メッセージブログ

2024年07月

2024.07.28

神の子とされる (ガラテヤ4:1-9)

 

一章から一貫して語られているガラテヤ人への手紙のテーマは、私たちは律法ではなく信仰によって救われるです。で3章ではですね、そのことが実は創世記のアブラハムの時代の約束からこう話がつながっているということが出てきたわけです。神様はアブラハムにその子孫を通して全世界を祝福するとおっしゃった。でその後モーセを通して律法がイスラエルに与えられたんだけれども、その律法は約束された祝福をもたらすというよりは、どちらかと言えば人間の心にある罪をよりはっきりと私たちに示す、まあそんな役割をもっていたと。ではどのようにしてアブラハムに約束された祝福はもたらされるのかと言うと、それはイエスキリストの十字架を信じる信仰によると。ああザーッっくり言うとそんな感じの話だったかと思います。さて今週はですね、じゃあそのイエス様を信じる信仰を通して与えられる祝福ってどんなものなのか?というそういうお話です。実は昨年の父の日にこの箇所からメッセージをしていますので、重なる部分もあると思いますがご容赦いただきたいと思います。

ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

ガラテヤ4:1-7


 イエス様の十字架を通して与えられる祝福はいろいろあるわけなんですが、今日の箇所でクローズアップされているのが、神様の子供とされるというポイントです。3:26にこのようにありました。


あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3:26


さて聖書の中であなた方は神の子ですという時にそれはいったいどういう意味なんでしょうか?人間は皆神様に作られた、そういった意味で神の子供というそういうことなのかと言うとそうではない。ここではいやそれ以上の特別な意味で言っています。4章4-5節 見てください。


しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

ガラテヤ4:4-5


注目していただきたいのは、「子としての身分を受ける。」という言葉です。ちょっと日本語ではわかりにくいですが、英語で見るとここは「adoption to sonship」となっています。adoptionつまり養子として受け入れられるということを言っているんですね。私たちが神の子供と呼ばれるのは、神様が私たちを養子として受け入れてくださったが故だと、生まれつき子供なのではない。養子として受け入れられた。ではどのようなプロセスがあって私たちは神様の子供になったんでしょうか?


もちろん現代でも養子制度というものはあるわけですけれども、当時一世紀ローマの文化、社会の中では、まあ今よりもわりと頻繁に養子をとるということが行われていたようです。たとえば裕福な家に、子供が生まれなかった、あるいは子供がいたとしてもこの子には家を継ぐ能力がないと父親が判断した場合、自分の召使、あるいは奴隷から一人をとって養子にする。そして養子とされた瞬間、その奴隷は子供として扱われ、法的にすべて実の子供と同じようになる。そういうことが普通に行われる世界でした。でその背景を例えとしてパウロはここで話を進めています。

戻って4節。御子を遣わし、、、贖いだすとありました。この「贖いだす」という言葉も耳慣れない聖書用語かなと思います。もともとのギリシャ語の意味で言いますと買い戻すという意味です。つまり費用を払って救い出す、奴隷を自由にするというニュアンスです。費用を払って奴隷を買い、自分の子供にする。では誰が費用を払って私たちを自由にしてくださったのかというと、それが神の御子つまりイエス様なんだというお話です。イエス様は本来私たちが受けるべき罪の罰を肩代わりしてくださり、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。っとこのようにイエス様がご自身の命という費用を支払って私たちを救い出してくださった。「贖われた」んですね。が故に私たちは罪赦されたものとされたばかりでなく、神様の子供として受け入れられる。


さてでは子供とされる前はいったい何者だったのか。ここでパウロが子と対比して登場させているのが奴隷です。出てくる箇所ずらーっとリストアップしました。1節奴隷と少しも違わず、3節この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。7節奴隷ではなく、子です。8節神でない神々の奴隷でした、9節再び新たにその奴隷になろうとするのですか。今日の箇所だけ見てもこれだけありますが、ほかの箇所も含め聖書は言います。私たちはイエス様を信じる以前は、皆奴隷だったのだと。


奴隷と子供の圧倒的な違いは何でしょうか、それは関係のベースにあるものが違いますよね。奴隷には失敗が許されません、主人を喜ばせることだけに全集中です。なぜならなにか不備があれば、主人から罰せられる。つまり仕事が良くできているかどうかということが関係のベースにあります。ですから奴隷が主人に従うとすればそれは主人の罰を恐れているからです。叱られないように頑張るそれがモチベーションっという感じでしょうか。一方親子関係というものはどうか?子供が何度失敗をし、愚かなことをしたとしても、子を見捨てる親というものは基本的にいません。(中にはひどい親もいますが)親子関係のベースにあるのは何ができるかというパフォーマンスではなく愛です。あなたがたは奴隷ではなく神の子どもなのだ、神の子供とされたのだから奴隷には戻ってはいけないよ。まあこれが今日の箇所通してパウロが語っている主軸のメッセージになります。


ではイエスキリストに出会う前は皆奴隷だったというのは具体的にどういうことなんでしょうか。3節見てください。

私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

ガラテヤ4:3


まだ小さかった時には、っというのは実際に年齢が若かった時ということではなくイエス様と出会う前はということです。イエス様と出会うまえは、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。幼稚な教えと訳されている言葉、ギリシャ語でストイケアという言葉です。日本語に訳すと「イロハ」英語で言うところ「ABC」というような意味があります。初歩的な教えと訳したらわかりやすいでしょうか。ではこの初歩の教えとは一体何か。結論から申し上げると、それはまず第一に律法のことをさしています。イエス様が現れる前、ずーっと前モーセを通してイスラエルに与えられた教え、まっそういう意味で初期段階の教えというニュワンスでしょうか。シリーズを通してみてきましたね。このユダヤの律法を守らなければ、つまり旧約聖書のルールを守ってユダヤ人のようにならなければ本当の意味では救われないそういう間違った教えに対してパウロは「救いは十字架を信じる信仰による」っと手紙の中で反論をしてきました。イエス様が現れて下さる前は、律法にがんじがらめ。奴隷が主人の罰を怖がるように、律法を守らなければ裁かれて罰を受ける。そう教えられてきただろうと。ある意味で律法に対して奴隷であった。っとそういう表現になっています。


もちろん私たちは現代を生きる日本人ですから、そもそもユダヤの律法なんて関係なく生きています。ですから律法の奴隷だと言われてもピンときません。しかしながら「本当に信じるだけで救われるのか、不十分ではないのか」という思いは自然と沸き起こってくるのではないでしょうか。なぜならそれはやはりこの世の中というのは、成果主義で回っているからですよね。どれだけ努力して、どれだけの成果をだしたのか、それによって私たちは評価される。学校でも、職場でも、下手したら家庭でも、そういう世界に生きています。ですから気をつけていなければ、いつの間にか自分の信仰もまたそのような価値観に染まっていくということがありますよね。

自分は聖書をしっかり読めているのか、毎日祈れているのか?教会の礼拝に毎週出れているのか、人に伝道しているのか、そういった様々な物差しで自分の信仰を測るようになっていってしまう。その結果自分が「しっかり」できていないと思えば、まじめな人ほど「あれもしなければ、これもしなければ」となっていきます。そうなってくるともうこれは律法と同じです。もちろん聖書に書いてることに従いたいという思いは大事なんです。信仰には行動が伴って然るべきだとも思います。しかしながら、こうしなければ、ああしなければ、神様は自分を受け入れてくださらない。っと考えるようになってしまうときに、私たちクリスチャンもまた知らず知らずの間にこの律法の奴隷になっていくということがあるんですね。非常に考えさせられます。


さてではクリスチャンではない人たちには全く関係のないお話なのか?そういうことになってきますよね。なぜなら別に聖書がとか、神の戒めがとか、そういう縛りはクリスチャンでない方々には関係のない話なわけで。まさに自分の思うがまま「自由」に生きていらっしゃるとすれば、あなたは奴隷だと言われたとてピンとこないのではないかと想像します。しかしながら聖書は言います。私たちは皆例外なく奴隷なのだと。では律法でも、聖書でもないとしたら、一体何に対しての奴隷だと言っているのでしょうか?


先ほど幼稚な教えと訳されているギリシャ語、ストイケアというのは初歩的な教えという意味だというお話をしました。そしてそれはつまりはユダヤ教の律法だと。さてこのガラテヤ人への手紙の宛先、ガラテヤの教会にいたのはユダヤ人だけだったのかと言うとそうではな。異邦人、つまりユダヤ人以外の人もたくさんいました、何なら半数以上そうだったのではないかと言われています。で彼らは異邦人ですからユダヤ教の律法など知らずに生きてきた人たちですよ。でパウロはここでその人たちも含めて以前は奴隷だったと言っている。では彼らはいったい何に対して奴隷だったのか?


私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

ガラテヤ4:3


そこで考えなければいけないのがこのストイケアという言葉のもう一つの意味です。実は「幼稚な教え」だけではなくして、新改訳2017見ていただきますとこの部分「もろもろの霊の下に奴隷となっていた」と訳されています。ストイケアという言葉には、天地万物を創造している基本的な要素/土、火、水、風という意味もあるんですね。英語で言うところのエレメントです。で小学校はエレメンタリースクールですから、初歩的なという意味もある。両方の意味があるわけです。でそこから派生して、もろもろのエレメント、でもろもろ霊と訳されます。ではもろもろの霊って一体何か?当時ローマの各地では様々な偶像が礼拝されていました。いわゆる多神教です。もちろんガラテヤにもそのような偶像がいっぱいあったであろうなと思います。いろんな種類の神々、これこそがもろもろの霊なのではないか。ですから8節にこのようにあります。


しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。(8節)


とあるわけです、そして続いて9節に本当の神様を知っているのに幼稚な教えに逆戻りしてという表現が出てきます。でここで使われているギリシャ語もまたストイケアです。つまりパウロはストイケアという言葉を両方の意味で使っている。イエスキリストと出会う前、ユダヤ人が律法に対して奴隷であったように、それ以外の異邦人は、キリストと出会う前、本来は神でない神々、つまり偶像に対して奴隷であったと。こう言っているのではないでしょうか。

                                  

じゃあ偶像に対しての奴隷ってどういう状態なのか?ちょっと考え行きたいと思います。例えばある人が農業の神、偶像を拝んでいたとします。でささげものをささげる、でも雨が降らない、収穫がとれない。これが続いたらどうなるか?ささげものを増やしていくしかないですよね。きっと農業の神が怒っているからこうなっているんだと。神よ怒りを静まり給え、と言って普段より上等なものをささげる。それでもその状況が続けばどうなるだろうか、もっともっとと、結果ささげものはエスカレートしていきます。それを繰り返していくと自分の子どもをささげたり、なんて言う話が古代の偶像礼拝では出てくるわけですよね。偶像に対して奴隷と言うのは、ささげても、ささげてもきりがないという状態のことをいいます。なぜなら神々、偶像がいつ満足するのかというのは、ささげている側には決してわからない。ですからいつも不安なんですね。いつ罰が当たるのかわからない。

 

 でそれに対して「いや私はほら無宗教なので、ささげものとか関係ないです。偶像礼拝とかとは無縁です。」っとこのようにおっしゃる人も多いと思います。有名なクリスチャンの著者で牧師であったティムケラーはこのように言っています。

全ての人は何かを礼拝している。私たちにあるのは何を礼拝するかという選択だけだ。

Tim Keller


すべての人は何かを礼拝しているってどういうことか?でそれは人は皆自分の中で一番大事にしているものがあり、それを優先順位として人生のかじ取りをしていくということです。意識的に自分はこのために生きているんだっと思っていることもあるでしょうし。多くの場合は無意識だと思います。自分が意識していようがいまいが関係ありません。自分の時間、エネルギー、お金、リソースそれらを何に一番さいているのかというのを見れば自分が最も大事にしているもの見えてくる。自分の偶像というものがはっきりしてきます。 例えば仕事が自分の人生に意味を与えてくれると信じている人は、そのために多くの時間を費やすでしょうし、頑張りすぎて家庭犠牲にする、あるいは体を壊してしまうということもあるかもしれません。すると仕事がこの人の偶像になる。ささげたのは家庭と健康という具合でしょうか。あるいはお金が大事だと思っている人は、稼いでも、稼いでも、満たされないかもしれない。そしてそのプロセスの中で結果的に人間関係を犠牲にするということがありうるでしょうし。見た目がすべてだと思う人はどれだけ美容に気を使ってお金をかけて、着飾ったとしても老いには勝てません。結局ハリウッドの女優は整形手術を重ねて本来の美しさを失っていくということがありますし。まあ今あげたようなわかりやすい形では出てこないかもしれません。けれども偶像を、つまり神様以外のものを第一として生きていく人生というのは、奴隷の人生だと。どれだけ頑張っても、ささげても自分は不十分なのではないか?という思いがつきまとう、そういう人生になってしまう。


律法にしろ、偶像にしろ、自分は成果を出し続けなければ、頑張り続けなければ、合格をもらえないという感覚。そのような成果主義、パフォーマンスベースで自分を量るときに私たちは奴隷になってしまう。そのような奴隷のような状態から、イエス様の十字架を信じるのであれば、解放されて自由になると。しかしそこで終わりではない。私たちはただ自由になってまっさらなスタートを切るだけではないんです。


 ある意味ガラテヤの教会に広まりつつあった教えも十字架によって救われるというところまでは同じだったわけです。彼らは言いますもちろん十字架によって私たちは救われる、けれどもその後は律法を守らなければ神様に本当には受け入れてもらえない。つまり十字架によってスタートラインにたつことはできる、けれどそれ以降は自分次第だ。っというそういう教えだったんですね。しかしパウロが言っているのは私たちはただ単に自由にされるのではなく、神様の子供になると言っている。ということを今日は特に覚えたい。


そこでもう一度4-5節戻ってみていただきたいと思います。

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

ガラテヤ4:4-5

女から生まれた者というのは、まあ端的に言って。イエス様は神様であられるにもかかわらず人間になられたという意味です。イエス様が私たち人間の罪の身代わりのために人とならなければならなかったのは何となくわかります。しかしながら注目していただきたいのは、その次。「また律法の下にある者となさいました。」というところです。これはイエス様がただ単に人として生まれてくださっただけでなく、本来私たちが努力して守らなければいけない律法、神の戒め、神様の言いつけを全て守ってくださったということを意味しているんですね。つまり、私たちの身代わりで単純に十字架で死んでくださった、だけではない。失敗ばかりする、罪ばかり犯す、不合格ばかりだす不十分な私たちの代わりに100点の人生を生きてくださったということを意味しています。


ある教会学校の教師が「神さまの成績表」というアクティビティを通して子供たちに福音の意味を教えたそうです。まず子供たちに成績表に似せた書式の紙を渡すんですって。で自分で自分の成績を書き込んでいくと。しかしながらそこにある評価項目は「国語」とか「算数」ではなく、「人にやさしくできているのか」とか「お父さん、お母さんの言うことを聞いているか」とか「自分より他人を優先しているか」とか。そういう科目がずらっと並んでいると。で自分にわりと自信があるこは、BとかB+とかちょっと苦手だなと思ったらCとかつけていくわけです。でそれぞれなぜそのような評価をつけたかなんかの話を聞いた後で、神様の基準に照らし合わせるならA+以外は落第だということを伝えます。つまりは例外なく皆落第だと。ところがイエス様の十字架がこの悪い成績表の問題を解決してくださった。で結構教会歴長い子は答えるわけですよ。「私知ってる、イエス様が十字架で代わりに死んでくださったから私たちは、真白の成績表がもらえるんでしょ?」先生はいいます。「そうだね、けれども真白の成績表なら、結局また頑張らないと、でもどれだけ頑張っても結局全部A+の成績はとれないでしょ?」そう話した後でもう一つの成績表を取り出します。そこにはイエスキリストという名前が書かれていいます。そしてもちろんすべての評価がA+になっている。その次にその成績表のイエス様の名前を消して、子供たちに自分の名前を入れるように言うんですね。すると子供たちは「いや、それはできない、だってそんなことしたらイエス様が落第になってしまう」そうしたら先生はいいます「そうなんだイエス様は十字架を通して僕たちにまっさらな人生を下さっただけでなく、オールA+の人生を下さった。だからイエス様の十字架を信じるとき、もう自分で頑張ってA+を取ろうとしなくていいんだよ。」


イエス様の完璧な人生と私たちのダメダメな人生を交換していただける、これが福音です。そしてだからこそ、私たちはただ罪赦されただけでなくして、私たちは神様の子供になれるんですね。自分で頑張って合格点をたたき出す、そのような私たちの奴隷の人生をイエス様はまるまる引き受けてくださった。代わりに私たちは神様の子供としていただける。人生が入れ替わるっていうんですか。だからこそ最後6節-7節


そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

ガラテヤ4:6-7

注目していただきたいのは「アバ、父」と呼ぶというこの部分です。アバっていうのはアラム語で「パパ」とか英語で言うところの「Dada」っという感じでしょうか。幼い子供が父親を呼ぶときによく使われる言葉です。


うちの息子も私のことを「ダダ」と呼びます。息子の恵信が父親の私を呼ぶとき、どのようなことを考えているでしょうか。いやまあ3歳児ですから、何にも考えていないんでしょうけれども。それでも一応この人は呼んだら来てくれる。自分の面倒を見てくれる。そういう安心感というものは持ってくれている。だから泣いてるとき、困ったときに、「ダダーっ」て力いっぱい叫んで呼んでくれるんだろと思うんですね。ま当然自分が呼べば親は答えてくれるという安心感、この安心感が「アバ」という言葉の響きにはある。

私たちはかつて奴隷でした。つまり頑張って、努力して、結果を残して、認められて、どうにかく合格点をたたき出さなければいけない人生でした。でそれはいろいろな形をとるというお話をしました。教会生活や信仰面で「良いクリスチャンであらねば」という形で出てくることもありますし。あるいは、「仕事でいい成果を残さなければ」とか「母親としてこうあらねば」とか「社会人としてこうでなければ」とか、とにかく「自分はこうあらねば」というものに縛られる人生ですね。しかしながら十字架を信じるときに、私たちは奴隷ではなくなり、子とされる。がゆえに神様のことを「アバ」と呼ぶことができる。安心して「ダダーッ」と呼んでいい。でそれは、イエス様が私たちの失敗、挫折、罪、恥、それらを全部引き受けてくださったからです。代わりに私たちに与えられたのは、イエス様の人生そのもの。だから「アバ」なんですよ。いいですかここだけアラム語で書かれている。不思議じゃないですか?ほかは全部ギリシャ語なのに、ここだけアラム語です。なぜか?でそれはイエス様が父なる神様を呼ぶときに使っていた言葉がアラム語の「アバ」だったからなんですね。そして私たちもイエス様の十字架のゆえに神様を「アバ」と呼ぶことができる。つまりイエス様が父なる神に対して持っていた同じ距離感で、同じ関係性で私たちも父なる神様に接することができる。ということを意味している。

 

 ですから私たちは十字架を通して、自分はなにができなくとも、どれだけ失敗したとしても、実の子供のように愛されているんだということを今日覚えていただきたいと思います。このような愛は他どこを探しても見つかりません。


2024.07.14

心の穴を埋めるもの

 

「むなしい」それを口癖のように言っていた学生時代を覚えています。何をしてもむなしい、楽しめないと。中学生くらいだったかな、いわゆる中二病というやつでしょうか。いまでも気を付けていないと正直この言葉を口にしてしまうことがある。思い返してみれば私は本当に面倒くさい子供だったなあと思います。どうめんどくさかったかといえば、何か楽しいことやうれしいことがあると、もちろん楽しい!とか嬉しい!という感情が自分の中にありながらも、それの終わりがくることを同時に考えるような子供だった。わかりやすく言うとそうですね。旅行に行く予定があったとします。その旅行が楽しみで、出発の日が近づくにつれてテンションがあがる。あと何日頑張れば、旅行に行けるぞと思うわけです。そして出発当日、車や電車とかで考えることは、ああでもこの旅行も始まったということは終わりがくるんだなあなどと考え始めている。まさに今というその時を楽しめない、そんな子供でした。


 伝道者の書に出てくる最初の言葉「空」ということばも新共同訳では「空しい」と訳されています。伝道者の書は、結構日本人には人気があるみたいですが、わびさびというか、はかなさとか、そこらへんの感じがですね。一方で特に西洋の教会で講解説教の題材として扱われることは結構少ないようです。まあ内容的にもいきなりすべては「空だ」むなしいという一見ネガティブなオープニングを飾るように聖書の中でもかなり異質な内容になっています。もう一つ伝道者の書を難解にしている理由は歴史的背景が神学者の間でもつかめていないという難しさがあるようですね。つまり、誰が、いつ、何のために書いたのかっていうやつ。だからこそ、実際に書いてある内容から読み解く情報だけになるので、解釈が分かれるところが多かったりと、何かと難しい本のようですね。まあ最初に難しいという言い訳をさせていただいて始めていきたいと思います。


 さてこの伝道者の書に出てくる「空しい」は僕が中学生のころ言っていた空しいとは少し違うようですね。それを考えていくうえで、誰がこれを書いたのかというところを探っていきたいと思います。「伝道者の書」ですが新共同訳では「コヘレトの言葉」となっています。「伝道者」と訳されているヘブル語が「コヘレト」というわけですね。英語の聖書では「教師」などと訳されている場合もあります。もともとの意味は集める人という意味で、集まった群衆に教える人、あるいは様々な書物、知恵を集める人いう意味合いで、伝道者、教師などという風に言われているわけです。さて難しい話はさておきですね、じゃあそのコヘレトって実際にいったいいつの誰?っということですね。伝統的には、ソロモンだといわれてきました。実際に伝道者の書の中で語られることがさっき読みませんでしたが2章なんか特に、ソロモンのプロフィール(9節にエルサレムで誰よりも偉大だった)に一致すること、「エルサレムの王、ダビデの子」というサブタイトルもその一つです。ただし最近の研究では、ソロモンよりも後の時代おそらくバビロン捕囚後に書かれた、つまりソロモンではなく別の誰かが書いたという見解が非常に有力だそうです。まあ今日はその詳細に触れると時間がありませんので飛ばします。というのも書いたのはソロモンでないにしろ、筆者が誰であれ、ソロモン王をモデルとして伝道者の書が書かれているという点に関しては一致した見解がる。つまり伝道者の書を読むときに、ソロモン王を読者は思い浮かべて良いということです。筆者がだれかというよりも、あるいは誰であれソロモン王を心に浮かべながら読むということが筆者の意図だということですね。

 さて少し長く退屈な話をしてしまいました。だとすればですよ。「すべては空しい」と言っているのはソロモン王、あるいはソロモン王のような人です。ソロモンはどういう人物だったのか? ご存知のかたも多いと思いますが、少しふりかえりましょうか。列王記、歴代誌に出てきますし。2章に出てくる内容もそれと重なりますが。


神様によって知恵が与えられ、誰よりもかしこかった。 多くの書物や詩をたしなめました。富と名声に満ち、治めていた国は繁栄を極めて諸外国から訪問がくる。7年がけで達成した神殿建設のプロジェクト、(自宅には13年の年月を費やしたわけですが、、)そして700人の妻と300人のそばめ、息子や娘も数多くいたことでしょう。人類史上最も富と名声と知恵に満ちていた。何でも知ってたし、何でもやってきた人ランキングのトップワンといっても過言ではない。



ですからソロモンは中2の私みたいにもの想いにふけって「むなしい」といったわけではない。いったいこの世に生まれて何のために生きているのか?という、その誰しもが、一度は考える質問に真っ向から挑んで、すべてを試した人だった。


快楽だけじゃなく、知恵も

富や名声だけでなく、芸術家としての才能も

世のため、人のため何かを変えようという大義だけじゃなく、安定した平和な日々も

平和だけじゃなく戦争も

家族だけじゃなく、やりがいのある仕事や偉業も


それら全部持って、あるいは経験してなお、それらは「空」だという。「むなしい」という

普段私たちは、思いますねもっと~があればなあって、それらすべてを持っていたのがソロモンです。


この「空」あるいは「空しい」という言葉実は伝道者の書で30回以上登場します。それほど全部が「空しい」ということでしょうか。


英語ではmeaningless=無意味。Absurd=不合理な とかいう訳され方がされていますが。へブル語で“hebel”といいます。英語で言う、意味がない、あるいは日本語のむなしい、空っぽといった意味も間違いではないが、すこしわかりにくいかなと思いますね。


それこそ本当に、無意味で空っぽならこの人生には何の価値もないという結論になってしまう。実はこの言葉ですね、「息」とか「蒸気」という意味もあります。今夏なのでっちょっと想像しにくいとは思うんですが、


毎年クリスマス時期にはですね私の日本の教会は駅前でキャロリングをやるんですよ。駅近の教会ということもあるんですけどね。それで仕事帰りに、教会によるわけです。日本では原付のバイクで通勤してましたから。もうめちゃくちゃ寒いんですよ、何が寒いってね手が寒い。バイク乗ったことある人わかると思うんですけど、手が死ぬほど冷たくなる。そんなんで教会ついてキャロリングの歌詞を手に持って12月の寒空で風がびゅうびゅうふく中歌うからもう寒くてしょうがない。それでもちろんカイロとかで手をあっためたりするんですけど、やっぱり一番原始的な暖の取り方はどうするかといえば、こうやって手を合わせてはーっと息をかける。その時の息って白く見えるじゃないですか。でも一瞬見えてすぐ消える。一応伝わるかなと思って持ってきましたが霧吹き。 一瞬、現れてすぐ消える。 一瞬現れてすぐ消える。これがhebelです。


他の箇所でどのようにhebelが使われているか見たらわかりやすいかもしれないですね、例えば


人は息(hebel)にすぎずその日々は影のように過ぎ去ります。

詩篇144:4


つまり完全に無意味というよりは、一瞬の事ですよってことですね。まさに霧のようにさっと現れて消えると。


一瞬の事、大した影響もないこと、という感じでしょうか。

でも私たちの多くは、この息、水蒸気、一瞬で消えてなくなる霧に人生を翻弄されます。


自分の日常の生活で不安やストレスを覚えることを振り返ってみました。最近の一番のストレスは、まあ正直言えば、この説教が締め切りまでにしっかりとしたものが出来上がるかという事でした。なぜそれに頭を自分は悩ますのかといえば、それが自分にとって大事なものだからですね。そして説教自体がということもありますが同時に、間に合わなければ恥をかくし、人の期待を裏切ると。そういう意味でそれらを失いたくないと思ってしまう自分が無意識にも感じている自分がいるということです。もちろん好きでやっていることのなので、それがしんどいということではないです。逆に言うと好きだからこそだと思います。

どうでしょう人が悩みを抱える、怒る、不安を覚えるなどの感情を抱くとき、そこには常に自分にとって失いたくないもの、あるいはどうしても手に入れたいと思うものがその裏に隠れていることはじゃないでしょうか。伝道者はそれらがすべてがhebel 一瞬で無くなる、たいしたことの無いものだと。


皆さんにはどうしても欲しいもの、あるいは失いたくないものがあるでしょうか。


いろんなものあるでしょう

すべては「hebel」だと


つらつら色々言ってきましたが、

すべてがhebelならクリスチャンは なにしたってすべては霧なのだから,なににも気を留めずとにかく世の中とかかわらずに生きていけばいいのか、


そうではないんですね。もう一つ、重要な言葉「日の下で」という言葉、これも29回かな頻繁に出てくる言葉なんですね。意味は難しくない、文字通りこの世っていう意味ですよ。生きている人生の中でという意味。

もしこの生きている人生そして目に見えて触れるものがすべてだったとしたら、この人生はhebelという条件があるってことですね。


 もーっとわかりやすく言えば、この世がすべてで神様などいなかったとしたら、つまりは日の下ではすべてが hebel だと

どれだけ良いことをして、偉業をなしたって、究極的には世界は変わらないし

どれだけ快楽を追求したって、その報いは自分に返ってくるばかりか、結局満たされることはない。それが日の下にある人生だと伝道者は言う。


 では日の下だけではない、神様のいる人生とはじゃあ一体何か。ヒントが2:24-25

人には食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであることが分かった。実に神から離れて、誰が食べ、誰が楽しむことができるだろうか。


 神様から離れて誰が楽しむことができるだろうか?と問いかける伝道者。すべては空しい、でも神様がその中にいてくださればその空しい人生には何か変化があるのでしょうか。だとすればそれは何か。


 富であれ、名声であれ、知恵であれ、やりがいのある仕事であれ、家族であれ、おいしいごちそうであれ、それらは神の御手による、つまり神様からのギフトだと伝道者は言う。ギフトとは何か、それは与えられるもの。自分で勝ち取るものとはわけが違う、私たちは、裸で生まれ裸で帰っていく。すべてはギフトであると


 ルカの福音書12:16-20 に出てくる愚かな金持ちのたとえ話ごぞんじでしょうか。豊作で作物をたんまりと抱え込んだ金持ちは、それらを収める倉を作った後、心の中でこう思う

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた、さあ安心して、食べて、飲んで、楽しめ」

そこで神様がおっしゃる

た。『 愚か者。 おまえのたましいは、 今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』


そして21節で

自分のためにたくわえても、 神の前に富まない者はこのとおりです。


別に一生懸命働くこと、貯金することが悪いわけではないですね。それは明らかでしょう。そして私たちの魂が一瞬で取り去られるということは皆に起こることでもないと思います。ただこの金持ちの持っていた平安、あるいは楽しむことができる根拠、楽しめる根拠は神様への信頼ではなく、蔵の中にパンパンに詰まった作物だったというところが問題だった。彼にとってすべてはギフトではなく、勝ち取る、稼ぐ、ためておくそういうものだったということですね。彼は神の前に富まなかった。このたまりにたまった作物さえあれば人生を楽しむことができると思った。


 神様から離れて誰が楽しむことができるだろうか?と問いかける伝道者。その問いかけに私たちはどう答えるでしょうか。


 あの愚かな金持ちのようにお金があるから、あるいはこの仕事があるから、家族がいるからこの人生を楽しめるという答えになるのか。それとも何はなくとも神様がいるから楽しむことができると答えるのか。

すべては神様からのギフトで楽しむように与えられるもの、だけれどそれ以上の期待をギフト自体にしてしまうと、その期待にこの世のものは答えられない。

 最初のほうに私は昔何をやっても楽しめない子供だったとお話をしました。そんな私が人生の中で初めて出会った、これは楽しいずっとやっていたいと思ったもの、それはダンスでした。時間を忘れてずーっとやっていましたね、もう何十年も前のことです。そしてある時気づきました。ダンサーには2種類いるとA:ダンスが自分のすべてだと思っているダンサー B:ダンス以外にもいろいろやっているけどダンスが好きなダンサー


さて問題です、どちらのタイプのダンサーのほうがダンスを楽しめるでしょうか。Bですね。

Aは自分に自信が持てているうちはいい、でも他と比べて自分が劣っているとかひょんなことから自分のダンススキルはたいしたことの無いものだなどと思おうものなら、自分など価値がないというところまで、精神的に急降下。Bは例えダンスで少々自信を落としても、自分の価値がというところまでは考えない。

僕は典型的なAでした。だから、自信を落とすとあれだけ好きだったダンスを踊りたくさえないと思った。Bタイプのダンサーはいつだって素直にダンスを楽しめる、それは知ってか知らずが、彼らにとってダンスはギフトに過ぎないということを実感しているから。ダンスを通して自分の価値を勝ち取る必要がない。


極端な例かもしれません。でも伝道者が言うようにこの世のどんな素晴らしいものでも、それが「hebel」霧や息であるなら、それによりかかることはできない。しっかりとそれによりかかって立つことはできない。


日の下では、この人生を観察するだけでは、人生の意味など分からない。だから人は人生に大した意味などなく空しい思う。そしてよりかかることのできない霧を「hebel」を集めては、なるべく長くそれが消えないように努め、没頭し、永遠という視点から見ればそれが本当に一瞬現れて消えるもの、であるということを忘れてしまおうとする。


消えてなくなるものの究極はなんでしょう、この「命」です。ふつう世間話で死について語ることがないのはそのためですよ。だれもそんなこと考えたくない。


私たちが欲しいのは、なるべく長く、安定した、楽しい人生、たとえそれが霧だったとしてもです。だからクリスチャンでも霧をほしがり、霧について悩む、霧を欲しがり、霧が手に入らず、霧を失いそうになり、霧について悩む。命自体が神様からのギフトだということを忘れてです。


神の前に富むというのは、神様から与えられたものを感謝をもって楽しめる人。それを通して何かを得よう、何かを勝ち取ろうとしない人生。その瞬間瞬間に生きることができる人生。今をシンプルに楽しめる人の事を言うのかなと思います。


物は壊れ、天気は変わる

老いを止めることはできないし

どんなにお金があっても時間は買えず、

家族を含めたどんなに近しい人も本当の意味では変えることはできない、

やりがいのある仕事だって、引退がくる、


私たちにそれらをコントロールすることなどできないっというのが現実で、だからそれらは空しいと言えなくはない・けれどもそれその結果がどう出ようとそれを入れることができたなら少し変わってくるのかもしれない。


クリスチャンの先輩がある時こう言ってました、「人生どうころんだって、死ぬまで何十年しかないんだから」まあ人生の先輩でもあるのであれなんですけど、それを聞いたとき思いましたよね、っていや何十年って結構長くない?でもその方は人生を楽しむ達人といってもいいような人です。どうしたら楽しめるのか、つまりは生きているだけで丸儲け精神。死ぬわけじゃないのであれば、彼にとっては人生すべてがギフトで、手放しで楽しむことができるという事なんだと思います。ある意味ですべてを楽しむということが神様からのギフトに対して一番正しい反応なのではないかと思います。


どうやら新約聖書に登場するパウロもそのような人だったみたいですね。ちょっと聖書開きたいと思いますが。


私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。 

ピリピ1:21


もはやパウロにいたっては死さえも益だと言っています。この世のすべては「空」hebelで一瞬で消えてしまう何の意味もないことかもしれない、けれど彼はある時キリストに出会いました。そして仕事が、富が、名声が、やりがいが、家族が、結婚が、飲み食いが、彼にとっては厳格にパリサイ人として生きることが、自分の人生に必要なのではなく、神様がキリストを通して示された愛こそが自分に必要であったということを知った。だからもうその穴を「hebel」霧で必死に埋める必要はない、一番大きなギフトがしかもそれは霧ではなく実態をもったイエス様ご自身が与えられたということを、キリストに出会って見出した。霧の上に建てられた人生ではなく、イエスキリストという揺るがない岩に建てられた人生の上で、もはや何かを勝ち取る人生ではなく、すべてはすでにキリストをとおして与えられている人生に変わった。そんな彼にとってもはや「死」を含めたすべてが神様からの贈り物へと変化したというのは言い過ぎでしょうか。彼にとっては人生すべてがギフトで、手放しで楽しむことができるという事なんだと思います。ある意味ですべてを楽しむということが神様からのギフトに対して一番正しい反応なのではないでしょうか


 とはいえどうでしょう、死は益ですなんて言えるでしょうか?そりゃあまあ死んで天国に行けるって意味じゃあそうかもしれないけど、この世にある死、悲しみ、つらいことはやっぱり益ではないのではと、、 

 

もう7年以上が過ぎた東日本大震災は、多くの被害と犠牲を生みました。と同時に私たちの人生、積み上げているもの、安心を置いているものがどれだけ、不安定なものhebelであることかという現実を多くの方々につきつけることとなった。日本中が騒然としました。結果的に今までに届かなかった場所に、福音が届けられ、ちょっとしたリバイバルが起ったということもまた事実です。もちろんだから地震が起きて良かったということではもちろんない、けれども、文字通り私たちが立っている場所が揺るがされるぐらいのことが起きて初めて、私たちがささやかでも幸せを感じているのだとしたら、それは神様が与えてくださっているギフトに過ぎないと初めて気づくことができたということもあるんじゃないでしょうか。だから死は益だなどという単純な話ではない、けれど私たちはいろいろなものが取り去られて初めてその有難さに気づくものです。死は、生がどれほど尊いものであるのかということを改めて再認識させてくれます。


 だとすればどうか、私たちが、この命を人生を神様から与えられたギフトとして感謝して自由に手放しで楽しむためにすることは一つ。それは究極的に言えば、己に死ぬということを繰り返してのみ、自分がどうしても欲しいものを、自分からあるいは時に、仕方なく手放す。そうして初めてこの人生は霧で、コントロールができないものだということを心から受け入れることが身についていくのかなと思います。自分のどうしても手放したくないものに死ねるときに、この人生のすべては一瞬の霧かもしれないがその輝きを増し始める。キリストという岩に立ち自由にすべてを楽しむことができる。


 わたしたちの内にはパウロのように言い切る信仰はないかもしれないけれど、何かに心奪われ、霧をつかみそうになる時こう唱えることができたらと思います。


生きることはキリスト、死ぬことは益です。

生きることはキリスト、死ぬことは益です。

私に必要なものはすでにキリストを通して与えられているのだから。それ以外はすべて「hebel」空だと


祈り

恵み深い父なる神様。

この年末の時期にあって、一年を振り返り様々な恵みをいただきましたことありがとうございます。しかしながら同時に後悔や、あるいは迎える新たな年に様々な不安をいただいている方もいると思います。主よどうか私たちにすべてはhebel霧に過ぎないことを思い出させてください。そして本当に必要なもの、本当に私たちが欲しているものはすでにキリストを通してあなたが与えてくださっている事を教えてください。迎える新たな年が私たちオークランド日本人キリスト教会にとって生きることはキリスト、死ぬことは益だと大胆に語ることのできる年となりますように導き支えてください。そしてあなたが与えてくださる日々、瞬間瞬間を、ギフトとして感謝し楽しむことができますように。



イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン





Q伝道者は「空」という言葉を選びました。今年を振り返って一つ感じで表すとしたらあなたの一年はどのようなものでしたか。


Q楽しむのは得意なほうですか?人生を楽しむのを妨げる要因はどんなものが考えられますか



Q人生に意味はないと考えたことはありますか? 何かきっかけがありましたか?

 今自分の人生に意味を見出しているとすれば、それはどのようなものですか


Q神様を信じたことによって、自分の人生にどのような変化がでましたか。


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