メッセージブログ

2024年06月

2024.06.23

人生の主語が変わる瞬間

 

ガラテヤ1:11-24

さっということでガラテヤ人への手紙のシリーズが先週からスタートしました。今週も続きをやっていきたいと思います。今日はもう早速ですね11-12節いただきたいと思います。

兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

ガラテヤ1:11-12


ハイもういきなり何のこと?そういうことですよね。パウロは何やら自分の宣べ伝えている福音は、人間によるものではないっということを言っています。で私たちからしたら、いやそりゃあそうなんでしょうと。聖書自体が神の言葉なのではないんですか?とこう思うわけです。ではなぜわざわざパウロは改めてこのように言っているのか?

そこで思い出していただきたいのが、このガラテヤ人への手紙が書かれた背景です。先週Timさんがシリーズの第一回目ということで1節から10節をカバーしてくださいました。そしてこれは手紙であるにもかかわらずパウロは挨拶を早々に切り上げてかなり厳しめトーンで6節にありますように「ほかの福音」に影響を受けつつあるガラテヤの教会に警鐘を鳴らしています。ガラテヤの教会はパウロが伝道をして建てた教会でありました。しかしながら彼が旅立ったのち、「ほかの福音」つまり間違った教えを広める人たちが表れ、その教えに翻弄されそうになっていた。で「ほかの福音」に流されつつあるガラテヤの教会を守るために書かれたのが、このガラテヤ人への手紙だと。さてではこの「ほかの福音」とはどのような間違った教えだったのか?まあ簡単に言いますと、「もちろん私たちは十字架によって救われる。だけれども本当の意味で神の民として受け入れられるには、本当の意味でクリスチャンになるには、旧約聖書に書いてある律法をすべて守らければだめですよ」っというそういう教えですね。でそれに対してパウロは「イヤイヤ、救いはイエス様の十字架を信じる信仰によってのみ、何も付け足してはならない」と主張している。教会を守るために、真っ向から戦いを挑むそんな手紙でありました。

 

で戻ってきまして11節。私の伝えている福音は人間によるものでもなければ、人間から受けたものでもないと。ありました。どういことか、間違った教えを広めていた輩も黙っていたわけではないようで、逆にパウロを批判していたようです。パウロが宣べ伝えている福音は、実は彼が自分で考え出したものなんだとか、エルサレムにいる12使徒たちから聞いたものを自分の解釈で広めているんだけなんだとか。そういうことを吹聴していた。でっそれに対して、パウロは「いや私は、この福音を人間からうけとったのではなくイエス様から直接受けたんだ。」と言っている。その表現が12節の「イエス・キリストの啓示によって受けたのです」というところです。


「えー啓示ってまた難しい言葉わかんないんですけど」ってそういうことですよね。まあ簡単に言うと啓示というのは神様からあらわにされた、示された真実という意味です。つまりパウロが伝えている福音とは、彼の考えや、あるいは経験談から、こうなったら幸せになりますよっ的なアドバイスではなくして、神様から直接与えられたメッセージだということを言っているんですね。


その流れで13節からパウロは自分の証を語っていきます。なぜいきなり証を始めるのか?でそれは、パウロにとって自分の人生におこった変化こそが福音を直接神様からうけとったという何よりの証拠だったからではないのかなと思います。 ちょっと13-14節ご覧になってください。


以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

ガラテヤ1:13-14

ここがパウロがイエス様と出会う前。Beforeの部分ですね。ポイントは二つです。一つ目はパウロはかつて教会を激しく迫害していた。使徒の働き22:4 でも「私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。」とパウロ自身が言っています。ステパノが処刑されたときに、石を打つ者たちの服が返り血を浴びないように、処刑する者たちの衣服の番をしていたのがパウロであったのは有名ではないでしょうか。直接ではないにしろ、パウロは教会を迫害し、結果クリスチャンたちを死にまでも追いやっていた。二つ目、でその激しい迫害の動機はどこから来ていたのかと言うと、彼が正しいと信じていたユダヤ教に対する熱心さから来ていました。これもパウロ自身が言っていることですが。使徒の働き26:5 「私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。」ユダヤ教ではトップの教育を受け、ことさら律法に厳しく生きてきたと、パリサイ人と言えば何といっても律法主義です。とにかく厳しく律法を学び、完璧に守るっということに誇りをかけてきた。その熱心から、その律法を守るのではなく、十字架を信じる信仰だけが救いをもたらすと説くようなキリスト教はけしからんと、積極的に迫害してきた。それこそが正義だと思って生きてきた。パウロというのはそういう人物でありました。けれどもそのパウロの人生が劇的に変えられます。


続いて15‐16節

けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき私はすぐに、人には相談せず、

ガラテヤ1:15-16


神様がパウロの人生に介入してくださいまいます。ここですね、「御子を私のうちに掲示することを良しとされた」。ちょっと難しい表現ですが、御子、つまりイエス様がパウロの前に掲示される、いや文字通り目の前に現れてくださる。そうして彼の人生は劇的に変わりました。ちょっと使徒の働き9章開いていただいて、どのようにイエス様がパウロに現れたのかということ具体的に見たいと思います。

さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

使徒の働き9:1-5

この出会いがあってパウロの人生は一変します。

パウロはだんだんと意見を変えたとかではなくして、ある時を境に彼の人生は180度転換し、キリストを教会を迫害するものから、今やキリストを福音を伝えるものへと変えられました。とすればこれは人間業ではない、自然の成り行きで、なんとなーくクリスチャンになったのとはわけが違います。パウロはそのことをさして「この劇的な変化こそが私がイエス様から直接福音を受け取った、という何よりの証拠でしょっ」と言っているわけですね。


17節以降は彼がキリストに出会い救われた後のことがかかれていますが。16節の最後にあったように「私はすぐ、人には相談せず」エルサレムにすぐ行って、12弟子に直接教えを乞うたのではないとか。3年間アラビアの荒野で過ごしたとか、まあとにかく誰かの教えに影響を受けたとか、そういうことではないんだよということが24節まで展開されていきます。長いので今日はちょっと省略させてください。是非皆さんご自身で読んでいただければと思いますが。要は彼が宣べ伝えている福音というのは、人から受け取った教えではないということが強調されています。

っというのがまあ今日の箇所の全体的な流れです。だから偽物の福音に流されるなとパウロは説いています。さてここからは改めて、なぜパウロはここで証を語ったのかということを考えていきたいと思います。でそれはまず第一に、彼の人生の変化、ある時点を境に、迫害するモノから福音を伝えるものに変えられたという事実こそが、パウロの語っている福音の真実性を担保する証拠になるからだ、ということをここまで話してきました。しかしながら実はもう一つ理由があるのではないか思うんですね。でそれは福音のメッセージの本質を理解するうえで、パウロの歩んだ人生の道のりというのは非常にわかりやすいイラストレーションになっているということが一つあるのではないでしょうか。


 どういうことか、冒頭でもみましたが。間違った教え「ほかの福音」のメッセージというのは要約すると。十字架によって救われるのだけれども、プラスアルファが必要だと。でそれは律法を守る、つまり人間の努力が必要だというものでした。


 でそれで言いますとね、このプラスアルファの部分、律法を守る、人間の努力、のエキスパートだったのがパウロなわけですよ。彼はエリート街道を走るパリサイ人でありました。そしてそのことに命を懸けていた。ね。これこそが自分の生きる道なんだとそう信じていたわけですよ。人間の努力という意味では、やれることはすべてやってきた人でした。先ほど13-14節でその様子をみましたね。人一倍熱心だったと。ちょっともう一度ご覧になっていただいて。

以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

使徒1:13-14

注目していただきたいのは、主語の部分ですね。ほぼ全部「私」です。「私の行動」「私は教会を迫害し」「私はユダヤ教に人一倍熱心でした。」イエス様に出会う前のパウロの人生はどこまでいっても「私」が中心の人生でありました。私が努力して律法を守り、私が頑張って聖書を学び、私の考えで徹底的に教会を迫害する。私の行動がすべてを決めていく、そういう感じでしょうか。


 でそれで言いますとね、私たちもまた同じではないかと思わされます。いやもちろん私はかつてキリスト教を迫害していましたという人はいないでしょう。けれどもキリストに出会う前の私たちの人生というのはやっぱり「私」が中心の人生だったのではないでしょうか。でそれは必ずしも、「わがまま」とか「自分勝手」とか「自己中心的」とかそういうことではないのかもしれない。特に日本人ならばそうですね。周りのことも考えて、迷惑をかけないように、礼儀正しく。ですから外から見れば、ほとんどの人は「いい人」でありましょう。けれども人生を歩んでいく時の根本的な価値観として、「私の行動」「私の考え」が人生を決めていくんだ。端的に言ってしまえば、自分の人生は自分次第だ。そう思って生きている人がほとんどなのではないか。なぜならやっぱり私たちの生きている世界は、努力とその結果が評価される世界だからです。学校には通信簿があり、社会に出て仕事をすれば、そのパフォーマンスがボーナスや昇進という形で反映される。生まれてこの方そういう世界に生きているわけですから、当然人生は努力次第だとこう思ってしまうでしょうね。

 

 けれどもパウロはそうではないということを、イエス様との出会いによって学びました。なぜなら、彼の努力、(ユダヤ教に熱心になることであれ、教会を迫害することであれ)それらは一応彼の中では神様のために行っていたことでした。けれどもそのような彼の努力で神の真実にたどりついたのかっというとそうではなかった。そうではなくして、「私の行動」「私の人生」と言って真逆の方向を走っていくパウロを引き留め、一方的にパウロの前に現れてくださったイエス様によって示されたのが福音でありました。これが12節にあった「イエスキリストの啓示」です。イエス様がパウロに出会うシーン15-16節もう一度みていただけますでしょうか。


けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき

これ主語が明確にならない日本語だと非常にわかりにくいんですけれども、ちょっと英語で見てください

 But when God, who set me apart from my mother’s womb and called me by his grace, was pleased 16 to reveal his Son in me so that I might preach him among the Gentiles,


出だしの部分、「But when God/しかし神は」っと始まっていきます。キリストに出会ったパウロの人生の主語は、「私」から「神様/主」に変わるんですね。生まれたときから私を選び分けられたのは「主」で、恵みをもって異邦人にイエス様のことを伝えるようにと召してくださったのも「主」でした。そして何より、教会を迫害していたパウロに、主ご自身が、イエス様が自ら現れてくださった。「しかし神は」、という決定的な転換点がここにあります。


私の行動、私の努力、私の考え、私の選択、私の計画、私の人生。この「私」という分厚い壁に閉ざされたパウロの人生、その壁をぶち壊してご自身を示してくださるイエス様。これが「イエスキリストの啓示」です。そのイエス様の光に照らされて、パウロはやっと理解する。自分の頑張りが人生ではないんだと。主の一方的な恵こそが救いなんだと。パウロは今まで「私」の人生を建てあげてきたと思ってきました。けれども、But when God. しかし神が、つまりイエス様が出会ってくださって「ああ実は生まれる前から主が私を一方的に選んでくださっていたんだ」ということに目が開かれたんですね。

 もちろん福音とは何ですかと聞かれれば、それは「行いではなくイエス様の十字架を信じる信仰によってのみ救われる。」っということです。それを教義として信じることはものすごく大事です。けれども福音派そこでは終わりません。福音というものは、自分の人生の見方をまるまる変えてしまう力があります。先ほど申し上げたように人生の主語が代るっていうんでしょうか。私が歩む人生から、主が歩ませてくださる人生へと変えられていくんですね。


でこういうことを語っていますとね、え?私が選ぶんんじゃくて、神様が選ぶの?っとそういうですね、自由意志vs神の摂理みたいなことを思う方がもしかしたらいらっしゃるかもしれません。けれどもポイントはそこではない。もちろん私たちに自由意志はあると思います。なんといっても私たちは神様を信じるのか、信じないのかということを選ぶ責任はあると思います。けれどもポイントは、私たちがその選択をする、ずーっと前から主は私たちを招いてくださっているということ今日覚えたいと思うんですね。神様の介入なしに私たちは変わることはできない。イエス様がパウロに出会ってくださったように、主が一方的に働きかけてくださるということがあって初めて私たちは神様の方向を向くことができるのではないでしょうか。自分の歩みを振り返ってもやはりそうだったのではないかと思います。


私はクリスチャンホームに生まれましたので、小さいころから教会に行っていましたし、神様のことも知っていました。それでもやっぱり、神様を信じると決めたのは自分だと思っています。18歳でNZに来て、19の時に色々経験し考えて自分でクリスチャンになるということを決めました。はじめての海外生活で痛いほど自分の弱さというものを痛感し、「信仰が弱い人が持つんだろ」という生意気な考えから、まさにその弱き者が自分であり、だからこそ神が必要なのだと思うようになりました。そうしてイエス様の愛を信じ、その愛に応える決心をした。それは確かに自分の決断だったんだと思います。と同時に自分では選ぶことができない状況が重なってその決断に至ったという事もまた事実です。どういうことか、さかのぼって考えますとね、なぜそもそも18歳の時にNZに来たのかというと、それは日本の高校生活で馴染めなかったということが大きかったと思います。大学付属の高校に通ってましたので、「このまま大学に進んでも楽しくはないだろ」という思いから海外にいこうとなり、NZに来たわけです。もう一個さかのぼって、ではなぜ高校生活に馴染めなかったのか、まあいろいろ理由はあると思います。けれど一つ大きかったのは入学早々アトピーがひどくなって1カ月半学校に行けなかった。学校に戻ったころには、周りは既に友達のグループができていた、ということが大きかったと思います。それを残りの3年間引きずったという感じでしょうか。でそれらの状況を自ら選んだのかと言われれば答えはNOです。好き好んでそんな状況は選びません。しかしながら振り返ってみればこの経験こそが、私にとっての神様の介入、But when Godの瞬間であったのかなあと思います。


いろんな人の証を聞いていてもそうじゃないですか。もちろんその人の道のりの中にはその人自身の選択がいっぱいあって証というのは物語をなしていきます。けれども逆に言えば様々なことが人生に起こるからこそ私たちは神様を信じるのか、それとも自分を信じるのかという選択に迫られる。多くの場合、自分で抱えきれない、困難や、試練、病気などに見舞われて、自分ではなく神様の方向を向く。そのような形でイエス様が人生に現れるということが大いにあるのではないか。そして気づくんですね、私たちが神様を求めるずっと前から、すでに神様は私たちを求めてくださっていたんだということに。

そういう一方的な恵というものを心で理解するということは非常に大事です。自分の選択や努力ではなく、すべては神様の恵。そしてその恵の究極の形が十字架ですよね。私たちが信じるかどうか、関係なく一方的に私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったイエス様。そのことを受け入れ信じるだけで救われる。私たちの努力ではない。これこそが福音の本質の部分ではないでしょうか。


でクリスチャンであればもちろん福音がどういうものかというのはわかっている。けれど私たちは、忘れてしまう。主に選ばれて、主に救われて、主に導かれて、主の恵みの中を歩んでいる人生。であるにもかかわらず、いつの間にか気づけば「いやまあとはいえ、結局は自分で努力しなきゃ」というこの世の声に耳を傾けてしまい、信仰生活にもその影響を受けるということは大いにありうる。そんな中試練が起きようものなら、私たちはストレスを抱え、不安を抱え、もうだめだと思ってしまう。でも本当に人生の主語が、「私」から「主/イエス様」に変わっているのだとしたら、それらの不安や恐れを自分で全て抱えてしまう必要はない。理解する必要さえない。全ては主の御手の中にあるんですよね。


 もちろんだからと言って人生投げやりになってもいいっていう、そういうことじゃあない。私たちは自分なりにベストを尽くす責任がありますし、祈って考えて、これがいいんじゃないかという選択を人生の中で責任をもってしていく必要があります。けれど現実問題、それでも間違ったり、罪を犯したり、愚かな行動をしてしまうのが人間ですよね。その時に思い出したいのは、やっぱり福音という主の恵の大きさです。


もう一度だけ16節見ていただけますでしょうか。

 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、(16節)

 この部分ですね、パウロが神様の一方的な恵、啓示によって救われたのは単なる祝福であっただけでなく、異邦人、つまり世界にイエス様のことを伝えるという大いなるミッションがありました。そしてそのミッションのために大いに用いられたのが、このパウロの過去です。彼のパリサイ人として得た豊富な聖書の知識、情熱、行動力そういったものが大いに用いられたということは間違いないでしょう。神様はパウロをそういったいみで準備しておられた。しかしながらそれ以上に、教会を迫害し、完全に律法主義という真反対の方向に進んでいた過去を持つパウロだからこそ、彼が十字架を信じる信仰だけが大事なのだと主張する時、そのメッセージには説得力や重みが加えられたということがあったのだろうなと思うんですね。いや、もちろんパウロが教会を迫害していたということが良かったわけではない、罪ですね、悪いことです。けれども主がその恵の中でそれをも用いてくださったということではないでしょうか。


 であるならば、であるならば、私たちの弱さ、罪、つらい経験、人生にあるその時には理解できない経験も全て、福音という一方的な恵の力によって、用いられるということがあると信じて歩んでいきたいと思うんですね。それこそが、人間的な努力ではなく、十字架に象徴される神の恵みを信頼するということなんだと思います。


 最後にイエス様がパウロに現れてくださったときにかけた言葉を見て終わりにしたいと思います。使徒の働き26:14


私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

使徒26:14

サウロというのはパウロの別の名前です。イエス様はおっしゃった「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」パウロ、お前は自分が正しいと思う人生を歩んでいるが、それはうまくいっているのか。痛くはないのか? そんな呼びかけでありました。でそのイエス様の呼びかけに対してパウロは悔い改め、自分ではなくイエス様を信じるという決断をします。


 皆さんはどうでしょうか。皆さんの人生の主語は「私」なのか「イエス様」なのか。もしそれが「私」なのだとすれば「私の考え」、「私の判断」、「私の努力」、「私の計画」、「私の信じる道」、「私の人生」はうまくいっているでしょうか?痛くはないのか?本当にそのまま歩んでいって希望はあるのか? その呼びかけに私たちはどのように応答するのか?願わくばパウロのように主の恵に目が開かれて、ああ自分の人生ではなく、主が歩ませてくださる人生なんだというこを信じ歩んでいく人生でありたいと思います。


2024.06.09

影響力のある信仰 (ダニエル6)

『正しいことをしたければ偉くなれ』「踊る大捜査線」というドラマの有名なセリフになります。もう何十年も前のドラマなので、完全に若者を置き去りしてしまう形になりますが、30代後半以上の方は知っておられる方多いのではないでしょうか。詳細を省いて言葉の意味だけを説明するなら。先輩刑事から主人公に向けて語られるセリフ。堕落した警察組織を変えたいなら、正しい思いだけを持っていてもダメだと。上の、つまり決定権や影響力のある立場にまで出世しなければ本当の変革は起こせない。まあっざくりいうと

そういう意味です。サラリーマンとか組織に属している人間であれば心に刺さる名セリフです。「あー気持ちだけあってもダメなんだ」と

 

 えっ急に何の話?って思われますよね?いやダニエル書は?と。しかしながらある意味、実際に偉くなって正しいことをした人ということで言うと、まさにダニエルがそうだったんじゃないかなと思います。ダニエルは正しい思いや信仰を持っていただけではなくして、能力を認められ国のトップまで出世した人だったんですよね。今日見ていく箇所でもそうですし、1章からこの6章までを通してもその姿が描かれてきました。どのようにダニエルがこのバビロンという異国の地において、信仰を失わず、逆に成功をおさめて影響力を持つ存在になっていったのかということが一つの中心的なテーマとしてあるのではないのかなと思うんですね。

今日でダニエル書最後ということで少し振り返ってから初めて行きたいと思います。イスラエルは罪の結果、主の裁きがくだりバビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。そして民衆はバビロンに連れて行かれます。これがいわゆるバビロン捕囚というやつですね。バビロンの意図としては故郷から民を切り離し、バビロニアまで連れてきて、そこの生活に慣れ親しませて、気づけばいつのまにか祖国のことを忘れている。そのようにして反乱が起きないように民を手なづける、治める。そのような政策をとっていました。

このバビロン捕囚を経験したのがダニエルと彼の友人3人です。彼らは異国の地、で自分たちの信仰と信念を全く理解しない社会の中でどのように生きていくのか?要はこの異国の地で、彼らは信仰を貫けるのか、それとも異国の文化、価値観に染められてしまうのか?っとそういうことですね。でその問いかけは、バビロンに移住した民すべてに問われていることでありました。そんな彼らがとった行動は大きく分けて二つです。一つ目それは、とにかく異国にアジャストする。悪く言えば流される、あるいは染まってしまう、です。もう一つのパターン、それはとにかく自分たちを守る、異国の文化や価値観にできるだけ触れないようにする。距離を置く、異国の人たちとなるべく関わらないようにする。ダニエルはどうしたのか、今までも見てきました。彼は染まってしまうことはありませんでした、1章で見ましたね、並べられた王のごちそうを自分の信仰と確信のゆえに、食べないという選択をしました。3章ではシャデラク、メシャク、アベデネゴは、金の像を拝まないという選択をしました。つまりしっかりと流されず、信仰に立ってNOと言ったわけです。けれど彼らはこの異教の世界、異国の地のすべてに足して何も考えずに「NO」と言ったわけではありませんでした。積極的に置かれた環境で異国の文化、学問を学んだ、だからこそ王の側近になるべくトレーニングを受けた若者たちの間でトップの成績を収めた。(これも1章でみました)そしてダニエルは王のために、夢の解き明かしをして、王にアドバイスまでする存在になっていきました。2章、4章、5章ですね。

っとこのように異国の地で、信仰に立ち、流されず。けれども自分の殻に閉じこもるわけでもなく、逆に影響を与えるような存在になっていくダニエルの姿は、私たちクリスチャンが信仰をもちながら、この世にあってどのように生きていくのかと言いう点で多くのことを教えてくれます。前置き長くなりました、今日はこのクリスチャンがこの世で持つ影響力という視点で6章を読んでいきたいと思います。例のごとく、要約しつつ必要なところは、聖書を6章を開いていきたいと思います。

先週みましたがついにバビロンはメディア・ペルシャという国に亡ばされてしまいました。ですから王様も変わってダリヨス王になっています。1-2節では政権が交代してもダニエルは大臣として登用されたということが書かれています。120人の太守(今でいう県知事みたいなローカルのリーダーたち)を束ねる3人の大臣の一人に選ばれたと。さてそれだけではなくして3節

ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。(王は)彼を任命して全国を治めさせようと思った。

ダニエル6:3

なんとその3人の大臣の中のトップ、つまり王様は自分の下にダニエルをおいて国のナンバー2にしようとします。でこの時ダニエルの年齢は何歳だったかと言うと、ちょうどダニエルがバビロンに来て70年たった時ということが9章を読むとわかりますので、80代だったのではないかと言われています。もうおじいちゃんですね、にもかかわらず国のナンバ-2を任せたい。それほどにダニエルは際立って優れていた。非常に有能で信頼に厚い人だったということです。

でこれは、この世を生きていくクリスチャンにとってもものすごく重要なのではないでしょうか。いやもちろん、みんながみんな国のトップになれるわけではない。ダニエルには才能があった、そして何より神様が祝福されたからこそ国のトップにまでけたんだ。そういってしまえばそれまでです。しかしながら、ダニエル自身も努力したに違いない、勉学に励み、一生懸命与えられた仕事をこなした。好きでやっていたわけではないと思います。完全に異国の文化、しかも敵国に仕えるというそういう状況なわけで。この仕事は生きがいだと思っていたわけではないと思います。けれども彼はベストを尽くしました。だからそれらが認められて国のトップまで行くわけですよね。でその地位を通して何度となく、バビロンの国中に神様の栄光を示してきたのをシリーズを通してみてきました。

で私たちもまた、自分に与えられている、仕事、役割、学生なら勉強、そういったものにおいて、良い成績をあげる、ベストを尽くす、いい仕事をするっということは実はとても大事な事なんだということをダニエルから学びたいと思います。どれだけ、聖書の知識があり、どれだけ毎日祈り、どれだけ教会の奉仕していたとしても、普段の仕事は不真面目、まったく適当な仕事しかしない。そういう人の話を誰が聞きたいのかということはやっぱりあるわけで。結局人は成功者、あるいは功績をあげた人から話を聞きたいと思いますし、そういう人の影響力というのがこの世においては大きい。もちろんクリスチャンにとって、社会的に成功するということが第一の目標ではないです。けれども主の栄光を証するためには、その要素もないがしろにはできない。結果がすべてではない、けれど仕事にしろ、勉強にしろ、主のためにベストを尽くすことが大事だと。

 さてダニエルがその能力を評価されてナンバー2に昇進します。当然それをよく思わなかったのは、残りの大臣でした。ですから彼らはダニエルをおとしめようと、身辺調査をして、あら捜しを始めます。何かスキャンダルがないかということですね。4節

大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。

ダニエル6:4

探しても、探しても一点の汚点も出てきませんでした。いやスキャンダルどころかダニエルは忠実で、怠慢も欠点も見られなかったとあります。つまり人格者としても文句がつけようがなかったということですね。ダニエルはただ仕事ができたわけではない、ものすごくいい人で、周りからの信頼も厚かった。でそれは公的な場のみならず、プライベートにおいても変わらなかったということではないでしょうか・

 

ですからクリスチャンもこの世にあって影響力を持つのであれば、仕事だけできてもダメですね。どれだけ才能があり、有能で仕事ができたとしても嫌な奴じゃあだめだと。「自分はとにかく出世するんだ」といって、その過程で人を押しのけたり、優しくできなかったり、人格を置き去りにしてしまうようであれば元も子もない。もちろん逆もありますね、めちゃくちゃいい人なんだけれども、全然仕事できないみたいな。(そっちのほうがましかなと思いますが)いずれしにろ両方、両方必要なんだと思います。もちろんパーフェクトである必要はない、けれども仕事、あるいは与えられた責任に関してベストを尽くしつつ、周りの人に対しても誠実であるということ。ダニエルはこの両面において非常にバランスの取れた人物でありました。

ダニエル書戻りましょう。どれだけ身辺調査を行っても何のスキャンダルも見つからないダニエル。それならということで他の大臣たちは、今度はダニエルの信仰心を逆手にとって罠にはめようとある法令を制定すべく、ダリヨス王に提案します。7節

国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。

ダニエル6:7

30日間王様以外に祈りをささげるものは処刑されると。この提案をした大臣たちは当然ダニエルが熱心に毎日祈っているということを知っていました。ですからこの法令を制定さえしていまえば、王様にサインさせてしまえば、確実にダニエルを殺すことができる。そういう思惑ですね。

 

さてこの法令が制定されてからダニエルはどうしたのか。10節

ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。—彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。—彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

ダニエル6:10

ダニエルはいつものように祈りました。しかも窓を開けて。今や国のトップの大臣にまでなっていたダニエルには他にもいろいろ選択肢はあったのではないかと私たちは思います。例えば、そんな法令は不当だとして訴え出るとか、王に直談判するとか。いやそんな直接的な方法に出なくても、30日という期限が定まっているわけですから、その間は祈らないということもできたのではないか。別に信仰を捨てろと言われているわけではないわけですし。ほかの偶像を拝めと言われているわけでもない。だからちょっとブレイクではないですけど30日だけ祈りをストップする、それは許容範囲だったのではないか。いやもっというと、祈るにしたって窓を閉めて誰にも見られないところで静かに祈るということができたはずです。そうすればだれに師も知られることはない。何故ダニエルは窓を開けてエルサレムの方向を向いていのったのか?おそらくそれは、かつてソロモン王が神殿奉献の時に祈った祈り、この聖書箇所がもとになっているのではないかと言われています

捕らわれていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、 あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。

2歴代誌6:38-39

それはバビロン捕囚を預言するような内容だったわけですよ。もし民が罪を犯して裁かれて違う土地に連れていかれるようなことがあっても、このエルサレムの神殿の方向を向いて祈るなら、その祈りを聞いてやってください。っというソロモンの祈り。ダニエルはこれをベースにエルサレムに向かって一日に3回祈っていました。しかしながらこれよく読んでくださればお分かりになると思いますが、命令ではない。絶対にエルサレムの方向向かって祈りなさいという命令として聖書に書いてあるわけではないんですね。つまり窓を開けずに静かに祈る形をとったとしても、神の律法を犯すということにはならない。罪ではないわけです。それでもあえてダニエルは、窓を開けて、エルサレムの方向を向いて祈るということを選択しました。なぜか?でそれは大きくわけて二つの理由があったのではないかなあと思います。

まず一つ目それは妥協なき信仰です。ダニエルにとって、信仰とは聖書に書かれているすべてのルールを守り、チェックリストをクリアするということではありませんでした。いやそうではなくして、自分の心が主にまっすぐ向いているのか?主だけを自分は恐れているのか?それこそが彼にとって最も重要な事だったのではないでしょうか。先ほども申し上げたとおり、もちろん戸を閉めて静かに祈ること自体は悪いことではないです。けれどポイントは、10節にありました、

彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。(10節)

ダニエルは今まで毎日窓を開けてエルサレムのほうを向いて祈ってきました。毎日いつも。で、この法令が出されたからと言って、窓を閉めて静かに祈るといことを自分が選んでしまうとしたら。それは彼にとって自分が主ではなく、その法令を、獅子の穴に入れらえるということを神様以上に恐れるということ、を意味したのではないでか。主のみを恐れるなら、神様だけを恐れるなら窓を閉める必要はないと、妥協はできないと。でそれに対して私たちは思います、いやそれはさすがに厳しすぎないか?と。しかしながらダニエルにとってこれは小さなことではなかったのではないでしょうか?

このバビロンという異国の地にあって、少しでも、たとえそれが心の中のことであったとしても妥協するということは、信仰にとって命とりであるということを彼は知っていました。異国の地で70年間も信仰人生を生き抜いてきたダニエルだからこそ、そのことを骨身にしみてわかっていたに違いありません。主だけを恐れるなら、他に何も恐れないというのであれば、自分はいつものように、窓を開けて、エルサレムの方を向いて祈るんだ。そういう覚悟と決心が彼の信仰を70年間も支えてきたんだと思うんですね。

 

 まったく価値観の違う異国ということを思う時に、やはりなかなかどうして日本のことを思わずにはいられない。私自身、15年ほど前NZ留学をおえて日本に帰国した時のことを思い出します。私はNZでクリスチャンになり、聖書の学校を卒業して日本に帰国、就職しました。日本人なので、日本が母国であるにもかかわらず、NZに長くいすぎたせいか、もはや日本の社会は私にとって異国となっていたんですね。逆カルチャーショックというやつでしょうか。加えて、日本のクリスチャン人口は1%以下。信仰面でのチャレンジもたくさんありました。私はとにかくこの新しい環境に慣れなければと必死でで気づけば、聖書を読むこともなくなり、祈ることも減り、なんだかんだで「仕事が大事」とか、「お金が大事」とか、そういう価値観に流されている自分がいたんですね。目立った罪を犯したとか、完全に道を外れたとか、そういうことではありませんでした。けれども小さな妥協が積み重なり。気づけばこの世の価値観に流されている、そういう感じでした。

 皆さんどうでしょうか、日本に比べればNZでのほうが信仰を保つのが難しくないかもしれません。けれどそれにしたって小さな心の中での妥協が積み重なり、気づけば流されているということが大いにありうる。でそれは何か表面的に罪を犯す、そういうことではないのかもしれない。けれど自分は主を第一として生きているのか、主だけを恐れて生きているのかということを、常に自分の行動と心に妥協なく問い続けるということをしなければ、気づかないうちに流されていくということが大いにありうる。ダニエルは心の中での妥協を良しとはしませんでした。

さてダニエルが窓を開けて祈ったもう一つの理由はなんだったのか。二つ目の理由は、証のためだったのではないかなと思います。ダニエルの信仰は隠れた信仰ではありませんでした。そもそもダニエルが毎日三回窓を開けて祈るということを、他の大臣が知っていたからこそ彼らはこの法令を作ってダニエルをはめようとしたわけですよね。結局ダニエルは、祈っている姿を目撃され、王に告げ口をされてライオンの穴に放りこまれることになってしまいます。14節に王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めたとあります。どれだけダニエルが王様に気に入られていたのかが伺い知れます。けれども王様も法令にサインをしてしまった以上、それを取り消すことはできませんでした。王様にできることは、ライオンの穴に投げ込まれるダニエルに声をかけることだけだった。16節

…「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」

ダニエル6:16

これはダリヨス王がダニエルに向かって語っている言葉です。つまりダニエルの信じている神様のことをダリヨス王はこの時点で認識していたということです。「あなたがいつも仕えている神が」特別なことがあったからとかではなくして、普段から「あっダニエルはこの神様に仕えているんだな」と言うことが敵の大臣含め周りの目にはあきらかだった。ダニエルの信仰のことを知らない人はいなかったということです。彼にとって信仰とはプライベートなものではありえなかった。『いやこれは個人的に信じていることなんで』特に周りには伝えず、そういうスタンスでダニエルは歩んでいませんでした。言葉、行動、生き様すべてが彼の信仰を語っていた。

 皆さんどうでしょうか、証をする、伝道する、神様のことを人に伝える。っと聞くとどのようなイメージを持たれるのか。苦手意識があるという人も多いのではないかと思います。下手したらあまり良いイメージを持っていないという、そういう方もいるかなと。「いきなりそんな神様の話を人にしても、引かれてしまって逆効果だ」とかですね。実際私もそういうイメージあります。牧師が伝道苦手ってどうなのと?正直自分でも思いますけれども。。。でそこでよく言われるのが、行動で、生き方で証をしてきましょうというお話ですよね。信仰をもって愛をもって誠実に人と接していくなら、それを通して神の栄光が周りに表されるというお話。私自身そういうメッセージをしたことがあります。そしてそれは間違いではない。ダニエルの生き方もある意味、行動で神の栄光表すという、そういうものだったと言えると思います。しかしながら本当に神様のかの字も一言も発せず、信仰の話を一切しないのだとしたら。本当に行動だけっとなると、それで神様のことは伝わっていくのか?難しいでしょうね。というか伝わらないでしょうね。行動で示す。めちゃくちゃ重要です。けれども機会があるごとに信仰の話をしていく、自分の信仰をオープンにしていくということもまた同時に大切なんだと思います。ダニエルの信仰は隠されたものではありませんでした、周りの人たちは、ダニエルが仕えている神様のことを知っていた。私たちはどうでしょうか、私たちの周りの人、同僚、友人、家族は、私がクリスチャンであるということを知っているだろうか。考えさせられます

 もちろん空気を読まずに、ただいきなり神様の話をすれば良いというわけではない。ダニエルだってそうですねよ、普段から神様の話ガンガンしていたわけではないと思います。あるいは大臣という立場を使って、国中に主を礼拝するようにという政治的な動きをしたわけでもないでしょう。伝道という観点から言ってダニエルは自分からアクティブに攻めていったという印象はありません。けれども機会があるたびに、彼は自分の信仰をオープンにし、証をしてきた。だから今回の法令が制定されて、命の危機にあっても、ダニエルは自分の信仰を隠さないということを選んだのではないでしょうか。

さてその後どうなったのか。ダニエルがライオンの穴に入れられて一日たった後、王様は様子を見に行きます。21節から

すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

ダニエル6:21-22

 神様はダニエルを守ってくださいました。23節にある通り、それは彼が神に信頼していたという見事な証だったんですね。結果ダリヨス王は国中にダニエルの神、主を褒めたたえるようにということを書き贈ります。絶体絶命のピンチにあって、ダニエルは神様を信頼したことによって、逆にそれが用いられて主の栄光があらわされるという結末で6章は幕を閉じます。っと本来はここが一番ドラマチックで説教としてもメインで語られるところなんでしょうけれども、今日はちょっと違った視点で。ダニエルが異国の地にあって持っていた影響力という角度から6章を見てきました。

まとめましょう。ダニエルが持っていた影響力の秘密、4つくらいあったのではないかなと思います。まず一つ目、ダニエルは仕事ができた。彼は与えられたエリアでベストを尽くしました。その結果影響力のある地位に行くことができた。二つ目、仕事ができるだけでなく、人格も素晴らしかった。「いやな奴」ではなく「いい人」だった。三つ目、妥協のない信仰。ただ罪を犯さない、だけでなく、主だけを恐れるという覚悟をもって歩む人生でありました。それこそ今回命を懸けてその信仰を貫きました。四つ目、自分の信仰をオープンにしていた。決して人に押し付けるわけではなく、けれども周りに自分の信仰が伝わる、そういう人生をダニエルは歩んだんですね。

 結果異国の地にあって捕虜としてスタートしたダニエルの人生は、王様をも動かし、国中に主の栄光を表す、そんな影響力を持つようになった。

 さて結果だけ見るとすごすぎて、完璧すぎて、いや私はダニエルみたいにはなれない。そう思ってしまいますね。けれど最後に覚えたいのは、そんなダニエルの信仰人生を支えたのは、おそらく毎日の祈りだったのではないかということです。10節で見ましたね、彼は「いつものように」日に三度祈ったと。信仰は一日で一気に成長するということはない、ダニエルの信仰人生も日々祈りを積み重ねることで、成長していったのではないでしょうか。あるい人は言いました。

卓越性とは行為ではなく習慣なのだ  (ウィル・ダラント)

‘Excellence is not an act, it’s a habit.’ Will Durant

 英語のほうがわかりやすいかもしれません。まあ要はよく言われる「習慣が人を作る」というよというやつです。急に命の危機にあって、信仰を選ぶということはできないかもしれません。しかしながら日々祈る、聖書を読む、神様と時間を過ごすっということを、選んでいくということは私たちもできるのではないか。そしてそれを積み重ねていく時に、影響力のある信仰を養っていくことができるんだと思うんですね。

 で最後余談ですけれども、28節

このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。

ダニエル6:28

さらっと書いていますが、クロス王というの出てきますね。彼にもダニエルは仕えたわけです。じゃあこのクロス王ってだれかというと、2歴代誌36:22-23にのっていますが、実はこの王様が、ユダヤ人たちにエルサレムに戻って神殿を再建するようにという指示を出すんですよね。いやもちろん主の霊が、王様の心を動かしただから、そのような命令をが出された。間違いないです。そう書いてありますから。ただもしかしたらダニエルの影響というものもあったのかなあ。ね、あくまで推測ですけれども、だとするとかなりかっこいい。ダニエルの信仰は、ダニエルの人生は国を動かした。

私たちはダニエルのように立派ではないかもしれない、才能もダニエルに比べれば微々たるもので、持っている影響力も限られているでしょう。けれどもそれぞれに与えられた場所があり、与えられた人々が周りにいるわけで。地の塩、世の光として、今いるその場所で主栄光を証するものでありたいと思います。

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