく、裁きが下ります。先ほど33節でみた通り、王は獣のようになり、人間以下の生活をするようになります。

っとまあ大筋のあらすじをおってきましたが、ここまで見てきますと冒頭でも申し上げたように2章と非常に似ているのがお分かりいただけると思います。そして似ているのは、話の流れだけではなくして夢を通して語られているテーマも非常に近しいものがあります。それは、主を支配者として王として認めるのか、それとも自分が王なのか。そういうテーマです。覚えてらっしゃいますでしょうか、自分の人生の王座に座っているのは自分なのか、神様なのかということを2章のメッセージでやりました。


 でですね、まあこれは説教者としての都合なので、皆さんには関係ないんですけど。ぶっちゃけ、私はえ?また同じようなメッセージになってちゃうじゃん。っとこう思ったわけです。けれどまあ考えているうちに思いました。いやそれこそが重要なポイントなのではないか。つまり新しい内容では別段ない、中心的なメッセージはかわらない、繰り返しと言ってもいいかもしれない。まさに繰りかえしです。けれど問題はなぜ繰り返されているのかということ。

 ネブカデネザル王が夢を見て、その意味を知りたいというところから、4章は話がスタートしました。つまりネブカデネザルが求めていたのは、知識、「もっと知りたい」ということだったんですよね。で最終的にダニエルが夢の意味を解き明かしをしその夢の意味を「知る」ことができた。しかしながら解き明かしが本当に必要だったのかというと、どうなんだろうかと思わざるを得ません。先ほどお読みしませんでしたが、夢の内容を説明しているシーンに戻っていただいて16節の次17節

それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。(17節)

これ王様本人がダニエルに夢の内容を語っているシーンです。いやもうほとんど、夢の中で夢の意味が明かされてるではないか?っとつっこみたくなります。へりくだって神様を、主を認める。はたから見れば語られていることは明らかだろと思います。しかしながらネブカデネザルにはそれが見えていない。なぜか?でそれは、ネブカデネザルに必要なものは、知識ではなかった、新しい情報ではなかったからです。

ちょっと振り返ってみたいと思います。いいですか2章ではダニエルの夢の解き明かしによって、王様はこんなことができる神はダニエルの神以外いないとほめたたえ(2:47)3章では、先週やりましたね、シャデラク、メシャク、アベデネゴが炎の炉から救い出されたのを見て「このように救い出すことのできる神は、ほかにいない」(3:28)と本人が言ったわけですよ。さすがにネブカデネザル王は心を入れ替えるのではないか。っとこうダニエル書を読んでいる私たちは期待するわけですよね。けれど相も変わらず、主の前に遜ることはなく、自分こそが偉大な王であるという傲慢な態度を持ち続けるネブカデネザルがいます。そして今回4章では三度目の正直だっと言わんばかりに、神様の前に遜りなさい、というメッセージがもう直接にダニエルの口を通して語られます。(27節)悔い改めてください王様と。でどうなったのか29-30節

十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」

ダニエル4:29-30

まず注目すべきは、出だし「12カ月の後」、つまり裁きが下るまでそれだけの猶予が与えられたということです。正確に言うと12カ月どころではないですよね、2章から始まって長いこと、主はネブカデネザルの傲慢を裁かず、あわれみ深く忍耐深く待ってくださった。ダニエルを通して悔い改めるようにと忠告もした、にもかかわらず、彼の口から出てくる言葉は、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。私、私、私、どこまでいっても私の人生。これこそが傲慢という、プライドという、霊的な病です。

ネブカデネザルに知識は十分にありました、主の御業も見た、もう充分「知って」いました。にもかかわらず彼の心の姿勢は変わることはなかった。つまり信仰というのは知識だけでは不十分だということです。先ほどこの世の知恵に頼るのではなく祈りが、御言葉が大事だっという話はしました。まあだからこそ、このように毎週礼拝では聖書からメッセージをし、聖書を読みましょうねと皆さんにお勧めしています。しかしながらその目的が何か新しい情報を得る、つまる「知る」というところだけにとどまってしまうなら意味がない。御言葉を通して、心の姿勢が変えられ、生き方が変えられていかなければ意味がないんですね。

 残念ながらネブカデネザル王の場合、神様のことを「知る」ということだけでは心を入れ変えるまでには至りませんでした。それほどにこの傲慢というもの、プライドという霊的な病は根深い、そして何より本人が気づきにくいものなんですね。さてだとすると私たちはどうでしょうか。私たちも知らず知らずの間に、この傲慢という病が心に根を張ってしまうということはないでしょうか。それに対して「いやいや私はそんな、ネブカデネザルみたいに大成功を収めているわけではないし、所詮庶民だし、俺はすごいんだっと言って誇って傲慢になることはないですよ。」っそう思われる方も多いかもしれません。特に日本人はおそらくそうですよね。控えめ、謙虚っていうんでしょうか。けれども傲慢というものは成功者だけが抱える問題ではないのではないかと思うんですね。

そもそも傲慢、プライドのエッセンスはなんでしょうか?それはネブカデネザルの言葉に良く現れていました。私の権力、私の威光、私が建てた、私、私、私、どこまでいっても私の人生。でこれは人生がうまくいっているとき、つまり成功しているときの症状は割とわかりやすいです。まさにネブカデネザル王のように、私の功績を見てくれ、私がこれだけ良いものに囲まれているのは、私が頑張ったからだ。まあそれを口に出すかどうかは別として、そのように心の中で思っている状態という感じでしょうか。

では物事がうまくいっていない時、プライドはどのような形で表面にあらわれてくるのか?でそれは、愚痴とか、妬みとか、時には鬱、落ち込みっといった形で表面化します。「なんで自分の人生はこうなんだろう」「なんで私だけこうなるんだろうフェアじゃない」「どうせ自分の人生はもうだめだ」っというそういう思い。いやいやこれらのマイナスな思いのどこが傲慢なのかと、思われるかもしれません。しかしながらこれらの思いを掘り下げていくと、そのおおもとに実は、「自分はもっと良いものを受ける資格がある」っという思いがあることに気づきます。なぜなら本当に心底自分が嫌いで自分の人生などどうでもよいと思っているなら、人は落ち込まないからです。現実と理想、つまり本来こうあるべきだと思っているものの間にあるギャップに人は苦しむんですよね。

 さてではこの根深い霊的な病、傲慢、プライドはどのようにしたらとりのぞくことができるのか。どのようにすれば、表面的にだけではなく、本当に心からへりくだり謙虚になることができるのか。 

ネブカデネザル王に必要だったのは、聖書の学びではなく端的に言って試練でありました。遜ることのなかった王様は結局裁かれて、獣のような姿になり、人間以下の生活をすることになりました。そして7つの時が過ぎたと32節に書いてあります。これが具体的に7カ月だったのか7年だったのか、それはわかっていません。まあ重要なのは実際の長さよりも、その数字が持つ意味です。ユダヤ人にとって7というのは完全数、つまり完成するという意味合いがあります。じゃあ何が完成するのか、それはネブカデネザルの悔い改めです。言い換えると「7つの時」とはネブカデネザルが悔い改めるのに必要な年月という意味ではないかと言われています。ここも重要なポイントですね、悔い改めるには時間がかかるということ。何かレッスンを学んですっと心が変わるならば、そもそも試練はいらなかったでしょう。人の心が変わるには時間がかかります。

 そうしてその期間が終わった時34節

その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。

ダニエル4:34

ネブカデネザルはついに天を見上げます。あの傲慢に満ちて全てを見下している状態から、見上げる。自分の目線が、私、私、私と自分にばかり向いていたのがついに神様を見上げるようになる。これが遜るということなんですね。

皆さんもどうでしょうか、霊的に成長したのはいつですかと聞かれたらどのようなお答えになるでしょうか。教会でバイブルスタディをしていて、あるいは説教を聞いていてっという話にはあまりならないのではないでしょうか。やはり帰ってくる答えは、病気をしたときにとか、人間関係で問題を抱えていた時にとか、仕事で悩んでいた時にとか、将来や進路で悩んでいた時にとか。そのような話を聞くことが多い。でそれはやはり試練というものを通して、ある程度の時間をかけて、自分のプライド、傲慢というものが砕かれてはじめて私たちは遜り、霊的に成長するということが多いからだと思うんですね

 かくいうわたしもこのネブカデネザルの物語は読むときに他人事とは思えない。いや俺はすごいだろっというそっちの傲慢はおそらくほとんどないと思います。どちらかというと自分には自信がないタイプです。しかしながら、自分の人生に納得がいかず、落ち込むっというそっち方面の傲慢さというものは長いこと抱えていました。一応過去形にさせてください、まだ完全に治ったわけではありませんが、少しはましになったのではないかと思います。もう何度もメッセージでシェアさせていただいていますが、私は5年前NZに移ってくる前、日本で生活をしていました。そのころの私はずーっとこの傲慢という病に憑りつかれていたんだなっということを今振り返って思います。当時私には理想というものがありました、日本の社会で立派にクリスチャンとして生活する、ある程度社会的にも成功したい、経済的にも安定したい、結婚をして家族をもってっと。いやもちろんそれらすべてが叶うなんてことは思っていませんでした。けれど思い描いたものが何一つ実現しないまま35歳をむかえた私は、静かに自分の人生に絶望していました。「どうせ自分の人生はだめだ」っというそういう思いに憑りつかれていたんですね。そしてその根っこの部分には「もちろん完璧ではない、けれどそれなりに努力してきたじゃないか、自分はもっと良いものを受ける資格があるんじゃないか」っという思いがあったのだと思います。そんな鬱っぽい状態の私を心配して、父がこのような事を言っていのを覚えています。「感謝できることを書き出してみたらいいんじゃないか」っと。非常に知恵ある言葉ですね。傲慢に対する良い薬は確かに感謝だと思います。しかしできませんでした。「感謝だって?どこに感謝することがあるんだ?」っと当時思っていました。これを傲慢と言わずして何というのでしょうか。っとまあ獣のような生活を強いられたわけではありませんが、そのような心の状態で何年も過ごした。次第に私のプライドは砕かれ、主に委ねてNZに来たのが5年前っとそういう感じです。ではNZに来て心の姿勢がすぐ良くなったかと言うと、それでもなかなかこのマイナス思考というのは抜けませんでした。けれども時間をかけて主は、妻を与えて下さり、息子を与えて下さり、この至らないものに牧師という役目を与えて下さり。最近やっと、ふと心から自然に感謝だなあと思うことがあります。

 逆に思います。日本で自分の理想とする人生がかけらでも手に入っていたとしたら、いまでも自分は傲慢という病を患ったままであったろうなと。長い試練の時があり、はじめて、ああ自分の頑張りで人生をどうにかするのではなく、すべては主が与えてくださるものなのだ、受ける資格があるとか、どうとか、そういうことではないのだなと、まあ少しは思えるようになったんだと思うんですね。

遜るということは、すべては主からの贈り物なのだということを信じることなんだと思います。自分の人生がうまくいっているのであれば、自分の頑張りではなく、主が与えてくださった祝福に感謝し、試練に会うのであれば主が何か自分に語り掛けておられるっという見方で受け取る。なかなか難しいですね。特に試練の真っただ中にいるときそれは非常に難しい。けれどそのくらいトンネルを抜けるときに、その先には喜びと賛美が待っている。悔い改めた後のネブカデネザルにそれを見るうことができます。

 ネブカデネザル王は天を見上げ、理性が戻ると、ダニエルが言った通り王国もその手に戻り、何なら以前より栄えたと36節にあります。全ては元通り、けれどネブカデネザルは自分の王国が自分の力で建て挙げたものではなく、主より賜った、与えられたものだということを試練を通して、頭ではなく心で深く学んだんですね。で実は4章冒頭戻っていただいて1-4節を読むと、この顛末を語っているのはネブカデネザル本人だということがわかります。自分が経験したことを思い出しながら王様本人が証を語っているという具合です。注目するべきは2節、

㉑いと高き神が私に行われたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。

ダニエル4:2

真にへりくだる心を学んだネブカデネザルはもはや自分の栄光ではなく、主の栄光を伝えるものへと変えられました。でなにより「私の喜びとする」というところ。遜るものの心は、賛美と感謝と喜びで満たされます。そしてそれはこの世のどんな富、権力、名声にも代えがたい。

皆さんどうでしょうか、ご自身の心をご覧になって、賛美と感謝と喜びがあるのか、それとも、傲慢、自分の力でどうにかしなくては、あるいは自分の人生はダメだという苦々しい思いがあるのか。もし傲慢という病が芽を出しつつあるなら、やはり十字架を思い出していただきたいなあと思います。ネブカデネザルとは対照的に、すべてを捨てて自ら遜り、この地上に来てくださったイエス様。そしてそのイエス様の十字架のゆえに、私たちは受けるに値しない救いを与えられました。そして救いだけではなく人生の全ては恵、与えられたものなのだということを十字架に見出だしていただきたい。さてとはいえ、試練の真っただ中でそのようなこと思うのは難しい。さきほどもいったように心が変わるには時間がかかります。けれど焦る必要はない。なぜなら主は忍耐強くネブカデネザルに寄り添ってくださったように私たちにも忍耐強く寄り添ってくださるに違いないからです。


2024.05.12

人の王国、神の王国(ダニエル2)

 

2章に入っていく前に少し、ダニエル書の舞台となる時代背景についておさらいをしておきましょう。時は紀元前600年ごろになります。当時イスラエル、ユダ王国はどうのような状態にあったかと言いますと。まあ端的にいって外国に侵略されてしまいます。長い間にわたって預言者を通じ、神様はユダ王国に罪を悔い改めるようにと警告したにもかかわらず、イスラエルは罪を偶像礼拝を辞めることはありませんでした。そうしていよいよ主の裁きがくだり、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。結果民衆は捕囚としてバビロンに連れて行かれます。これがいわゆるバビロン捕囚というやつでして。まあ無理やり移住させられるというやつですね、バビロンの政策としては故郷から民を切り離し、バビロニアまで連れてきて、そこの生活に慣れ親しませて、気づけばいつのまにか祖国のことを忘れている。そういう取り込み方っというんでしょうか、そのようにして反乱が起きないように手なづけるといいますか、そのような政策をとっていました。


 そのバビロン捕囚、強制移住を経験したのがダニエルと彼の友人3人、シャデラク、メシャク、アベデネゴですね。彼が異国の地、異郷の地、で自分たちの信仰と信念を全く理解しない社会の中でどのように生きていったのか。それが描かれているのがダニエル書の前半になります。先週は王の側近になるべく様々なトレーニングを受ける彼らの前に、並べられた王のごちそうを自分の信仰と確信のゆえに、食べないという決断をし、それでも主は彼らを守られたということを学びました。でそれはですね、ダニエルはただ、この異教の世界、異国の地のすべてに足して何も考えずに「NO」と言ったということではなく、積極的に置かれた環境で異国の文化、学問を学びつつも(まあだからこそトップの成績で卒業したわけです)、これは信仰的に譲れないというものには、謙遜にしかしはっきりと「No」ということができたということを学びました。流されるでもなく、ただ自分の殻に閉じこもるでもなく、しっかりとおかれた場所で根を張り、積極的にかかわりながらも、妥協しない生き方。まあこれがダニエル書前半のメインテーマとなっています。


 ですからダニエル書を読むときに私が思い出すのは、かつて15年ほど前NZ留学をおえて日本に帰国した時の自分です。私はNZでクリスチャンになり、聖書の学校に通って日本に帰国し就職しました。日本人なので、日本が母国であるにもかかわらず、NZに長くいすぎたせいでもはや日本の社会は私にとって異国でした。逆カルチャーショックというやつですね。加えて、日本のクリスチャン人口は1%以下。信仰面でのチャレンジもたくさんありました。私はとにかくこの新しい環境に慣れなければ、それに必死でした。そうしていく中で気づけば、聖書を読むこともなくなり、祈ることも減り、なんだかんだで仕事はとかお金はとか、そういう価値観に流されている自分がいました。私の場合は、世の価値観に流されるという結果になりましたが、一方で逆のパターンの話もまわりで聞きました。つまり自分はクリスチャンだからと言ってほとんど教会以外の人とは関わらないとか、教会のことはまじめにやるけれど仕事は適当だとか、地域の活動には全く関わらないとか。まあこれは世界から自分を切り離してしまうという逆パターンですね。ダニエルは、流されず、切り離さず、逆に信仰に固くたち、周りに影響を与えるそんな人生を歩んでいきます。

 

 でもちろん今私たちが生活をしているのはNZなので日本よりはクリスチャンとして生活しやすいと思います。信仰に対する理解、あるいは周りのクリスチャンの数、そういった意味でバビロン感はそこまでない。けれどまあ私以外は、皆さん基本的には教会の外で仕事や生活をしておられるわけで、なんだかんだNZもクリスチャンの国ではないわけですよね。この世で信仰を持ちながら生活していくにあたってこのダニエル書が語り掛けるメッセージは大いに学べるポイントというのがあると思います。前置きだけで5分以上しゃべってしまいました。

今日の箇所は2章ということで49節までありますので非常に長い箇所になります。当然全部を朗読しているとかなり時間がかかってしまうので、全体を要約しながら、必要なところだけ読んでいくという形にしたいと思います。できれば皆さんお時間のある時全部読んでいいただきたいと思います。


ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。

ダニエル書2:1


バビロンの王ネブカデネザルが夢を見て眠れないというところから話がスタートしていきます。皆さんどうでしょう、寝つきは良いほうでしょうか?私悪いですね。まあとにかくすっと眠れることのほうが少ない。どこでもかしこでもふっと寝れちゃう人うらやましいなあと思います。まあそういうもともとの性質で寝付きにくいということもありますし、単純に日本の夏とかめちゃくちゃ暑くて眠れいないとか。眠れない理由はいろいろあります。しかしながら人が眠れない理由の上位にランクインしてくるのは心配事や不安ではないでしょうか。でどうやらネブカデネザルが眠れなかったのもそれが理由だったようです。夢を見てそれが気になって眠れないと。


 さてどんな夢だったのか?その内容がわかっていたほうが話が入ってきやすいと思いますので、ちょっと飛びまして31節から35節までを読んでしまいたいと思います。この後いろいろありましてダニエルが王様に夢の内容を話しているシーンですね。


王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。 その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。


ダニエル2:31-35


当時夢というものは非常に重要な神様からのメッセージあるいは預言、予知そういった意味合いがあるものとされていました。で1節見ていただくと、いくつかの夢と書かれている、つまり複数形。おそらく何度も同じ夢を見たんでしょう。それは気になりますよねえ。


ですから2-3節その夢の意味を知りたいということでネブカデネザル王は、呪法師、呪文師、呪術者、つまり知者と呼ばれる国のトップのインテリを集めます。すると集められた相談役たちは言うわけですね。「もちろんです王様、でその夢というのはどういうものだったのでしょうか」それに対して王様はいや夢の解釈だけならば適当なことを言ってごまかしてお前たちは時間稼ぎをするにちがいない、夢の内容まで言い当ててこそ、その解き明かしを信用することができる。もしそれができれば、多大なる褒美を遣わすし、できなければ手足を切りおとして、お前たちの家を滅ぼしてしまうぞ」っと。怖いですねーいやですねーこんな上司がいたら会社即辞めますね。まあでも王様ですから、それくらいのことできてしまうわけです。さすがの部下たちも食い下がります、11節


王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。

ダニエル2:11

人間には無理ですってという言い分ですね。もう必死です、命がかかっていますから。けれど王は赦してはくれません。無理ならもう連帯責任だと言わんばかり、ネブカデネザルは12節怒り、バビロンの知者すべてを滅ぼせという命令を出します。 全ての知者ということは、先週見ました一生章で王に仕えることになったダニエルも当然そこに含まれてくるわけで、ピンチが訪れます。さあここからどうなっていくのか。


王はなぜこれほどまでにめちゃくちゃな命令をだしたのでしょうか。当時の文化背景的に夢は非常に重要な意味をもっていた、だから夢の意味が気になるのはわかります。しかしながら、それがわからないからと言って怒り狂うほどのことか、それも国中の知識層を滅ぼしてしまうほどに。何がそんなに彼を悩ませたのか。

ここでですね皆さん想像していただきたいんですが、ネブカデネザルの気持ちになって考えてみたいと思います。彼には野望がありました、この世で最も偉大な王になるという野望です。っとそんなことは聖書には書いていません。しかしながら歴史を見ればですね、バビロニア帝国はネブカデネザルの時代に最も栄えたということがわかっています。権力・富ともに当時ナンバー1だった。しかしながらダニエル2章の段階では1節にありました、彼の治世の第2年ですから。まだこれからですね。これから自分は巨大な王国を建てあげていくのだという野望、強い願いを持っていたに違いありません。そんな中、あの巨大な像が壊されるという夢を見るわけですよね。ですから何と言いましょうか、ネブカデネザル、夢を解き明かしたいと言いながら、なんとなく夢の意味わかっていたんじゃないのかなと思います。きっとこの壊される像は自分なのではないか、あるいは自分が築き上げてきた、そしてこれから築き上げていこうとしている自分の王国のことをさしているのではないか。そのような一抹の不安が、どんどん膨らんでいった。だからこそ不安になって、心配になって眠れず、自分のもっているあらゆる権力をもってしても何もできないことにいら立ち、怒り狂ったのではないでしょうか。加えていうなら、この後3章では、実際文字通り黄金でできた像をネブカデネザルは自分のために作るんですよね。ですからこの夢に出てきた像と自分を重ねていてもおかしくないかなと思います。


でその姿を見て私たちは思うわけですよ。ああやっぱり権力って人を狂わすのね、クレイジーな王様と。けれどこのネブカデネザルの姿は、程度は違えど私たちの姿なのではないかなと思います。もちろん皆さんには、世界で一番の王になりたいという野望を持っている人はいないでしょう、王国を建て挙げていくという使命を持っている人もゼロだと思います。しかしながら、自分の人生を王国と置き換えてみれば、少しはネブカデネザルの気持ちがわかるのではないでしょうか。理想像と言ってもいいかもしれませんね。この仕事に就きたい、家を買いたい、結婚したい、家族がほしい、お金持ちになりたい、いい環境の職場がほしい、ビジネスをしたい、はやめにお金をためてリタイアしたい、夢をかなえたい、美人でありたい、経済的な安定とそれぞれ人生においてこうありたい、これは欲しい、というものはそれぞれかなあと思います。そしてその思いが強ければ強いほど、もしかしたらそれがかなわないのではないかと思わせる何かが起こった時に不安になったり、心配になったり、時には眠れなくなるということがあるのではないでしょうか。


あるいは、ある程度年齢を重ねるとこれからの人生に関しての夢というよりは、今まで気づき上げてきたものの心配ということもあったりするかもしれません。ネブカデネザルもこの夢を見た時点である程度の成功をおさめ、富も力もありました。けれどもそれがもろくも一つの石によって崩されるという夢を見る。そりゃあ不安になるでしょう。私たちも自分が気づき上げてきた人生、キャリア、貯蓄、家庭、人間関係、それらが失われるかもしれない、そういうことが起きるときに不安になり、心配になり、眠れなくなり、何ならネブカデネザルのように、常にイライラしてしまうということがあるのかなと思うんですね。


さてここでついにダニエルの出番です。ダニエルは、王様に少しの猶予を下さいというと、帰って祈り。主が夢の内容と解き明かしをビジョンの中でダニエルに示してくださいます。ダニエルは感謝と賛美をささげて後、ネブカデネザルの前に出ていき夢の内容と解き明かしを説明します。36-45節あたりのところですね。夢の意味とはどんなものだったのでしょうか。ここもかなり長いセクションなので要約しながらいきたいと思います。


38節後半から40節をまず読みたいと思います。

あなたはあの金の頭です。あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。

ダニエル書2:38-40


まずダニエルはネブカデネザルにあなたは夢に出てきた像の金の頭です。と伝えます。つまり金の頭はバビロンだと、そしてその後で3つの国がおこる、銀、青銅、鉄っといふうに移り変わっていくというんですね。そして41節からはこの第4番目足の部分にあたる鉄の国の詳細が説明されます。全部読むと長いので割愛させてください。


そして注目すべきは44節-45節


 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅しています。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。

ダニエル書2:44-45


最終的に夢に出てくる像を壊す原因となる石は、神様によって建てられる国だと。つまり人間の国々を滅ぼす神の国が、人間の手によらず神様によって建てらえる。そしてその神の国は永遠に立ち続ける。これがダニエルによる夢の解釈でした。


はい、で良く説教ではじゃあこの4つの国は実際どの国なのかっということをまあ世界史と照らし合わせながら見ていくということをしますよね。ネブカデネザルの国、つまりバビロンが金の国ということは、その次に覇権をとるメディア・ペルシャが銀の国、でその次に出てくるアレクサンダー大王率いるギリシャが青銅の国、そして四番目の鉄の国はローマ、鉄の国と言うだけあって一番強いのだけれど、結局分裂してしまう。一部が鉄で一部に土が混じっているということもそのこととマッチします。とここまで見て、さすが神様、未来まですべてを見通して居らえる方。とまあそういう具合に説明されることが多いと思います。そして実際に、第4の国ローマ帝国の時に、イエス様が表れてこうおっしゃる。時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)だからイエス様が人の手によらない神の国をもたらす石だと、まあね、処女マリアから生まれるわけで、そういった意味でも人間の手によらずにこの世に来てくださる石ですよね。


もちろん、この解釈は間違いではない。正しいと思います。ここまできれいにマッチすると気持ちいいなあと思いますし。やっぱり聖書はすごい、正確に書かれているんだと胸を張ることができるかなと思います。そういった意味で意味はある。


しかしながら、じゃあこの夢をみたネブカデネザルはそんな先のことまで知る必要があったのかと言うとどうなんでしょうか。注目すべきは29-30節ダニエルが夢の内容と解き明かしを始めるシーンです。


王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。この秘密が私にあらわされたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。

ダニエル2:29-30


29節後に起こるをあなたにお示しになったのです。まあですから未来の預言であることは間違いない。しかしながら30節この秘密が私に表されたのは、、、、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためですつまりこの夢を通して神様はネブカデネザルに何かを語っておられる。単なる未来予知だけということではない。じゃあネブカデネザルの心にあったものはなにか?それは偉大な国を建てあげるのだ、自分が最強の王になるのだという野望とそれに伴う不安だったのではないかという話でした。


さてこの夢が単なる未来予知だけではないとしたらこの夢が持つ意味とは何か?また私たちはこの夢の意味をどのように受け取ったらいいのでしょうか?


夢の意味まず一つ目のポイントそれは「人の作り上げる王国は、もろい」です。頭は純金で始まり、銀、青銅、鉄、土とどんどん価値が下がっていくのがわかると思います。まあ鉄は強さで言ったら強いんですけれども、価値としてはさがります。しかも一番した足の部分は粘土と。土は価値もなければ、素材としても一番弱い。ですから頭が純金でできていようが、つまりパッ見すごく力があるようなものでも、足元はぐらぐらで不安定。人の作る王国とは不安定なもの。そしていつの世も権力というのは、移ろいで行きますよね、一つの国が台頭したら、次の時代には全く違う国、そういう不安定さを持っています。日本も今ね円安でどうのこうの言っていますけれども、アジアナンバー1だった時代もあるわけで、いつの間にか中国に追い越されて。まあ移ろいで行く。脆いものですよね。で何より重要なのは、そんな弱く脆い、人間の国が力を一時でも持つとしたら、2つ目のポイんとそれは、「神様がその力を権力者に与えられるからに他ならない。」ここがポイントですね。ダニエルも37-38節で言っています。


王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、 また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。

ダニエル2:37-38

ネブカデネザルはそんなことをかけらも知りませんでした。ネブカデネザルは自分の力で王国を築いてきたのだと思っていた。逆に言えばだからこそ不安だったと言えるのではないでしょうか。


少し前に王国と自分の人生というものを置き換えてお話をしましたけれども。人生も同じです。今皆さんの人生が少しでもうまくいっているのであれば、もちろん皆さんの努力もありますが、究極的にはそれは神様が与えてくださった祝福であり、恵みでしかないということを忘れてはならない。でこのことを知らない、あるいは忘れてしまうととどうなるか。ネブカデネザルが自分の国の王であって、自分の力でこの王国を建てあげてきたと思っていたように、私たちもまた自分の人生の王は自分だと思ってしまう。ある意味今の時代は、みんながみんな王様の時代なのではないかなと思います。生まれたときから身分が決まっている時代ではない。だから人に迷惑をかけない限り誰にも何も言わせない。自分の好きなように生きる、自分の人生は自分の選択によって決まっていく。まあそう信じているからこそ、必死に幸せをつかもうと皆頑張るわけですよね。全部自分次第。自己責任と。


自分が王様の人生は、もろいです。だってどんなに頑張ったって人生うまくいかないことは出てくる。そんな時私たちは自分の大事にしていたものを失いそうになって、不安になり眠れなくなります。一方そんな脆い人間の国を軽々打ち砕くのが神の国であり、その神の国は永遠に固くたつと言っていました。これが三つ目のポイントですね。人の国と神の国のコントラストですね。いうなれば自分のための人生なのか、神様のための人生なのか。自分のための人生は不安定です。けれど神の国、神様のための人生は安定感が違う。

でそれは何も問題が起こらない人生という、そういう安定感ではない。問題はおこるんです、クリスチャンだって人生いろいろある。で時に眠れない夜、不安な夜があるかもしれない。しかしながら自分の人生の王は自分ではなく、神様だということを知っているからこそ、全部自己責任っという暗闇に完全にほっぽり出されることはない。神様が自分の人生の王様として責任を持ってくださる。それが神様のための人生。神の国



人の国か、神の国か。自分のための人生か、神様のための人生か、この対比はネブカデネザルの人生とダニエルの人生にもよーくあらわされているのではないでしょうか。


ネブカデネザルは自分の王国を自分のために、大いなる権力と力をもって建て挙げようとしていました。がゆえに不安と恐れにとらわれてしまう。そしてその恐れからすべての知者を滅ぼせという命令を出します。それによって命の危機にあうダニエル、けれど彼には恐れはありませんでした。ちょっと飛ばしましたけれどもその命令が出されたときどうしたか。逃げ出したのか?そうではない16節


ダニエルは王のところに行き、王にその解き明かしをするため、しばらくの時を与えてくれるように願った。

ダニエル2:16

いや今めちゃめちゃ機嫌がわるいんですよ、皆殺しにしろっといた王に直談判し、時間を下さいというダニエル。8節では時間稼ぎをするということに関してめちゃくちゃ怒っている王に対して堂々とそのことを願い出るダニエル。その勇気はどこからくるのか?


でそれは、ダニエルが本当の王はネブカデネザルではないということを知っていたからですよね。神様がすべてを治める方だと知っていた。だからこそネブカデネザルを恐れる必要もなければ、命の危機にあっても不安に押しつぶされるわけでもなく、冷静に対処することができた。本当にダニエルの運命を握っているのはネブカデネザルでもなければ、自分でさえない、それは神様だということをダニエルは信じていました。そこから来る勇気ですね。


そしてもう一つ対照的なのは、ネブカデネザルは国中のトップを集めて、それでも夢のことがわからない。つまり自分の圧倒的な力つくしても解決できない問題に対して絶望し彼は不安になります。一方ダニエルはどうか、いやそりゃあダニエルにだって、夢を言い当てるなんてことはできない。ダニエルももちろん自分の力では無理だということを知っていました。けれどそこで絶望、ではないんですね。なぜなら、ダニエルの人生の王は、主なる神様だからです。だから彼は18節、祈ります。ダニエルと3人の友人は心を合わせて祈る、結果人には不可能なことが主に拠って明らかにされ解決がもたらされる。自分の力が及ばないことに絶望ではなく、神様の力に頼ることができる。そこに神様のための人生の強さがあります。


まあこうやって比べますと、やっぱりダニエルのほうがかっこいいなあと思います。さて最後ではどのようにすればネブカデネザルではなくダニエルのようになれるのか。


夢の解釈において金、銀、青銅、鉄、それらが具体的にどのくになのかという区別はそこまで重要ではないというお話をしました。しかしながら最後夢に出てくる像の足元を打ち砕く石がイエス様である、っということは非常に重要です。いろいろな点で予言とマッチするという話はしました。ルカの福音書20章でご本人が神の国を建てあげる基盤の石は自分だということを話されています。


イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

ルカ20:17-18

 イエス様を土台とする人生そこに鍵がある。ということですね。


神のための人生、とは神様を自分の人生の王とするということだと話をしました。クリスチャンはイエス様を主と呼ぶのだからそんなことは頭では知識的にはわかっていますよね。にもかかわらず、気づけば私は自分のための人生を歩んでしまい、心配ばかりしてしまうと言ことがやっぱりある。でそれは、自分の人生にとって何がベストな事なのかを知っているのは自分だと無意識にでもどこかで思ってしまうからです。いまいち神様を信頼しきれない自分がいる。そんなときに私たちにはやっぱりイエス様の十字架が必要なんだと思います。イエス様の十字架を思い出すときに、命をさえ惜しまれずに私のためにささげてくださった方が、私を愛し、最善を願っていてくださるならば、この人生のかじ取りを主にゆだねてもいいのではないかと思えるのではないでしょうか。

 

 っと偉そうなことを言ってきましたが、私は以前にもシェアした通り心配性で、寝つきのいいほうではありません。で数日前ですね、そのような話をやすさんとしていました。まあ次のメッセージこんな話をするんですということを軽く話していて、「やすさんは、寝つきがいいほうですか?」と聞いてみました。すると「そうですね、気づいたら寝てます」とおしゃって。イヤーうらやましいなと思いながら「いいですねえ、昔からそうですか?」と聞くと、「いや昔は寝つきがわるくて、信仰をもってからだいぶ変わった気がします。洗礼受けて1年くらいですけど、以前はいろいろな悩んで寝付けないこともありました。でも神様をしって、いやそりゃあ今でも心配なることはあるんですけど、まあ祈ってこう思うようになったんですよ。「自分ではなにもできない。神様に任せればいいじゃん」って。それから寝つき良くなった気がします。」


 イエス様を土台とする人生がこれです。「自分では何もできない。神様にまかせればいいじゃん」という人生。皆さんの人生どうでしょうか。よく眠れていますでしょうか。いや不眠イコール不信仰ではないですよ、色々なメディカルコンディションやもともとの体の性質もありますから。けれどももし不安で眠れない夜を過ごしているなら、皆さん自分に問いかけてほしいと思います。自分のための人生なのか、それとも神様のための人生なのか。自分が自分の人生の王なのか、それとも神様が王なのか。そしてすぐには「神様のための人生だ」と思えなかとしても、祈ったうえで「自分では何もできない。神様にまかせればいいじゃん」ということができるなら、ダニエルのような人生を歩んでいけるのではないかなと思うんですね。そして何よりその土台となるイエス様のことをまだ知らない、信じていないという方がいらっしゃったら、イエス様に是非出会っていただきたいと思います。


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