メッセージブログ

2024.05.12

人の王国、神の王国(ダニエル2)

 

2章に入っていく前に少し、ダニエル書の舞台となる時代背景についておさらいをしておきましょう。時は紀元前600年ごろになります。当時イスラエル、ユダ王国はどうのような状態にあったかと言いますと。まあ端的にいって外国に侵略されてしまいます。長い間にわたって預言者を通じ、神様はユダ王国に罪を悔い改めるようにと警告したにもかかわらず、イスラエルは罪を偶像礼拝を辞めることはありませんでした。そうしていよいよ主の裁きがくだり、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。結果民衆は捕囚としてバビロンに連れて行かれます。これがいわゆるバビロン捕囚というやつでして。まあ無理やり移住させられるというやつですね、バビロンの政策としては故郷から民を切り離し、バビロニアまで連れてきて、そこの生活に慣れ親しませて、気づけばいつのまにか祖国のことを忘れている。そういう取り込み方っというんでしょうか、そのようにして反乱が起きないように手なづけるといいますか、そのような政策をとっていました。


 そのバビロン捕囚、強制移住を経験したのがダニエルと彼の友人3人、シャデラク、メシャク、アベデネゴですね。彼が異国の地、異郷の地、で自分たちの信仰と信念を全く理解しない社会の中でどのように生きていったのか。それが描かれているのがダニエル書の前半になります。先週は王の側近になるべく様々なトレーニングを受ける彼らの前に、並べられた王のごちそうを自分の信仰と確信のゆえに、食べないという決断をし、それでも主は彼らを守られたということを学びました。でそれはですね、ダニエルはただ、この異教の世界、異国の地のすべてに足して何も考えずに「NO」と言ったということではなく、積極的に置かれた環境で異国の文化、学問を学びつつも(まあだからこそトップの成績で卒業したわけです)、これは信仰的に譲れないというものには、謙遜にしかしはっきりと「No」ということができたということを学びました。流されるでもなく、ただ自分の殻に閉じこもるでもなく、しっかりとおかれた場所で根を張り、積極的にかかわりながらも、妥協しない生き方。まあこれがダニエル書前半のメインテーマとなっています。


 ですからダニエル書を読むときに私が思い出すのは、かつて15年ほど前NZ留学をおえて日本に帰国した時の自分です。私はNZでクリスチャンになり、聖書の学校に通って日本に帰国し就職しました。日本人なので、日本が母国であるにもかかわらず、NZに長くいすぎたせいでもはや日本の社会は私にとって異国でした。逆カルチャーショックというやつですね。加えて、日本のクリスチャン人口は1%以下。信仰面でのチャレンジもたくさんありました。私はとにかくこの新しい環境に慣れなければ、それに必死でした。そうしていく中で気づけば、聖書を読むこともなくなり、祈ることも減り、なんだかんだで仕事はとかお金はとか、そういう価値観に流されている自分がいました。私の場合は、世の価値観に流されるという結果になりましたが、一方で逆のパターンの話もまわりで聞きました。つまり自分はクリスチャンだからと言ってほとんど教会以外の人とは関わらないとか、教会のことはまじめにやるけれど仕事は適当だとか、地域の活動には全く関わらないとか。まあこれは世界から自分を切り離してしまうという逆パターンですね。ダニエルは、流されず、切り離さず、逆に信仰に固くたち、周りに影響を与えるそんな人生を歩んでいきます。

 

 でもちろん今私たちが生活をしているのはNZなので日本よりはクリスチャンとして生活しやすいと思います。信仰に対する理解、あるいは周りのクリスチャンの数、そういった意味でバビロン感はそこまでない。けれどまあ私以外は、皆さん基本的には教会の外で仕事や生活をしておられるわけで、なんだかんだNZもクリスチャンの国ではないわけですよね。この世で信仰を持ちながら生活していくにあたってこのダニエル書が語り掛けるメッセージは大いに学べるポイントというのがあると思います。前置きだけで5分以上しゃべってしまいました。

今日の箇所は2章ということで49節までありますので非常に長い箇所になります。当然全部を朗読しているとかなり時間がかかってしまうので、全体を要約しながら、必要なところだけ読んでいくという形にしたいと思います。できれば皆さんお時間のある時全部読んでいいただきたいと思います。


ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。

ダニエル書2:1


バビロンの王ネブカデネザルが夢を見て眠れないというところから話がスタートしていきます。皆さんどうでしょう、寝つきは良いほうでしょうか?私悪いですね。まあとにかくすっと眠れることのほうが少ない。どこでもかしこでもふっと寝れちゃう人うらやましいなあと思います。まあそういうもともとの性質で寝付きにくいということもありますし、単純に日本の夏とかめちゃくちゃ暑くて眠れいないとか。眠れない理由はいろいろあります。しかしながら人が眠れない理由の上位にランクインしてくるのは心配事や不安ではないでしょうか。でどうやらネブカデネザルが眠れなかったのもそれが理由だったようです。夢を見てそれが気になって眠れないと。


 さてどんな夢だったのか?その内容がわかっていたほうが話が入ってきやすいと思いますので、ちょっと飛びまして31節から35節までを読んでしまいたいと思います。この後いろいろありましてダニエルが王様に夢の内容を話しているシーンですね。


王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。 その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。


ダニエル2:31-35


当時夢というものは非常に重要な神様からのメッセージあるいは預言、予知そういった意味合いがあるものとされていました。で1節見ていただくと、いくつかの夢と書かれている、つまり複数形。おそらく何度も同じ夢を見たんでしょう。それは気になりますよねえ。


ですから2-3節その夢の意味を知りたいということでネブカデネザル王は、呪法師、呪文師、呪術者、つまり知者と呼ばれる国のトップのインテリを集めます。すると集められた相談役たちは言うわけですね。「もちろんです王様、でその夢というのはどういうものだったのでしょうか」それに対して王様はいや夢の解釈だけならば適当なことを言ってごまかしてお前たちは時間稼ぎをするにちがいない、夢の内容まで言い当ててこそ、その解き明かしを信用することができる。もしそれができれば、多大なる褒美を遣わすし、できなければ手足を切りおとして、お前たちの家を滅ぼしてしまうぞ」っと。怖いですねーいやですねーこんな上司がいたら会社即辞めますね。まあでも王様ですから、それくらいのことできてしまうわけです。さすがの部下たちも食い下がります、11節


王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。

ダニエル2:11

人間には無理ですってという言い分ですね。もう必死です、命がかかっていますから。けれど王は赦してはくれません。無理ならもう連帯責任だと言わんばかり、ネブカデネザルは12節怒り、バビロンの知者すべてを滅ぼせという命令を出します。 全ての知者ということは、先週見ました一生章で王に仕えることになったダニエルも当然そこに含まれてくるわけで、ピンチが訪れます。さあここからどうなっていくのか。


王はなぜこれほどまでにめちゃくちゃな命令をだしたのでしょうか。当時の文化背景的に夢は非常に重要な意味をもっていた、だから夢の意味が気になるのはわかります。しかしながら、それがわからないからと言って怒り狂うほどのことか、それも国中の知識層を滅ぼしてしまうほどに。何がそんなに彼を悩ませたのか。

ここでですね皆さん想像していただきたいんですが、ネブカデネザルの気持ちになって考えてみたいと思います。彼には野望がありました、この世で最も偉大な王になるという野望です。っとそんなことは聖書には書いていません。しかしながら歴史を見ればですね、バビロニア帝国はネブカデネザルの時代に最も栄えたということがわかっています。権力・富ともに当時ナンバー1だった。しかしながらダニエル2章の段階では1節にありました、彼の治世の第2年ですから。まだこれからですね。これから自分は巨大な王国を建てあげていくのだという野望、強い願いを持っていたに違いありません。そんな中、あの巨大な像が壊されるという夢を見るわけですよね。ですから何と言いましょうか、ネブカデネザル、夢を解き明かしたいと言いながら、なんとなく夢の意味わかっていたんじゃないのかなと思います。きっとこの壊される像は自分なのではないか、あるいは自分が築き上げてきた、そしてこれから築き上げていこうとしている自分の王国のことをさしているのではないか。そのような一抹の不安が、どんどん膨らんでいった。だからこそ不安になって、心配になって眠れず、自分のもっているあらゆる権力をもってしても何もできないことにいら立ち、怒り狂ったのではないでしょうか。加えていうなら、この後3章では、実際文字通り黄金でできた像をネブカデネザルは自分のために作るんですよね。ですからこの夢に出てきた像と自分を重ねていてもおかしくないかなと思います。


でその姿を見て私たちは思うわけですよ。ああやっぱり権力って人を狂わすのね、クレイジーな王様と。けれどこのネブカデネザルの姿は、程度は違えど私たちの姿なのではないかなと思います。もちろん皆さんには、世界で一番の王になりたいという野望を持っている人はいないでしょう、王国を建て挙げていくという使命を持っている人もゼロだと思います。しかしながら、自分の人生を王国と置き換えてみれば、少しはネブカデネザルの気持ちがわかるのではないでしょうか。理想像と言ってもいいかもしれませんね。この仕事に就きたい、家を買いたい、結婚したい、家族がほしい、お金持ちになりたい、いい環境の職場がほしい、ビジネスをしたい、はやめにお金をためてリタイアしたい、夢をかなえたい、美人でありたい、経済的な安定とそれぞれ人生においてこうありたい、これは欲しい、というものはそれぞれかなあと思います。そしてその思いが強ければ強いほど、もしかしたらそれがかなわないのではないかと思わせる何かが起こった時に不安になったり、心配になったり、時には眠れなくなるということがあるのではないでしょうか。


あるいは、ある程度年齢を重ねるとこれからの人生に関しての夢というよりは、今まで気づき上げてきたものの心配ということもあったりするかもしれません。ネブカデネザルもこの夢を見た時点である程度の成功をおさめ、富も力もありました。けれどもそれがもろくも一つの石によって崩されるという夢を見る。そりゃあ不安になるでしょう。私たちも自分が気づき上げてきた人生、キャリア、貯蓄、家庭、人間関係、それらが失われるかもしれない、そういうことが起きるときに不安になり、心配になり、眠れなくなり、何ならネブカデネザルのように、常にイライラしてしまうということがあるのかなと思うんですね。


さてここでついにダニエルの出番です。ダニエルは、王様に少しの猶予を下さいというと、帰って祈り。主が夢の内容と解き明かしをビジョンの中でダニエルに示してくださいます。ダニエルは感謝と賛美をささげて後、ネブカデネザルの前に出ていき夢の内容と解き明かしを説明します。36-45節あたりのところですね。夢の意味とはどんなものだったのでしょうか。ここもかなり長いセクションなので要約しながらいきたいと思います。


38節後半から40節をまず読みたいと思います。

あなたはあの金の頭です。あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。

ダニエル書2:38-40


まずダニエルはネブカデネザルにあなたは夢に出てきた像の金の頭です。と伝えます。つまり金の頭はバビロンだと、そしてその後で3つの国がおこる、銀、青銅、鉄っといふうに移り変わっていくというんですね。そして41節からはこの第4番目足の部分にあたる鉄の国の詳細が説明されます。全部読むと長いので割愛させてください。


そして注目すべきは44節-45節


 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅しています。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。

ダニエル書2:44-45


最終的に夢に出てくる像を壊す原因となる石は、神様によって建てられる国だと。つまり人間の国々を滅ぼす神の国が、人間の手によらず神様によって建てらえる。そしてその神の国は永遠に立ち続ける。これがダニエルによる夢の解釈でした。


はい、で良く説教ではじゃあこの4つの国は実際どの国なのかっということをまあ世界史と照らし合わせながら見ていくということをしますよね。ネブカデネザルの国、つまりバビロンが金の国ということは、その次に覇権をとるメディア・ペルシャが銀の国、でその次に出てくるアレクサンダー大王率いるギリシャが青銅の国、そして四番目の鉄の国はローマ、鉄の国と言うだけあって一番強いのだけれど、結局分裂してしまう。一部が鉄で一部に土が混じっているということもそのこととマッチします。とここまで見て、さすが神様、未来まですべてを見通して居らえる方。とまあそういう具合に説明されることが多いと思います。そして実際に、第4の国ローマ帝国の時に、イエス様が表れてこうおっしゃる。時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)だからイエス様が人の手によらない神の国をもたらす石だと、まあね、処女マリアから生まれるわけで、そういった意味でも人間の手によらずにこの世に来てくださる石ですよね。


もちろん、この解釈は間違いではない。正しいと思います。ここまできれいにマッチすると気持ちいいなあと思いますし。やっぱり聖書はすごい、正確に書かれているんだと胸を張ることができるかなと思います。そういった意味で意味はある。


しかしながら、じゃあこの夢をみたネブカデネザルはそんな先のことまで知る必要があったのかと言うとどうなんでしょうか。注目すべきは29-30節ダニエルが夢の内容と解き明かしを始めるシーンです。


王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。この秘密が私にあらわされたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。

ダニエル2:29-30


29節後に起こるをあなたにお示しになったのです。まあですから未来の預言であることは間違いない。しかしながら30節この秘密が私に表されたのは、、、、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためですつまりこの夢を通して神様はネブカデネザルに何かを語っておられる。単なる未来予知だけということではない。じゃあネブカデネザルの心にあったものはなにか?それは偉大な国を建てあげるのだ、自分が最強の王になるのだという野望とそれに伴う不安だったのではないかという話でした。


さてこの夢が単なる未来予知だけではないとしたらこの夢が持つ意味とは何か?また私たちはこの夢の意味をどのように受け取ったらいいのでしょうか?


夢の意味まず一つ目のポイントそれは「人の作り上げる王国は、もろい」です。頭は純金で始まり、銀、青銅、鉄、土とどんどん価値が下がっていくのがわかると思います。まあ鉄は強さで言ったら強いんですけれども、価値としてはさがります。しかも一番した足の部分は粘土と。土は価値もなければ、素材としても一番弱い。ですから頭が純金でできていようが、つまりパッ見すごく力があるようなものでも、足元はぐらぐらで不安定。人の作る王国とは不安定なもの。そしていつの世も権力というのは、移ろいで行きますよね、一つの国が台頭したら、次の時代には全く違う国、そういう不安定さを持っています。日本も今ね円安でどうのこうの言っていますけれども、アジアナンバー1だった時代もあるわけで、いつの間にか中国に追い越されて。まあ移ろいで行く。脆いものですよね。で何より重要なのは、そんな弱く脆い、人間の国が力を一時でも持つとしたら、2つ目のポイんとそれは、「神様がその力を権力者に与えられるからに他ならない。」ここがポイントですね。ダニエルも37-38節で言っています。


王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、 また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。

ダニエル2:37-38

ネブカデネザルはそんなことをかけらも知りませんでした。ネブカデネザルは自分の力で王国を築いてきたのだと思っていた。逆に言えばだからこそ不安だったと言えるのではないでしょうか。


少し前に王国と自分の人生というものを置き換えてお話をしましたけれども。人生も同じです。今皆さんの人生が少しでもうまくいっているのであれば、もちろん皆さんの努力もありますが、究極的にはそれは神様が与えてくださった祝福であり、恵みでしかないということを忘れてはならない。でこのことを知らない、あるいは忘れてしまうととどうなるか。ネブカデネザルが自分の国の王であって、自分の力でこの王国を建てあげてきたと思っていたように、私たちもまた自分の人生の王は自分だと思ってしまう。ある意味今の時代は、みんながみんな王様の時代なのではないかなと思います。生まれたときから身分が決まっている時代ではない。だから人に迷惑をかけない限り誰にも何も言わせない。自分の好きなように生きる、自分の人生は自分の選択によって決まっていく。まあそう信じているからこそ、必死に幸せをつかもうと皆頑張るわけですよね。全部自分次第。自己責任と。


自分が王様の人生は、もろいです。だってどんなに頑張ったって人生うまくいかないことは出てくる。そんな時私たちは自分の大事にしていたものを失いそうになって、不安になり眠れなくなります。一方そんな脆い人間の国を軽々打ち砕くのが神の国であり、その神の国は永遠に固くたつと言っていました。これが三つ目のポイントですね。人の国と神の国のコントラストですね。いうなれば自分のための人生なのか、神様のための人生なのか。自分のための人生は不安定です。けれど神の国、神様のための人生は安定感が違う。

でそれは何も問題が起こらない人生という、そういう安定感ではない。問題はおこるんです、クリスチャンだって人生いろいろある。で時に眠れない夜、不安な夜があるかもしれない。しかしながら自分の人生の王は自分ではなく、神様だということを知っているからこそ、全部自己責任っという暗闇に完全にほっぽり出されることはない。神様が自分の人生の王様として責任を持ってくださる。それが神様のための人生。神の国



人の国か、神の国か。自分のための人生か、神様のための人生か、この対比はネブカデネザルの人生とダニエルの人生にもよーくあらわされているのではないでしょうか。


ネブカデネザルは自分の王国を自分のために、大いなる権力と力をもって建て挙げようとしていました。がゆえに不安と恐れにとらわれてしまう。そしてその恐れからすべての知者を滅ぼせという命令を出します。それによって命の危機にあうダニエル、けれど彼には恐れはありませんでした。ちょっと飛ばしましたけれどもその命令が出されたときどうしたか。逃げ出したのか?そうではない16節


ダニエルは王のところに行き、王にその解き明かしをするため、しばらくの時を与えてくれるように願った。

ダニエル2:16

いや今めちゃめちゃ機嫌がわるいんですよ、皆殺しにしろっといた王に直談判し、時間を下さいというダニエル。8節では時間稼ぎをするということに関してめちゃくちゃ怒っている王に対して堂々とそのことを願い出るダニエル。その勇気はどこからくるのか?


でそれは、ダニエルが本当の王はネブカデネザルではないということを知っていたからですよね。神様がすべてを治める方だと知っていた。だからこそネブカデネザルを恐れる必要もなければ、命の危機にあっても不安に押しつぶされるわけでもなく、冷静に対処することができた。本当にダニエルの運命を握っているのはネブカデネザルでもなければ、自分でさえない、それは神様だということをダニエルは信じていました。そこから来る勇気ですね。


そしてもう一つ対照的なのは、ネブカデネザルは国中のトップを集めて、それでも夢のことがわからない。つまり自分の圧倒的な力つくしても解決できない問題に対して絶望し彼は不安になります。一方ダニエルはどうか、いやそりゃあダニエルにだって、夢を言い当てるなんてことはできない。ダニエルももちろん自分の力では無理だということを知っていました。けれどそこで絶望、ではないんですね。なぜなら、ダニエルの人生の王は、主なる神様だからです。だから彼は18節、祈ります。ダニエルと3人の友人は心を合わせて祈る、結果人には不可能なことが主に拠って明らかにされ解決がもたらされる。自分の力が及ばないことに絶望ではなく、神様の力に頼ることができる。そこに神様のための人生の強さがあります。


まあこうやって比べますと、やっぱりダニエルのほうがかっこいいなあと思います。さて最後ではどのようにすればネブカデネザルではなくダニエルのようになれるのか。


夢の解釈において金、銀、青銅、鉄、それらが具体的にどのくになのかという区別はそこまで重要ではないというお話をしました。しかしながら最後夢に出てくる像の足元を打ち砕く石がイエス様である、っということは非常に重要です。いろいろな点で予言とマッチするという話はしました。ルカの福音書20章でご本人が神の国を建てあげる基盤の石は自分だということを話されています。


イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

ルカ20:17-18

 イエス様を土台とする人生そこに鍵がある。ということですね。


神のための人生、とは神様を自分の人生の王とするということだと話をしました。クリスチャンはイエス様を主と呼ぶのだからそんなことは頭では知識的にはわかっていますよね。にもかかわらず、気づけば私は自分のための人生を歩んでしまい、心配ばかりしてしまうと言ことがやっぱりある。でそれは、自分の人生にとって何がベストな事なのかを知っているのは自分だと無意識にでもどこかで思ってしまうからです。いまいち神様を信頼しきれない自分がいる。そんなときに私たちにはやっぱりイエス様の十字架が必要なんだと思います。イエス様の十字架を思い出すときに、命をさえ惜しまれずに私のためにささげてくださった方が、私を愛し、最善を願っていてくださるならば、この人生のかじ取りを主にゆだねてもいいのではないかと思えるのではないでしょうか。

 

 っと偉そうなことを言ってきましたが、私は以前にもシェアした通り心配性で、寝つきのいいほうではありません。で数日前ですね、そのような話をやすさんとしていました。まあ次のメッセージこんな話をするんですということを軽く話していて、「やすさんは、寝つきがいいほうですか?」と聞いてみました。すると「そうですね、気づいたら寝てます」とおしゃって。イヤーうらやましいなと思いながら「いいですねえ、昔からそうですか?」と聞くと、「いや昔は寝つきがわるくて、信仰をもってからだいぶ変わった気がします。洗礼受けて1年くらいですけど、以前はいろいろな悩んで寝付けないこともありました。でも神様をしって、いやそりゃあ今でも心配なることはあるんですけど、まあ祈ってこう思うようになったんですよ。「自分ではなにもできない。神様に任せればいいじゃん」って。それから寝つき良くなった気がします。」


 イエス様を土台とする人生がこれです。「自分では何もできない。神様にまかせればいいじゃん」という人生。皆さんの人生どうでしょうか。よく眠れていますでしょうか。いや不眠イコール不信仰ではないですよ、色々なメディカルコンディションやもともとの体の性質もありますから。けれどももし不安で眠れない夜を過ごしているなら、皆さん自分に問いかけてほしいと思います。自分のための人生なのか、それとも神様のための人生なのか。自分が自分の人生の王なのか、それとも神様が王なのか。そしてすぐには「神様のための人生だ」と思えなかとしても、祈ったうえで「自分では何もできない。神様にまかせればいいじゃん」ということができるなら、ダニエルのような人生を歩んでいけるのではないかなと思うんですね。そして何よりその土台となるイエス様のことをまだ知らない、信じていないという方がいらっしゃったら、イエス様に是非出会っていただきたいと思います。


2024.04.14

求めることは信頼すること(マタイ7:7-11)

マタイ7: 7-8を読みたいと思います。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

マタイ7:7-8

「求めよさらば与えられん」という言葉、教会や聖書に馴染みない人でも、もしかしたら耳にしたことがあるのではないでしょうか。さまざまなドラマや映画で引用されています。実はこの聖書箇所が引用元になっていますが、一般的にどういう意味として捉えられている言葉なのでしょうか。インターネットでこのような定義づけがされていました。

「求めよさらば与えられん」とは、「与えられるのを待つのではなく、積極的に自分から求め、努力する姿勢が大切である」という意味を持つことわざです。

いやまずことわざではないんですけどねーっと思うわけなんですが、なるほど確かに7節だけを取り出してパッと読むと、こう読めなくはないのかとも思いました。「とにかく夢をもって頑張りましょう」「自分の心にある願いを恐れず求めて行動を起こしていきましょう」「あきらめずに努力すれば、求め続ければ夢は実現します!」的な自己啓発本とかに書いていそうな感じでしょうか。もちろんそういうニュワンスが全くないというわけではないと思います。クリスチャンの間でも言いますよね、ただただ祈って何もしないのは信仰ではないと。求めるのであれば、祈るだけではなく自分のできることをしていくべきとか、問題がたちはだかりドアが閉じているように見えても、あきらめずにドアをたたき続けなさいとか。なんならそれが信仰だ、くらいのことを言いますよ。そういう意味で私たちは祈ることそして信仰を持って行動する。この両面の大切さをもちろん知っています。


しかしながらしっかりと文脈を捕らえて読んでいく時に、この箇所は単純にあきらめず積極的に求めて行動していくことの大切さをメインに語っているのではないということは明白だと思います。なぜなら9節以降、後々詳しく見ていきたいと思いますが、父親が子供に良いものを与える、もっと言うと天の父なる神様が私たちに良いものをくださるということが語られていきます。つまり神様と私たちの関係というものがメインのテーマとしてあります。実は平行記事であるルカの福音書11章には、ここと同じことばが登場します。「求めなさい。そうすれば与えられます。」(ルカ11:9)時間がないので詳しく読みませんが前後関係で言うと、その直前ルカの福音書11章の一番最初にはイエス様が弟子たちに祈り方をお教えになるシーンが登場します。いわゆる主の祈りの場所です。それがあっての「求めなさい」っというながれにルカの福音書ではなっています。つまり、この求めなさいっというのは、強く願って行動をおこせというよりは、遠慮なく大胆に神様に祈り求めなさい。っという意味合いが強いんですね。


さてその前置きをしたうえで、皆さん「求めなさい。そうすれば与えられます。」と聞いてどのようなことを思われるでしょうか。本当にそうだな思われるでしょうか、いやそう単純ではないと思われるでしょうか。もちろん素晴らしい約束だなと思いますし、励まされる御言葉です。しかしながら信仰生活が長くなればなるほど、祈ったけれども、求めたけれども、与えられなかった。探したけれども、見つからなかった。叩いたけれども、結局は、開かなかった。っという経験が1度や2度ではななくなっていくというのが現実ではないでしょうか。では私たちが経験するその「現実」とこのイエス様の仰った言葉と、どのように折り合いをつけて理解していけばいいのか考えていきたいと思います。


先ほど9節以降親子関係ということをベースに祈りということが語られていくといいましたが、このメッセージを準備していてちょっと笑ってしまったことがありました。私にも2歳の息子がいます。家では日本語、保育園では英語、まあそんな環境も手伝ってでしょうか。決して言葉という面では成長が早いほうとは言えません。ですからまだ彼のしゃべる言葉、覚えている言葉というのは限られています。ミルク、肉、パン、ジャム、っと。まあ好きこそものの上手なれではないですけれども、ほとんど食べ物ばかりでして。毎朝うちで一番早く起きるのがだいたい恵信です。寝ている妻あるいは私のところまできてまず第一声「パン」そして次に「ジャム」それの繰り返し。もう少し寝ようなんて言う交渉が通じるはずもなく、私か妻、いや正直ほとんど妻がやってくれていますが、そのリクエストに応えてパンをトースターにセットします。9節「自分の子供がパンを下さいという時にとでてきますので、」ってこんなに文字通り当てはまることあるかなっとちょっと私は笑ってしまいました。


息子が喋れる言葉が少ないということももちろんあります。でもたとえ「おはよう」という言葉を知っていたとしても、おそらく彼から最初出てくる言葉は「パン」なのかもなあと思います。でそれは良い意味で、私たち親と息子の関係の中心にあるものは多分シンプルなんですね。少なくとも息子にとってはシンプルです。パンっといてそれが出てくる。。肉と言って与えられる。ミルクと言って与えられる。チーチと言っておむつを替えてもらう。つまり求めて与えられるとういうシンプルなこと。そういうシンプルなやり取りを繰り返して愛とか信頼とか、いわゆる親子関係というものになっていくんだと思います。親子だけでなくして、人間関係の中心にあるものってやっぱり、この「求める」ということなのではないでしょうか。大人でもそうですよね。ちょっと困ったことがあって助けてもらった、逆に自分が助けてあげた。そういうことを通して人間関係というものは育まれていきます。求めるということがなければ信頼は生まれません。人には頼らず生きていくんだ、助けなどいらないと思ってそれぞれが生活をしていれば、一向に距離感は縮まっていかないでしょう。現代人が孤独に悩む原因がそこにあるのではないかと思ったりしますが。


話を戻しましょう。ですからシンプルに「求めなさい、そうすれば与えられます」というのは、何かこうアマゾンで注文したものが確実に届くとか、自動販売機お金を入れてボタンを押したら好きな飲み物がでてくるとか、そういうことではないわけですよね。求めなさいっと神様はがおっしゃるとき、それは言い換えると「私と関係を持とうよ」とこうおっしゃっている。ということなんだと思うんですね


 ではそれはどのような関係かというと、9節戻っていただいて親子のような関係だとイエス様はおっしゃる。神様が父親で、私たちが子供ですね。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

マタイ7:9-11

 親は子供に良いものを与える。まあこれは当たり前なわけですよね。基本的には子供の欲するものは全て与えてあげたい、それが親というもの。しかしながらじゃあ何でもかんでも与えたらいいのかっというともちろんそうではない。そんなことをすれば大げさに言えばですよ、その子の人生がめちゃくちゃになりかねない。無責任な親になってしまいます。


うちでは食事中に息子も私たち親と同じメニューをだいたい食べます。けれど時にちょっとスパイシーなものもたべますので、そういう場合は別の味付けになります。で好みでラー油とかコショウとか、キムチとか後で足しながら食べたりします。すると当然息子のめにはいって「アレ」ちょうだいっとなる。けれどそれに対しては「いやいやこれはあんたには辛い」と息子のリクエストに対してNoっと父親である私は言います。あるいは息子はミニオンというキャラクターの登場する映画が好きなんですが、そのテレビを見たい、見たい、と隙あらば言ってきます。もちろん見せるときもあれば、いや今日はちょっともうテレビは見すぎだなと思えば、ハイもうおしまいっと言ってテレビを消す。当然息子は怒り、泣き崩れます。「No-!」みたいな。この世の終わりだみたいな。で当然親は決していじわるしてそうしているわけではないですよ。本人が欲しがっているものでも、与えてしまえば害になるものがやっぱりこの世界にはあるわけですよね。それこそラー油なんて赤くておいしそうだなと息子は思うわけです。けれども実際口に入れようものなら確実に吐き出して、泣くでしょうね。テレビばかり見ていれば目が悪くなるかもしれない。そんなことは一ミリも本人は気づいていない、けれど親である私たちはわかっています。がゆえに彼のために愛を持ってそのリクエストに対してはNOっという。


 同じように神様も私たちのことを思って私たちの祈り、リクエストにNoとおっしゃるときがあります。

あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

ヤコブ 4:2-3

 

まあよく言われることですが、私たちの祈りもまた自分たちの願っているものが本当に自分にとってベストなものなのかどうか実は判断できていないということが良くあります。なぜなら私たちの視野はやっぱり狭い。どれだけ情報を集め、客観的に考えれたとしても、神様が持っておられる視野、知恵に比べれば比較にならないでしょう。ですから祈神様は私たちの祈りを無視しているのではなくしっかりと聞いたうえで、それにたいして「NO」という事もあれば、「まだもうちょっと待とうか」と言われるときもある。ラー油は成長したらしっかりと味わえるようになるわけですよ。けれどタイミングがいまではないと。でそうしたときに人間側から見るとなかなか祈りが答えられないなーと感じてしまうっという具合でしょうか


 クリスチャン生活が長くなっていくとそういう経験は増えていきますよね。振り返ってみて、あああの時祈り求めていたものは与えられなくて逆に自分のために良かったんだなと今となっては思えるようになったというような経験。皆さんもあるのではないでしょうか。


 私で言うと結婚についてですかね。正直に言いましょう、私の計画ではもっと早くに結婚しているはずだった。30歳になる前に結婚するのが理想でした。ですからそのために祈りましたよね、いい出会いがありますようにとか。でもそううまくはいきませんでした。私が結婚したのは35歳になってからです。しかしながら振り返ってみるとこれでよかったなあと思いますよね。もっと前に結婚していたら、今の妻にも出会えず、恵信にも出会えず。っというわかりやすいところももちろんそうなんですが、例えば若くして結婚していたら、そのありがたみとかわからなかっと思うんですよね。まだまだ足りませんけれども、あの結婚できない期間が私のなかに少なからず謙虚さというものを育てたのではないかなと思っていますし。そういった意味でも、正しいタイミングというものがあったのだろうなと思います。


さて、まあここまでは割とスムーズにストンっと降りてくるというか納得しやすい。なるほど自分が欲していることがベストかどうかというのはわからない。神様は私たちよりも何倍も広い視野で物事を捕らえ、私たちにベストな道へと導かれる。がゆえに祈りにNoあるいはNot yet(まーだだよ)が神様から返ってくることはあると。なるほどなあと思います。ただ一方でひねくれている私はこうも思ってしまうわけです。結局何を与えるかは完全に神様が決める、つまり御心にかなうものだけが与えられるのだとしたら、私たちが祈るか祈らないかなんて関係あるのだろうかと。でもっというと少し前の6章ではこうもおっしゃっているわけですよ


あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

マタイ6:8


ならなおさらなぜ祈るのか?そしてこの思いに追い打ちをかけるのは、やはり「聞かれない祈り」ではないでしょうか。もちろん自分勝手な祈り、あるいは自分の視野が狭くて、後になってやっぱりこれでよかったと思えることに関しては時間がたてば納得がいくのかもしれない。けれどもその「聞かれない祈り」の内容が、たとえば家族の病気を癒してください、命を救ってください、あるいは信仰を持っていない家族の救いを願う。そういうものだったとしたらどうか。やっぱり思いますね、さすがにこれは神様も望まれることなのではないだろうか、さすがにこれは御心にかなう祈りなのではないのか?っと。それでも主から一向に答えは返ってこず、沈黙が保たれる。そんな時間が長く続いたらどうでしょうか。

 

どれだけ私が祈ったとしても結局主は御心をなさるというのなら、何のために祈るのか?祈っても祈らなくても一緒じゃないのか。そうして次第に祈りが減ってきてついには祈らなくなるという事もあるかもしれない。期待するのに疲れてしまう。求めなければ傷つかなくて済む。けれどその代償は何かというと、神様との距離感ではないでしょうか。何度かメッセージでシェアしていますが、私は持病である神経痛がありまして、いまだに良くなったり悪くなったり繰り返しています。まあもちろん生死にかかわらないだけ感謝ですし、間違いなく忍耐とか自分の霊的成長、人格形成に役立っているとも思います。でもやっぱり思っちゃいますね。なんで治らないの?なんでこれが御心じゃないの?まあもちろんそういう思いも、時間とともに「受け入れる」という方向には向いていきます。神様との関係性において決定的なダメージとはなっていないと思います。でも今回のメッセージを準備するうえで気づいたんですね、私はどこかで自分の求めるものをサイズダウンする癖があるなあっと。これはたぶん無理だよねとか、まあこれは別に自分が頑張るべきことだよねとか、祈るほどのことじゃないよねとか。で心を掘り下げていくとやっぱり根っこにはこの「求める」ということを恐れてしまっている自分がいるということに気づかされました。でそれは確実に神様と自分の関係の距離感に影響を与えていると感じたんですね。ちょっと一歩下がっている感じというのでしょうか。


 何故神様はある人の命を救ってくださいという祈りにはこたえられて、ほかの人の同じような祈りにはNOと言われるのか、ある人は奇跡的に癒されて、ある人は何年たっても癒されないのか。それに納得のいく答えなんて正直持ち合わせていません。わからない。牧師でもわかりません。けれどもはっきりしていることがあります。それは私たちはそれでも祈るべきだということです。


 何故それでも祈るのか?に対する最もシンプルな答えはおそらくイエス様も祈られたからという答えになるでしょう。そしてイエス様ご自身も神様から祈りの答えとしてNOを頂くという経験をされたということにやはり目を留めたいと思います。イエス様は神様です、にもかかわらずこの「聞かれない祈り」というものを経験された。しかも命がかかった場面でです。どこででしょう? ゲツセマネ、ゲツセマネの祈り。十字架につく前の夜イエス様が祈られた有名な祈りですね。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

ルカ22:42


さすがイエス様、最後は御心の通りにと祈られている。ってそう簡単な話ではない。聖書には血の汗を流されたと書いてあります。つまりそれほどに必死だったということです。しかも一度ではなく三度祈られました。つまりそれだけ避けたかった。当たり前です誰も世界の罪を背負って十字架になど行きたくはない。そして神の御子がこの窮地から救われる、これこそが神の望むこと、神の御心だって普通は思いますよね。結果どうなったか。その願いはかなえられずイエス様は十字架で苦しみを受けられます。父なる神様から帰ってきた祈りの答えはNOでした。求めたものは与えられなかった。ではなぜ祈られたのか?イエス様は神様ですから、ご自身祈りの、リクエストの答えがNOであるということはわかっていたかもしれない。それでも祈られた。なぜか?それはイエス様の祈りの最終ゴールは祈り求めたものが与えられるということではなかったからですね。求めたものは与えられなかった、それでも、それでも父なる神様あなたを信頼しますというところにイエス様ご自身が祈りを通してたどりついたというところに非常に重要な意味があるんだと思います。そしてこれは最初からあきらめてしまうのとはわけが違う。求めることなくして、信頼関係というのはあり得ない。求めたうえでゆだねるということが信頼でしょう。


 求めるということはリスクです。答えがNOかもしれないから。けれど私たちが祈りのなかで恐れず求めるときにそれは、「神様、私はこれだけあなたを信頼します」っというしるしなんだと思うんですね。

 ある人がこんなことを言いました。


どちらのほうが優れた奇跡だろうか?癒されえることか、それとも癌に侵されてもなお、神に礼拝を捧げる心なのか?私にはわからない。ただ、私はそんな心が欲しかった

What was more supernatural? A healing or a heart that still worshipped as cancer ravaged the body in which it beat? I can't say. I just wanted a heart like that

Jack Deere


私もそんな心が欲しいなあと思います。

最後にちょっと使徒の働き12章開いていただきたいと思います。ちょっと時間ないので全部は読みません。ぜひご自身で時間のある時に読んでいただきたいと思います。まあざっくりあらすじを言いますと、イエス様のことを福音を宣べ伝えている使徒たちはその福音の広がりとともに迫害に会うようになります。その迫害のゆえにペテロがヘロデ王という王様に捕らえられてしまうということが起きるんですね。で5節見ていただければわかりますけれども、教会はそんな捕まってしまったペテロのために熱心に祈ります。すると真夜中ごろ御使いがあらわれて、奇跡的にペテロがつながれていた鎖は落ち、牢屋の門も開いて助け出されるということが起きます。ペテロは彼のために祈っている教会のところまでいってサプライズ!と言わんばかりに皆会う。で皆神を褒めたたえると。まざっくり言うとそういうエピソードが17節ぐらいまで展開するんですね。で今日注目したいのはその奇跡ではなくして、12章の1-2節、迫害が厳しくなっていった様子がかかれています。


そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

使徒12:1-2

この流れでペテロが捕まっていくわけなんですが。2節ヤコブは殺されたとさらっと書いてある。これペテロと同じ12使徒のひとりのヤコブです。なぜペテロは奇跡的に助けられて、ヤコブは無残にも殺されたのか?どちらも使徒です。福音を伝えていくという重要な役割があったはずです。なぜペテロだけ助かったのか?


 その理由を答えられる人はいないでしょうね。わからない。わからない。けれど明らかなのは、ペテロのために祈った教会は、ヤコブのためにも熱心に祈ったに違いない。ヤコブが助かるように、ヤコブが救われるように、皆で心を一つにして祈ったことでしょう。そのうえでヤコブは殺される。そうして間もなくしてペテロが捕まる。もしかしたらヤコブが殺された次の日だったかもしれませんね。教会はどうしたか、祈った。ペテロのために祈りました。ヤコブを救ってくださいという祈りが聞かれなかったという現実直前に経験してもなお、教会は熱心にペテロのために祈ったんですね。


 どちらのほうがより優れた奇跡だろうか?鎖が落ち、牢屋が空き、ペテロの命がすくわれたことか?それとも聞かれない祈りを直前に経験してなお、あきらめることなく主を信頼し熱心に祈りつづける教会か?私にはわからない。ただ私はそんな教会の一員でありたい。と思うんですね。

 祈りというのは深いです。説明しつくせません、なぜならロジックではない、リレイションシップ/関係だからです。そしてだからこそ難しくて時に混乱します。これが正解の祈りだということは言えないでしょう。しかしながら祈りに関しての不正解はあります、でそれは祈りを辞めてしまうということ。なぜならそれは神様との対話を辞めてしまう。関係を断ってしまう、あるい距離を開けてしまうということだからです。祈るこころ、求める心を主が与えてくださるようお祈りしたいと思います。

2024.03.24

心配の特効薬は信仰(マタイ6:25-34)

 

さあっということで今日も山上の説教、マタイの福音書続きをやっていきたいと思います。今日の箇所、繰り返し出てくる言葉があります。「心配」ですね。この短い箇所で実に7回登場しますので必然的に今日のメッセージは「心配」をテーマとして取り扱っていきます。

心配に関するアンケート結果インターネットにいろいろ転がっていましたのでいくつか見ました。様々な統計の仕方がありますので一概には言えませんが、日本人の成人の約70%~80%が何らかの不安を、心配を抱えているという結果になっていました。皆さんはどうでしょう、心配事あるでしょうか?あるならどのようなことを思い煩っておられるのか?イエス様はここの箇所でおっしゃいます、「心配してはいけません。」心配する必要はありませんではなく、心配してはいけません。です。いったい心配の何がそんなにいけないのでしょうか?「心配するな」とは何も考えるなということなんでしょうか? そのような疑問を頭の片隅に置きながら聖書を開いていきたいと思います


マタイの福音書6:25-34


だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6:25-34


早速25節から見ていきましょう。だからっというふうにスタートしていきます。

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。(25節)

つまりここまで語られたことを踏まえて考えるならという意味ですね。では24節以前は何が語られていたのかというと、先週Sho君がカバーしてくださいました。富に仕えるのか、主に仕えるのか、お金か神か、そのようなことがテーマでありました。その文脈で25節が始まっていきます。ある人は言いました「大切にしていないものについて心配する人はいない」逆に言うと、もし心配している自分がいるなら、そこには必ずあなたが大切にしているもの、失いたくないものが心配の裏には隠れているということです。


確かにそうだなあと思いますね、学生の皆さんがアサイメントの締め切りと常に戦っておられるという話を聞きます。もちろん祈ってほしいと言われればそのために祈ります。けれどもその方のアサイメントがちゃんと終わるか、あるいはいい評価が得られるかと心配で私自身が眠れなくなるなんてことはないわけですよ。正直次の日に気にもとめていない。でもご本人はそうはいかないわけですよね、自分がパスできるか、いい成績をとれるか心配で時には眠れないということはあるでしょう。なぜならその方にとってそれが大事なことだからですよね


 っとこのように、人は自分が本当に大事にしているものに関してのみ心配をします。だからこそイエス様も、主に仕えるのか富に仕えるのか、つまり神かお金かという文脈で「心配」について語られるんですね。もちろんお金以外のことに目が行く、他のことに心乱されるということは大いにあります。けれどもお金というものはやっぱり多くの人を惹きつけます。学生の時はそうでもないかもしれません、けれど自分で収入を得生活をし始めれば急に真剣な問題になります。だからこそお金の心配っというのは「大人」の間ではよく聞く話なのではないでしょうか。でそれは裏を返せば結局私たちクリスチャンでさえも神様ではなくお金に信頼をおいてしまっているということがあるからなんだろうなと思うんですね。イエス様はそんな私たちに問われる、いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

(25節)

お金を大事にすることが悪いわけではないです。食べ物も着るものも、生活というのはお金があって初めて成り立つ、必要なものです。けれど本当の意味で人生を豊かにするのはお金なのか?いやそうではない、なぜならそんなものよりはるかに大事ないのちそのものを与えてくださったのは神様ご自身です。そんな主が生きるのに必要な食べ物や着るものを、生活の必要を満たしてくださらないはずがない。空の鳥と野の花を見ればわかるではないかっと続いていきます。まずは26節

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(26節)


住宅ローンや税金、貯蓄、生活費のことで頭を悩ませている鳥を見たことがありますか。もちろんそんな鳥はいない。野生の鳥はその日暮らしです。それでもしっかりと神様によって養われている。鳥でさえそのよう養われているのだから神様は私たちを養ってくださらないはずがないということですね。さてここで気をつけたいのは、働かなくてもいいよっていうことではないということです。何の計画も持たずに、お金なんか気にせず適当に使ってその日暮らしをしましょうということではない。もちろん私たちは与えられた仕事、責任を主にあって果たしつつ。与えられたお金、祝福を計画的に使っていく責任はあるでしょう。けれどもそのことで思い悩む、つまり心配する必要はない。なぜなら最終的な責任を持ってくださるのは天の父だと。ここポイントですね。神様は私たちの父親です。私にも2歳の息子がいますけれども、彼にしっかりとごはんを食べさせる、必要なものを与えるのは親である私と妻の責任ですね。2歳の息子に全て自己責任で、とはもちろんなりません。心配をしなくていい、なぜなら私たちは必要を満たしてくださる父なる神を信じているからです。次28-30節


なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

マタイ6:28-30


ここまずポイントは「着飾る」という言葉です。しかもその比較対象はあのソロモン王。ソロモン王と言えばイスラエルの歴史の中で最も裕福で栄華を極めた王様でありました。どうでしょうクリスチャンが神様は必要なものは与えて下さるっという時に、どこかイメージ的に最低必要減、質素、ぎりぎり生活できるくらい与えられる。なんかそのような感じを想像してしまうのは私だけでしょうか。けれどよくよく読んでみるとそうではない。30節 明日は炉に投げ込まれる野の花さえそのソロモンよりも美しく装ってくださる神様があなた方に良くしてださらないはずがない。といいます。Tシャツとジーンズ、冬はヒートテックとダウンがあれば何とかなります。けれどそうではない。美しく装ってくださるとあります。つまり神様はただただ生き残るために必要なものを下さるだけでなく、プラスアルファ、私たちが楽しむための祝福というのも大いに与えてくださる。神様はそのような愛にあふれた父親のようなお方だとおっしゃっているんですね。


 そのような愛ある父親として神様を信頼しているのか、ここがまあ「心配」というものを考えていく時にポイントになってくるわけですよね。繰り返しになりますが、働くな、計画を立てるな、準備するな、貯金するなではない、問題は優先順位です。先週やりましたね自分の人生のNo1が何になっているのかということ。自分の必要や自分の楽しみを守ってくれるのは、お金だと信じてしまう時に、私たちは否が応でも心配になります。お金を失ったらどうしよう、お金が稼げなかったらどうしよう、お金が足りなかったらどうしたらいいんだろうと。イヤイヤそれらすべてを満たしてくださるのが神様だということを忘れてはならない。神様を第一にしているか。ですから今日の箇所最も大事なのは33節です


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 マタイ6:33


 どうでしょうかこれ読み方によっては単純に、神様を求めたら、裕福になる。っといったようなご利益的な意味にとれてしまうかなと思います。がしかし、もちろんそうではないんですね。とにかく神様に従ったら、ご褒美で与えられるっというような意味合いではないんだと思います。ではどういう意味か詳しくみていきましょう。


神の国とその義とをまず第一に求めなさい神の国ってなんなのかは、あとでちょっと詳しくやりたいと思います。ここでは簡単に神様の御心、つまり神様の願うことと理解していただければいいと思います。神様の御心を一番に求める、第一に求めることが大事だとおっしゃる。そもそもなぜイエス様は心配してはいけませんとおっしゃったのか。心配する必要はありません、ではなくして心配してはいけませんっとちょっと厳しめの表現になっています。その理由は、心配の裏には必ず偶像礼拝が隠れているからなんだと思うんですね。ずーっと見てきました。心配するということは何か自分が大切にしているものがあると。そして多くの場合、それらを神様よりも大事にしている、神様よりもそれらに頼っている状態にあるのではないでしょうか。言い換えれば「まず第一に」神を求めていないからこそ私たちは心配になる。お金ということをメインの文脈として語ってきましたが、それ以外にもいろいろあると思います。家族、子供、人間関係、仕事、学校の成績、結婚、健康、それらが失われそうになって、あるいはそれら本当に得られるかどうか人は「心配」になるわけでしょう。もちろんそれらを求めてはいけないわけではない、けれども「これがなくては私の人生はおしまいだ」そう思ってしまう時に、私たちは非常に不安定な土台に自分の人生を据えてしまうんですね。そうではなくして、まず第一に神様を、神様の御心を求めなさい。神様を私たちが求めるなら、それは確実に満たされる。けれどそれ以外が第一に来るときに、私たちはそれがなくなったらどうしようと心配になる。神様のなさることを信頼しなさい。愛にあふれた父である神様があなた方に最善をなしてくださらないはずがない。これを信じれるかどうかで私たちが抱える「心配」のサイズ感というのは変わってくるのではないでしょうか。


 さてとはいえですよ。とはいえ現実問題どうなんですかっていう、心配は簡単に拭うことはできませんよね。だってこの世はいいますよ。全てが自己責任だと。自分で頑張らなければ、しっかりと努力しなければ誰も面倒は見てくれない。だからみんな必死に頑張って、それでも心配を抱えて生きているのではないでしょうか。


 さてそこでも一度33節もどります。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 マタイ6:33

神の国を求めなさい。この神の国とはなにか、天国のことか。まあもちろんそれも含まれるんです。これ英語だとkingdom of Godという表現になります。神様がking、王様つまり神様の支配っという意味なんですね。神の御国とはつまり主の御心が100%反映される場所、空間っていうんでしょうか。ですから神の国を求めるとは、神の支配を求めるっということです。ちょっと抽象的にな表現でわかりにくいかもしれませんが。神の支配、神様に自分の人生の王様になっていただくということを求めるということなんですね。


 ある人は言いました。心配は自分にはどうにもできないことを、どうにかしようとする、つまりコントロールしようとする行為であると。34節このようにあります。


だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 マタイ6:34


人は明日のことを心配します。つまり未来のことを心配するんですね。まだ起こっていないこと。人の心配することの9割は実際はおこらないというのはよく言われていることで皆さんも聞いたことあるんじゃないでしょうか。明日、来週、来月、来年、数十年後、未来はどうなるかなんてわからないんですよ。わからないのに、いやわからないからこそ心配してしまう。けれどイエス様はおっしゃる、それはあなたの仕事ではないよと。だって私たちが変えられるのは過去でも未来でもなく、いま現在、今日しかないからです。そういう意味で労苦はその日その日十分にあるとおっしゃる。いやもっというと今日というこの日でさえ自分でどうにかできることは本当に限られている。にもかかわらず、それを自分の思う通りにコントロールしたい、だから思い悩む。こうなったら、ああなったらと自分の中でシミュレーションして、最悪のケースまで考えて心配する。そんな私たちにイエス様はおっしゃいます27節

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(27節)


答えは当然NOですよ。心配したら状況が改善するのか、いやそんなことはない。心配しようがしまいが、災難や試練は来ますよ。だからそれを前もって自分の中で言リハーサルしてそれを何度も味わう必要はない、その時にできることをやればいい。わかりますよ、わかります、ガッカリしたくないからあらかじめ最悪のケースを想定するんだとか、その時になって慌てたくない。だから最悪のケースを考えるんですよね。そのための準備することは必要です、悪いことではない。しかしながらその結果、心配という感情にとらわれて、今やるべきことができなくなってしまうようであればそれはどうなんでしょうか。


 もう20年くらいまえですがバイブルカレッジの最終学年のことです。当時今までにない大きな課題があって、頑張ってはいたのですが締め切りが近づいてくるのに思うように進んでいませんでした。いよいよ、これは間に合わないのではないか。そういう思いが心配となり、焦りとなり、その思いに押しつぶされて、なかなか机に向かえず、集中できず、結局は教授に頼み込んで締め切りの延長をしてもらったということがありました。


心配は変えることのできない未来にばかり私たちの目を向けてしまい、今は果たすべき責任から目をそらさせてしまうんですね。心配するだけで疲れてしまう。さてじゃあそれと、神の国とどう関係あるのかということですが。それは私というこの人生を本当は誰がコントロールしているのか、誰が支配しているのかっというそういう問いかけになってきます。神の国とは、神様の支配だということをお話ししました。私の人生において、本当に主の支配を、神の国を求めているのか。それとも自分の支配、つまり思い通りにしたいと思っているか。思い通りにしたいと思う時に、心配はしつこくつきまとってきます。


 このメッセージを準備していて、正直非常に難しかったです。何が難しいのかと言えば内容ではない。何なら解説はあまり必要ないくらい、この箇所のメッセージはクリアなのではないのかなと思います。しかしながら、それを語る私自身がどうにもこうにも心配性であるということは否めない。一このメッセージを準備しながら、うまくできるだろうかと「心配」していました。「心配するな」というメッセージに関して心配しているのだから世話ないなと思います。まあそんな話をABCの牧師であるヘイデンさんに雑談でしていました。すると「ほかにどんなことが心配なの」っと聞かれましたので「そうですね、常に日本人教会の今後どうなっていくのかはまあ心配になるときが正直あります」そう答えました。すると彼はすごくフランクですから。ふつうに聞いてくるんですね「最悪のケースはどんなことが考えられるの?」でまあ私もいいますよね、「そりゃあまあ経済的に、とかその他いろいろな理由で教会が続けられなったら単純に僕は職を失うよね、で日本に帰らなければいけなくなるかもしれない。」と。ごめんなさいね牧師としてこんな話をするのはどうかと自分でも思うんですよ。でもまあ牧師同士の半分冗談交じりの会話っていうやつです。でそれを受けて「なるほどノブは日本に帰らなきゃいけなくなることが怖いんだね、それを恐れているんだね」っとヘイデンさん。情けないかな、おそらくそうなんだと思います。教会としてのこの先どうこうよりも自分のことを心配している。つまり私にとってNZで生活を続けるということが偶像になりつつある、その運命を主にゆだね切れていない自分がいるのだなということを思わされました。


もちろんそうならないように私自身最善を尽くす、できることはやる、そういう責任はあります。けれどその後は主に任せする。それこそが神様の支配を自分の人生に願うということなんだと思うんですね。


 34節最後「労苦はその日その日十分にあります。」とありました。いいですか、信仰をもって神様の御心を求めれば、交換条件ですべてがうまくいくってそういう話ではないんです。労苦はあるんです。そして時には本当にこのままで大丈夫かと追い詰められることもある。それでも、それでも、神様が最終的な責任は持ってくださる。この人生は自己責任だけではない、私は私の人生の王ではない、主よあなたが王です。どうかわたしの人生を支配してください。あなたの心を信頼します。この真実にどれだけ根差して歩めるか。そういった意味で心配に対する特効薬はやはり信仰しかないと思うんですね。


 っとこのようにお話をしますとね。心配性の人は不信仰で、心配しない方は信仰があるみたいに思われるかもしれません。けれどもそういう単純な話ではない。心配をしない=信仰ではないんです。人が心配をしない理由はいくらでもあるでしょうね、そもそも細かいことは気にならないという性格だとか、下手したらただの無責任とか。あるいは生まれ持っての体力、適応力、精神力、才能そういったもので過去いろんな問題を自分の頑張りで乗り越えてきた。そのような経験を持っている、がゆえに心配しないと。それらは素晴らしいことです。正直うらやましいなあと思います。けれどそれが信仰かどうかはまた別の話ですよね。いいですか、だから人はいいんです。人と比べる必要はないんです。私はなんでこんなことで心配になってしまうんだろうと自分を責める必要もない。ただイエス様はおっしゃる。人はいい、私を見なさい。私をもう少し信頼してくれてもいいのではないかっと。


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ8:32

私たちが自分ではなく主を信頼し、お任せする根拠がここにあります。イエス様はご自身の命を私たちのためにささげてくださった。命がけで愛してくださった。その証が十字架です。ですから私たちがじぶんの願いに、思いにしがみついて心配になるときに、十字架を思い出したいと思うんですね。そんな命がけで愛してくださる神様が私たちの人生一番良いものを下さらないはずがない。自分の人生を自分で握るのではなく、その愛ある力強い神の御手にすべてをゆだねたいと思います。


さて長らく語ってきました。まあもちろんこのメッセージ一発で心配が吹き飛ぶなんてことはないと思います。けれどせっかくですから少しエクササイズをして終わりにしたいと思います。紙とペンをお配りします。いいですか、隣の人のは絶対にのぞき込まないでください。ご自分が心配に思っていることを、箇条書きでいいのでかきだしていただきたいと思います。そして声に出しても出さなくてもいいので、今書き出したことについて祈る時間を少しとりたいと思います。一つだけ自分は何を握りしめているんだろうかということを思いめぐらせながら、それをゆだねることができるように祈りましょう。


何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ピリピ4:6-7


2024.03.03

復讐の闇、愛の光(マタイ5:38-48)

復讐の闇、愛の光


さあっということで、今日もマタイの福音書5章の続きをやっていきたいと思います。今日の箇所はクリスチャンではない方でも言葉だけは聞いたことがあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。「右の頬ぶたれたら左の頬も向けなさい」とか「敵を愛しなさい」という言葉ですね。


 読んでいて内容として理解するのに難しいところは、それほどないのではないでしょうか。しかしながらこれを実際に実行していくということを考えるときに、現実的に実現可能なのかということを思わされる非常にチャレンジな箇所だと思います。早速前半部分の5:38-42を読みたいと思います。

38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。


マタイ5:38-42


まず38節「目には目で、歯には歯で」と出てきました。クリスチャンではない人も聞いたことあるかもしれませんね。古代ハンムラビ法典、学校の世界史でできたのを覚えているよ、と言う方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかしながらもちろんイエス様がここでお仰っているのは、ハンムラビ法典のことではありません。旧約聖書の律法のことをおっしゃっている。

もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。

レビ記24:19-20

どうでしょうか、「目には目を」ってちょっと野蛮なひびきというか、暴力的というか、そういう印象を受けます。そして何なら「やられたらやり返せ」という復讐を煽っているような感じさえします。


皆さん突然ですがこの映画ご存知でしょうか。「ジョンウィック」、キアヌリーブスがとにかく銃を撃ちまくるという、非常に単純なアクション映画なんですけれども。ストーリーはざっとこんな感じです。キアヌリーブス演じるジョンウィックは元伝説の殺し屋でした。しかしながら今はもう足を洗っているという状態です。悲しいことに愛する妻を亡くし、残った愛犬と静かにくらしていたジョン。そんなある日、ガソリンスタンドで若者が近づいてきて、ジョンの愛車を売ってくれという話を持ち掛けます。けれどジョンはそれを断るんですね。この若者、実はロシアマフィアのボスの息子でありました。プライドを傷つけられたと思った彼は、ジョンの家に乗り込み暴行のかぎりをつくします。その際にジョンの愛犬が命を落としてしまう。それを見てジョンは再び殺し屋としての自分に戻る決心をして復讐をするというストーリーです。結果このマフィアの息子、そしてほぼマフィア全員を殺してしまう。ジョンも代わりに彼の友人も殺されたりするわけなんですが。。。ただ「車を売ってくれなかった」ということからスタートして最終的には数えきれないほどの死人を出すという結末を迎えます。


っというまあ映画ですから、痛快な復讐劇として描かれていま。けれど復讐というものの恐ろしさがここにあります。復讐というものは必ずエスカレートする。子供のケンカもそうですね、最初は「バカ」っと悪口、けれど手が出て、足が出て、もう最終大ゲンカになりどちらかが泣いてしまうといような。子供ならかわいいものですけれど、大人は行くところまでいったら戦争にまで発展しますよね。いまだに戦争がなくならないのも基本的にはこの復讐の連鎖です。数年前にこんなドラマもありましたね。半沢直樹。そしてこのあまりにも有名なセリフ「やられたらやり返す、そっくりそのままだ」ではなく「倍返しだ」っと。復讐は倍返しの連続を生んでしまう。


聖書戻ってきますが。そういう復讐という人間の破壊的なサイクルを、せき止めるために与えられたのが、この律法だとういうことです。「目には目で」。つまり目をやられたら、命まではとるな、目には目だけで我慢しないと。ちょうど同じ分だけ罰を与える。(専門用語では同害報復法なんて言ったりするようです。)そしてそもそも、この律法は個人で行う復讐を禁ずるもので、裁判で行き過ぎた罰ではなく公平な裁きと罰をっという文脈で語られているものなんですね。そういうことを踏まえて読むと私たちが思うほど、この律法が残酷で野蛮なことではないというのがお分かりいただけるかと思います。


さて問題は次です。「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。」そしてあの有名な「右の頬たたかれたら左の頬も向けなさい。」という言葉につながっていきます。今あげた、ジョンウィック、半沢直樹、に限らず、時代劇の忠臣蔵など仇討ちの話はたくさんあります。日本人は復讐劇が大好きです。なぜなら見ていてすっきりする。でその感覚はどこから来るのかというのは正義を求める心です。悪しきは罰せられるべきだと。やられたらしっかり報復をする、それこそが正義を保つための唯一方法なのだと私たちは思っています。けれどイエス様はおっしゃる。悪いものに手向かってはいけません。でその御言葉を読んでいる私たちは思います。えっイエス様それじゃあ正義はどうなるんですかっと


 ここで誤解されがちなのが、この「手向かってはならない」の意味です。手向かってはならないと聞くと、なされるがまま、何もせずにただただやられるのをじっと我慢する、というような印象を受けるのではないでしょうか。けれどそうではない。多くの神学者はこの「手向かってはならない」とは、何もしてはならないではなくして、暴力をもって仕返しをしてはならないという意味だといいます。つまり復讐にとらわれるな、仕返しをするなというニュアンスですね。ですからもちろんイエス様は、社会にある悪や不正を放置しなさい、とにかく何もせずに我慢しなさい、と言っているわけではない。相手の間違いは指摘しつつも、悪に暴力をもって立ち向かうのではなく、別の方法を模索しなさいっとおっしゃっている。やられたらやり返す、ではなくて、やられっぱなしで我慢するでもなくて、別の第3の道。

 

 そしてこれは当時非常に身近な問題でありました。なぜならイスラエルは当時ローマ帝国に支配されていたからです。ですからローマ兵はあちこちにいて、支配されている側のユダヤ人たちは不当に扱われることも日常茶飯事。自分たちは神の民だという誇りがあるユダヤ人の中には、いつか目にもの見せてやるという思いがふつふつとあったに違いありません。したがっていつでも剣を持って戦う、暴力に訴えたいという機会が日常に転がっている状況だったことが容易に想像できます。そういう日常を背景にイエス様は3つの例を用いて暴力に訴えるのではない別の道を提示されます。一つ一つ見ていきましょう。まず一番目


あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(39節)


これは実際にやったほうがわかりやすいと思いますので、ちょっとショウ君前に出てきてもらって。右の頬を打つとありますね、右利きの人が普通平手打ちをするとき左の頬にあたるわけです。っということは右の頬を右手で打つには、手の甲でパチンとはたく形になる。そしてこれが当時の文化的に最も侮辱的なたたかれ方でありました。主人が奴隷を打つとき、ローマ兵がユダヤ人を打つとき、このようなたたき方をしたんですね。物理的な痛みというよりは人の尊厳をうばう暴力です。「お前は私より下の人間だ」と主張するたたき方でした。でそのようにたたかれたときイエス様は左の頬もむけなさいとおっしゃる。そうするとどうなるか、たたく側はもはや右手の甲ではたくことはできません。どうしたってグーで殴るか、手のひらで打つかになります。そしてそのたたき方は立ち場が対等な相手にのみ行うたたき方だったんですね。つまり左の頬を差し出すことによってたたかれた側は「私を打つなら、打てばいい、けれど私はあなたより下の人間ではなく対等な人間だ」という主張をするということになります。やったらやり返すの精神ではなく、暴力に訴えるのでもなく。けれどただただやられるのではなく、相手の間違いを指摘する非常に知恵のあるアクション。もちろん関係なくボコボコにする人もいるでしょう。けれど可能性として相手の暴力を留められるかもしれない。相手に考える機会を与えるっていんでしょうか。

 

 2番目

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40節)


ローマに支配されていた当時、重い税金で多くの人が経済的に苦しんでいました。結果自分の土地も奪われて、それでも借金が返せないという状態になることは珍しくありませんでした。そして下着が借金の担保に要求されることがありました。ですからこのシーンは裁判所です。裁判で下着まで担保に取られた、そういう時はイエス様は上着もやりなさい。とこうおっしゃる。当時の基本的な服装はまず下着と呼ばれるシャツですね。でその上に上着とを着る。シンプルな服装です。ズボンとかそういう概念はありません。基本この2枚の服しか着ていない。で裁判所で下着が担保にとられて上着まで差し出すとどうなるか。シンプルですね真っ裸になる。そしてユダヤの文化的に裸になる側ではなく、裸を見る側が恥を被るという価値観がありました。ですから上着も差し出すとによって、どれだけその相手がひどい搾取をしているかということを周りに露呈することができるんですね。そして願わくば、それを通して相手が悔い改める機会を与えるという、アクションです。


3番目

あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい(41節)


当時ローマの法律でローマ兵はユダヤ人を含め、支配している住民に自分の荷物を1ミリオン(約1.5km)まで運ばせても良いという法律がありました。いたるところにローマ兵はいるわけですよ、ですから家族で出かけているときであろうが、仕事中であろうが、ローマ兵がやってきて「おい、そこのお前俺の荷物を運べ」と言われたら全部いったんおいて、従うしかありませんでした。非常に屈辱的な瞬間だったと思います。さてここでのポイントはローマの法律が許容していたのは1ミリオンまでというところです。それ以上を強いるのは禁じられていました。荷物を運ばされて1ミリオンの距離まで来ました、けれどそこでとどまることなく荷物を運び続けたらどうなるか。今度はローマ兵側の都合としてちょっとまずいわけですよね。もしこのことが上官にばれたら、どうしようとなる。まあ基本的に誰も見ていないから気にしない、あるいは見つかっても「こいつが勝手にやったこと」と言い訳する兵士もいたでしょう。けれど中には、「うーんそろそろおろしてもらえるかなあ」っという兵士も出てくるかもしれない。相手を権力で押さえつけるのとは全く別の、暴力ではなく相手に仕えることによって得られる力。第3の道をイエス様は示された。


さて立て続けに見てきましたがどうでしょうか、なんかもう一休さんみたいな頓智の話のようで聞いてて面白いですし、さすがイエス様天才っというそういう感じがしますよね。けれど気をつけなくてはいけないのは、これ決してテクニックの話をしているのではないということです。知恵を尽くせば、何か道が開ける、相手も変わるっということでは必ずしもない。結局はボコボコにされたり、すべて奪われたり、搾取されて終わりということは大いにあります。また私たちが何かされたとき、単純に暴力に頼らなければOKということではない。もちろんされるがままではなく、知恵を用いて何が間違っているのかということを相手に伝える、主張するということは大事です。けれど頓智を利かして相手を懲らしめましょうではないんですよ。それでは結局ちがうかたちの復讐になるだけです。ですから復讐の連鎖を断ち切るには、結局は相手を赦すということが必要になってきますし、あるい程度の痛みを自分でぐっとこらえて耐えるということが必要になってくる。どうしたって簡単ではない。パウロはローマ人への手紙でこのように書いています。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」… 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

ローマ12:19,21

復讐の心は神様にお預けして、悪をもって悪に対するのではなく、善をもって悪に打ち勝てと。


 そして後半イエス様はさらにこうおっしゃる。43-48節

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。


「自分の敵を愛せ」です。「復讐するな」だけではなくして、敵を愛する。そんなことが可能なのか?けれど悪に悪をもって打ち勝つのでなく、善をもって打ち勝つというのであれば、「知恵」だけではなくおそらくこの愛というものが不可欠なんですよね。どのようにすれば敵を愛することができのか。詳しく見ていきましょう


まず43節「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」っと出てきます。でこれまた旧約聖書の引用になんですね。

復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

レビ記19:18


さて見ていただければわかりますが、敵を憎めという言葉は出てこない。ここだけではなく旧約聖書のどこにも出てきません。ではなぜ「敵を憎め」が出てくるのか?それは当時の人がこのレビ記の箇所をそのように解釈したからです。「隣人を愛しなさい」と言われたときにまず出てくる質問は、「じゃあその隣人って誰のことをさすの?」です。でそれは基本的に同国民、つまり同じユダヤ人のことをさすというのが当時の一般的な解釈でありました。ですから当然同じ国民のユダヤ人は「隣人」として愛する。けれどその愛する隣人を苦しめるローマ人は敵として憎む、ということが教えられるようになったのだと思います。


でそれは今でもあまり変わっていない、人間はみなそうじゃないですか。人は自分の仲の良い人、自分と似た考え方の人、自分に見返りをくれる人、自分と似たようなバックグラウンドを持っている人を愛します。いわゆる自分が持っている枠の内側にいる人っていうんですか。そういう境界線を私たちも無意識にでも持っているのではないでしょうか。けれどイエス様はおっしゃる


自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

マタイ5:46-47


そうではなくして、自分の枠の外側にいる人も、いやもっと言えば敵と言えるような人も愛しましょうっと。つまりは境界線をひろげなさい、いや広げるだけではなく取っ払ってしまえ、とイエス様はおっしゃる。ですから結局「隣人を愛する」というのは誰でも区別なく愛するということを意味するんですね。


さて隣人について考えました。次じゃあ「愛する」とはどういうことか考えたいと思います。愛という言葉、わかったようでわかりませんね。まず一般に愛ということを語るときに、それは感情を意味する場合が多いのではないでしょうか。愛=好きになる、好意を持つというようなですね。けれどイエス様の語る愛というのはどうやらそういう感情のお話しではない。なぜならだれでもかれでも好きになるなんて現実的ではないです。ましてや自分を攻撃してくる敵、恨みを持っている相手を好きになどなれるはずがない。じゃあ愛するってなにかというと、それは意志であり、行動です。と抽象的に言ってもわかりにくいでしょうから、イエス様具体的におっしゃってますね。44節あたり敵を愛し、その人のために祈れっと。でこれはアイツに罰が当たりますようにというそういう祈りではないです。主の祝福を祈るっということ、相手が悔い改めて自分の罪に気づくということも含めて、相手の最善を祈るっということです。それが敵を愛するということの第一歩。これは非常に難しい、そんなことを思えるわけがない。でも逆に言えば感情はついて行かなくてもいいんです。とりあえずやる。敵を愛するということは、敵のために祈るということから始まります。そして小さな一歩でいいと思うんです、行動で愛をしめしていく。47節にありましたね、挨拶をするとかそういうところから、初めてもいいかもしれません。苦手だなと思っている人、自分とはあわないなあと思っている人にあえて挨拶をする。そこから関係というのは始まっていきます。

 

 さてではなぜそうまでして敵を愛するべきなのか、イエス様の提示する理由はシンプルです。なぜなら神様とはそのようなお方だからと。45節

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

マタイ5:45

神様はいい人にも悪い人にも恵の雨を太陽をそそいでくださる。そしてそれは決して、神様が罪を見過ごしているっということではない。最終的に罪の裁きはされるわけです。けれども恵は差別なく、惜しみなく注がれる。それが神様っというお方なんですね。いやもっと言うと恵の雨、太陽、その他の祝福だけではなく、もっと貴重なものを神様は、分け隔てなく私たちに与えてくださった。それがイエス様の十字架です。


しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ローマ5:8


そのようなキリストの愛を受けているんだから、、それを隣人だけにではなく、あなたの敵にも流しましょうっとこうおっしゃる。

 さて「敵を愛する」言葉で言うのは簡単です。そして私自身正直ですね一生赦せないと思うような敵に幸いまだ人生で出会ったことがない。ですから、この箇所を取り扱う、メッセージをするというには非常に経験不足としか言いようがありません。自分でもメッセージしてる自分に対してどこかで思ってしまう。「口ではどうとでもいえるだろうと」。けれど忘れてはならないのは、これはイエス様の言葉であるということ。そしてイエス様は口だけではなく。実際にこの教えを生き抜かれました。先ほども見ました、罪人である私たちのために死んでくださった。そしてそれだけではなく、イエス様のことを十字架にかけて直接殺した相手のために、十字架の上でこう祈られたんですよね。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

ルカ23:34


そんな悪に対して悪を返すのではなく、愛をもって戦ったイエス様の足跡をたどるよう私たちクリスチャンは召されている。ということを今日覚えたいと思います。悪に悪ではなく愛を持って戦ったと言えばこの人、マーティンルーサーキングジュニアまさに彼は復讐や暴力ではなく、愛をもって人種差別という悪に戦った人でありました。そして彼のインスピレーションは、まさに今日見た個所から来ています。以前にも紹介したことがありますが、彼の言葉を紹介して終わりにしたいと思います。差別をしてくる相手に対する言葉です。


「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。…(中略)覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。」(マーティンルーサーキングジュニア)


自由を勝ち取るだけでなく、「あなたがた」つまり、苦しませている相手の心も勝ち取る。これが 私たちが受け取ったキリストの愛です。

一言に敵と言ってもいろいろあるでしょう、日常生活において憎しみが抑えられないような相手に出会うということはそう多くないかもしれません。単純に夫婦でケンカして、相手が敵のように思える。まあそういうレベルの話もあるでしょう。皆さんにとって「敵」とはどんな人でしょうか、頭に浮かんでいますでしょうか。


来る一週間、その人に挨拶をする、何か相手のためにできることをする、気持ちが乗らなくても相手のために祈る。小さなことからでいい、できるところからでいい、さばきは主に委ねて、憎しみという闇にとらわれるのではなく、赦し、イエス様が下さった愛の光のほうへと一歩一歩踏み出していくことができるように。

お祈りしましょう。


2024.02.18

愛と情欲の違い (マタイ5:27-30)

 

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

マタイ5:27-30


はい、どうでしょう。今日初めて教会に来られた、あるいは聖書を開いたという人がもしいらっしゃったらちょっと強烈ですね。もちろんこのセクションは第一にキリストの弟子たちに向けて語られていますので、クリスチャンに対するメッセージということになります。ですからクリスチャンでない方からすると、やっぱり宗教って「性に関してはお堅いのね」とか、「なんと前時代的な」っという印象受けるかもしれません。もしかしたらクリスチャンであってもえ?そうなの?っという方もいらっしゃるかもしれません。

特にこの箇所取り扱うテーマが非常にパーソナルということともさることながら、表面的にさっと読んでしまいますと「性欲を持っていたら地獄行」というふうに読めてしまいます。しかしながらもちろん、もちろん、そういうことではない、じゃあどういうことかということをまあ今日お話しさせていただきたいと思います。


がそのまえに前置きをさせてください。今日の箇所のテーマは必然的に性とかSEXといったものに入っていきます。教会学校に小さなお子さんたちは出ているかと思いますが、もしちょっと内容的にどうかなと思われたら、気にせずお子さんを連れて退出していただいて大丈夫です。なるべくexplicitな表現は避けますが、そこら辺は親御さんの方針もあるかと思いますので、ご自身の判断でよろしくお願いいたします。前置き二つ目、どうしてもやはりこの性というパーソナルなテーマを取り扱っていくうえで、メッセージの受け取り方は様々になるかなと想像します。それぞれの性別、状況、経験、過去の傷、トラウマなんかによってですね。ですから私の表現あるいは言葉によって傷つく人がいるかもしれません。しかしながら前提として決して語っている私はパーフェクトで、皆さんを裁きたい、そういうことではないということは心にとめていただきたいと思います。ただ私の祈りとしては、この箇所を通して神様が私自身を含め皆さんの心に触れて下さり、癒されるべきところ、悔い改めるべきことをそれぞれ示してくだる。そして何より主にあって情欲から自由になるということのすばらしさが伝わればと思っています。


27節「姦淫をしてはならない」とありました。前回からイエス様が律法を引用してその真意を語るというセクションにはいっていますが、これまたモーセの十戒で第7番目の戒めになります。姦淫ってね、あんまり言葉として使いませんけれども要は不倫です。自分の夫、妻以外の人と性的な関係を持つということ。どうでしょう、現代で不倫は犯罪ではありませんが、まだ一般的に間違っているという認識があると言っていいでしょう?なんかそれも時代とともに変わってしまいつつのかもしれませんが、今のところは日本でもアウトっという認識ですね。有名人の不倫はもう間違いなく炎上しますし、何ならそれが原因で活動自粛とかねよくニュースで聞きます。で旧約聖書の律法でも姦淫は、不倫は、当然アウトですよっとそして、さばきの対象になります。ここまではいいでしょう。


しかしながら問題は28節ですね「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」怒りの時もそうでしたが、急にハードルが上がります。実際のアクションではなく心という表面的にはわからないところでも情欲を抱くならアウトだとイエス様はおっしゃる。えーっ、いやもうそれは厳しすぎる。っというかそんなことを言い出したらもう世の中の男性すべてアウトでしょっとまあこう思われるのではないでしょうか。いやもちろん情欲というのは、男性だけの問題ではない。女性が男性に対して情欲を持つということはあるでしょう、けれどもやはり比べてしまうと男性の方が弱いエリアと言わざるを得ない。そもそもイエス様はここで男性へ向けて語られているので、どうしても今日は男性視点よりのお話しが多くなると思いますがご容赦いただきたいと思います。もちろん女性にも適応できる部分も語っていきますので、男女限らず、心を柔軟に耳を傾けていただければ幸いです。


さて28節一つ一つのことばを詳しく見ていきたいと思います。まず誰でもとありました。ですから当然、これは結婚している人に限った話ではない、独身の人も含まれます。つまりだれでも情欲を抱いて異性を見るならっということです。しかしながらこの「情欲」という言葉が非常に難しい。まずもって単純に普段生活のなかで使わない言葉なのでどういう意味ということもあるでしょうし、冒頭でも言ったようにぱっと見「情欲=性欲」というふうに読んでしまいがちなのではないでしょうか。しかしながらそうではない。なぜならそもそも性欲をお作りになったのは神様だからですね。創世記1,2章を見れば明らかですが、神様はわざわざ人間を女性と男性に作られた、そして当然その体の仕組みを作られたのも神様です。ということはSEXは神様の発明です。そのうえで、「それらは非常に良かったと」。創世記に書いてある。SEXも体も悪ではない、従って性欲も悪ではない、良いものです。で創世記だけではなくして、旧約聖書には雅歌という本があります。でその内容はシンプルにそれは男女の性的な関係を歌った非常に官能的な詩/ポエムになっているんですね。雅歌全部が性というもののすばらしさを伝えるものになっています。そんなものが聖書に一部になっているわけですから聖書はSEXそして性欲に対して否定的であるはずがない。雅歌の最後の章にはこのようにあります。

…その炎は火の炎、すさまじい炎です。 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。…

雅歌8:6-7


性欲、男女がお互い欲するその思いというのは炎、火のようだとここでは例えられている。それくらいに力のあるものだということですね。どうでしょう?火って良いものでしょうか、悪いものかでしょうか? 「答えは使い方による」ですよね。もちろん火があるから、暖がとれる、あるいは料理に使ったり、暗闇を照らすことができる。そういった様々なメリット、良いことがあります。一方で近づきすぎるとやけど、服が燃えてしまうとか、火事とか、破壊的な側面もその持っている力がゆえにあります。火からは多くの恩恵を受けられるけれども、使い方をあやまると、あるいはその安全な囲いを超えて近づくと危険だと。SEXあるいは性欲も同じで、本質的には良いもの、素晴らしいものなんだけれども、使い方をまちがえると、安全な囲いを超えてしまうと危険だというわけですね。聖書は性を肯定して尊ぶがゆえに、大切に取り扱いましょうっといいいます。じゃあその正しい使い方、あるいは安全な囲いとは何かというと、後で詳しく見ていきますが、それは結婚です。結婚という契約・関係でのみSEXは安全に取り扱うことができるし、その素晴らしさというものを最も発揮する。だからそれを壊すような、姦淫、つまり結婚関係をベースとしない性的な関係はだめだよというか、危険だよと言うことをここでイエス様はおっしゃる。


加えてイエス様は実際の行為だけではなく、もうそれは心の中でスタートするのだ、とおっしゃるから、これは非常に複雑というか難しい。なぜなら心で始まると言われればどこまでが性欲で、どこからが情欲なんだと。こうなってしまう。さてそこで注目したいのは情欲を抱いて見るの「見る」という言葉です。この言葉もともとのギリシャ語では「見続ける」というニュアンスがあるそうです。ですからぱっと見るとか、目に入るということではなくして、ずーっと故意に見続ける、見つめるということを意味します。そして「見る」に付随して使用されている<プロス>という前置詞は、「目的に向かって」というニュアンスがありますので、それを全部含めて訳すと。「自分の情欲を満たすために見続ける」となる。ですから例えば道端で美人、あるいはイケメンが目に入って、あーあの人キレイ、あの人かっこいいと思うこと自体はもちろん罪ではない。そうでないと誰も目を開けて生活できないでしょう。パッと目に入る、魅力を感じる、それはいい。けれどその後、二度見するとか、見続けるとか、あるいは見ないにしても性的な妄想を膨らませていくとかですね、魅力を感じた後のこの自分の選択が非常に重要になってくる。そこが境目になってきます。


つまり情欲を抱いて見るというのは、「目に映る相手を自分の欲を刺激し満たす為に利用するということです。」そのプロセスを通して、ものすごく嫌な言い方をすれば、自分の中で相手が、対象の人が尊厳をもった人間ではなく、自分の欲のために消費するモノになってしまうっというところに問題があるんですね。でその最たるものがポルノです。もはや相手が実際に目の前にいる人間でもないわけですよ。自分の都合のいい時に、都合の良い形で、好み通りに、思い通りに手軽に消費するという行為。まあ主にそこの誘惑があるのは男性の方だと思います。一応女性の目線もと思いまして、この「相手を消費する」という観点から何かないかなと妻に聞いてみました。帰ってきた答えは「友達で韓流ドラマにドはまりしている人とかいるかな」。さすがに韓流ドラマ=ポルノという意味ではないです。どう考えたってポルノのほうがアウトでしょう。けれども自分の都合のいい時に、都合のいい方法で、自分の好み通りに消費するという観点から言えば多少なりと共通点があるのではないでしょうか。


いやおおげさだよ、別にそういうつもりじゃあないし。害はないし、迷惑もかけていないし。何がそんなに問題なの?そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。この情欲の危険性は、非常にわかりづらいです。表面的にはすぐにその影響はでないかもしれない。けれどそれは確実に私たちの心を侵食します。相手との関係性、特に異性との関係性において、情欲、つまり「相手を消費する」というマインドが与える影響は大きいのではないでしょうか。関係のベースが相手に「与える」「仕える」ではなく自分が相手からどれだけ「得られるか」という自己中心的な姿勢に知らない間に傾いていく。まあ単純にポルノの場合は性的な満たしを対象から得たい、ゲットしたいということなんでしょうけれども。もし結婚している方なら、性的な面だけでなく結婚関係そのものにおいてその影響がでないはずがない。


 前半でも触れました。性というものは結婚とセットでそもそもデザインされたわけです。イエス様も創世記を引用してこのようにおっしゃいました。

イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。(マタイ19:4-5)


一体となる、文字通り一つの体となる。もちろん性的な関係も含まれますが、それ以上に死が分かつまで、お互いに与え、お互いに仕え、互いに愛することをコミットする、その契約が結婚です。でこの関係のベースは消費するということとは真逆にあるんですよね。消費するっというのは一方的じゃないですか。良い商品、自分がその商品を気に入っているうちは使い続ける、けれどもっといい商品が出れば買い替える。もしこの消費というものが異性との関係のベースになってしまうのであれば、それは愛ではない。自分の都合がいい時だけ、好きな感情が続く間だけ、自分にメリットがある間だけ関係を続けます。でもっとよさそうな人が現れれば、アップグレードと。そんな基盤でセックスを安全に扱えるはずがない。一体となったもの無理やりはがせば、接着剤でもそうですが、ボロボロになります。そしてそれを繰り返せば傷つくことも減る代わりに、どんどんその粘着力はなくなっていってしまう。


いやいや愛と性欲とは別なんだ、そういう価値観ものこの世にはあるでしょう。けれどこの二つは深く結びついてデザインされていると聖書は言います。都合のいいところだけ、おいしいところだけつまんでいて影響がでないわけがない。そうして知らない間に本来は素晴らしくデザインされている性、性欲、SEXというものが自分の中でどんどんチープになっていき、味のしないものになってしまう。そうではなく良い時も悪い時も、互いに与え、仕え、愛することをコミットする関係、結婚という囲いがあって初めてSEXは安全に扱うことができる。なぜなら結婚は契約だからですね、感情ではない、感情だけなら覚めたら終わりじゃないですか。そうではなく神様の前で誓う。そうして初めて体だけではなく心も魂も一つになる素晴らしい祝福となります。


ちょっと話それますが、先日ラジオで2023年の日本での男女の出会い方のランキングはマッチングアプリが一位になったという話をしていました。いやーもうそういう時代なのかあ、自分もおじさんになったんだなあと改めて思いました。まあもちろん利用者が伸びた要因には、コロナの影響もあるようですが、何よりもタイパ(時間効率)がいいということがあるみたいですね。1日あれば何百という人を閲覧することができてしまう。気に入ればイイねを押してそうじゃなければスワイプして、そういう感じなのかな。「いやもうそれってネットショッピングやん」っとこうおじさんは思ってしまいます。別にマッチングアプリを否定したいわけではない。出会いがない環境でニーズもあるでしょうし、クリスチャンのそういうアプリもありますよね。もちろん使い方によるんだと思います。しかしながら気をつけていなければその仕組みが私たちの価値観に与える影響って大きいのではないでしょうか。まさに人を消費するっという方向に傾いていくということがやっぱりあるかなと。


女性の場合男性のようにわかりやすい性的な消費ということではないにしろ、女性の間でも男性のことを「物件」というような言葉で表現したりしますよね。あーこの人は収入はいくらいくら、身長はこれくらいで、顔もいいかんじ、優良物件ね、みたいな。ですから情欲というときにそれは単純な性欲だけの話ではない。男女関係なくそういう相手を消費する心、相手から何を得られるかというところに心が向いていく時、これが情欲の正体なのではないでしょうか。そしてそれは絶望的に隣人を自分自身のように愛するということとはかけ離れている。だからこそはイエス様は厳しいことをおっしゃっているのではないでしょうか。


さて情欲と訳されているギリシャ語の言葉単体では必ずしも性的な欲望という意味を持つものではいそうです。どちらかというと「渇望する」とか「強すぎる欲」とかまあそういう意味だと。情欲の何が問題なのか、相手の人間性を否定し、消費するマインドになるということを先ほど見ました。でもう一つがこれです。渇望する。つまり、I must have it これがなくては生きていけないという、そういう強く過ぎる欲望にブラックホールのように飲まれてしまうということに問題がある。2010年以降インターネットポルノは薬物中毒と同じくらいの中毒性があるという研究結果がいろいろと出ているそうです。中毒性だけでなく、その影響で脳の機能不全が出てくる、やる気、集中力が落ちるということが脳科学的にもにもわかってきているようです。スマホが登場してからというもの、このエリアで苦しむ人が増えたことは間違いないのではないでしょうか。これから育っていく子供たちのことを思うと、心配になります。


 さてもちろんここ聖書で言っているのは医学的にどうこうということではないです。けれど性というものは容易に偶像になりうるということ。性がなくては自分の人生には意味がない。まあそこまで自覚的に思っているかどうかは別として、性がメディアにあふれているこの世の中で気づけば、流されているということがあるのではないでしょうか。そしてそれはもちろんそれはいわゆるポルノだけの話ではないですね。たとえば彼氏、彼女がいなければという恋愛至上主義、結婚していなければ人生に価値がないと思ってしまう等。そういう形の性に対する執着、あるいは依存というのもあるでしょうね。GKチェスタートンという昔のイギリスのクリスチャン作家がこんなことを言っています。

売春宿のドアをノックする男は皆、神を捜している


まあこれも男性的な目線ですけれども。何が言いたいのかというと、本当は神様しか埋めることのできない心の穴を、人は性的な欲望を満たすことで埋めようとする。まあそういう傾向があるということですね。神様を渇望する、そのように私たちの心には穴が開いているんです。にもかかわらず、神様ではなく私たちはSEXで男女の関係でそれを埋めようとする。どうがんばっても埋まるはずがない。欲して、欲して、満たされない、ブラックホールのように吸い込まれていく。そこに問題がある。そしてこれは単なる中毒だけのお話ではないです。結婚関係の中でもこれは起こりうることです、夫や妻で自分の心の穴を埋めようとしてしまうなら、埋まるわけがない(既婚者は深くうなづいていることでしょう)。つまり既婚者、シングルにかぎらず、自分を満たすものが、まず第一に神様でないなら、それは危険信号なんですね。


 さて、重ーい話をしていますけれども皆さん。なんとかついてきていただいているでしょうか。なんとなく言っていることはわかる。でもじゃあどうすればいいの?解決策はないのか?そう思ってらっしゃるかもしれません。

 ということで後半29-30節見ていきたいと思います。


もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。


なるほどそうすればいいのね、とはいきませんね。いやいくら何でも目をえぐりだす、手を切って捨てるってクレイジーですよね?ですからもちろん、文字通りということではない。教会史の中ではこれを文字通り実践した人もいたようですが、右目をとっても左目がありますし。それに体の部分を切り落とすということでいえば、もっと切り落とさなければいけないところあるだろっということになりますよね(明確にいいませんけれども)。。。体が悪いわけではない、体に問題があるのではない。どこに問題があるのか、イエス様はおっしゃいました、心に問題があると。ですからイエス様が手を切り取る、目をえぐるという時に、それは文字通り体を切り刻めということではなく、それぐらい大胆な方法で、あるいは犠牲覚悟で対処をしましょうということを意味しています。まずもってそれぐらいに情欲というのは軽く見るべきではない、真剣に向き合いなさい、とイエス様はおっしゃっているということです。そしてこの部分「からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」前回のメッセージでやりましたが、ゲヘナというのは地獄を象徴する言葉でした。つまり情欲を軽く見ていると、火のように燃え広がる、だからどんな犠牲を払っても早い段階で切り捨てろっとこうイエス様はおっしゃる。


じゃあ具体的にどういうことかというと、それは自分を情欲に駆り立てる要因となりうるいっさいの道を断つということです(たとえそれ自体に何の害がなくとも)。人によってはスマホじゃなくてガラケーにするとかね(僕の友人に実際そうした人いました)。人によってはお酒を飲むと自制心が弱くなるからお酒自体を断つということも必要かもしれませんし。人によってはSNSの使い方を考えるとかね、私はインスタグラムを個人的に安全に使用するのが難しいと感じたのでアプリごと消しました。あるいは自分で見るべきエンターテイメントを選ぶとかね、映画やドラマのシーン、それぞれ自分の心に影響があるレベルというのは違うと思います。これくらい大丈夫と思うのではなく、ちょっとでも影響があるなら、もう見ないという決断をする。あるいはお付き合いをしている方がいて、情欲のほうに持っていかれるなら、付き合い方を考えなおす、ルールをお互いで決める。対処法は人によって様々です。他人がこうこうこうしなさいと律法的に言えるものではない。けれどポイントは情欲をかけらも入れてはならない、火だねを入れない、これぐらい大丈夫だろうは、すぐに燃え広がります。燃える可能性のあるものは全て断ち切る、だいぶと手前で、大胆に、犠牲が伴ったとしても断ち切る。ガラケーは不便でしょうね、ネットも自由にできたほうがいいでしょうね、別に気にせずエンタメも見れたら楽でしょうね、けれどその結果罪の火が自分の中に燃え広がるよりはいい。情欲の量をコントロールしろではない、おおもとを断ち切れ。オールorナッシングのアプローチです。


もう一つ重要な要素、これひとりでは戦えない。もし情欲で葛藤を覚えてらっしゃる方がいらっしゃたら、ぜひ信頼できるクリスチャンに打ち明けて相談してほしいなあと思います。もちろん男性なら私でもいいですしTimさんでもいいですし。私は幸いなことにそういう誘惑にあったとき、葛藤をシェアできるクリスチャンの友人のライングループが学生のころからありまして、まあもう全員日本にいるおじさんなのですけど。そこで祈ってもらったりとかですね非常に力になります。とにかく一緒に戦ってくれる仲間が必要だと思うんですね。でこういうパーソナルな問題を他人にシェアするっていうのは、特に男性にとってものすごく抵抗を感じると思います。それこそ犠牲が伴うものなんでしょう。けれど必要なら思い切ってその手段をとっていきましょう。


三つ目、神様と自分の関係を改めて見直す。先ほどもちょっと触れました。情欲というのは性を偶像化することだと。神様よりも性を欲している状態っていうんでしょうか。でそれは、その穴は結局うまらない。だからこそ神様に癒しを喜びを見いだせていない時に危うくなります。改めて自分はなぜ神様にそれらを見いだせないのか、ということを見つめなおし、主が癒しを満たしを与えてくださるように祈る。忙しすぎて、神様との時間を持てていないなら、少し仕事のペースを落とすとか。生活パターンを見直すとか、いろいろ方法はあるかなと思います。情欲と戦うのは、我慢することを学んで、何かそれによって聖くなりましょう、ってそういうことではない。性は素晴らしいものです、神様からのギフトです。けれどそれにとらわれてしまうなら、そこに自由はない。主にある喜び、満たしにこそ本当の自由がある。その自由を勝ち取るための戦いなんですね。


さてとはいえ、とはいえ、これも繰り返しになりますが、私たちは罪人です。ですから毎回この戦いに完全勝利とはいかないでしょう。そして敗北するときには、恥、罪悪感、自分を責める心、そういったものがつきまとうかもしれない。だからこそイエス様の十字架が必要で、悔い改めて、前を向いて進んでいけばいいんです。最後に姦淫を犯して捕まった女性にかけたイエス様の言葉を見て終わりにしたいと思います。


 わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。

ヨハネ8:11

性的な罪は赦されない罪ではないです。そんな罪は十字架の前には何一つない。すべての罪を赦してくださり、私たちを新しく生まれ変わらせてくださる。それがイエス様の十字架です。けれどそれで終わりではない。行きなさい。今からは罪を犯してはなりません。とイエス様はおっしゃる。ですからこの声に励まされ、悔い改めて前を向いて戦うことをあきらめず進んでいくものでありたいと思います。


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