メッセージブログ

2024.02.04

燃える怒りの取り扱い方(マタイ5:21-26)

 

マタイ5:21-26


21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

マタイ5:21-22

 

まず21節の部分、「殺してはならない」は出エジプト記20:13と申命記5:17にある十戒の第6戒の言葉です。6番目の戒め。いやというよりそんな解説は別に必要はないほど、人を殺してはならないっていうのは当たり前の話ですよね。特に聖書を知らなくたって、それに対して「いや、そんなことはない!」という人はいません。今の時代世界のどこに行ったって基本的に殺人は犯罪で、さばきを受けます。でそこが一般的によく善人と悪人の境目として見られているのではないでしょうか。よく聖書の中の「罪」についてお話をすると、「自分は善人ではないかもしれないけれど罪人と言われてもピンとこない、人を殺したわけでもないし。」というようなことをおっしゃる方いらっしゃいます。

 

 けれどイエス様はそこで終わらない。続いて22節しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。イエス様はいきなりハードルをぐんっと上げてこられる。この中で人を殺したことがある人はいますかっと聞いて手が上がることはまずないでしょう。けれども人に対して腹を立てたことがある人はどうでしょうか、と聞けば間違いなく全員の手が上がるのではないでしょうか。もちろん人によって怒りやすさには個人差があるでしょうね。あるいはその怒りの表現の仕方もそれぞれじゃないでしょうか。特に日本人は、本音と建て前がありますので、キレて怒鳴り散らすっとか、暴力をふるうというケースは多くないかもしれません。そうではなくて、たとえば口論になるとか、もうちょっと陰湿になると陰口を言うとか、愚痴をこぼすとか。あるいは最近で言うと、もはや直接自分の怒りの原因とは関係なくても、自分の抱えている怒りのはけ口として、ネットで誹謗中傷、暴言コメントを書くだとか、いろいろあるかなと思います、ただどのような表現になるにせよ、いやもっと言うと外に出さずに自分の中でぐっとこらえて持っているだけだったとしても、怒りというのはイエス様曰く裁きの対象になるということですね。


 さすがに当時聞いていた人は驚いたことでしょう。殺してはならない。っという戒めは守っている、けれど腹を立ててはならない、そんなこと言いだしたら全員アウトではないかっと思ったのではないでしょうか。でここは非常に重要なポイントです。どれだけ自分は善人だとおもっていたとしても、イエス様の仰ることに真摯に向き合おうとするときに、いやこれ人間には無理だっということを知る。私にはできない、やっぱり罪がある、だからこそイエス様の十字架が必要なんだと。さて話を進めていく前に、押さえておかなければならないのは、怒り=罪ではないということです。この箇所さっと読んだらそのように読めてしまうかもしれません。けれどそうではない、なぜなら福音書見ていく時にイエス様ご自身が怒るシーンが複数回出てきます。自分のためにというよりはどちらかというと、人のために怒るシーンですが。ということは聖書において怒り自体は感情として罪ではなくニュートラルな位置づけになっているということですね。しかしながら人間が怒るとき、それは要注意です。何に対していかっているのか、何のために怒っているのか。ここですね。悪に対する怒りは逆に必要だったりするわけです。けれども怒りの取扱いをまちがえるとエライことになります。パウロもこのように言っています。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

エペソ4:26

怒っても罪を犯すなということは、怒りと罪は別物ですね。しかしながら、怒っている状態というのは非常に罪を犯しやすい状態になるということなのではないでしょうか。だから続いて「憤ったまま日が暮れるようであってはいけない」とあるのではないでしょうか。たとえ正当な理由があって怒ったとしても、そのままの状態に長い時間自分をおいてしまうと、罪を犯してしまう可能性がどんどん高まるっということです。


 さてマタイの福音書もどりますが。怒りを表すギリシャ語はパッと燃え上ってすぐ収まるものと、長く根に持つものの2種類があるそうです。で今日の箇所22節で使われているのはこの後者の長く続く怒り、でそれが問題だと。人への怒りが長く続くと、どうなるでしょうか。段々その人のいろいろなところが鼻につき、気に入らなくなって赦せなくなっていく。そしてその感情は言葉となって出てきますね。直接相手にぶつける言葉なのか、あるいは陰口、悪口となっててでくるのか。そこらへんが22節後半ですよね、兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。最高議会っというのは今でいうところの最高裁という感じでしょうか。燃えるゲヘナっというのは、っちょっと馴染みないかもしれませんので一応解説をしておきますとイスラエルにある実際の場所の名前になります。ゲヘナで意味としてはヒノムの谷。そこはかつて旧約の時代に忌々しい偶像礼拝が行われている場所でした。自分の子供を偶像にいけにえにとしてささげらる場所だったんですね。(2歴代誌なんかで出てきます)。ですから後に穢れた場所とされ、ゴミ捨て場になりました。そこでは常にごみが燃やされ文字通り火が絶えない場所になったんですね。で次第に神の裁きの象徴の場所として見られるようになった。まあですから平たく言って地獄です。陰口、悪口を言ったら最高裁で裁かれて、地獄行。ちょっとさすがに厳しすぎませんって思いますよね。

 

 けれどイエス様がおっしゃりたいのは人の持つ人に対する怒りというのは、私たちが思っている以上に危険だということです。怒りを持ち続ければ、持ち続けるほど、私たちの心はむしばまれていく、どんどん膨らんでいくんですね。そして最終的には「あんな奴いなくなればいい」というところまで行ってしまう。「自分の人生から切り捨てる」っていうこと言ったりしますよね。でその究極の形が殺人だと。その大元とになっているのが、実は私たちの中にある怒り。だから表面的にただただ殺してはいけないという律法をまもっていても仕方がない、その原因となる怒りをどうにかしなくてはいけないと仰っている。さてとはいえ冒頭でも言いましたように腹を立てない人間なんていないわけで、それほど怒りというのは私たちの日常生活に転がっています。腹を立てないようにするなんてことは果たして可能かってやはり思いますよね。


少し話がそれますが、パワハラが良く問題になる昨今、ビジネスの世界ではアンガーマネージメントという怒りと向き合う心理トレーニングがあるというのを耳にしたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。一般的にも怒りという感情の取り扱いについては気をつけなくてはならないという認識が広まってきているということでしょう。でその中で言われているのはそもそも怒りというのは二次感情だというんですね。つまり怒りが起こってくる、さらに深い層には、本来分かってほしい感情である『一次感情』がある。でその一次感情というのは、悲しみ、虚しさ、心配、寂しさ、苦しみ、焦り、罪悪感などなど人それぞれです。そしてそういう感情が底にあるがゆえに結果として怒りが表面化してくるそういう仕組みだそうです。インターネットで見つけた記事ではこのように説明されていました。怒りの感情が起こる様子は、火をつけるライターに例えることができます。ライターに火をつけるには2つの要素が必要で、1つは着火石、もう1つがガスです。ガス、つまり燃料は先ほど言っていた一次感情、苦しいと悲しいとか疲れたとかですね。でもう一つの要素、着火石つまり火種の部分は「~するべき」「~あるべき」という自分が普段信じていること、判断基準だそうです。人によっていろいろありますよね、文化によっても違うんじゃないでしょうか。夫はこうあるべき、妻はこうあるべき、上司はこうあるべき、仕事とはこうあるべき、挨拶はするべき、クリスチャンはこうあるべき、常識的にはこうだとか、当然こうでしょっと思っていること。でそういった自分の中にある「べき」が裏切られると、火花が散って燃料である一次感情に燃え移り、怒りが燃え上がるというそういう仕組みだというんですね



なるほど確かに振り返ってみますと、自分が余裕があるとき、リラックスしているときに怒ることはあまりないなあと思いますし。「~はこうあるべき」という考え方が強い人ほど、自分にも人にも厳しめで怒る傾向にあるのではないでしょうか。


最近まさにそれを実感することがありました。まあ昨年末からですね、右足の神経痛が再発しまして。基本起きている間はずっと地味に足が痛い、しびれがあるっという状態です。でこの図で言いますと結果常に燃料のところに「痛い」、あるいは「不安」、「このままでやっていけるのか」という思いがたまっている感じですね。でそんな時にちょっとしたことがきっかけで数週間前、妻と口論までいかないですけど、私が一方的に悪いんですが、勝手に怒ってしまったということがありました。でそのきっかけは別に大したことではなかったんです。けれどもどこかで妻には私のこの痛みの状況を理解してほしい、(いや十二分にケアしてくれてるんですよ)それでも私の方の甘えで「もっとわかってほしい」「もっとわかってくれるべきだ」っという思いがありました。それが火種になって痛みや不安に引火して、勝手に私のなかで怒りに変わったんだと思います。妻には申し訳ないなあと思います。同時に相手が妻以外の他の人だったら、そこまでケンカにはならなかっただろうなあとも思いますね。一方的な期待っていうんですかそういうものがあったから怒りになってしまった。


 でまあ私の話はいいんですけれども、アンガーマネージメントの世界ではこの火種と燃料をなるべく減らしてコントロールしましょうっというのが一つあるみたいですね。そもそもなるべくマイナスな感情、つまり怒りの燃料となる思いを増やさないように、適度に休息しましょうとか、自分をケアしましょうよとか。そして火種に関しては、自分の中にある「~するべき」「~あるべき」っというのは本当にゆずれないものなのか、しっかりと客観的に考えて本当に許容できないものとできる者を区別する、そのような訓練をするそうです。


 なるほどなあと読んでいて思いました。ある程度そのようなテクニックも役には立つでしょうけれども、やはり罪人あある私にはそういう人間的なテクニックだけでは不十分なのかなとも思うんですね。では私たちクリスチャンはこの怒りの火種と燃料にどう向き合うのか。まず燃料の方から行きたいと思います。悲しみ、虚しさ、心配、寂しさ、苦しみ、焦り、こういった感情をどするか。3つぐらいオプションがあるんじゃないでしょうか。①とにかく我慢する、耐える、日本人ぽいですねえ。どうでしょう結局限界が来てある日プツンと切れてしまうかもしれません。②人にシェアする、助けてもらう。我慢するよりはよさそうです、コミュニケーション大事ですよね。けれども人間には限界がありますし不完全です。だから結局勝手に裏切られたと思ってしまうのがオチじゃないでしょうか。③それらのマイナスな感情、思いを主のみ前に持っていく。神様苦しいです、しんどいです、痛いです、どうか私一人では背負いきれないこの重荷を背負ってください。(マタイ11:28)と主のみ前に思いを葛藤を注ぎだす。もちろんそれでインスタントにそれらの状況がよくなるとか、マイナスな感情がなくなるっということではないでしょう。それでも主の前にただただ自分の重荷を下ろすということは非常に大事ですね。


次に自分の中にある「~するべき」「~あるべき」という火種の方の取り扱いです。どちらかというとこちらのほうが重要なのかなと思います。人としてこうあるべきだ、常識的にこうだ、それぞれ皆さん持ってらっしゃる、言い換えればそれぞれの正義っていうんですか。聖書的に言うと人間の義ですね。人が本当に腹を立てるとき、自分が本当は悪いんだけどなんて思いながら怒っているということはほぼないですよね。自分が正しいんだ、相手が間違っている、そう信じているからこそ、怒るわけでしょう。正義と正義がぶつかる、だからこそケンカというか中互いというのは深く大きくなってしまうわけです。


 私たちはそれぞれ自分が正しいと思っている、それが怒りの原因のひとつなわけです。。けれども本当の意味で正義、義を持っているのはイエス様しかいないと聖書は言います・(ローマ3:10)私たちはどこまでいっても罪人で完全な正義なんて持ってないんですよね。ですから本当の意味で「こうあるべき」といえる権利をもっているのはイエス様/神様しかいません。だから相手に自分の義である「~するべき」「~あるべき」をぶつけるのではなく、それを十字架の前に持ってくる必要があるんですね。今日の箇所、個人的に非常に刺さりました。というのも私は比較的「べき」が強い人間だと自分でも思います。これはこうあるべきなんだ、こうするべきなんだ、そういうこだわりが強くて(妻にもよく指摘されるんですが)。もちろん間違ったことは、間違っていると主張する、コミュニケーションをとる、それらは大事です。けれど自分の持っている「~べき」自分の義というのは絶対ではないということを忘れてはならないなと思います。下手をしたら、律法学者のように勝手に自分で作ったルールをあたかも絶対的なものであるかのように掲げ、正義だと思っていないだろうか。そしてそれら自分がもっている「べき」はブーメランのように自分に返ってきます。最終的にこうあるべき、あああるべきなんだと他人ばかりではなく自分の首を絞めてしまう。その「~あるべき」をすべて背負って十字架にかかってくださったのがイエス様なんですよね。だからそのイエス様が十字架につけてくださったそれらの「べき」、自分の正義を勝手に自分でまた持ち出すのではなく十字架の前で主にゆだねる。裁くのは私ではなくあなたですっと、明け渡すということですね。


 さてとはいえ、これで怒りが完全に解決するのかというと、もちろんそうではないでしょうね。やっぱりそれでも腹は立つだろうし、ケンカも、いざこざも起こしてしまう。それが人間なのではないでしょうか。


ある牧師さんが、面白いことをおっしゃっていました。世の「怒り」の対処、いわゆるアンガーマネージメントの目標は自分の感情のコントロールであるのに対して、聖書の「怒り」の対処の目標はそもそも相手との良い関係づくりを念頭に置いていると。そこが圧倒的に違うっていうんですね。ですからそもそも腹を立てないというのがゴールではなくて相手との良い関係づくり、これが大事だと。なるほどなあと思いました。ですからイエス様は腹を立てるなと言うだけではなくして、23節以降実際に怒りで関係が悪くなってしまった場合、その後どうするべきかということを語ってらっしゃいます。26節まで読んでしまいましょう。


だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら、 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

マタイ5:23-26


これ注目していただきたいのは、23節以降はもはや怒りの感情、あるいは恨みを抱いているのは自分側ではなく、すくなくとも文面上では相手側だということです。23節兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、25節ではあなたを告訴する者とは、っと。つまり相手が怒っている場合のはなしをしているわけです。でその場合においても和解に向けて自分から動きなさいっとイエス様はおっしゃるわけ。「自分だけ怒りの感情をコントロール出来たらそれでいいわ、勝手に怒っておいてちょうだいよ」とはいかない。ではなくて、自ら仲直りできるように動きましょうということ。これがどれだけ大事なのかということが、23節-24節から伝わってきます。供え物をささげようとしているときに、恨まれていると思いだしたなら、供え物は置いて仲直りをしに行けと。つまり神様の礼拝よりも、人間関係が大事だということではなくして神様との関係(縦の関係)と人間関係(横の関係)両方良好ではじめて礼拝が成り立つということですね。赦せてない相手がいるのに、神様を礼拝しても意味がないよっと。でもう一つ、供え物を備えるの場所はどこでしょうか。エルサレムですね、で今イエス様がこのメッセージを語られているのはどこか、ガリラヤです。距離にして歩いたら2日ほどかかる。エルサレムで「アッ私恨まれている」と思ったら2日かかって戻って、仲直りして、また2日かけてエルサレムに帰ってきて礼拝をする。いやそんなコスパのわるいっと思ってしまいますが。それぐらい和解するということは、最優先なんだとイエス様はおっしゃっているということですね。


 さてではどのように和解すればいいのか、さらっと仲直りしなさいと書いてありますが、そんなに簡単じゃあないですよね。特に相手側の怒りが持続している場合どうしたらいいのか。でまあ答えはシンプルで、自分の悪かったところは謝る、そして相手を赦す。これしかない。まあ口で言ったらシンプルなんだけどこれが難しい。難しいですね。大人になればなるほど難しいんじゃないでしょうか。自分が正しいと思っているから


ここでも重要になってくるのはが、やはり自分の中にある「べき」、自分の義、正義の取り扱いなのではないか。なぜなら自分に正義があると思っているうちは、自分から和解のために動くのは難しいです。和解するということは、自分側の非は認めて謝るということを避けては通れません。もしかしたら相手が9割悪いのかもしれない、けれども、相手に対してきつい言い方をしてしまった。悪口/陰口を言ってしまった。あるいは心の中でそのようなことを思ってしまった。それら含めて100/0で自分が正しい、相手が全て悪いということはおそらくないでしょう。ですからここでも自分の正義、をイエス様の十字架の前にもっていくっということが大事です。自分が正しいと思っているそのことは言ったんイエス様にお預けする。そして私たちは自分のちっぽけな正義を十字架の前に持っていく時に気づくんですね、圧倒的に大きく完全な正義を持ってらっしゃるイエス様が、まず私たちを赦してくださったということに。十字架の上で「父よ彼らをお許しください」っと100/0で悪い私たちのためにイエス様は祈ってくださいました。


 そうして自分は赦された者なのだ。っということに目を向けるとき、本当の意味で自分には正義がないということを私たちは知り、相手を赦す。自分の悪かったところは認め和解へとアクションを起こすことができるのではないでしょうか。


さてとはいえ、とはいえ、和解のため自分から動けばすべての人間関係が修復されるのかっというと、もちろんそうではない。自分が相手を赦し、自分の非を認めたとしても相手は怒ったままということは現実的にあるでしょうね。また和解するということは、イコール元の関係に戻るということでもないでしょう。ローマ人への手紙にこのようにあります。


だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。


ローマ12:17-18


自分に関する限りとあります。相手の反応までコントロールはできません。問題は自分側の責任として、できうる限り和解にむけてのアクションをとるということ。そして後は主に委ねる、ということです。


どうでしょうか、皆さん人生振り返っていただいて、赦せていないなあとか、逆にあの人に謝らなきゃなあというかた、頭に浮かぶでしょうか。赦すって、謝るって難しいですよね、難しいです。ほぼ不可能。自分の力だけではできません。だから十字架が必要で、主よどうか私が自分が赦されたように、人を赦すことができるようにしてくださいと祈りたいと思います。


 まとめに入ります。皆さんご自身が、イライラしている、怒りにとらわれているっということに気づいたなら。まず自分はなぜ怒っているのだろうかということに目を向けていただきたいなあと思います。悲しいから怒っているのか、苦しいから怒っているのか、心配だから、不安だから、恐れているから怒っているのか。そういった怒りの燃料になる、マイナスな一次感情、重荷を自分で頑張って背負うのではなく、是非一緒に背負って下さっる主のみ前に注ぎだしてください。そして自分の中にある義、「~するべき」「~こうあるべき」っというちっぽけな己の正義を、十字架の前にもっていくということ。そうするときにイエス様がまず私たちを赦してくださったんだということを知り、相手を赦し、自分もごめんなさいと言えるようなるのではないか。主がその力を与えてくださるようお祈りしたいと思います。


2024.01.07

幸せとは?(マタイ5:1-12)

 

新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。さてマルコの福音書のシリーズ昨年末で終了しましたので、新しいシリーズに入っていきます。新シリーズはマタイの福音書5-7章ピックアップしたいと思います。よくこの部分は山上の垂訓、あるいは山上の説教と呼ばれる部分でして、福音書に記されているイエス様の教えの中で最も長い部類に入ります。長いだけではなくして非常に内容がぎっしり詰まっているといいます。キリストの弟子になるということ、イエス様につき従っていくというのはこういうことなんだよ、ということが教えとしてまとめられている有名な箇所です。読んでいただければ、聞いたことあるなという言葉がいくつか出てくると思います。日本語のことわざのもとになったものも出てきますね『豚に真珠』とかその代表なのではないでしょうか。だいたい4月くらいまでかかるかなあと思っていますが皆さんとじっくり学んでいければと思います。さて早速ですが聖書読んでいきましょう。

 1 この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。


 今読んでいただきました。この部分は山上の説教の中でも八福の教えと呼ばれている部分です。なんか七福神っぽい響きがありますが、もちろんそういうご利益的なことを言っているわけではありません。ここの部分繰り返し出てくる言葉がありますね、「幸いです」です。3節からずらーっとそのリストがあるっといった感じでしょうか。でまあもちろんカウントの仕方によっては9つあるわけなんですが、11節以降は10節の説明と考えると8つ「幸いです」とそれで八福の教えと呼ばれています。


どういう人が幸いなのか、単純にリストアップしてみますと

心の貧しいもの(3節)

悲しむ者(4節)

柔和な者(5節)

義に飢え渇く者(6節)

あわれみ深い者(7節)

心のきよい者(8節)

平和を作る者(9節)

義のために迫害されている者(10節)


このような人たちは幸いだとイエス様おっしゃる。リストご覧になっていかがでしょうか?どのようなこと皆さん感じられるのか。幸いとはいったい何でしょうか。幸い、まあ端的に言って幸せって何でしょう?誰しもが幸せになりたい、幸せでいたい。そう思うのは人間の常です。インターネットでこのようなアンケートを見つけました。20代から50代までの日本の男女500人を対象とした「幸せ」に関するアンケートです。

まず一つ目の質問「あなたは今幸せですか?」

30%くらいが幸せだと、これは多いと思うのか、少ないと思うのか?皆さん自身はこの質問にどのようにお答えになるでしょうか。

二つ目の質問「普段どのようなときに幸せを感じますか」。日常で感じる幸せ、一番身近なリアルな幸せっていうんですか。そういう瞬間それぞれあるかなと思います

おいしいもの食べるとか、趣味の時間とか、旅行、家族・友人との時間とか。

三つ目の質問、この質問が一番今日の箇所に関係あるかなと思いますが。「幸せに必要だと思うものは?」まあこれさえあれば自分は幸せになれる、あるいは幸せでいられるもの


お金

健康

自由な時間

家族・パートナー

精神的なゆとり

居住環境(家持ちとかでしょうか)

趣味

友人

っというまあいうなればこれが一般的な幸せのリストになるかなあと思います。今日読んだ箇所に合わせていうとすれば例えば

お金がある人は幸いです。人生が安定するからです

健康な人は幸いです。何をするにもまず健康でなければ始まりません

っといった具合でしょうか。

けれどもイエス様のおっしゃるリストに上にあげたものは一つも入ってきません。どういうこと何でしょうか。このポイントに関しては最後に戻ってきたいと思います。頭の片隅に置いておいてください。


さて今日お読みした個所。文章的にわかりにくいところはないのではないでしょうか?けれどその意味を深く考えていく時に、いったいイエス様はこのリストを通して何をおっしゃりたかったのかということはなかなかどうして読み解くのが難しいかなと思います。

まず八福の「教え」というぐらいですから、一見すると「このようにありましょうね」という目標にすべきリストに見えるのではないでしょうか。特に後半がそうですよね、7節以降あわれみ深い者(7節)心のきよい者(8節)平和を作る者(9節)義のために迫害されている者(10節)。迫害されるを除けば、あわれみ深くありましょう。心のきよいものでありましょう。平和を作るものでありましょう。まあそういう道徳的な教えとして通りそうです。けれど問題はリストの前半です。心の貧しいものでありましょう。あるいは悲しむものでありましょう。っというのはちょっとね。自分から進んでそうある必要はさらさらないわけで。どういうことなんだとなってしまう。


そこでよく言われるのが、心の貧しい状態というのは、とにかく謙虚にあるということなんだと。「心の」つまり霊的な謙虚さっていうんですか。自分の信仰や行いではなく、自分を空っぽにして神様に頼っている状態だという説明ですね。で悲しむというのは自分の罪に悲しんでいる状態のことを言うんだ。っと。だからこのリストにあるような生き方を目指しましょうっというそういうメッセージになってしまいがちです。もちろんそのニュワンスがないわけではない、先ほども申し上げたように、あわれみ深くある、心がきよくある結構です。しかしながらよくよく見ると、こうしたら幸せになりますよという構文にはなっていないわけですよね。「心を貧しくすれば、幸せになりますよ」ではなくて「心の貧しいものは幸いです」と言っているだけ。つまりこうなったら幸せにりますよという条件、あるいは目指すべき道徳的な要素ということでイエス様はこのリストを挙げられたのではない。っということです。では一体このリストは何なのか?


でそれを読み解く鍵はイエス様がどのような文脈で、どのような人たちにこの山上の説教を始められたのかというところにあります。誰に向かってイエス様語られたのか1節にありました。


この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。(1節)


弟子たちが身元に来た。っとここですぐに12弟子を想像してしまいがちですが、実はこの時点でまだ12弟子はいないんです。10章まで12弟子はでてきません。4章戻っていただくとわかりますが、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師が弟子になるシーンがでてきます。12弟子で言うとまだこの4人だけ、そして23-25節


イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群集がイエスにつき従った


マタイ4:23-25

4章がここまでで今日の箇所が始まっていきます。ですからイエス様はもちろんペテロ達弟子に向けられて語られたわけですけれども、同時にこのイエス様についてきた群衆に向けても語られた。ということです。でその群衆とはいったいどういう人たちだったのか。さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人でありました。そしてそれは単に身体的、精神的な病に苦しんでいる人たちということだけではなくして、当時社会からつまはじきにされ、虐げられていた人達を意味していました。なぜなら当時医療も福祉もあったもんじゃない。ですから病にかかっても、保険も病院もない。障碍者になったって障害年金もありません。ですからそのような人たちは生きていくので精一杯、いや生きていくのでさえ危うい、そういう状態の人たちです。加ええていうのであれば、当時ユダヤ教的な目線で言っても病気になるというのは、自分もしくは家族の罪の結果、呪われた者とみられていました。ですから一般的にも、信仰的にも底の底にいる。そういう人たちにイエス様はおっしゃる。


心の貧しいものは幸いです(3節)。です。

間違いなく集まっている人たちは貧しい人ばかりです。まず単純に経済的に貧しい。そして経済的な豊かさと貧しさはユダヤ教的に言えば霊的な面と直結します。そこに区別がそもそもない。当時の彼らの感覚からしたら、信仰的に霊的にしっかりしていれば豊かになる、罪人は貧しくなる。まあそういう世界観です。ですから現代的なお金はないけど、心はきよいなんて見られ方はしないんですね。ですから心の貧しい者というのは、物質的にだけではなく、霊的にでさえも、何もオファーできるものがない人たちっということです。そしてそれはまさにこの教えを聞いていた群衆のことでありました。その人たちに対してイエス様はおっしゃる。天の御国はその人たちのものだと。


続いて悲しむものは幸いです(4節)。

でこれは罪に悲しむものっとかそんなきれいごとではなくして、シンプルに悲しむものっととっていいのではないでしょうか。社会から追いやられ、自分の価値を見出すこともなく、病や、痛みを抱え、悲しんでいる人、落ち込んでいる人たちですね。


続いて柔和なものは幸いです。(5節)

柔和って言葉ほとんど使いませんね。もちろんそこにはへりくだる者。謙虚なものと言う意味もありますが。低くされているもの、もっというと押さえつけられている者、虐げられているもの、弱き者という意味にも訳せるみたいなんですね。つまりローマ帝国に押さえつけられ、パリサイ人にも、律法学者にも押さえつけられ社会の底辺にいるような人たち、聞いていた群衆はそういう状態にありました。


続いて義に飢え渇くものは幸いです。(6節)

これはどうか。なんかこうよさそうに聞こえますよ、義に飢え渇くって非常に道徳的な響きがあるじゃないですか。けれどよく考えますと、義に飢え渇いているっということはその人たちの周りに、義は「ある」のか「ない」のかどっちですか?ない、ないです。だから飢え渇くわけでしょう。義がない状態。つまり自分が罪を犯しているということもさることながら、周りから不当に扱われたり、人間関係がめちゃくちゃだったり、人生がとっ散らかっている状態っていうんでしょうか。そういう状態にあって義を欲している、そういう人たちが集まって来ていた。


そのような、当時おそらく周りからも本人自身も「きっと自分は神様から呪われているんだ」とそのように感じていた人たち対して、あなた方は幸いだとイエス様おっしゃった。


つまりこのリストは、こうすれば神の御国に入れますよっ、こうなれば幸せになりますよというそういう、目指すべき目標のリストではなくして、このような人たちにさえ、いやこのような人たちにこそ、神の御国は開かれているんですよっという宣言なんですね。だからイエス様あなた方は幸いです。呪いではなく祝福を宣言される。少なくとも今見たリストの前半は道徳的なリストというよりは、そこに集まった群衆のあるがままの状態を表しているように見えます。

 集まった群衆は、衝撃を受けたことと思いますね。きっと彼らは、どうすれば神の御国に入れるのか、どうすればこの最悪な状況から幸いになれるのか、ある意味ハウツーの教えを期待していたはずです。けれどイエス様はそんな彼らに対してまず祝福を宣言される。あるがままであなた方は受け入れられている、あなた方は幸いだと。山上の説教がここから始まっていくということにも注目して考えるとなおさら腑に落ちるかなと思いますね。まず祝福、そして誰ももれることなく、すべての人にしたいして、特に苦しんでいる人に対してイエス様の仰る神の御国は開かれている。っという宣言。それがあったうえで、その後キリストについて行く、弟子となるっというのはこういう生き方なんですよ、ということが展開されていく。こうこうこうしたら、受け入れられるではなくして、神様に受け入れられているという前提からスタートしていく。それが福音です。


 さてとはいえですよ、集まったすべての人間の病がいやされたのかっというと恐らく癒されない人もいたのではないかと思いますね。もっと言うと、すべての人は経済的には貧しいまま家に帰らなければならなかったでしょう。悲しみに暮れている人の悲しみがインスタントに消えたということでもないと思います。っとするとイエス様いったい何が幸いなんですかっとこういいたくなってしまいます。

もう一度リスト見てみましょう。

3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。


7節この世界で、あわれみ深い人は、いつもいつもあわれみを受けるでしょうか?そうとは限らない。3節柔和な人は、地を受け継ぐ、つまり国を治めたりするでしょうか?どちかというと権力と力が席巻していますよね。だからぱっと見これがすべてこの生きている間に実現するということを言っているのではないんだろうなということはお分かりになるかと思います。じゃあ天国に行ってから、つまり死んで復活して、イエスキリストが再びこの地上に来られる、そのときに癒されたり満たされたりっという、そういう未来の約束のことをここで語っていらっしゃるのか。別の言い方をすれば、今はつらいけど何とか耐えて、我慢してとにかく天国を待ち望めってっとそうおっしゃっているのかというと、必ずしもそれだけではないのかなと思います。


これ日本語で見るとわかりにくいですが、英語で見てみましょう。

“Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

“Blessed are those who mourn, for they shall be comforted.

“Blessed are the meek, for they shall inherit the earth.

“Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they shall be satisfied.

“Blessed are the merciful, for they shall receive mercy.

“Blessed are the pure in heart, for they shall see God.

“Blessed are the peacemakers, for they shall be called sons[a] of God.

“Blessed are those who are persecuted for righteousness' sake, for theirs is the kingdom of heaven.

 

 現在系の動詞と未来形の動詞と混ざっている。で現在系の動詞を見ると幸いです。っということと3節10節にある「天の御国はその人たちのものだ」っというこの二つです。でそれに挟まれるような形で2-9節までの約束(shall~)が未来形で書かれている。つまり既に神の御国はあなたがたのものなんだけれども、その祝福が100%になるのはまだだよ、それはキリストの再臨を待たなくてはならい。っというそういう状態に私たちはいるんですね


 っということは、イエス様が心の貧しいものは幸いだという時、それは遠い未来のことだけではなく(もちろんそれも含むんですが)、既に受け取ることのできる祝福が100%ではないけどはあるよと言うことなんですね。


 ではこの貧しいものが、悲しいものが、追いやられているものが、弱いものが、この世において価値のないとされるものが、おおよそこの世界において「幸せ」とはま反対にいる人たちが今受け取れる「祝福」「幸せ」っとはいったい何なのでしょうか。だってこの世は言いますよ、冒頭で見ましたね。幸せになるには

お金

健康

自由な時間

家族・パートナー

精神的なゆとり

居住環境(家持ちとかでしょうか)

趣味

友人

 

が必要だと。クリスチャンだってそう思いますよね。信仰を持ちつつ、わかりやすい形で祝福されたいじゃないですか。もちろんそれは悪いことじゃない、これらが与えられたら感謝です。しかしながらイエス様の幸いです。のリスト、八福の教えにはこういったものが入っていません。っというかどちらかというと、そんな状態は不幸ではないか、逆だろうっとというようなそういうリストでした。なぜか


 でそれは、おそらくイエス様はここで「幸せ」とはどういうことなのかということを再定義されたということなんだと思うんですね。再定義っていうちょっと難しい言葉使いましたけど、つまり私たちが思う幸せをひっくり返された。っということです。幸せをひっくり返すイエス様。ひとつ前の4章でこのようにあります。

 悔い改めなさい、天の御国が近づいたから

マタイ4:17


でこれこそがイエス様の福音のメッセージでありました。神の御国が近づいた、だから悔い改めよ。でこの悔い改めるというのは、よく言われることですけれども、方向転換を意味します。180度変えるということ言うことです。生き方を考え方を180度神様の方向転換する。そこでイエス様はまずもって、「幸せ」とは何かと言うことに関して180度考え方を変え方を変えましょう。そういうことをおっしゃっているのではないでしょうか。

 だってそうでしょう。もし幸せに必要なものが、お金であり、健康であり、家族であり、友人であり、精神的余裕であり、っということなのであれば、それを失ったじてんで終了。幸せにはなれない。けれどもイエス様はおっしゃる、いやいや神の御国の視点で考えるときに、幸せ、幸いというのは、周りの状況に依存しないんだと。むしろ心の貧しいものほど、悲しむものほど、自分には価値がないと思っているものほど、本当の祝福に目が開かれることがある。ではその本当の祝福とはなにか?シンプルですが神様との関係なのではないでしょうか。「主がともにいてくださる」というこのシンプルな祝福を最も感じやすいのは、お金持ちではなく、貧しいものであり、健康なものよりも病を負っているものであり、才能に満ち溢れ力があるものではなく、弱いものであり。っとそういうことがある。そういうこの世が定義づける幸せとは別の祝福に目を留めることができるなら、それこそが本当に幸いなことなのだっと。


 でこれは非常にチャレンジです。私個人的にもものすごくチャレンジでした。っといいますのも、ちょうどクリスマスあたりから、また例の神経痛が再発しまして結構よくない。なんとか薬で押さえていますが、痛みの中に今あります。めちゃくちゃひどいわけじゃないけど、強めの薬がないと気になって眠れないという感じでしょうか。まあそういう状況で、痛みや不便さもさることながら、ああまたいつ治るかわからない、治らないかもしれないっというこの不安の中を通らなければならないのかっと。まあ正直葛藤があります。もちろんね、来週には治っていてということもありうるし、ずーっと治らないかもしれないし、わかりません。でもそれが堪えます。

 でそのなかにあって、悲しむものは幸いです。というこのイエス様の言葉を真正面から受け止められるのか。確かに痛みがあるから自分の力ではなく、神様の力に頼るようになるんでしょうし、祈る時間も若干増えたような気がします。でもやはり私はまだどこかで、健康なほうが幸せだよなって。もっと正確に言うと、健康がなければ幸せになれないだろっと思う気持ち。そして一方で主はこの状況を用いてくださるのかな、そういう気持ちの間で葛藤している。これが私のリアルなところですね。でもおそらくそういうプロセスを通して、神様を近くに感じるようになるのではないでしょうか。

 皆さんの今の状況はどうでしょうか、イエス様が挙げられたようなリストに当てはまっているのか、それともいわゆるこの世が定義づける幸せのリストに入っているのか?誤解しないでいただきたいのは、お金がある、健康がある、余裕がある、そういう状態が悪いということではない。もし自分がどちらかというと、持たざるものではなく、持っているほうだなと感じるなら別に罪悪感を覚える必要はない。神様に感謝して受け取ってください。そして大いに人のため、神様のために用いてください。目に見える祝福があるということは素晴らしい間違いなく神様が与えられるものです。ですから自ら貧しくなりましょうとか、苦しみに会いに行きましょうというのは絶対に違います。けれどもし皆さんの中に、もし悲しんでいる人がいるなら、苦しんでいる人がいるなら、自分は貧しい、価値がない、そう思っている人がいるなら、イエス様の仰ったこの祝福、幸いを受けとることができるように、私も含め、お祈りしたいと思うんです。イエス様はおっしゃった。


心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちの者だからです。


神様はそのような人たちとともにいてくださる。この幸いに目を留めたいと思います。


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