メッセージブログ

2024.07.28

神の子とされる (ガラテヤ4:1-9)

 

一章から一貫して語られているガラテヤ人への手紙のテーマは、私たちは律法ではなく信仰によって救われるです。で3章ではですね、そのことが実は創世記のアブラハムの時代の約束からこう話がつながっているということが出てきたわけです。神様はアブラハムにその子孫を通して全世界を祝福するとおっしゃった。でその後モーセを通して律法がイスラエルに与えられたんだけれども、その律法は約束された祝福をもたらすというよりは、どちらかと言えば人間の心にある罪をよりはっきりと私たちに示す、まあそんな役割をもっていたと。ではどのようにしてアブラハムに約束された祝福はもたらされるのかと言うと、それはイエスキリストの十字架を信じる信仰によると。ああザーッっくり言うとそんな感じの話だったかと思います。さて今週はですね、じゃあそのイエス様を信じる信仰を通して与えられる祝福ってどんなものなのか?というそういうお話です。実は昨年の父の日にこの箇所からメッセージをしていますので、重なる部分もあると思いますがご容赦いただきたいと思います。

ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

ガラテヤ4:1-7


 イエス様の十字架を通して与えられる祝福はいろいろあるわけなんですが、今日の箇所でクローズアップされているのが、神様の子供とされるというポイントです。3:26にこのようにありました。


あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3:26


さて聖書の中であなた方は神の子ですという時にそれはいったいどういう意味なんでしょうか?人間は皆神様に作られた、そういった意味で神の子供というそういうことなのかと言うとそうではない。ここではいやそれ以上の特別な意味で言っています。4章4-5節 見てください。


しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

ガラテヤ4:4-5


注目していただきたいのは、「子としての身分を受ける。」という言葉です。ちょっと日本語ではわかりにくいですが、英語で見るとここは「adoption to sonship」となっています。adoptionつまり養子として受け入れられるということを言っているんですね。私たちが神の子供と呼ばれるのは、神様が私たちを養子として受け入れてくださったが故だと、生まれつき子供なのではない。養子として受け入れられた。ではどのようなプロセスがあって私たちは神様の子供になったんでしょうか?


もちろん現代でも養子制度というものはあるわけですけれども、当時一世紀ローマの文化、社会の中では、まあ今よりもわりと頻繁に養子をとるということが行われていたようです。たとえば裕福な家に、子供が生まれなかった、あるいは子供がいたとしてもこの子には家を継ぐ能力がないと父親が判断した場合、自分の召使、あるいは奴隷から一人をとって養子にする。そして養子とされた瞬間、その奴隷は子供として扱われ、法的にすべて実の子供と同じようになる。そういうことが普通に行われる世界でした。でその背景を例えとしてパウロはここで話を進めています。

戻って4節。御子を遣わし、、、贖いだすとありました。この「贖いだす」という言葉も耳慣れない聖書用語かなと思います。もともとのギリシャ語の意味で言いますと買い戻すという意味です。つまり費用を払って救い出す、奴隷を自由にするというニュアンスです。費用を払って奴隷を買い、自分の子供にする。では誰が費用を払って私たちを自由にしてくださったのかというと、それが神の御子つまりイエス様なんだというお話です。イエス様は本来私たちが受けるべき罪の罰を肩代わりしてくださり、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。っとこのようにイエス様がご自身の命という費用を支払って私たちを救い出してくださった。「贖われた」んですね。が故に私たちは罪赦されたものとされたばかりでなく、神様の子供として受け入れられる。


さてでは子供とされる前はいったい何者だったのか。ここでパウロが子と対比して登場させているのが奴隷です。出てくる箇所ずらーっとリストアップしました。1節奴隷と少しも違わず、3節この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。7節奴隷ではなく、子です。8節神でない神々の奴隷でした、9節再び新たにその奴隷になろうとするのですか。今日の箇所だけ見てもこれだけありますが、ほかの箇所も含め聖書は言います。私たちはイエス様を信じる以前は、皆奴隷だったのだと。


奴隷と子供の圧倒的な違いは何でしょうか、それは関係のベースにあるものが違いますよね。奴隷には失敗が許されません、主人を喜ばせることだけに全集中です。なぜならなにか不備があれば、主人から罰せられる。つまり仕事が良くできているかどうかということが関係のベースにあります。ですから奴隷が主人に従うとすればそれは主人の罰を恐れているからです。叱られないように頑張るそれがモチベーションっという感じでしょうか。一方親子関係というものはどうか?子供が何度失敗をし、愚かなことをしたとしても、子を見捨てる親というものは基本的にいません。(中にはひどい親もいますが)親子関係のベースにあるのは何ができるかというパフォーマンスではなく愛です。あなたがたは奴隷ではなく神の子どもなのだ、神の子供とされたのだから奴隷には戻ってはいけないよ。まあこれが今日の箇所通してパウロが語っている主軸のメッセージになります。


ではイエスキリストに出会う前は皆奴隷だったというのは具体的にどういうことなんでしょうか。3節見てください。

私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

ガラテヤ4:3


まだ小さかった時には、っというのは実際に年齢が若かった時ということではなくイエス様と出会う前はということです。イエス様と出会うまえは、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。幼稚な教えと訳されている言葉、ギリシャ語でストイケアという言葉です。日本語に訳すと「イロハ」英語で言うところ「ABC」というような意味があります。初歩的な教えと訳したらわかりやすいでしょうか。ではこの初歩の教えとは一体何か。結論から申し上げると、それはまず第一に律法のことをさしています。イエス様が現れる前、ずーっと前モーセを通してイスラエルに与えられた教え、まっそういう意味で初期段階の教えというニュワンスでしょうか。シリーズを通してみてきましたね。このユダヤの律法を守らなければ、つまり旧約聖書のルールを守ってユダヤ人のようにならなければ本当の意味では救われないそういう間違った教えに対してパウロは「救いは十字架を信じる信仰による」っと手紙の中で反論をしてきました。イエス様が現れて下さる前は、律法にがんじがらめ。奴隷が主人の罰を怖がるように、律法を守らなければ裁かれて罰を受ける。そう教えられてきただろうと。ある意味で律法に対して奴隷であった。っとそういう表現になっています。


もちろん私たちは現代を生きる日本人ですから、そもそもユダヤの律法なんて関係なく生きています。ですから律法の奴隷だと言われてもピンときません。しかしながら「本当に信じるだけで救われるのか、不十分ではないのか」という思いは自然と沸き起こってくるのではないでしょうか。なぜならそれはやはりこの世の中というのは、成果主義で回っているからですよね。どれだけ努力して、どれだけの成果をだしたのか、それによって私たちは評価される。学校でも、職場でも、下手したら家庭でも、そういう世界に生きています。ですから気をつけていなければ、いつの間にか自分の信仰もまたそのような価値観に染まっていくということがありますよね。

自分は聖書をしっかり読めているのか、毎日祈れているのか?教会の礼拝に毎週出れているのか、人に伝道しているのか、そういった様々な物差しで自分の信仰を測るようになっていってしまう。その結果自分が「しっかり」できていないと思えば、まじめな人ほど「あれもしなければ、これもしなければ」となっていきます。そうなってくるともうこれは律法と同じです。もちろん聖書に書いてることに従いたいという思いは大事なんです。信仰には行動が伴って然るべきだとも思います。しかしながら、こうしなければ、ああしなければ、神様は自分を受け入れてくださらない。っと考えるようになってしまうときに、私たちクリスチャンもまた知らず知らずの間にこの律法の奴隷になっていくということがあるんですね。非常に考えさせられます。


さてではクリスチャンではない人たちには全く関係のないお話なのか?そういうことになってきますよね。なぜなら別に聖書がとか、神の戒めがとか、そういう縛りはクリスチャンでない方々には関係のない話なわけで。まさに自分の思うがまま「自由」に生きていらっしゃるとすれば、あなたは奴隷だと言われたとてピンとこないのではないかと想像します。しかしながら聖書は言います。私たちは皆例外なく奴隷なのだと。では律法でも、聖書でもないとしたら、一体何に対しての奴隷だと言っているのでしょうか?


先ほど幼稚な教えと訳されているギリシャ語、ストイケアというのは初歩的な教えという意味だというお話をしました。そしてそれはつまりはユダヤ教の律法だと。さてこのガラテヤ人への手紙の宛先、ガラテヤの教会にいたのはユダヤ人だけだったのかと言うとそうではな。異邦人、つまりユダヤ人以外の人もたくさんいました、何なら半数以上そうだったのではないかと言われています。で彼らは異邦人ですからユダヤ教の律法など知らずに生きてきた人たちですよ。でパウロはここでその人たちも含めて以前は奴隷だったと言っている。では彼らはいったい何に対して奴隷だったのか?


私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

ガラテヤ4:3


そこで考えなければいけないのがこのストイケアという言葉のもう一つの意味です。実は「幼稚な教え」だけではなくして、新改訳2017見ていただきますとこの部分「もろもろの霊の下に奴隷となっていた」と訳されています。ストイケアという言葉には、天地万物を創造している基本的な要素/土、火、水、風という意味もあるんですね。英語で言うところのエレメントです。で小学校はエレメンタリースクールですから、初歩的なという意味もある。両方の意味があるわけです。でそこから派生して、もろもろのエレメント、でもろもろ霊と訳されます。ではもろもろの霊って一体何か?当時ローマの各地では様々な偶像が礼拝されていました。いわゆる多神教です。もちろんガラテヤにもそのような偶像がいっぱいあったであろうなと思います。いろんな種類の神々、これこそがもろもろの霊なのではないか。ですから8節にこのようにあります。


しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。(8節)


とあるわけです、そして続いて9節に本当の神様を知っているのに幼稚な教えに逆戻りしてという表現が出てきます。でここで使われているギリシャ語もまたストイケアです。つまりパウロはストイケアという言葉を両方の意味で使っている。イエスキリストと出会う前、ユダヤ人が律法に対して奴隷であったように、それ以外の異邦人は、キリストと出会う前、本来は神でない神々、つまり偶像に対して奴隷であったと。こう言っているのではないでしょうか。

                                  

じゃあ偶像に対しての奴隷ってどういう状態なのか?ちょっと考え行きたいと思います。例えばある人が農業の神、偶像を拝んでいたとします。でささげものをささげる、でも雨が降らない、収穫がとれない。これが続いたらどうなるか?ささげものを増やしていくしかないですよね。きっと農業の神が怒っているからこうなっているんだと。神よ怒りを静まり給え、と言って普段より上等なものをささげる。それでもその状況が続けばどうなるだろうか、もっともっとと、結果ささげものはエスカレートしていきます。それを繰り返していくと自分の子どもをささげたり、なんて言う話が古代の偶像礼拝では出てくるわけですよね。偶像に対して奴隷と言うのは、ささげても、ささげてもきりがないという状態のことをいいます。なぜなら神々、偶像がいつ満足するのかというのは、ささげている側には決してわからない。ですからいつも不安なんですね。いつ罰が当たるのかわからない。

 

 でそれに対して「いや私はほら無宗教なので、ささげものとか関係ないです。偶像礼拝とかとは無縁です。」っとこのようにおっしゃる人も多いと思います。有名なクリスチャンの著者で牧師であったティムケラーはこのように言っています。

全ての人は何かを礼拝している。私たちにあるのは何を礼拝するかという選択だけだ。

Tim Keller


すべての人は何かを礼拝しているってどういうことか?でそれは人は皆自分の中で一番大事にしているものがあり、それを優先順位として人生のかじ取りをしていくということです。意識的に自分はこのために生きているんだっと思っていることもあるでしょうし。多くの場合は無意識だと思います。自分が意識していようがいまいが関係ありません。自分の時間、エネルギー、お金、リソースそれらを何に一番さいているのかというのを見れば自分が最も大事にしているもの見えてくる。自分の偶像というものがはっきりしてきます。 例えば仕事が自分の人生に意味を与えてくれると信じている人は、そのために多くの時間を費やすでしょうし、頑張りすぎて家庭犠牲にする、あるいは体を壊してしまうということもあるかもしれません。すると仕事がこの人の偶像になる。ささげたのは家庭と健康という具合でしょうか。あるいはお金が大事だと思っている人は、稼いでも、稼いでも、満たされないかもしれない。そしてそのプロセスの中で結果的に人間関係を犠牲にするということがありうるでしょうし。見た目がすべてだと思う人はどれだけ美容に気を使ってお金をかけて、着飾ったとしても老いには勝てません。結局ハリウッドの女優は整形手術を重ねて本来の美しさを失っていくということがありますし。まあ今あげたようなわかりやすい形では出てこないかもしれません。けれども偶像を、つまり神様以外のものを第一として生きていく人生というのは、奴隷の人生だと。どれだけ頑張っても、ささげても自分は不十分なのではないか?という思いがつきまとう、そういう人生になってしまう。


律法にしろ、偶像にしろ、自分は成果を出し続けなければ、頑張り続けなければ、合格をもらえないという感覚。そのような成果主義、パフォーマンスベースで自分を量るときに私たちは奴隷になってしまう。そのような奴隷のような状態から、イエス様の十字架を信じるのであれば、解放されて自由になると。しかしそこで終わりではない。私たちはただ自由になってまっさらなスタートを切るだけではないんです。


 ある意味ガラテヤの教会に広まりつつあった教えも十字架によって救われるというところまでは同じだったわけです。彼らは言いますもちろん十字架によって私たちは救われる、けれどもその後は律法を守らなければ神様に本当には受け入れてもらえない。つまり十字架によってスタートラインにたつことはできる、けれどそれ以降は自分次第だ。っというそういう教えだったんですね。しかしパウロが言っているのは私たちはただ単に自由にされるのではなく、神様の子供になると言っている。ということを今日は特に覚えたい。


そこでもう一度4-5節戻ってみていただきたいと思います。

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

ガラテヤ4:4-5

女から生まれた者というのは、まあ端的に言って。イエス様は神様であられるにもかかわらず人間になられたという意味です。イエス様が私たち人間の罪の身代わりのために人とならなければならなかったのは何となくわかります。しかしながら注目していただきたいのは、その次。「また律法の下にある者となさいました。」というところです。これはイエス様がただ単に人として生まれてくださっただけでなく、本来私たちが努力して守らなければいけない律法、神の戒め、神様の言いつけを全て守ってくださったということを意味しているんですね。つまり、私たちの身代わりで単純に十字架で死んでくださった、だけではない。失敗ばかりする、罪ばかり犯す、不合格ばかりだす不十分な私たちの代わりに100点の人生を生きてくださったということを意味しています。


ある教会学校の教師が「神さまの成績表」というアクティビティを通して子供たちに福音の意味を教えたそうです。まず子供たちに成績表に似せた書式の紙を渡すんですって。で自分で自分の成績を書き込んでいくと。しかしながらそこにある評価項目は「国語」とか「算数」ではなく、「人にやさしくできているのか」とか「お父さん、お母さんの言うことを聞いているか」とか「自分より他人を優先しているか」とか。そういう科目がずらっと並んでいると。で自分にわりと自信があるこは、BとかB+とかちょっと苦手だなと思ったらCとかつけていくわけです。でそれぞれなぜそのような評価をつけたかなんかの話を聞いた後で、神様の基準に照らし合わせるならA+以外は落第だということを伝えます。つまりは例外なく皆落第だと。ところがイエス様の十字架がこの悪い成績表の問題を解決してくださった。で結構教会歴長い子は答えるわけですよ。「私知ってる、イエス様が十字架で代わりに死んでくださったから私たちは、真白の成績表がもらえるんでしょ?」先生はいいます。「そうだね、けれども真白の成績表なら、結局また頑張らないと、でもどれだけ頑張っても結局全部A+の成績はとれないでしょ?」そう話した後でもう一つの成績表を取り出します。そこにはイエスキリストという名前が書かれていいます。そしてもちろんすべての評価がA+になっている。その次にその成績表のイエス様の名前を消して、子供たちに自分の名前を入れるように言うんですね。すると子供たちは「いや、それはできない、だってそんなことしたらイエス様が落第になってしまう」そうしたら先生はいいます「そうなんだイエス様は十字架を通して僕たちにまっさらな人生を下さっただけでなく、オールA+の人生を下さった。だからイエス様の十字架を信じるとき、もう自分で頑張ってA+を取ろうとしなくていいんだよ。」


イエス様の完璧な人生と私たちのダメダメな人生を交換していただける、これが福音です。そしてだからこそ、私たちはただ罪赦されただけでなくして、私たちは神様の子供になれるんですね。自分で頑張って合格点をたたき出す、そのような私たちの奴隷の人生をイエス様はまるまる引き受けてくださった。代わりに私たちは神様の子供としていただける。人生が入れ替わるっていうんですか。だからこそ最後6節-7節


そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

ガラテヤ4:6-7

注目していただきたいのは「アバ、父」と呼ぶというこの部分です。アバっていうのはアラム語で「パパ」とか英語で言うところの「Dada」っという感じでしょうか。幼い子供が父親を呼ぶときによく使われる言葉です。


うちの息子も私のことを「ダダ」と呼びます。息子の恵信が父親の私を呼ぶとき、どのようなことを考えているでしょうか。いやまあ3歳児ですから、何にも考えていないんでしょうけれども。それでも一応この人は呼んだら来てくれる。自分の面倒を見てくれる。そういう安心感というものは持ってくれている。だから泣いてるとき、困ったときに、「ダダーっ」て力いっぱい叫んで呼んでくれるんだろと思うんですね。ま当然自分が呼べば親は答えてくれるという安心感、この安心感が「アバ」という言葉の響きにはある。

私たちはかつて奴隷でした。つまり頑張って、努力して、結果を残して、認められて、どうにかく合格点をたたき出さなければいけない人生でした。でそれはいろいろな形をとるというお話をしました。教会生活や信仰面で「良いクリスチャンであらねば」という形で出てくることもありますし。あるいは、「仕事でいい成果を残さなければ」とか「母親としてこうあらねば」とか「社会人としてこうでなければ」とか、とにかく「自分はこうあらねば」というものに縛られる人生ですね。しかしながら十字架を信じるときに、私たちは奴隷ではなくなり、子とされる。がゆえに神様のことを「アバ」と呼ぶことができる。安心して「ダダーッ」と呼んでいい。でそれは、イエス様が私たちの失敗、挫折、罪、恥、それらを全部引き受けてくださったからです。代わりに私たちに与えられたのは、イエス様の人生そのもの。だから「アバ」なんですよ。いいですかここだけアラム語で書かれている。不思議じゃないですか?ほかは全部ギリシャ語なのに、ここだけアラム語です。なぜか?でそれはイエス様が父なる神様を呼ぶときに使っていた言葉がアラム語の「アバ」だったからなんですね。そして私たちもイエス様の十字架のゆえに神様を「アバ」と呼ぶことができる。つまりイエス様が父なる神に対して持っていた同じ距離感で、同じ関係性で私たちも父なる神様に接することができる。ということを意味している。

 

 ですから私たちは十字架を通して、自分はなにができなくとも、どれだけ失敗したとしても、実の子供のように愛されているんだということを今日覚えていただきたいと思います。このような愛は他どこを探しても見つかりません。


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