メッセージブログ

杉本信頼

2024.07.28

神の子とされる (ガラテヤ4:1-9)

 

一章から一貫して語られているガラテヤ人への手紙のテーマは、私たちは律法ではなく信仰によって救われるです。で3章ではですね、そのことが実は創世記のアブラハムの時代の約束からこう話がつながっているということが出てきたわけです。神様はアブラハムにその子孫を通して全世界を祝福するとおっしゃった。でその後モーセを通して律法がイスラエルに与えられたんだけれども、その律法は約束された祝福をもたらすというよりは、どちらかと言えば人間の心にある罪をよりはっきりと私たちに示す、まあそんな役割をもっていたと。ではどのようにしてアブラハムに約束された祝福はもたらされるのかと言うと、それはイエスキリストの十字架を信じる信仰によると。ああザーッっくり言うとそんな感じの話だったかと思います。さて今週はですね、じゃあそのイエス様を信じる信仰を通して与えられる祝福ってどんなものなのか?というそういうお話です。実は昨年の父の日にこの箇所からメッセージをしていますので、重なる部分もあると思いますがご容赦いただきたいと思います。

ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

ガラテヤ4:1-7


 イエス様の十字架を通して与えられる祝福はいろいろあるわけなんですが、今日の箇所でクローズアップされているのが、神様の子供とされるというポイントです。3:26にこのようにありました。


あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3:26


さて聖書の中であなた方は神の子ですという時にそれはいったいどういう意味なんでしょうか?人間は皆神様に作られた、そういった意味で神の子供というそういうことなのかと言うとそうではない。ここではいやそれ以上の特別な意味で言っています。4章4-5節 見てください。


しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

ガラテヤ4:4-5


注目していただきたいのは、「子としての身分を受ける。」という言葉です。ちょっと日本語ではわかりにくいですが、英語で見るとここは「adoption to sonship」となっています。adoptionつまり養子として受け入れられるということを言っているんですね。私たちが神の子供と呼ばれるのは、神様が私たちを養子として受け入れてくださったが故だと、生まれつき子供なのではない。養子として受け入れられた。ではどのようなプロセスがあって私たちは神様の子供になったんでしょうか?


もちろん現代でも養子制度というものはあるわけですけれども、当時一世紀ローマの文化、社会の中では、まあ今よりもわりと頻繁に養子をとるということが行われていたようです。たとえば裕福な家に、子供が生まれなかった、あるいは子供がいたとしてもこの子には家を継ぐ能力がないと父親が判断した場合、自分の召使、あるいは奴隷から一人をとって養子にする。そして養子とされた瞬間、その奴隷は子供として扱われ、法的にすべて実の子供と同じようになる。そういうことが普通に行われる世界でした。でその背景を例えとしてパウロはここで話を進めています。

戻って4節。御子を遣わし、、、贖いだすとありました。この「贖いだす」という言葉も耳慣れない聖書用語かなと思います。もともとのギリシャ語の意味で言いますと買い戻すという意味です。つまり費用を払って救い出す、奴隷を自由にするというニュアンスです。費用を払って奴隷を買い、自分の子供にする。では誰が費用を払って私たちを自由にしてくださったのかというと、それが神の御子つまりイエス様なんだというお話です。イエス様は本来私たちが受けるべき罪の罰を肩代わりしてくださり、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。っとこのようにイエス様がご自身の命という費用を支払って私たちを救い出してくださった。「贖われた」んですね。が故に私たちは罪赦されたものとされたばかりでなく、神様の子供として受け入れられる。


さてでは子供とされる前はいったい何者だったのか。ここでパウロが子と対比して登場させているのが奴隷です。出てくる箇所ずらーっとリストアップしました。1節奴隷と少しも違わず、3節この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。7節奴隷ではなく、子です。8節神でない神々の奴隷でした、9節再び新たにその奴隷になろうとするのですか。今日の箇所だけ見てもこれだけありますが、ほかの箇所も含め聖書は言います。私たちはイエス様を信じる以前は、皆奴隷だったのだと。


奴隷と子供の圧倒的な違いは何でしょうか、それは関係のベースにあるものが違いますよね。奴隷には失敗が許されません、主人を喜ばせることだけに全集中です。なぜならなにか不備があれば、主人から罰せられる。つまり仕事が良くできているかどうかということが関係のベースにあります。ですから奴隷が主人に従うとすればそれは主人の罰を恐れているからです。叱られないように頑張るそれがモチベーションっという感じでしょうか。一方親子関係というものはどうか?子供が何度失敗をし、愚かなことをしたとしても、子を見捨てる親というものは基本的にいません。(中にはひどい親もいますが)親子関係のベースにあるのは何ができるかというパフォーマンスではなく愛です。あなたがたは奴隷ではなく神の子どもなのだ、神の子供とされたのだから奴隷には戻ってはいけないよ。まあこれが今日の箇所通してパウロが語っている主軸のメッセージになります。


ではイエスキリストに出会う前は皆奴隷だったというのは具体的にどういうことなんでしょうか。3節見てください。

私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

ガラテヤ4:3


まだ小さかった時には、っというのは実際に年齢が若かった時ということではなくイエス様と出会う前はということです。イエス様と出会うまえは、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。幼稚な教えと訳されている言葉、ギリシャ語でストイケアという言葉です。日本語に訳すと「イロハ」英語で言うところ「ABC」というような意味があります。初歩的な教えと訳したらわかりやすいでしょうか。ではこの初歩の教えとは一体何か。結論から申し上げると、それはまず第一に律法のことをさしています。イエス様が現れる前、ずーっと前モーセを通してイスラエルに与えられた教え、まっそういう意味で初期段階の教えというニュワンスでしょうか。シリーズを通してみてきましたね。このユダヤの律法を守らなければ、つまり旧約聖書のルールを守ってユダヤ人のようにならなければ本当の意味では救われないそういう間違った教えに対してパウロは「救いは十字架を信じる信仰による」っと手紙の中で反論をしてきました。イエス様が現れて下さる前は、律法にがんじがらめ。奴隷が主人の罰を怖がるように、律法を守らなければ裁かれて罰を受ける。そう教えられてきただろうと。ある意味で律法に対して奴隷であった。っとそういう表現になっています。


もちろん私たちは現代を生きる日本人ですから、そもそもユダヤの律法なんて関係なく生きています。ですから律法の奴隷だと言われてもピンときません。しかしながら「本当に信じるだけで救われるのか、不十分ではないのか」という思いは自然と沸き起こってくるのではないでしょうか。なぜならそれはやはりこの世の中というのは、成果主義で回っているからですよね。どれだけ努力して、どれだけの成果をだしたのか、それによって私たちは評価される。学校でも、職場でも、下手したら家庭でも、そういう世界に生きています。ですから気をつけていなければ、いつの間にか自分の信仰もまたそのような価値観に染まっていくということがありますよね。

自分は聖書をしっかり読めているのか、毎日祈れているのか?教会の礼拝に毎週出れているのか、人に伝道しているのか、そういった様々な物差しで自分の信仰を測るようになっていってしまう。その結果自分が「しっかり」できていないと思えば、まじめな人ほど「あれもしなければ、これもしなければ」となっていきます。そうなってくるともうこれは律法と同じです。もちろん聖書に書いてることに従いたいという思いは大事なんです。信仰には行動が伴って然るべきだとも思います。しかしながら、こうしなければ、ああしなければ、神様は自分を受け入れてくださらない。っと考えるようになってしまうときに、私たちクリスチャンもまた知らず知らずの間にこの律法の奴隷になっていくということがあるんですね。非常に考えさせられます。


さてではクリスチャンではない人たちには全く関係のないお話なのか?そういうことになってきますよね。なぜなら別に聖書がとか、神の戒めがとか、そういう縛りはクリスチャンでない方々には関係のない話なわけで。まさに自分の思うがまま「自由」に生きていらっしゃるとすれば、あなたは奴隷だと言われたとてピンとこないのではないかと想像します。しかしながら聖書は言います。私たちは皆例外なく奴隷なのだと。では律法でも、聖書でもないとしたら、一体何に対しての奴隷だと言っているのでしょうか?


先ほど幼稚な教えと訳されているギリシャ語、ストイケアというのは初歩的な教えという意味だというお話をしました。そしてそれはつまりはユダヤ教の律法だと。さてこのガラテヤ人への手紙の宛先、ガラテヤの教会にいたのはユダヤ人だけだったのかと言うとそうではな。異邦人、つまりユダヤ人以外の人もたくさんいました、何なら半数以上そうだったのではないかと言われています。で彼らは異邦人ですからユダヤ教の律法など知らずに生きてきた人たちですよ。でパウロはここでその人たちも含めて以前は奴隷だったと言っている。では彼らはいったい何に対して奴隷だったのか?


私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

ガラテヤ4:3


そこで考えなければいけないのがこのストイケアという言葉のもう一つの意味です。実は「幼稚な教え」だけではなくして、新改訳2017見ていただきますとこの部分「もろもろの霊の下に奴隷となっていた」と訳されています。ストイケアという言葉には、天地万物を創造している基本的な要素/土、火、水、風という意味もあるんですね。英語で言うところのエレメントです。で小学校はエレメンタリースクールですから、初歩的なという意味もある。両方の意味があるわけです。でそこから派生して、もろもろのエレメント、でもろもろ霊と訳されます。ではもろもろの霊って一体何か?当時ローマの各地では様々な偶像が礼拝されていました。いわゆる多神教です。もちろんガラテヤにもそのような偶像がいっぱいあったであろうなと思います。いろんな種類の神々、これこそがもろもろの霊なのではないか。ですから8節にこのようにあります。


しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。(8節)


とあるわけです、そして続いて9節に本当の神様を知っているのに幼稚な教えに逆戻りしてという表現が出てきます。でここで使われているギリシャ語もまたストイケアです。つまりパウロはストイケアという言葉を両方の意味で使っている。イエスキリストと出会う前、ユダヤ人が律法に対して奴隷であったように、それ以外の異邦人は、キリストと出会う前、本来は神でない神々、つまり偶像に対して奴隷であったと。こう言っているのではないでしょうか。

                                  

じゃあ偶像に対しての奴隷ってどういう状態なのか?ちょっと考え行きたいと思います。例えばある人が農業の神、偶像を拝んでいたとします。でささげものをささげる、でも雨が降らない、収穫がとれない。これが続いたらどうなるか?ささげものを増やしていくしかないですよね。きっと農業の神が怒っているからこうなっているんだと。神よ怒りを静まり給え、と言って普段より上等なものをささげる。それでもその状況が続けばどうなるだろうか、もっともっとと、結果ささげものはエスカレートしていきます。それを繰り返していくと自分の子どもをささげたり、なんて言う話が古代の偶像礼拝では出てくるわけですよね。偶像に対して奴隷と言うのは、ささげても、ささげてもきりがないという状態のことをいいます。なぜなら神々、偶像がいつ満足するのかというのは、ささげている側には決してわからない。ですからいつも不安なんですね。いつ罰が当たるのかわからない。

 

 でそれに対して「いや私はほら無宗教なので、ささげものとか関係ないです。偶像礼拝とかとは無縁です。」っとこのようにおっしゃる人も多いと思います。有名なクリスチャンの著者で牧師であったティムケラーはこのように言っています。

全ての人は何かを礼拝している。私たちにあるのは何を礼拝するかという選択だけだ。

Tim Keller


すべての人は何かを礼拝しているってどういうことか?でそれは人は皆自分の中で一番大事にしているものがあり、それを優先順位として人生のかじ取りをしていくということです。意識的に自分はこのために生きているんだっと思っていることもあるでしょうし。多くの場合は無意識だと思います。自分が意識していようがいまいが関係ありません。自分の時間、エネルギー、お金、リソースそれらを何に一番さいているのかというのを見れば自分が最も大事にしているもの見えてくる。自分の偶像というものがはっきりしてきます。 例えば仕事が自分の人生に意味を与えてくれると信じている人は、そのために多くの時間を費やすでしょうし、頑張りすぎて家庭犠牲にする、あるいは体を壊してしまうということもあるかもしれません。すると仕事がこの人の偶像になる。ささげたのは家庭と健康という具合でしょうか。あるいはお金が大事だと思っている人は、稼いでも、稼いでも、満たされないかもしれない。そしてそのプロセスの中で結果的に人間関係を犠牲にするということがありうるでしょうし。見た目がすべてだと思う人はどれだけ美容に気を使ってお金をかけて、着飾ったとしても老いには勝てません。結局ハリウッドの女優は整形手術を重ねて本来の美しさを失っていくということがありますし。まあ今あげたようなわかりやすい形では出てこないかもしれません。けれども偶像を、つまり神様以外のものを第一として生きていく人生というのは、奴隷の人生だと。どれだけ頑張っても、ささげても自分は不十分なのではないか?という思いがつきまとう、そういう人生になってしまう。


律法にしろ、偶像にしろ、自分は成果を出し続けなければ、頑張り続けなければ、合格をもらえないという感覚。そのような成果主義、パフォーマンスベースで自分を量るときに私たちは奴隷になってしまう。そのような奴隷のような状態から、イエス様の十字架を信じるのであれば、解放されて自由になると。しかしそこで終わりではない。私たちはただ自由になってまっさらなスタートを切るだけではないんです。


 ある意味ガラテヤの教会に広まりつつあった教えも十字架によって救われるというところまでは同じだったわけです。彼らは言いますもちろん十字架によって私たちは救われる、けれどもその後は律法を守らなければ神様に本当には受け入れてもらえない。つまり十字架によってスタートラインにたつことはできる、けれどそれ以降は自分次第だ。っというそういう教えだったんですね。しかしパウロが言っているのは私たちはただ単に自由にされるのではなく、神様の子供になると言っている。ということを今日は特に覚えたい。


そこでもう一度4-5節戻ってみていただきたいと思います。

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

ガラテヤ4:4-5

女から生まれた者というのは、まあ端的に言って。イエス様は神様であられるにもかかわらず人間になられたという意味です。イエス様が私たち人間の罪の身代わりのために人とならなければならなかったのは何となくわかります。しかしながら注目していただきたいのは、その次。「また律法の下にある者となさいました。」というところです。これはイエス様がただ単に人として生まれてくださっただけでなく、本来私たちが努力して守らなければいけない律法、神の戒め、神様の言いつけを全て守ってくださったということを意味しているんですね。つまり、私たちの身代わりで単純に十字架で死んでくださった、だけではない。失敗ばかりする、罪ばかり犯す、不合格ばかりだす不十分な私たちの代わりに100点の人生を生きてくださったということを意味しています。


ある教会学校の教師が「神さまの成績表」というアクティビティを通して子供たちに福音の意味を教えたそうです。まず子供たちに成績表に似せた書式の紙を渡すんですって。で自分で自分の成績を書き込んでいくと。しかしながらそこにある評価項目は「国語」とか「算数」ではなく、「人にやさしくできているのか」とか「お父さん、お母さんの言うことを聞いているか」とか「自分より他人を優先しているか」とか。そういう科目がずらっと並んでいると。で自分にわりと自信があるこは、BとかB+とかちょっと苦手だなと思ったらCとかつけていくわけです。でそれぞれなぜそのような評価をつけたかなんかの話を聞いた後で、神様の基準に照らし合わせるならA+以外は落第だということを伝えます。つまりは例外なく皆落第だと。ところがイエス様の十字架がこの悪い成績表の問題を解決してくださった。で結構教会歴長い子は答えるわけですよ。「私知ってる、イエス様が十字架で代わりに死んでくださったから私たちは、真白の成績表がもらえるんでしょ?」先生はいいます。「そうだね、けれども真白の成績表なら、結局また頑張らないと、でもどれだけ頑張っても結局全部A+の成績はとれないでしょ?」そう話した後でもう一つの成績表を取り出します。そこにはイエスキリストという名前が書かれていいます。そしてもちろんすべての評価がA+になっている。その次にその成績表のイエス様の名前を消して、子供たちに自分の名前を入れるように言うんですね。すると子供たちは「いや、それはできない、だってそんなことしたらイエス様が落第になってしまう」そうしたら先生はいいます「そうなんだイエス様は十字架を通して僕たちにまっさらな人生を下さっただけでなく、オールA+の人生を下さった。だからイエス様の十字架を信じるとき、もう自分で頑張ってA+を取ろうとしなくていいんだよ。」


イエス様の完璧な人生と私たちのダメダメな人生を交換していただける、これが福音です。そしてだからこそ、私たちはただ罪赦されただけでなくして、私たちは神様の子供になれるんですね。自分で頑張って合格点をたたき出す、そのような私たちの奴隷の人生をイエス様はまるまる引き受けてくださった。代わりに私たちは神様の子供としていただける。人生が入れ替わるっていうんですか。だからこそ最後6節-7節


そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

ガラテヤ4:6-7

注目していただきたいのは「アバ、父」と呼ぶというこの部分です。アバっていうのはアラム語で「パパ」とか英語で言うところの「Dada」っという感じでしょうか。幼い子供が父親を呼ぶときによく使われる言葉です。


うちの息子も私のことを「ダダ」と呼びます。息子の恵信が父親の私を呼ぶとき、どのようなことを考えているでしょうか。いやまあ3歳児ですから、何にも考えていないんでしょうけれども。それでも一応この人は呼んだら来てくれる。自分の面倒を見てくれる。そういう安心感というものは持ってくれている。だから泣いてるとき、困ったときに、「ダダーっ」て力いっぱい叫んで呼んでくれるんだろと思うんですね。ま当然自分が呼べば親は答えてくれるという安心感、この安心感が「アバ」という言葉の響きにはある。

私たちはかつて奴隷でした。つまり頑張って、努力して、結果を残して、認められて、どうにかく合格点をたたき出さなければいけない人生でした。でそれはいろいろな形をとるというお話をしました。教会生活や信仰面で「良いクリスチャンであらねば」という形で出てくることもありますし。あるいは、「仕事でいい成果を残さなければ」とか「母親としてこうあらねば」とか「社会人としてこうでなければ」とか、とにかく「自分はこうあらねば」というものに縛られる人生ですね。しかしながら十字架を信じるときに、私たちは奴隷ではなくなり、子とされる。がゆえに神様のことを「アバ」と呼ぶことができる。安心して「ダダーッ」と呼んでいい。でそれは、イエス様が私たちの失敗、挫折、罪、恥、それらを全部引き受けてくださったからです。代わりに私たちに与えられたのは、イエス様の人生そのもの。だから「アバ」なんですよ。いいですかここだけアラム語で書かれている。不思議じゃないですか?ほかは全部ギリシャ語なのに、ここだけアラム語です。なぜか?でそれはイエス様が父なる神様を呼ぶときに使っていた言葉がアラム語の「アバ」だったからなんですね。そして私たちもイエス様の十字架のゆえに神様を「アバ」と呼ぶことができる。つまりイエス様が父なる神に対して持っていた同じ距離感で、同じ関係性で私たちも父なる神様に接することができる。ということを意味している。

 

 ですから私たちは十字架を通して、自分はなにができなくとも、どれだけ失敗したとしても、実の子供のように愛されているんだということを今日覚えていただきたいと思います。このような愛は他どこを探しても見つかりません。


2024.07.14

心の穴を埋めるもの

 

「むなしい」それを口癖のように言っていた学生時代を覚えています。何をしてもむなしい、楽しめないと。中学生くらいだったかな、いわゆる中二病というやつでしょうか。いまでも気を付けていないと正直この言葉を口にしてしまうことがある。思い返してみれば私は本当に面倒くさい子供だったなあと思います。どうめんどくさかったかといえば、何か楽しいことやうれしいことがあると、もちろん楽しい!とか嬉しい!という感情が自分の中にありながらも、それの終わりがくることを同時に考えるような子供だった。わかりやすく言うとそうですね。旅行に行く予定があったとします。その旅行が楽しみで、出発の日が近づくにつれてテンションがあがる。あと何日頑張れば、旅行に行けるぞと思うわけです。そして出発当日、車や電車とかで考えることは、ああでもこの旅行も始まったということは終わりがくるんだなあなどと考え始めている。まさに今というその時を楽しめない、そんな子供でした。


 伝道者の書に出てくる最初の言葉「空」ということばも新共同訳では「空しい」と訳されています。伝道者の書は、結構日本人には人気があるみたいですが、わびさびというか、はかなさとか、そこらへんの感じがですね。一方で特に西洋の教会で講解説教の題材として扱われることは結構少ないようです。まあ内容的にもいきなりすべては「空だ」むなしいという一見ネガティブなオープニングを飾るように聖書の中でもかなり異質な内容になっています。もう一つ伝道者の書を難解にしている理由は歴史的背景が神学者の間でもつかめていないという難しさがあるようですね。つまり、誰が、いつ、何のために書いたのかっていうやつ。だからこそ、実際に書いてある内容から読み解く情報だけになるので、解釈が分かれるところが多かったりと、何かと難しい本のようですね。まあ最初に難しいという言い訳をさせていただいて始めていきたいと思います。


 さてこの伝道者の書に出てくる「空しい」は僕が中学生のころ言っていた空しいとは少し違うようですね。それを考えていくうえで、誰がこれを書いたのかというところを探っていきたいと思います。「伝道者の書」ですが新共同訳では「コヘレトの言葉」となっています。「伝道者」と訳されているヘブル語が「コヘレト」というわけですね。英語の聖書では「教師」などと訳されている場合もあります。もともとの意味は集める人という意味で、集まった群衆に教える人、あるいは様々な書物、知恵を集める人いう意味合いで、伝道者、教師などという風に言われているわけです。さて難しい話はさておきですね、じゃあそのコヘレトって実際にいったいいつの誰?っということですね。伝統的には、ソロモンだといわれてきました。実際に伝道者の書の中で語られることがさっき読みませんでしたが2章なんか特に、ソロモンのプロフィール(9節にエルサレムで誰よりも偉大だった)に一致すること、「エルサレムの王、ダビデの子」というサブタイトルもその一つです。ただし最近の研究では、ソロモンよりも後の時代おそらくバビロン捕囚後に書かれた、つまりソロモンではなく別の誰かが書いたという見解が非常に有力だそうです。まあ今日はその詳細に触れると時間がありませんので飛ばします。というのも書いたのはソロモンでないにしろ、筆者が誰であれ、ソロモン王をモデルとして伝道者の書が書かれているという点に関しては一致した見解がる。つまり伝道者の書を読むときに、ソロモン王を読者は思い浮かべて良いということです。筆者がだれかというよりも、あるいは誰であれソロモン王を心に浮かべながら読むということが筆者の意図だということですね。

 さて少し長く退屈な話をしてしまいました。だとすればですよ。「すべては空しい」と言っているのはソロモン王、あるいはソロモン王のような人です。ソロモンはどういう人物だったのか? ご存知のかたも多いと思いますが、少しふりかえりましょうか。列王記、歴代誌に出てきますし。2章に出てくる内容もそれと重なりますが。


神様によって知恵が与えられ、誰よりもかしこかった。 多くの書物や詩をたしなめました。富と名声に満ち、治めていた国は繁栄を極めて諸外国から訪問がくる。7年がけで達成した神殿建設のプロジェクト、(自宅には13年の年月を費やしたわけですが、、)そして700人の妻と300人のそばめ、息子や娘も数多くいたことでしょう。人類史上最も富と名声と知恵に満ちていた。何でも知ってたし、何でもやってきた人ランキングのトップワンといっても過言ではない。



ですからソロモンは中2の私みたいにもの想いにふけって「むなしい」といったわけではない。いったいこの世に生まれて何のために生きているのか?という、その誰しもが、一度は考える質問に真っ向から挑んで、すべてを試した人だった。


快楽だけじゃなく、知恵も

富や名声だけでなく、芸術家としての才能も

世のため、人のため何かを変えようという大義だけじゃなく、安定した平和な日々も

平和だけじゃなく戦争も

家族だけじゃなく、やりがいのある仕事や偉業も


それら全部持って、あるいは経験してなお、それらは「空」だという。「むなしい」という

普段私たちは、思いますねもっと~があればなあって、それらすべてを持っていたのがソロモンです。


この「空」あるいは「空しい」という言葉実は伝道者の書で30回以上登場します。それほど全部が「空しい」ということでしょうか。


英語ではmeaningless=無意味。Absurd=不合理な とかいう訳され方がされていますが。へブル語で“hebel”といいます。英語で言う、意味がない、あるいは日本語のむなしい、空っぽといった意味も間違いではないが、すこしわかりにくいかなと思いますね。


それこそ本当に、無意味で空っぽならこの人生には何の価値もないという結論になってしまう。実はこの言葉ですね、「息」とか「蒸気」という意味もあります。今夏なのでっちょっと想像しにくいとは思うんですが、


毎年クリスマス時期にはですね私の日本の教会は駅前でキャロリングをやるんですよ。駅近の教会ということもあるんですけどね。それで仕事帰りに、教会によるわけです。日本では原付のバイクで通勤してましたから。もうめちゃくちゃ寒いんですよ、何が寒いってね手が寒い。バイク乗ったことある人わかると思うんですけど、手が死ぬほど冷たくなる。そんなんで教会ついてキャロリングの歌詞を手に持って12月の寒空で風がびゅうびゅうふく中歌うからもう寒くてしょうがない。それでもちろんカイロとかで手をあっためたりするんですけど、やっぱり一番原始的な暖の取り方はどうするかといえば、こうやって手を合わせてはーっと息をかける。その時の息って白く見えるじゃないですか。でも一瞬見えてすぐ消える。一応伝わるかなと思って持ってきましたが霧吹き。 一瞬、現れてすぐ消える。 一瞬現れてすぐ消える。これがhebelです。


他の箇所でどのようにhebelが使われているか見たらわかりやすいかもしれないですね、例えば


人は息(hebel)にすぎずその日々は影のように過ぎ去ります。

詩篇144:4


つまり完全に無意味というよりは、一瞬の事ですよってことですね。まさに霧のようにさっと現れて消えると。


一瞬の事、大した影響もないこと、という感じでしょうか。

でも私たちの多くは、この息、水蒸気、一瞬で消えてなくなる霧に人生を翻弄されます。


自分の日常の生活で不安やストレスを覚えることを振り返ってみました。最近の一番のストレスは、まあ正直言えば、この説教が締め切りまでにしっかりとしたものが出来上がるかという事でした。なぜそれに頭を自分は悩ますのかといえば、それが自分にとって大事なものだからですね。そして説教自体がということもありますが同時に、間に合わなければ恥をかくし、人の期待を裏切ると。そういう意味でそれらを失いたくないと思ってしまう自分が無意識にも感じている自分がいるということです。もちろん好きでやっていることのなので、それがしんどいということではないです。逆に言うと好きだからこそだと思います。

どうでしょう人が悩みを抱える、怒る、不安を覚えるなどの感情を抱くとき、そこには常に自分にとって失いたくないもの、あるいはどうしても手に入れたいと思うものがその裏に隠れていることはじゃないでしょうか。伝道者はそれらがすべてがhebel 一瞬で無くなる、たいしたことの無いものだと。


皆さんにはどうしても欲しいもの、あるいは失いたくないものがあるでしょうか。


いろんなものあるでしょう

すべては「hebel」だと


つらつら色々言ってきましたが、

すべてがhebelならクリスチャンは なにしたってすべては霧なのだから,なににも気を留めずとにかく世の中とかかわらずに生きていけばいいのか、


そうではないんですね。もう一つ、重要な言葉「日の下で」という言葉、これも29回かな頻繁に出てくる言葉なんですね。意味は難しくない、文字通りこの世っていう意味ですよ。生きている人生の中でという意味。

もしこの生きている人生そして目に見えて触れるものがすべてだったとしたら、この人生はhebelという条件があるってことですね。


 もーっとわかりやすく言えば、この世がすべてで神様などいなかったとしたら、つまりは日の下ではすべてが hebel だと

どれだけ良いことをして、偉業をなしたって、究極的には世界は変わらないし

どれだけ快楽を追求したって、その報いは自分に返ってくるばかりか、結局満たされることはない。それが日の下にある人生だと伝道者は言う。


 では日の下だけではない、神様のいる人生とはじゃあ一体何か。ヒントが2:24-25

人には食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであることが分かった。実に神から離れて、誰が食べ、誰が楽しむことができるだろうか。


 神様から離れて誰が楽しむことができるだろうか?と問いかける伝道者。すべては空しい、でも神様がその中にいてくださればその空しい人生には何か変化があるのでしょうか。だとすればそれは何か。


 富であれ、名声であれ、知恵であれ、やりがいのある仕事であれ、家族であれ、おいしいごちそうであれ、それらは神の御手による、つまり神様からのギフトだと伝道者は言う。ギフトとは何か、それは与えられるもの。自分で勝ち取るものとはわけが違う、私たちは、裸で生まれ裸で帰っていく。すべてはギフトであると


 ルカの福音書12:16-20 に出てくる愚かな金持ちのたとえ話ごぞんじでしょうか。豊作で作物をたんまりと抱え込んだ金持ちは、それらを収める倉を作った後、心の中でこう思う

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた、さあ安心して、食べて、飲んで、楽しめ」

そこで神様がおっしゃる

た。『 愚か者。 おまえのたましいは、 今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』


そして21節で

自分のためにたくわえても、 神の前に富まない者はこのとおりです。


別に一生懸命働くこと、貯金することが悪いわけではないですね。それは明らかでしょう。そして私たちの魂が一瞬で取り去られるということは皆に起こることでもないと思います。ただこの金持ちの持っていた平安、あるいは楽しむことができる根拠、楽しめる根拠は神様への信頼ではなく、蔵の中にパンパンに詰まった作物だったというところが問題だった。彼にとってすべてはギフトではなく、勝ち取る、稼ぐ、ためておくそういうものだったということですね。彼は神の前に富まなかった。このたまりにたまった作物さえあれば人生を楽しむことができると思った。


 神様から離れて誰が楽しむことができるだろうか?と問いかける伝道者。その問いかけに私たちはどう答えるでしょうか。


 あの愚かな金持ちのようにお金があるから、あるいはこの仕事があるから、家族がいるからこの人生を楽しめるという答えになるのか。それとも何はなくとも神様がいるから楽しむことができると答えるのか。

すべては神様からのギフトで楽しむように与えられるもの、だけれどそれ以上の期待をギフト自体にしてしまうと、その期待にこの世のものは答えられない。

 最初のほうに私は昔何をやっても楽しめない子供だったとお話をしました。そんな私が人生の中で初めて出会った、これは楽しいずっとやっていたいと思ったもの、それはダンスでした。時間を忘れてずーっとやっていましたね、もう何十年も前のことです。そしてある時気づきました。ダンサーには2種類いるとA:ダンスが自分のすべてだと思っているダンサー B:ダンス以外にもいろいろやっているけどダンスが好きなダンサー


さて問題です、どちらのタイプのダンサーのほうがダンスを楽しめるでしょうか。Bですね。

Aは自分に自信が持てているうちはいい、でも他と比べて自分が劣っているとかひょんなことから自分のダンススキルはたいしたことの無いものだなどと思おうものなら、自分など価値がないというところまで、精神的に急降下。Bは例えダンスで少々自信を落としても、自分の価値がというところまでは考えない。

僕は典型的なAでした。だから、自信を落とすとあれだけ好きだったダンスを踊りたくさえないと思った。Bタイプのダンサーはいつだって素直にダンスを楽しめる、それは知ってか知らずが、彼らにとってダンスはギフトに過ぎないということを実感しているから。ダンスを通して自分の価値を勝ち取る必要がない。


極端な例かもしれません。でも伝道者が言うようにこの世のどんな素晴らしいものでも、それが「hebel」霧や息であるなら、それによりかかることはできない。しっかりとそれによりかかって立つことはできない。


日の下では、この人生を観察するだけでは、人生の意味など分からない。だから人は人生に大した意味などなく空しい思う。そしてよりかかることのできない霧を「hebel」を集めては、なるべく長くそれが消えないように努め、没頭し、永遠という視点から見ればそれが本当に一瞬現れて消えるもの、であるということを忘れてしまおうとする。


消えてなくなるものの究極はなんでしょう、この「命」です。ふつう世間話で死について語ることがないのはそのためですよ。だれもそんなこと考えたくない。


私たちが欲しいのは、なるべく長く、安定した、楽しい人生、たとえそれが霧だったとしてもです。だからクリスチャンでも霧をほしがり、霧について悩む、霧を欲しがり、霧が手に入らず、霧を失いそうになり、霧について悩む。命自体が神様からのギフトだということを忘れてです。


神の前に富むというのは、神様から与えられたものを感謝をもって楽しめる人。それを通して何かを得よう、何かを勝ち取ろうとしない人生。その瞬間瞬間に生きることができる人生。今をシンプルに楽しめる人の事を言うのかなと思います。


物は壊れ、天気は変わる

老いを止めることはできないし

どんなにお金があっても時間は買えず、

家族を含めたどんなに近しい人も本当の意味では変えることはできない、

やりがいのある仕事だって、引退がくる、


私たちにそれらをコントロールすることなどできないっというのが現実で、だからそれらは空しいと言えなくはない・けれどもそれその結果がどう出ようとそれを入れることができたなら少し変わってくるのかもしれない。


クリスチャンの先輩がある時こう言ってました、「人生どうころんだって、死ぬまで何十年しかないんだから」まあ人生の先輩でもあるのであれなんですけど、それを聞いたとき思いましたよね、っていや何十年って結構長くない?でもその方は人生を楽しむ達人といってもいいような人です。どうしたら楽しめるのか、つまりは生きているだけで丸儲け精神。死ぬわけじゃないのであれば、彼にとっては人生すべてがギフトで、手放しで楽しむことができるという事なんだと思います。ある意味ですべてを楽しむということが神様からのギフトに対して一番正しい反応なのではないかと思います。


どうやら新約聖書に登場するパウロもそのような人だったみたいですね。ちょっと聖書開きたいと思いますが。


私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。 

ピリピ1:21


もはやパウロにいたっては死さえも益だと言っています。この世のすべては「空」hebelで一瞬で消えてしまう何の意味もないことかもしれない、けれど彼はある時キリストに出会いました。そして仕事が、富が、名声が、やりがいが、家族が、結婚が、飲み食いが、彼にとっては厳格にパリサイ人として生きることが、自分の人生に必要なのではなく、神様がキリストを通して示された愛こそが自分に必要であったということを知った。だからもうその穴を「hebel」霧で必死に埋める必要はない、一番大きなギフトがしかもそれは霧ではなく実態をもったイエス様ご自身が与えられたということを、キリストに出会って見出した。霧の上に建てられた人生ではなく、イエスキリストという揺るがない岩に建てられた人生の上で、もはや何かを勝ち取る人生ではなく、すべてはすでにキリストをとおして与えられている人生に変わった。そんな彼にとってもはや「死」を含めたすべてが神様からの贈り物へと変化したというのは言い過ぎでしょうか。彼にとっては人生すべてがギフトで、手放しで楽しむことができるという事なんだと思います。ある意味ですべてを楽しむということが神様からのギフトに対して一番正しい反応なのではないでしょうか


 とはいえどうでしょう、死は益ですなんて言えるでしょうか?そりゃあまあ死んで天国に行けるって意味じゃあそうかもしれないけど、この世にある死、悲しみ、つらいことはやっぱり益ではないのではと、、 

 

もう7年以上が過ぎた東日本大震災は、多くの被害と犠牲を生みました。と同時に私たちの人生、積み上げているもの、安心を置いているものがどれだけ、不安定なものhebelであることかという現実を多くの方々につきつけることとなった。日本中が騒然としました。結果的に今までに届かなかった場所に、福音が届けられ、ちょっとしたリバイバルが起ったということもまた事実です。もちろんだから地震が起きて良かったということではもちろんない、けれども、文字通り私たちが立っている場所が揺るがされるぐらいのことが起きて初めて、私たちがささやかでも幸せを感じているのだとしたら、それは神様が与えてくださっているギフトに過ぎないと初めて気づくことができたということもあるんじゃないでしょうか。だから死は益だなどという単純な話ではない、けれど私たちはいろいろなものが取り去られて初めてその有難さに気づくものです。死は、生がどれほど尊いものであるのかということを改めて再認識させてくれます。


 だとすればどうか、私たちが、この命を人生を神様から与えられたギフトとして感謝して自由に手放しで楽しむためにすることは一つ。それは究極的に言えば、己に死ぬということを繰り返してのみ、自分がどうしても欲しいものを、自分からあるいは時に、仕方なく手放す。そうして初めてこの人生は霧で、コントロールができないものだということを心から受け入れることが身についていくのかなと思います。自分のどうしても手放したくないものに死ねるときに、この人生のすべては一瞬の霧かもしれないがその輝きを増し始める。キリストという岩に立ち自由にすべてを楽しむことができる。


 わたしたちの内にはパウロのように言い切る信仰はないかもしれないけれど、何かに心奪われ、霧をつかみそうになる時こう唱えることができたらと思います。


生きることはキリスト、死ぬことは益です。

生きることはキリスト、死ぬことは益です。

私に必要なものはすでにキリストを通して与えられているのだから。それ以外はすべて「hebel」空だと


祈り

恵み深い父なる神様。

この年末の時期にあって、一年を振り返り様々な恵みをいただきましたことありがとうございます。しかしながら同時に後悔や、あるいは迎える新たな年に様々な不安をいただいている方もいると思います。主よどうか私たちにすべてはhebel霧に過ぎないことを思い出させてください。そして本当に必要なもの、本当に私たちが欲しているものはすでにキリストを通してあなたが与えてくださっている事を教えてください。迎える新たな年が私たちオークランド日本人キリスト教会にとって生きることはキリスト、死ぬことは益だと大胆に語ることのできる年となりますように導き支えてください。そしてあなたが与えてくださる日々、瞬間瞬間を、ギフトとして感謝し楽しむことができますように。



イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン





Q伝道者は「空」という言葉を選びました。今年を振り返って一つ感じで表すとしたらあなたの一年はどのようなものでしたか。


Q楽しむのは得意なほうですか?人生を楽しむのを妨げる要因はどんなものが考えられますか



Q人生に意味はないと考えたことはありますか? 何かきっかけがありましたか?

 今自分の人生に意味を見出しているとすれば、それはどのようなものですか


Q神様を信じたことによって、自分の人生にどのような変化がでましたか。


2024.06.23

人生の主語が変わる瞬間

 

ガラテヤ1:11-24

さっということでガラテヤ人への手紙のシリーズが先週からスタートしました。今週も続きをやっていきたいと思います。今日はもう早速ですね11-12節いただきたいと思います。

兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

ガラテヤ1:11-12


ハイもういきなり何のこと?そういうことですよね。パウロは何やら自分の宣べ伝えている福音は、人間によるものではないっということを言っています。で私たちからしたら、いやそりゃあそうなんでしょうと。聖書自体が神の言葉なのではないんですか?とこう思うわけです。ではなぜわざわざパウロは改めてこのように言っているのか?

そこで思い出していただきたいのが、このガラテヤ人への手紙が書かれた背景です。先週Timさんがシリーズの第一回目ということで1節から10節をカバーしてくださいました。そしてこれは手紙であるにもかかわらずパウロは挨拶を早々に切り上げてかなり厳しめトーンで6節にありますように「ほかの福音」に影響を受けつつあるガラテヤの教会に警鐘を鳴らしています。ガラテヤの教会はパウロが伝道をして建てた教会でありました。しかしながら彼が旅立ったのち、「ほかの福音」つまり間違った教えを広める人たちが表れ、その教えに翻弄されそうになっていた。で「ほかの福音」に流されつつあるガラテヤの教会を守るために書かれたのが、このガラテヤ人への手紙だと。さてではこの「ほかの福音」とはどのような間違った教えだったのか?まあ簡単に言いますと、「もちろん私たちは十字架によって救われる。だけれども本当の意味で神の民として受け入れられるには、本当の意味でクリスチャンになるには、旧約聖書に書いてある律法をすべて守らければだめですよ」っというそういう教えですね。でそれに対してパウロは「イヤイヤ、救いはイエス様の十字架を信じる信仰によってのみ、何も付け足してはならない」と主張している。教会を守るために、真っ向から戦いを挑むそんな手紙でありました。

 

で戻ってきまして11節。私の伝えている福音は人間によるものでもなければ、人間から受けたものでもないと。ありました。どういことか、間違った教えを広めていた輩も黙っていたわけではないようで、逆にパウロを批判していたようです。パウロが宣べ伝えている福音は、実は彼が自分で考え出したものなんだとか、エルサレムにいる12使徒たちから聞いたものを自分の解釈で広めているんだけなんだとか。そういうことを吹聴していた。でっそれに対して、パウロは「いや私は、この福音を人間からうけとったのではなくイエス様から直接受けたんだ。」と言っている。その表現が12節の「イエス・キリストの啓示によって受けたのです」というところです。


「えー啓示ってまた難しい言葉わかんないんですけど」ってそういうことですよね。まあ簡単に言うと啓示というのは神様からあらわにされた、示された真実という意味です。つまりパウロが伝えている福音とは、彼の考えや、あるいは経験談から、こうなったら幸せになりますよっ的なアドバイスではなくして、神様から直接与えられたメッセージだということを言っているんですね。


その流れで13節からパウロは自分の証を語っていきます。なぜいきなり証を始めるのか?でそれは、パウロにとって自分の人生におこった変化こそが福音を直接神様からうけとったという何よりの証拠だったからではないのかなと思います。 ちょっと13-14節ご覧になってください。


以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

ガラテヤ1:13-14

ここがパウロがイエス様と出会う前。Beforeの部分ですね。ポイントは二つです。一つ目はパウロはかつて教会を激しく迫害していた。使徒の働き22:4 でも「私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。」とパウロ自身が言っています。ステパノが処刑されたときに、石を打つ者たちの服が返り血を浴びないように、処刑する者たちの衣服の番をしていたのがパウロであったのは有名ではないでしょうか。直接ではないにしろ、パウロは教会を迫害し、結果クリスチャンたちを死にまでも追いやっていた。二つ目、でその激しい迫害の動機はどこから来ていたのかと言うと、彼が正しいと信じていたユダヤ教に対する熱心さから来ていました。これもパウロ自身が言っていることですが。使徒の働き26:5 「私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。」ユダヤ教ではトップの教育を受け、ことさら律法に厳しく生きてきたと、パリサイ人と言えば何といっても律法主義です。とにかく厳しく律法を学び、完璧に守るっということに誇りをかけてきた。その熱心から、その律法を守るのではなく、十字架を信じる信仰だけが救いをもたらすと説くようなキリスト教はけしからんと、積極的に迫害してきた。それこそが正義だと思って生きてきた。パウロというのはそういう人物でありました。けれどもそのパウロの人生が劇的に変えられます。


続いて15‐16節

けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき私はすぐに、人には相談せず、

ガラテヤ1:15-16


神様がパウロの人生に介入してくださいまいます。ここですね、「御子を私のうちに掲示することを良しとされた」。ちょっと難しい表現ですが、御子、つまりイエス様がパウロの前に掲示される、いや文字通り目の前に現れてくださる。そうして彼の人生は劇的に変わりました。ちょっと使徒の働き9章開いていただいて、どのようにイエス様がパウロに現れたのかということ具体的に見たいと思います。

さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

使徒の働き9:1-5

この出会いがあってパウロの人生は一変します。

パウロはだんだんと意見を変えたとかではなくして、ある時を境に彼の人生は180度転換し、キリストを教会を迫害するものから、今やキリストを福音を伝えるものへと変えられました。とすればこれは人間業ではない、自然の成り行きで、なんとなーくクリスチャンになったのとはわけが違います。パウロはそのことをさして「この劇的な変化こそが私がイエス様から直接福音を受け取った、という何よりの証拠でしょっ」と言っているわけですね。


17節以降は彼がキリストに出会い救われた後のことがかかれていますが。16節の最後にあったように「私はすぐ、人には相談せず」エルサレムにすぐ行って、12弟子に直接教えを乞うたのではないとか。3年間アラビアの荒野で過ごしたとか、まあとにかく誰かの教えに影響を受けたとか、そういうことではないんだよということが24節まで展開されていきます。長いので今日はちょっと省略させてください。是非皆さんご自身で読んでいただければと思いますが。要は彼が宣べ伝えている福音というのは、人から受け取った教えではないということが強調されています。

っというのがまあ今日の箇所の全体的な流れです。だから偽物の福音に流されるなとパウロは説いています。さてここからは改めて、なぜパウロはここで証を語ったのかということを考えていきたいと思います。でそれはまず第一に、彼の人生の変化、ある時点を境に、迫害するモノから福音を伝えるものに変えられたという事実こそが、パウロの語っている福音の真実性を担保する証拠になるからだ、ということをここまで話してきました。しかしながら実はもう一つ理由があるのではないか思うんですね。でそれは福音のメッセージの本質を理解するうえで、パウロの歩んだ人生の道のりというのは非常にわかりやすいイラストレーションになっているということが一つあるのではないでしょうか。


 どういうことか、冒頭でもみましたが。間違った教え「ほかの福音」のメッセージというのは要約すると。十字架によって救われるのだけれども、プラスアルファが必要だと。でそれは律法を守る、つまり人間の努力が必要だというものでした。


 でそれで言いますとね、このプラスアルファの部分、律法を守る、人間の努力、のエキスパートだったのがパウロなわけですよ。彼はエリート街道を走るパリサイ人でありました。そしてそのことに命を懸けていた。ね。これこそが自分の生きる道なんだとそう信じていたわけですよ。人間の努力という意味では、やれることはすべてやってきた人でした。先ほど13-14節でその様子をみましたね。人一倍熱心だったと。ちょっともう一度ご覧になっていただいて。

以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

使徒1:13-14

注目していただきたいのは、主語の部分ですね。ほぼ全部「私」です。「私の行動」「私は教会を迫害し」「私はユダヤ教に人一倍熱心でした。」イエス様に出会う前のパウロの人生はどこまでいっても「私」が中心の人生でありました。私が努力して律法を守り、私が頑張って聖書を学び、私の考えで徹底的に教会を迫害する。私の行動がすべてを決めていく、そういう感じでしょうか。


 でそれで言いますとね、私たちもまた同じではないかと思わされます。いやもちろん私はかつてキリスト教を迫害していましたという人はいないでしょう。けれどもキリストに出会う前の私たちの人生というのはやっぱり「私」が中心の人生だったのではないでしょうか。でそれは必ずしも、「わがまま」とか「自分勝手」とか「自己中心的」とかそういうことではないのかもしれない。特に日本人ならばそうですね。周りのことも考えて、迷惑をかけないように、礼儀正しく。ですから外から見れば、ほとんどの人は「いい人」でありましょう。けれども人生を歩んでいく時の根本的な価値観として、「私の行動」「私の考え」が人生を決めていくんだ。端的に言ってしまえば、自分の人生は自分次第だ。そう思って生きている人がほとんどなのではないか。なぜならやっぱり私たちの生きている世界は、努力とその結果が評価される世界だからです。学校には通信簿があり、社会に出て仕事をすれば、そのパフォーマンスがボーナスや昇進という形で反映される。生まれてこの方そういう世界に生きているわけですから、当然人生は努力次第だとこう思ってしまうでしょうね。

 

 けれどもパウロはそうではないということを、イエス様との出会いによって学びました。なぜなら、彼の努力、(ユダヤ教に熱心になることであれ、教会を迫害することであれ)それらは一応彼の中では神様のために行っていたことでした。けれどもそのような彼の努力で神の真実にたどりついたのかっというとそうではなかった。そうではなくして、「私の行動」「私の人生」と言って真逆の方向を走っていくパウロを引き留め、一方的にパウロの前に現れてくださったイエス様によって示されたのが福音でありました。これが12節にあった「イエスキリストの啓示」です。イエス様がパウロに出会うシーン15-16節もう一度みていただけますでしょうか。


けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき

これ主語が明確にならない日本語だと非常にわかりにくいんですけれども、ちょっと英語で見てください

 But when God, who set me apart from my mother’s womb and called me by his grace, was pleased 16 to reveal his Son in me so that I might preach him among the Gentiles,


出だしの部分、「But when God/しかし神は」っと始まっていきます。キリストに出会ったパウロの人生の主語は、「私」から「神様/主」に変わるんですね。生まれたときから私を選び分けられたのは「主」で、恵みをもって異邦人にイエス様のことを伝えるようにと召してくださったのも「主」でした。そして何より、教会を迫害していたパウロに、主ご自身が、イエス様が自ら現れてくださった。「しかし神は」、という決定的な転換点がここにあります。


私の行動、私の努力、私の考え、私の選択、私の計画、私の人生。この「私」という分厚い壁に閉ざされたパウロの人生、その壁をぶち壊してご自身を示してくださるイエス様。これが「イエスキリストの啓示」です。そのイエス様の光に照らされて、パウロはやっと理解する。自分の頑張りが人生ではないんだと。主の一方的な恵こそが救いなんだと。パウロは今まで「私」の人生を建てあげてきたと思ってきました。けれども、But when God. しかし神が、つまりイエス様が出会ってくださって「ああ実は生まれる前から主が私を一方的に選んでくださっていたんだ」ということに目が開かれたんですね。

 もちろん福音とは何ですかと聞かれれば、それは「行いではなくイエス様の十字架を信じる信仰によってのみ救われる。」っということです。それを教義として信じることはものすごく大事です。けれども福音派そこでは終わりません。福音というものは、自分の人生の見方をまるまる変えてしまう力があります。先ほど申し上げたように人生の主語が代るっていうんでしょうか。私が歩む人生から、主が歩ませてくださる人生へと変えられていくんですね。


でこういうことを語っていますとね、え?私が選ぶんんじゃくて、神様が選ぶの?っとそういうですね、自由意志vs神の摂理みたいなことを思う方がもしかしたらいらっしゃるかもしれません。けれどもポイントはそこではない。もちろん私たちに自由意志はあると思います。なんといっても私たちは神様を信じるのか、信じないのかということを選ぶ責任はあると思います。けれどもポイントは、私たちがその選択をする、ずーっと前から主は私たちを招いてくださっているということ今日覚えたいと思うんですね。神様の介入なしに私たちは変わることはできない。イエス様がパウロに出会ってくださったように、主が一方的に働きかけてくださるということがあって初めて私たちは神様の方向を向くことができるのではないでしょうか。自分の歩みを振り返ってもやはりそうだったのではないかと思います。


私はクリスチャンホームに生まれましたので、小さいころから教会に行っていましたし、神様のことも知っていました。それでもやっぱり、神様を信じると決めたのは自分だと思っています。18歳でNZに来て、19の時に色々経験し考えて自分でクリスチャンになるということを決めました。はじめての海外生活で痛いほど自分の弱さというものを痛感し、「信仰が弱い人が持つんだろ」という生意気な考えから、まさにその弱き者が自分であり、だからこそ神が必要なのだと思うようになりました。そうしてイエス様の愛を信じ、その愛に応える決心をした。それは確かに自分の決断だったんだと思います。と同時に自分では選ぶことができない状況が重なってその決断に至ったという事もまた事実です。どういうことか、さかのぼって考えますとね、なぜそもそも18歳の時にNZに来たのかというと、それは日本の高校生活で馴染めなかったということが大きかったと思います。大学付属の高校に通ってましたので、「このまま大学に進んでも楽しくはないだろ」という思いから海外にいこうとなり、NZに来たわけです。もう一個さかのぼって、ではなぜ高校生活に馴染めなかったのか、まあいろいろ理由はあると思います。けれど一つ大きかったのは入学早々アトピーがひどくなって1カ月半学校に行けなかった。学校に戻ったころには、周りは既に友達のグループができていた、ということが大きかったと思います。それを残りの3年間引きずったという感じでしょうか。でそれらの状況を自ら選んだのかと言われれば答えはNOです。好き好んでそんな状況は選びません。しかしながら振り返ってみればこの経験こそが、私にとっての神様の介入、But when Godの瞬間であったのかなあと思います。


いろんな人の証を聞いていてもそうじゃないですか。もちろんその人の道のりの中にはその人自身の選択がいっぱいあって証というのは物語をなしていきます。けれども逆に言えば様々なことが人生に起こるからこそ私たちは神様を信じるのか、それとも自分を信じるのかという選択に迫られる。多くの場合、自分で抱えきれない、困難や、試練、病気などに見舞われて、自分ではなく神様の方向を向く。そのような形でイエス様が人生に現れるということが大いにあるのではないか。そして気づくんですね、私たちが神様を求めるずっと前から、すでに神様は私たちを求めてくださっていたんだということに。

そういう一方的な恵というものを心で理解するということは非常に大事です。自分の選択や努力ではなく、すべては神様の恵。そしてその恵の究極の形が十字架ですよね。私たちが信じるかどうか、関係なく一方的に私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったイエス様。そのことを受け入れ信じるだけで救われる。私たちの努力ではない。これこそが福音の本質の部分ではないでしょうか。


でクリスチャンであればもちろん福音がどういうものかというのはわかっている。けれど私たちは、忘れてしまう。主に選ばれて、主に救われて、主に導かれて、主の恵みの中を歩んでいる人生。であるにもかかわらず、いつの間にか気づけば「いやまあとはいえ、結局は自分で努力しなきゃ」というこの世の声に耳を傾けてしまい、信仰生活にもその影響を受けるということは大いにありうる。そんな中試練が起きようものなら、私たちはストレスを抱え、不安を抱え、もうだめだと思ってしまう。でも本当に人生の主語が、「私」から「主/イエス様」に変わっているのだとしたら、それらの不安や恐れを自分で全て抱えてしまう必要はない。理解する必要さえない。全ては主の御手の中にあるんですよね。


 もちろんだからと言って人生投げやりになってもいいっていう、そういうことじゃあない。私たちは自分なりにベストを尽くす責任がありますし、祈って考えて、これがいいんじゃないかという選択を人生の中で責任をもってしていく必要があります。けれど現実問題、それでも間違ったり、罪を犯したり、愚かな行動をしてしまうのが人間ですよね。その時に思い出したいのは、やっぱり福音という主の恵の大きさです。


もう一度だけ16節見ていただけますでしょうか。

 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、(16節)

 この部分ですね、パウロが神様の一方的な恵、啓示によって救われたのは単なる祝福であっただけでなく、異邦人、つまり世界にイエス様のことを伝えるという大いなるミッションがありました。そしてそのミッションのために大いに用いられたのが、このパウロの過去です。彼のパリサイ人として得た豊富な聖書の知識、情熱、行動力そういったものが大いに用いられたということは間違いないでしょう。神様はパウロをそういったいみで準備しておられた。しかしながらそれ以上に、教会を迫害し、完全に律法主義という真反対の方向に進んでいた過去を持つパウロだからこそ、彼が十字架を信じる信仰だけが大事なのだと主張する時、そのメッセージには説得力や重みが加えられたということがあったのだろうなと思うんですね。いや、もちろんパウロが教会を迫害していたということが良かったわけではない、罪ですね、悪いことです。けれども主がその恵の中でそれをも用いてくださったということではないでしょうか。


 であるならば、であるならば、私たちの弱さ、罪、つらい経験、人生にあるその時には理解できない経験も全て、福音という一方的な恵の力によって、用いられるということがあると信じて歩んでいきたいと思うんですね。それこそが、人間的な努力ではなく、十字架に象徴される神の恵みを信頼するということなんだと思います。


 最後にイエス様がパウロに現れてくださったときにかけた言葉を見て終わりにしたいと思います。使徒の働き26:14


私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

使徒26:14

サウロというのはパウロの別の名前です。イエス様はおっしゃった「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」パウロ、お前は自分が正しいと思う人生を歩んでいるが、それはうまくいっているのか。痛くはないのか? そんな呼びかけでありました。でそのイエス様の呼びかけに対してパウロは悔い改め、自分ではなくイエス様を信じるという決断をします。


 皆さんはどうでしょうか。皆さんの人生の主語は「私」なのか「イエス様」なのか。もしそれが「私」なのだとすれば「私の考え」、「私の判断」、「私の努力」、「私の計画」、「私の信じる道」、「私の人生」はうまくいっているでしょうか?痛くはないのか?本当にそのまま歩んでいって希望はあるのか? その呼びかけに私たちはどのように応答するのか?願わくばパウロのように主の恵に目が開かれて、ああ自分の人生ではなく、主が歩ませてくださる人生なんだというこを信じ歩んでいく人生でありたいと思います。


2024.06.09

影響力のある信仰 (ダニエル6)

『正しいことをしたければ偉くなれ』「踊る大捜査線」というドラマの有名なセリフになります。もう何十年も前のドラマなので、完全に若者を置き去りしてしまう形になりますが、30代後半以上の方は知っておられる方多いのではないでしょうか。詳細を省いて言葉の意味だけを説明するなら。先輩刑事から主人公に向けて語られるセリフ。堕落した警察組織を変えたいなら、正しい思いだけを持っていてもダメだと。上の、つまり決定権や影響力のある立場にまで出世しなければ本当の変革は起こせない。まあっざくりいうと

そういう意味です。サラリーマンとか組織に属している人間であれば心に刺さる名セリフです。「あー気持ちだけあってもダメなんだ」と

 

 えっ急に何の話?って思われますよね?いやダニエル書は?と。しかしながらある意味、実際に偉くなって正しいことをした人ということで言うと、まさにダニエルがそうだったんじゃないかなと思います。ダニエルは正しい思いや信仰を持っていただけではなくして、能力を認められ国のトップまで出世した人だったんですよね。今日見ていく箇所でもそうですし、1章からこの6章までを通してもその姿が描かれてきました。どのようにダニエルがこのバビロンという異国の地において、信仰を失わず、逆に成功をおさめて影響力を持つ存在になっていったのかということが一つの中心的なテーマとしてあるのではないのかなと思うんですね。

今日でダニエル書最後ということで少し振り返ってから初めて行きたいと思います。イスラエルは罪の結果、主の裁きがくだりバビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。そして民衆はバビロンに連れて行かれます。これがいわゆるバビロン捕囚というやつですね。バビロンの意図としては故郷から民を切り離し、バビロニアまで連れてきて、そこの生活に慣れ親しませて、気づけばいつのまにか祖国のことを忘れている。そのようにして反乱が起きないように民を手なづける、治める。そのような政策をとっていました。

このバビロン捕囚を経験したのがダニエルと彼の友人3人です。彼らは異国の地、で自分たちの信仰と信念を全く理解しない社会の中でどのように生きていくのか?要はこの異国の地で、彼らは信仰を貫けるのか、それとも異国の文化、価値観に染められてしまうのか?っとそういうことですね。でその問いかけは、バビロンに移住した民すべてに問われていることでありました。そんな彼らがとった行動は大きく分けて二つです。一つ目それは、とにかく異国にアジャストする。悪く言えば流される、あるいは染まってしまう、です。もう一つのパターン、それはとにかく自分たちを守る、異国の文化や価値観にできるだけ触れないようにする。距離を置く、異国の人たちとなるべく関わらないようにする。ダニエルはどうしたのか、今までも見てきました。彼は染まってしまうことはありませんでした、1章で見ましたね、並べられた王のごちそうを自分の信仰と確信のゆえに、食べないという選択をしました。3章ではシャデラク、メシャク、アベデネゴは、金の像を拝まないという選択をしました。つまりしっかりと流されず、信仰に立ってNOと言ったわけです。けれど彼らはこの異教の世界、異国の地のすべてに足して何も考えずに「NO」と言ったわけではありませんでした。積極的に置かれた環境で異国の文化、学問を学んだ、だからこそ王の側近になるべくトレーニングを受けた若者たちの間でトップの成績を収めた。(これも1章でみました)そしてダニエルは王のために、夢の解き明かしをして、王にアドバイスまでする存在になっていきました。2章、4章、5章ですね。

っとこのように異国の地で、信仰に立ち、流されず。けれども自分の殻に閉じこもるわけでもなく、逆に影響を与えるような存在になっていくダニエルの姿は、私たちクリスチャンが信仰をもちながら、この世にあってどのように生きていくのかと言いう点で多くのことを教えてくれます。前置き長くなりました、今日はこのクリスチャンがこの世で持つ影響力という視点で6章を読んでいきたいと思います。例のごとく、要約しつつ必要なところは、聖書を6章を開いていきたいと思います。

先週みましたがついにバビロンはメディア・ペルシャという国に亡ばされてしまいました。ですから王様も変わってダリヨス王になっています。1-2節では政権が交代してもダニエルは大臣として登用されたということが書かれています。120人の太守(今でいう県知事みたいなローカルのリーダーたち)を束ねる3人の大臣の一人に選ばれたと。さてそれだけではなくして3節

ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。(王は)彼を任命して全国を治めさせようと思った。

ダニエル6:3

なんとその3人の大臣の中のトップ、つまり王様は自分の下にダニエルをおいて国のナンバー2にしようとします。でこの時ダニエルの年齢は何歳だったかと言うと、ちょうどダニエルがバビロンに来て70年たった時ということが9章を読むとわかりますので、80代だったのではないかと言われています。もうおじいちゃんですね、にもかかわらず国のナンバ-2を任せたい。それほどにダニエルは際立って優れていた。非常に有能で信頼に厚い人だったということです。

でこれは、この世を生きていくクリスチャンにとってもものすごく重要なのではないでしょうか。いやもちろん、みんながみんな国のトップになれるわけではない。ダニエルには才能があった、そして何より神様が祝福されたからこそ国のトップにまでけたんだ。そういってしまえばそれまでです。しかしながら、ダニエル自身も努力したに違いない、勉学に励み、一生懸命与えられた仕事をこなした。好きでやっていたわけではないと思います。完全に異国の文化、しかも敵国に仕えるというそういう状況なわけで。この仕事は生きがいだと思っていたわけではないと思います。けれども彼はベストを尽くしました。だからそれらが認められて国のトップまで行くわけですよね。でその地位を通して何度となく、バビロンの国中に神様の栄光を示してきたのをシリーズを通してみてきました。

で私たちもまた、自分に与えられている、仕事、役割、学生なら勉強、そういったものにおいて、良い成績をあげる、ベストを尽くす、いい仕事をするっということは実はとても大事な事なんだということをダニエルから学びたいと思います。どれだけ、聖書の知識があり、どれだけ毎日祈り、どれだけ教会の奉仕していたとしても、普段の仕事は不真面目、まったく適当な仕事しかしない。そういう人の話を誰が聞きたいのかということはやっぱりあるわけで。結局人は成功者、あるいは功績をあげた人から話を聞きたいと思いますし、そういう人の影響力というのがこの世においては大きい。もちろんクリスチャンにとって、社会的に成功するということが第一の目標ではないです。けれども主の栄光を証するためには、その要素もないがしろにはできない。結果がすべてではない、けれど仕事にしろ、勉強にしろ、主のためにベストを尽くすことが大事だと。

 さてダニエルがその能力を評価されてナンバー2に昇進します。当然それをよく思わなかったのは、残りの大臣でした。ですから彼らはダニエルをおとしめようと、身辺調査をして、あら捜しを始めます。何かスキャンダルがないかということですね。4節

大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。

ダニエル6:4

探しても、探しても一点の汚点も出てきませんでした。いやスキャンダルどころかダニエルは忠実で、怠慢も欠点も見られなかったとあります。つまり人格者としても文句がつけようがなかったということですね。ダニエルはただ仕事ができたわけではない、ものすごくいい人で、周りからの信頼も厚かった。でそれは公的な場のみならず、プライベートにおいても変わらなかったということではないでしょうか・

 

ですからクリスチャンもこの世にあって影響力を持つのであれば、仕事だけできてもダメですね。どれだけ才能があり、有能で仕事ができたとしても嫌な奴じゃあだめだと。「自分はとにかく出世するんだ」といって、その過程で人を押しのけたり、優しくできなかったり、人格を置き去りにしてしまうようであれば元も子もない。もちろん逆もありますね、めちゃくちゃいい人なんだけれども、全然仕事できないみたいな。(そっちのほうがましかなと思いますが)いずれしにろ両方、両方必要なんだと思います。もちろんパーフェクトである必要はない、けれども仕事、あるいは与えられた責任に関してベストを尽くしつつ、周りの人に対しても誠実であるということ。ダニエルはこの両面において非常にバランスの取れた人物でありました。

ダニエル書戻りましょう。どれだけ身辺調査を行っても何のスキャンダルも見つからないダニエル。それならということで他の大臣たちは、今度はダニエルの信仰心を逆手にとって罠にはめようとある法令を制定すべく、ダリヨス王に提案します。7節

国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。

ダニエル6:7

30日間王様以外に祈りをささげるものは処刑されると。この提案をした大臣たちは当然ダニエルが熱心に毎日祈っているということを知っていました。ですからこの法令を制定さえしていまえば、王様にサインさせてしまえば、確実にダニエルを殺すことができる。そういう思惑ですね。

 

さてこの法令が制定されてからダニエルはどうしたのか。10節

ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。—彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。—彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

ダニエル6:10

ダニエルはいつものように祈りました。しかも窓を開けて。今や国のトップの大臣にまでなっていたダニエルには他にもいろいろ選択肢はあったのではないかと私たちは思います。例えば、そんな法令は不当だとして訴え出るとか、王に直談判するとか。いやそんな直接的な方法に出なくても、30日という期限が定まっているわけですから、その間は祈らないということもできたのではないか。別に信仰を捨てろと言われているわけではないわけですし。ほかの偶像を拝めと言われているわけでもない。だからちょっとブレイクではないですけど30日だけ祈りをストップする、それは許容範囲だったのではないか。いやもっというと、祈るにしたって窓を閉めて誰にも見られないところで静かに祈るということができたはずです。そうすればだれに師も知られることはない。何故ダニエルは窓を開けてエルサレムの方向を向いていのったのか?おそらくそれは、かつてソロモン王が神殿奉献の時に祈った祈り、この聖書箇所がもとになっているのではないかと言われています

捕らわれていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、 あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。

2歴代誌6:38-39

それはバビロン捕囚を預言するような内容だったわけですよ。もし民が罪を犯して裁かれて違う土地に連れていかれるようなことがあっても、このエルサレムの神殿の方向を向いて祈るなら、その祈りを聞いてやってください。っというソロモンの祈り。ダニエルはこれをベースにエルサレムに向かって一日に3回祈っていました。しかしながらこれよく読んでくださればお分かりになると思いますが、命令ではない。絶対にエルサレムの方向向かって祈りなさいという命令として聖書に書いてあるわけではないんですね。つまり窓を開けずに静かに祈る形をとったとしても、神の律法を犯すということにはならない。罪ではないわけです。それでもあえてダニエルは、窓を開けて、エルサレムの方向を向いて祈るということを選択しました。なぜか?でそれは大きくわけて二つの理由があったのではないかなあと思います。

まず一つ目それは妥協なき信仰です。ダニエルにとって、信仰とは聖書に書かれているすべてのルールを守り、チェックリストをクリアするということではありませんでした。いやそうではなくして、自分の心が主にまっすぐ向いているのか?主だけを自分は恐れているのか?それこそが彼にとって最も重要な事だったのではないでしょうか。先ほども申し上げたとおり、もちろん戸を閉めて静かに祈ること自体は悪いことではないです。けれどポイントは、10節にありました、

彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。(10節)

ダニエルは今まで毎日窓を開けてエルサレムのほうを向いて祈ってきました。毎日いつも。で、この法令が出されたからと言って、窓を閉めて静かに祈るといことを自分が選んでしまうとしたら。それは彼にとって自分が主ではなく、その法令を、獅子の穴に入れらえるということを神様以上に恐れるということ、を意味したのではないでか。主のみを恐れるなら、神様だけを恐れるなら窓を閉める必要はないと、妥協はできないと。でそれに対して私たちは思います、いやそれはさすがに厳しすぎないか?と。しかしながらダニエルにとってこれは小さなことではなかったのではないでしょうか?

このバビロンという異国の地にあって、少しでも、たとえそれが心の中のことであったとしても妥協するということは、信仰にとって命とりであるということを彼は知っていました。異国の地で70年間も信仰人生を生き抜いてきたダニエルだからこそ、そのことを骨身にしみてわかっていたに違いありません。主だけを恐れるなら、他に何も恐れないというのであれば、自分はいつものように、窓を開けて、エルサレムの方を向いて祈るんだ。そういう覚悟と決心が彼の信仰を70年間も支えてきたんだと思うんですね。

 

 まったく価値観の違う異国ということを思う時に、やはりなかなかどうして日本のことを思わずにはいられない。私自身、15年ほど前NZ留学をおえて日本に帰国した時のことを思い出します。私はNZでクリスチャンになり、聖書の学校を卒業して日本に帰国、就職しました。日本人なので、日本が母国であるにもかかわらず、NZに長くいすぎたせいか、もはや日本の社会は私にとって異国となっていたんですね。逆カルチャーショックというやつでしょうか。加えて、日本のクリスチャン人口は1%以下。信仰面でのチャレンジもたくさんありました。私はとにかくこの新しい環境に慣れなければと必死でで気づけば、聖書を読むこともなくなり、祈ることも減り、なんだかんだで「仕事が大事」とか、「お金が大事」とか、そういう価値観に流されている自分がいたんですね。目立った罪を犯したとか、完全に道を外れたとか、そういうことではありませんでした。けれども小さな妥協が積み重なり。気づけばこの世の価値観に流されている、そういう感じでした。

 皆さんどうでしょうか、日本に比べればNZでのほうが信仰を保つのが難しくないかもしれません。けれどそれにしたって小さな心の中での妥協が積み重なり、気づけば流されているということが大いにありうる。でそれは何か表面的に罪を犯す、そういうことではないのかもしれない。けれど自分は主を第一として生きているのか、主だけを恐れて生きているのかということを、常に自分の行動と心に妥協なく問い続けるということをしなければ、気づかないうちに流されていくということが大いにありうる。ダニエルは心の中での妥協を良しとはしませんでした。

さてダニエルが窓を開けて祈ったもう一つの理由はなんだったのか。二つ目の理由は、証のためだったのではないかなと思います。ダニエルの信仰は隠れた信仰ではありませんでした。そもそもダニエルが毎日三回窓を開けて祈るということを、他の大臣が知っていたからこそ彼らはこの法令を作ってダニエルをはめようとしたわけですよね。結局ダニエルは、祈っている姿を目撃され、王に告げ口をされてライオンの穴に放りこまれることになってしまいます。14節に王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めたとあります。どれだけダニエルが王様に気に入られていたのかが伺い知れます。けれども王様も法令にサインをしてしまった以上、それを取り消すことはできませんでした。王様にできることは、ライオンの穴に投げ込まれるダニエルに声をかけることだけだった。16節

…「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」

ダニエル6:16

これはダリヨス王がダニエルに向かって語っている言葉です。つまりダニエルの信じている神様のことをダリヨス王はこの時点で認識していたということです。「あなたがいつも仕えている神が」特別なことがあったからとかではなくして、普段から「あっダニエルはこの神様に仕えているんだな」と言うことが敵の大臣含め周りの目にはあきらかだった。ダニエルの信仰のことを知らない人はいなかったということです。彼にとって信仰とはプライベートなものではありえなかった。『いやこれは個人的に信じていることなんで』特に周りには伝えず、そういうスタンスでダニエルは歩んでいませんでした。言葉、行動、生き様すべてが彼の信仰を語っていた。

 皆さんどうでしょうか、証をする、伝道する、神様のことを人に伝える。っと聞くとどのようなイメージを持たれるのか。苦手意識があるという人も多いのではないかと思います。下手したらあまり良いイメージを持っていないという、そういう方もいるかなと。「いきなりそんな神様の話を人にしても、引かれてしまって逆効果だ」とかですね。実際私もそういうイメージあります。牧師が伝道苦手ってどうなのと?正直自分でも思いますけれども。。。でそこでよく言われるのが、行動で、生き方で証をしてきましょうというお話ですよね。信仰をもって愛をもって誠実に人と接していくなら、それを通して神の栄光が周りに表されるというお話。私自身そういうメッセージをしたことがあります。そしてそれは間違いではない。ダニエルの生き方もある意味、行動で神の栄光表すという、そういうものだったと言えると思います。しかしながら本当に神様のかの字も一言も発せず、信仰の話を一切しないのだとしたら。本当に行動だけっとなると、それで神様のことは伝わっていくのか?難しいでしょうね。というか伝わらないでしょうね。行動で示す。めちゃくちゃ重要です。けれども機会があるごとに信仰の話をしていく、自分の信仰をオープンにしていくということもまた同時に大切なんだと思います。ダニエルの信仰は隠されたものではありませんでした、周りの人たちは、ダニエルが仕えている神様のことを知っていた。私たちはどうでしょうか、私たちの周りの人、同僚、友人、家族は、私がクリスチャンであるということを知っているだろうか。考えさせられます

 もちろん空気を読まずに、ただいきなり神様の話をすれば良いというわけではない。ダニエルだってそうですねよ、普段から神様の話ガンガンしていたわけではないと思います。あるいは大臣という立場を使って、国中に主を礼拝するようにという政治的な動きをしたわけでもないでしょう。伝道という観点から言ってダニエルは自分からアクティブに攻めていったという印象はありません。けれども機会があるたびに、彼は自分の信仰をオープンにし、証をしてきた。だから今回の法令が制定されて、命の危機にあっても、ダニエルは自分の信仰を隠さないということを選んだのではないでしょうか。

さてその後どうなったのか。ダニエルがライオンの穴に入れられて一日たった後、王様は様子を見に行きます。21節から

すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

ダニエル6:21-22

 神様はダニエルを守ってくださいました。23節にある通り、それは彼が神に信頼していたという見事な証だったんですね。結果ダリヨス王は国中にダニエルの神、主を褒めたたえるようにということを書き贈ります。絶体絶命のピンチにあって、ダニエルは神様を信頼したことによって、逆にそれが用いられて主の栄光があらわされるという結末で6章は幕を閉じます。っと本来はここが一番ドラマチックで説教としてもメインで語られるところなんでしょうけれども、今日はちょっと違った視点で。ダニエルが異国の地にあって持っていた影響力という角度から6章を見てきました。

まとめましょう。ダニエルが持っていた影響力の秘密、4つくらいあったのではないかなと思います。まず一つ目、ダニエルは仕事ができた。彼は与えられたエリアでベストを尽くしました。その結果影響力のある地位に行くことができた。二つ目、仕事ができるだけでなく、人格も素晴らしかった。「いやな奴」ではなく「いい人」だった。三つ目、妥協のない信仰。ただ罪を犯さない、だけでなく、主だけを恐れるという覚悟をもって歩む人生でありました。それこそ今回命を懸けてその信仰を貫きました。四つ目、自分の信仰をオープンにしていた。決して人に押し付けるわけではなく、けれども周りに自分の信仰が伝わる、そういう人生をダニエルは歩んだんですね。

 結果異国の地にあって捕虜としてスタートしたダニエルの人生は、王様をも動かし、国中に主の栄光を表す、そんな影響力を持つようになった。

 さて結果だけ見るとすごすぎて、完璧すぎて、いや私はダニエルみたいにはなれない。そう思ってしまいますね。けれど最後に覚えたいのは、そんなダニエルの信仰人生を支えたのは、おそらく毎日の祈りだったのではないかということです。10節で見ましたね、彼は「いつものように」日に三度祈ったと。信仰は一日で一気に成長するということはない、ダニエルの信仰人生も日々祈りを積み重ねることで、成長していったのではないでしょうか。あるい人は言いました。

卓越性とは行為ではなく習慣なのだ  (ウィル・ダラント)

‘Excellence is not an act, it’s a habit.’ Will Durant

 英語のほうがわかりやすいかもしれません。まあ要はよく言われる「習慣が人を作る」というよというやつです。急に命の危機にあって、信仰を選ぶということはできないかもしれません。しかしながら日々祈る、聖書を読む、神様と時間を過ごすっということを、選んでいくということは私たちもできるのではないか。そしてそれを積み重ねていく時に、影響力のある信仰を養っていくことができるんだと思うんですね。

 で最後余談ですけれども、28節

このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。

ダニエル6:28

さらっと書いていますが、クロス王というの出てきますね。彼にもダニエルは仕えたわけです。じゃあこのクロス王ってだれかというと、2歴代誌36:22-23にのっていますが、実はこの王様が、ユダヤ人たちにエルサレムに戻って神殿を再建するようにという指示を出すんですよね。いやもちろん主の霊が、王様の心を動かしただから、そのような命令をが出された。間違いないです。そう書いてありますから。ただもしかしたらダニエルの影響というものもあったのかなあ。ね、あくまで推測ですけれども、だとするとかなりかっこいい。ダニエルの信仰は、ダニエルの人生は国を動かした。

私たちはダニエルのように立派ではないかもしれない、才能もダニエルに比べれば微々たるもので、持っている影響力も限られているでしょう。けれどもそれぞれに与えられた場所があり、与えられた人々が周りにいるわけで。地の塩、世の光として、今いるその場所で主栄光を証するものでありたいと思います。

2024.05.26

傲慢という病と 試練という治療薬(ダニエル4)

 

ネブカデネザル王が見た夢はどういうものだったのでしょうか。さっそく夢の内容を見ていきたいと思います。10-17節の部分になりますが長いので夢の前半は私の方で要約させてください。

まずものすごく巨大な木が王様の夢の中に登場します。その木の高さは天に届くほどで、地の果てのどこからでも見えるほどでした。そしてただサイズがでかいだけでなくして、その木は豊かに実り、あらゆる動物を養っているそんな木でありました。っとここで夢は終わりません、後半はちょっと聖書を実際に読んでいきましょうか

ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。その心を、人間の心から変えて、獣の心にそれを与え、七つの時をその上に過ごさせよ…

ダニエル書4:13-16

 さてこの夢を見たネブカデネザル王は、この夢を見て恐れおびえてしまったっと5節にあります。そしてどうしたか、呪法師、呪文師、星占いたちを集めて夢の意味を聞き出そうとします。けれど残念ながら彼らには解き明かしができませんでした、結果ダニエルが呼ばれます。ここまでの流れ、ほぼ2章と同じですよね。

 ここで少し思うのは、「いや最初からダニエル呼んでよ」ということです。2章であれだけの解き明かしをして見せたダニエルを真っ先に呼べばいいじゃないっと。けれど性懲りもなく、ネブカデネザルは、呪法師、呪文師、星占い、まあ当時で言う王の相談役、を集めます。つまりこの世の知恵に頼ったということです。2章で経験したことから何も学んでないではないかと私たちは思います。けれど同時にどうでしょうか、私たちもまた人生で何か問題が起こるたびに、まず祈るではなくして、まずネットで情報を集めるっという流れになっていないでしょうか。最近AIも話題になっていますが。近しい未来には、祈る前にAIに聞くなんて言う時代がすぐそこまで来ているかもしれませんね。とこのように世の知恵、情報っというものは力があるように見えてしまうもので、考えさせられます。

 さて話を戻しまして、ではこの夢の意味は何だったのか。ダニエルの夢の解釈、解き明かしが20節から始まっていきます。ここも長いので前半は私の方で説明して後半の部分は聖書を開くという形にしたいと思います。まずダニエルは率直に「その夢に登場した巨大な木はあなたです。」と王様に伝えます。この4章の出来事いつ頃の話かというと、おおよそネブカデネザルの統治の晩年だったのではないかと言われています。飛ばして読みませんでしたけれども、ちょっと4節ご覧になっていただいて。

私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき

ダニエル4:4

私の家で気楽にしており」とありますがこれ別にリビングでコーヒーを飲んでた、とかそういうことではないんです。意味合いとしては、もうかなりの領土を征服しきって目立った戦争がなく平和な状態だったということです。つまりかつて彼が抱いていた、偉大な王国を建てあげるという野望が実現した後ということですね。2章の時にもやりました、ネブカデネザル王の時代にバビロンは当時世界で最も富と力のある国となったということが歴史的にわかっています。ですから文字通り、世界で一番巨大な力のある国を建てたあなたはその巨大な木です。っとダニエルは言います。ここまでは特に解き明かしが必要ないくらい誰にでもわかるんではなかなろうかと思います。しかしながら問題は天の御使いが来て、その木が切り倒されてしまうっという夢の後半ですよね。

その部分の解き明かしが24節から始まります。ここは聖書を開きたいと思います。

王さま。その解き明かしは次のとおりです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。(24-25節)

木が切り倒されるということは、ネブカデネザル王に起きる神様の裁きだというんですね。じゃあそれは何に対する裁きなのか、それは明白です。25節の最後のところ、このことによって「あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国を御心にかなうものにお与えになることを知るようになる。」つまり王の傲慢、プライド、自分の力、栄光ばかりを誇っている心に対しての裁きだというわけです。では具体的にどういうことがおこるのか?人間の中から追い出されて、獣のような生活をするとありました。はて?これは何かの例えなのかと思いきや、文字通りのことが起こります。33節

彼は(王様は)人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり爪は鳥の爪のようになった

ダニエル書4:33

実際にボアンソロピー(Boanthropy)と呼ばれる精神疾患が現代でも報告されているそうです。どういう病かというと、もう自分は人間じゃなくて動物なのだと思い込んでしまうという精神病です。ネブカデネザルもそれに侵されたのではないか、そして実際に野で生活するようになり、髪の毛も爪も伸びっぱなしで見た目まで動物に変わっていった。そんな状態になってしまえば、偉大な国の王でもなんでもありません。当然国を治めるどころの話ではない。いやそれどころか人間以下です。パンパンに膨れ上がった王様のエゴか砕かれる、そんな裁きでありました。一つ救いがあったのは、傲慢になったネブカデネザルを神様が完全にほろぼされるということではなかったということですね。26節

ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。

ダニエル4:26

つまり悔い改めて謙虚になって、主こそが、神様こそが、真の支配者であるということを認めれば再び国は固く立ちます。っとそういう救いのある内容でした。だからこそダニエルは裁きが下らないように誠心誠意王様に進言します。27節

それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。

ダニエル4:27

結果どうなったのか。残念ながら結局ネブカデネザルは悔い改めることなく、裁きが下ります。先ほど33節でみた通り、王は獣のようになり、人間以下の生活をするようになります。

っとまあ大筋のあらすじをおってきましたが、ここまで見てきますと冒頭でも申し上げたように2章と非常に似ているのがお分かりいただけると思います。そして似ているのは、話の流れだけではなくして夢を通して語られているテーマも非常に近しいものがあります。それは、主を支配者として王として認めるのか、それとも自分が王なのか。そういうテーマです。覚えてらっしゃいますでしょうか、自分の人生の王座に座っているのは自分なのか、神様なのかということを2章のメッセージでやりました。


 でですね、まあこれは説教者としての都合なので、皆さんには関係ないんですけど。ぶっちゃけ、私はえ?また同じようなメッセージになってちゃうじゃん。っとこう思ったわけです。けれどまあ考えているうちに思いました。いやそれこそが重要なポイントなのではないか。つまり新しい内容では別段ない、中心的なメッセージはかわらない、繰り返しと言ってもいいかもしれない。まさに繰りかえしです。けれど問題はなぜ繰り返されているのかということ。

 ネブカデネザル王が夢を見て、その意味を知りたいというところから、4章は話がスタートしました。つまりネブカデネザルが求めていたのは、知識、「もっと知りたい」ということだったんですよね。で最終的にダニエルが夢の意味を解き明かしをしその夢の意味を「知る」ことができた。しかしながら解き明かしが本当に必要だったのかというと、どうなんだろうかと思わざるを得ません。先ほどお読みしませんでしたが、夢の内容を説明しているシーンに戻っていただいて16節の次17節

それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。(17節)

これ王様本人がダニエルに夢の内容を語っているシーンです。いやもうほとんど、夢の中で夢の意味が明かされてるではないか?っとつっこみたくなります。へりくだって神様を、主を認める。はたから見れば語られていることは明らかだろと思います。しかしながらネブカデネザルにはそれが見えていない。なぜか?でそれは、ネブカデネザルに必要なものは、知識ではなかった、新しい情報ではなかったからです。

ちょっと振り返ってみたいと思います。いいですか2章ではダニエルの夢の解き明かしによって、王様はこんなことができる神はダニエルの神以外いないとほめたたえ(2:47)3章では、先週やりましたね、シャデラク、メシャク、アベデネゴが炎の炉から救い出されたのを見て「このように救い出すことのできる神は、ほかにいない」(3:28)と本人が言ったわけですよ。さすがにネブカデネザル王は心を入れ替えるのではないか。っとこうダニエル書を読んでいる私たちは期待するわけですよね。けれど相も変わらず、主の前に遜ることはなく、自分こそが偉大な王であるという傲慢な態度を持ち続けるネブカデネザルがいます。そして今回4章では三度目の正直だっと言わんばかりに、神様の前に遜りなさい、というメッセージがもう直接にダニエルの口を通して語られます。(27節)悔い改めてください王様と。でどうなったのか29-30節

十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」

ダニエル4:29-30

まず注目すべきは、出だし「12カ月の後」、つまり裁きが下るまでそれだけの猶予が与えられたということです。正確に言うと12カ月どころではないですよね、2章から始まって長いこと、主はネブカデネザルの傲慢を裁かず、あわれみ深く忍耐深く待ってくださった。ダニエルを通して悔い改めるようにと忠告もした、にもかかわらず、彼の口から出てくる言葉は、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。私、私、私、どこまでいっても私の人生。これこそが傲慢という、プライドという、霊的な病です。

ネブカデネザルに知識は十分にありました、主の御業も見た、もう充分「知って」いました。にもかかわらず彼の心の姿勢は変わることはなかった。つまり信仰というのは知識だけでは不十分だということです。先ほどこの世の知恵に頼るのではなく祈りが、御言葉が大事だっという話はしました。まあだからこそ、このように毎週礼拝では聖書からメッセージをし、聖書を読みましょうねと皆さんにお勧めしています。しかしながらその目的が何か新しい情報を得る、つまる「知る」というところだけにとどまってしまうなら意味がない。御言葉を通して、心の姿勢が変えられ、生き方が変えられていかなければ意味がないんですね。

 残念ながらネブカデネザル王の場合、神様のことを「知る」ということだけでは心を入れ変えるまでには至りませんでした。それほどにこの傲慢というもの、プライドという霊的な病は根深い、そして何より本人が気づきにくいものなんですね。さてだとすると私たちはどうでしょうか。私たちも知らず知らずの間に、この傲慢という病が心に根を張ってしまうということはないでしょうか。それに対して「いやいや私はそんな、ネブカデネザルみたいに大成功を収めているわけではないし、所詮庶民だし、俺はすごいんだっと言って誇って傲慢になることはないですよ。」っそう思われる方も多いかもしれません。特に日本人はおそらくそうですよね。控えめ、謙虚っていうんでしょうか。けれども傲慢というものは成功者だけが抱える問題ではないのではないかと思うんですね。

そもそも傲慢、プライドのエッセンスはなんでしょうか?それはネブカデネザルの言葉に良く現れていました。私の権力、私の威光、私が建てた、私、私、私、どこまでいっても私の人生。でこれは人生がうまくいっているとき、つまり成功しているときの症状は割とわかりやすいです。まさにネブカデネザル王のように、私の功績を見てくれ、私がこれだけ良いものに囲まれているのは、私が頑張ったからだ。まあそれを口に出すかどうかは別として、そのように心の中で思っている状態という感じでしょうか。

では物事がうまくいっていない時、プライドはどのような形で表面にあらわれてくるのか?でそれは、愚痴とか、妬みとか、時には鬱、落ち込みっといった形で表面化します。「なんで自分の人生はこうなんだろう」「なんで私だけこうなるんだろうフェアじゃない」「どうせ自分の人生はもうだめだ」っというそういう思い。いやいやこれらのマイナスな思いのどこが傲慢なのかと、思われるかもしれません。しかしながらこれらの思いを掘り下げていくと、そのおおもとに実は、「自分はもっと良いものを受ける資格がある」っという思いがあることに気づきます。なぜなら本当に心底自分が嫌いで自分の人生などどうでもよいと思っているなら、人は落ち込まないからです。現実と理想、つまり本来こうあるべきだと思っているものの間にあるギャップに人は苦しむんですよね。

 さてではこの根深い霊的な病、傲慢、プライドはどのようにしたらとりのぞくことができるのか。どのようにすれば、表面的にだけではなく、本当に心からへりくだり謙虚になることができるのか。 

ネブカデネザル王に必要だったのは、聖書の学びではなく端的に言って試練でありました。遜ることのなかった王様は結局裁かれて、獣のような姿になり、人間以下の生活をすることになりました。そして7つの時が過ぎたと32節に書いてあります。これが具体的に7カ月だったのか7年だったのか、それはわかっていません。まあ重要なのは実際の長さよりも、その数字が持つ意味です。ユダヤ人にとって7というのは完全数、つまり完成するという意味合いがあります。じゃあ何が完成するのか、それはネブカデネザルの悔い改めです。言い換えると「7つの時」とはネブカデネザルが悔い改めるのに必要な年月という意味ではないかと言われています。ここも重要なポイントですね、悔い改めるには時間がかかるということ。何かレッスンを学んですっと心が変わるならば、そもそも試練はいらなかったでしょう。人の心が変わるには時間がかかります。

 そうしてその期間が終わった時34節

その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。

ダニエル4:34

ネブカデネザルはついに天を見上げます。あの傲慢に満ちて全てを見下している状態から、見上げる。自分の目線が、私、私、私と自分にばかり向いていたのがついに神様を見上げるようになる。これが遜るということなんですね。

皆さんもどうでしょうか、霊的に成長したのはいつですかと聞かれたらどのようなお答えになるでしょうか。教会でバイブルスタディをしていて、あるいは説教を聞いていてっという話にはあまりならないのではないでしょうか。やはり帰ってくる答えは、病気をしたときにとか、人間関係で問題を抱えていた時にとか、仕事で悩んでいた時にとか、将来や進路で悩んでいた時にとか。そのような話を聞くことが多い。でそれはやはり試練というものを通して、ある程度の時間をかけて、自分のプライド、傲慢というものが砕かれてはじめて私たちは遜り、霊的に成長するということが多いからだと思うんですね

 かくいうわたしもこのネブカデネザルの物語は読むときに他人事とは思えない。いや俺はすごいだろっというそっちの傲慢はおそらくほとんどないと思います。どちらかというと自分には自信がないタイプです。しかしながら、自分の人生に納得がいかず、落ち込むっというそっち方面の傲慢さというものは長いこと抱えていました。一応過去形にさせてください、まだ完全に治ったわけではありませんが、少しはましになったのではないかと思います。もう何度もメッセージでシェアさせていただいていますが、私は5年前NZに移ってくる前、日本で生活をしていました。そのころの私はずーっとこの傲慢という病に憑りつかれていたんだなっということを今振り返って思います。当時私には理想というものがありました、日本の社会で立派にクリスチャンとして生活する、ある程度社会的にも成功したい、経済的にも安定したい、結婚をして家族をもってっと。いやもちろんそれらすべてが叶うなんてことは思っていませんでした。けれど思い描いたものが何一つ実現しないまま35歳をむかえた私は、静かに自分の人生に絶望していました。「どうせ自分の人生はだめだ」っというそういう思いに憑りつかれていたんですね。そしてその根っこの部分には「もちろん完璧ではない、けれどそれなりに努力してきたじゃないか、自分はもっと良いものを受ける資格があるんじゃないか」っという思いがあったのだと思います。そんな鬱っぽい状態の私を心配して、父がこのような事を言っていのを覚えています。「感謝できることを書き出してみたらいいんじゃないか」っと。非常に知恵ある言葉ですね。傲慢に対する良い薬は確かに感謝だと思います。しかしできませんでした。「感謝だって?どこに感謝することがあるんだ?」っと当時思っていました。これを傲慢と言わずして何というのでしょうか。っとまあ獣のような生活を強いられたわけではありませんが、そのような心の状態で何年も過ごした。次第に私のプライドは砕かれ、主に委ねてNZに来たのが5年前っとそういう感じです。ではNZに来て心の姿勢がすぐ良くなったかと言うと、それでもなかなかこのマイナス思考というのは抜けませんでした。けれども時間をかけて主は、妻を与えて下さり、息子を与えて下さり、この至らないものに牧師という役目を与えて下さり。最近やっと、ふと心から自然に感謝だなあと思うことがあります。

 逆に思います。日本で自分の理想とする人生がかけらでも手に入っていたとしたら、いまでも自分は傲慢という病を患ったままであったろうなと。長い試練の時があり、はじめて、ああ自分の頑張りで人生をどうにかするのではなく、すべては主が与えてくださるものなのだ、受ける資格があるとか、どうとか、そういうことではないのだなと、まあ少しは思えるようになったんだと思うんですね。

遜るということは、すべては主からの贈り物なのだということを信じることなんだと思います。自分の人生がうまくいっているのであれば、自分の頑張りではなく、主が与えてくださった祝福に感謝し、試練に会うのであれば主が何か自分に語り掛けておられるっという見方で受け取る。なかなか難しいですね。特に試練の真っただ中にいるときそれは非常に難しい。けれどそのくらいトンネルを抜けるときに、その先には喜びと賛美が待っている。悔い改めた後のネブカデネザルにそれを見るうことができます。

 ネブカデネザル王は天を見上げ、理性が戻ると、ダニエルが言った通り王国もその手に戻り、何なら以前より栄えたと36節にあります。全ては元通り、けれどネブカデネザルは自分の王国が自分の力で建て挙げたものではなく、主より賜った、与えられたものだということを試練を通して、頭ではなく心で深く学んだんですね。で実は4章冒頭戻っていただいて1-4節を読むと、この顛末を語っているのはネブカデネザル本人だということがわかります。自分が経験したことを思い出しながら王様本人が証を語っているという具合です。注目するべきは2節、

㉑いと高き神が私に行われたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。

ダニエル4:2

真にへりくだる心を学んだネブカデネザルはもはや自分の栄光ではなく、主の栄光を伝えるものへと変えられました。でなにより「私の喜びとする」というところ。遜るものの心は、賛美と感謝と喜びで満たされます。そしてそれはこの世のどんな富、権力、名声にも代えがたい。

皆さんどうでしょうか、ご自身の心をご覧になって、賛美と感謝と喜びがあるのか、それとも、傲慢、自分の力でどうにかしなくては、あるいは自分の人生はダメだという苦々しい思いがあるのか。もし傲慢という病が芽を出しつつあるなら、やはり十字架を思い出していただきたいなあと思います。ネブカデネザルとは対照的に、すべてを捨てて自ら遜り、この地上に来てくださったイエス様。そしてそのイエス様の十字架のゆえに、私たちは受けるに値しない救いを与えられました。そして救いだけではなく人生の全ては恵、与えられたものなのだということを十字架に見出だしていただきたい。さてとはいえ、試練の真っただ中でそのようなこと思うのは難しい。さきほどもいったように心が変わるには時間がかかります。けれど焦る必要はない。なぜなら主は忍耐強くネブカデネザルに寄り添ってくださったように私たちにも忍耐強く寄り添ってくださるに違いないからです。


2024.05.12

人の王国、神の王国(ダニエル2)

 

2章に入っていく前に少し、ダニエル書の舞台となる時代背景についておさらいをしておきましょう。時は紀元前600年ごろになります。当時イスラエル、ユダ王国はどうのような状態にあったかと言いますと。まあ端的にいって外国に侵略されてしまいます。長い間にわたって預言者を通じ、神様はユダ王国に罪を悔い改めるようにと警告したにもかかわらず、イスラエルは罪を偶像礼拝を辞めることはありませんでした。そうしていよいよ主の裁きがくだり、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。結果民衆は捕囚としてバビロンに連れて行かれます。これがいわゆるバビロン捕囚というやつでして。まあ無理やり移住させられるというやつですね、バビロンの政策としては故郷から民を切り離し、バビロニアまで連れてきて、そこの生活に慣れ親しませて、気づけばいつのまにか祖国のことを忘れている。そういう取り込み方っというんでしょうか、そのようにして反乱が起きないように手なづけるといいますか、そのような政策をとっていました。


 そのバビロン捕囚、強制移住を経験したのがダニエルと彼の友人3人、シャデラク、メシャク、アベデネゴですね。彼が異国の地、異郷の地、で自分たちの信仰と信念を全く理解しない社会の中でどのように生きていったのか。それが描かれているのがダニエル書の前半になります。先週は王の側近になるべく様々なトレーニングを受ける彼らの前に、並べられた王のごちそうを自分の信仰と確信のゆえに、食べないという決断をし、それでも主は彼らを守られたということを学びました。でそれはですね、ダニエルはただ、この異教の世界、異国の地のすべてに足して何も考えずに「NO」と言ったということではなく、積極的に置かれた環境で異国の文化、学問を学びつつも(まあだからこそトップの成績で卒業したわけです)、これは信仰的に譲れないというものには、謙遜にしかしはっきりと「No」ということができたということを学びました。流されるでもなく、ただ自分の殻に閉じこもるでもなく、しっかりとおかれた場所で根を張り、積極的にかかわりながらも、妥協しない生き方。まあこれがダニエル書前半のメインテーマとなっています。


 ですからダニエル書を読むときに私が思い出すのは、かつて15年ほど前NZ留学をおえて日本に帰国した時の自分です。私はNZでクリスチャンになり、聖書の学校に通って日本に帰国し就職しました。日本人なので、日本が母国であるにもかかわらず、NZに長くいすぎたせいでもはや日本の社会は私にとって異国でした。逆カルチャーショックというやつですね。加えて、日本のクリスチャン人口は1%以下。信仰面でのチャレンジもたくさんありました。私はとにかくこの新しい環境に慣れなければ、それに必死でした。そうしていく中で気づけば、聖書を読むこともなくなり、祈ることも減り、なんだかんだで仕事はとかお金はとか、そういう価値観に流されている自分がいました。私の場合は、世の価値観に流されるという結果になりましたが、一方で逆のパターンの話もまわりで聞きました。つまり自分はクリスチャンだからと言ってほとんど教会以外の人とは関わらないとか、教会のことはまじめにやるけれど仕事は適当だとか、地域の活動には全く関わらないとか。まあこれは世界から自分を切り離してしまうという逆パターンですね。ダニエルは、流されず、切り離さず、逆に信仰に固くたち、周りに影響を与えるそんな人生を歩んでいきます。

 

 でもちろん今私たちが生活をしているのはNZなので日本よりはクリスチャンとして生活しやすいと思います。信仰に対する理解、あるいは周りのクリスチャンの数、そういった意味でバビロン感はそこまでない。けれどまあ私以外は、皆さん基本的には教会の外で仕事や生活をしておられるわけで、なんだかんだNZもクリスチャンの国ではないわけですよね。この世で信仰を持ちながら生活していくにあたってこのダニエル書が語り掛けるメッセージは大いに学べるポイントというのがあると思います。前置きだけで5分以上しゃべってしまいました。

今日の箇所は2章ということで49節までありますので非常に長い箇所になります。当然全部を朗読しているとかなり時間がかかってしまうので、全体を要約しながら、必要なところだけ読んでいくという形にしたいと思います。できれば皆さんお時間のある時全部読んでいいただきたいと思います。


ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。

ダニエル書2:1


バビロンの王ネブカデネザルが夢を見て眠れないというところから話がスタートしていきます。皆さんどうでしょう、寝つきは良いほうでしょうか?私悪いですね。まあとにかくすっと眠れることのほうが少ない。どこでもかしこでもふっと寝れちゃう人うらやましいなあと思います。まあそういうもともとの性質で寝付きにくいということもありますし、単純に日本の夏とかめちゃくちゃ暑くて眠れいないとか。眠れない理由はいろいろあります。しかしながら人が眠れない理由の上位にランクインしてくるのは心配事や不安ではないでしょうか。でどうやらネブカデネザルが眠れなかったのもそれが理由だったようです。夢を見てそれが気になって眠れないと。


 さてどんな夢だったのか?その内容がわかっていたほうが話が入ってきやすいと思いますので、ちょっと飛びまして31節から35節までを読んでしまいたいと思います。この後いろいろありましてダニエルが王様に夢の内容を話しているシーンですね。


王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。 その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。


ダニエル2:31-35


当時夢というものは非常に重要な神様からのメッセージあるいは預言、予知そういった意味合いがあるものとされていました。で1節見ていただくと、いくつかの夢と書かれている、つまり複数形。おそらく何度も同じ夢を見たんでしょう。それは気になりますよねえ。


ですから2-3節その夢の意味を知りたいということでネブカデネザル王は、呪法師、呪文師、呪術者、つまり知者と呼ばれる国のトップのインテリを集めます。すると集められた相談役たちは言うわけですね。「もちろんです王様、でその夢というのはどういうものだったのでしょうか」それに対して王様はいや夢の解釈だけならば適当なことを言ってごまかしてお前たちは時間稼ぎをするにちがいない、夢の内容まで言い当ててこそ、その解き明かしを信用することができる。もしそれができれば、多大なる褒美を遣わすし、できなければ手足を切りおとして、お前たちの家を滅ぼしてしまうぞ」っと。怖いですねーいやですねーこんな上司がいたら会社即辞めますね。まあでも王様ですから、それくらいのことできてしまうわけです。さすがの部下たちも食い下がります、11節


王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。

ダニエル2:11

人間には無理ですってという言い分ですね。もう必死です、命がかかっていますから。けれど王は赦してはくれません。無理ならもう連帯責任だと言わんばかり、ネブカデネザルは12節怒り、バビロンの知者すべてを滅ぼせという命令を出します。 全ての知者ということは、先週見ました一生章で王に仕えることになったダニエルも当然そこに含まれてくるわけで、ピンチが訪れます。さあここからどうなっていくのか。


王はなぜこれほどまでにめちゃくちゃな命令をだしたのでしょうか。当時の文化背景的に夢は非常に重要な意味をもっていた、だから夢の意味が気になるのはわかります。しかしながら、それがわからないからと言って怒り狂うほどのことか、それも国中の知識層を滅ぼしてしまうほどに。何がそんなに彼を悩ませたのか。

ここでですね皆さん想像していただきたいんですが、ネブカデネザルの気持ちになって考えてみたいと思います。彼には野望がありました、この世で最も偉大な王になるという野望です。っとそんなことは聖書には書いていません。しかしながら歴史を見ればですね、バビロニア帝国はネブカデネザルの時代に最も栄えたということがわかっています。権力・富ともに当時ナンバー1だった。しかしながらダニエル2章の段階では1節にありました、彼の治世の第2年ですから。まだこれからですね。これから自分は巨大な王国を建てあげていくのだという野望、強い願いを持っていたに違いありません。そんな中、あの巨大な像が壊されるという夢を見るわけですよね。ですから何と言いましょうか、ネブカデネザル、夢を解き明かしたいと言いながら、なんとなく夢の意味わかっていたんじゃないのかなと思います。きっとこの壊される像は自分なのではないか、あるいは自分が築き上げてきた、そしてこれから築き上げていこうとしている自分の王国のことをさしているのではないか。そのような一抹の不安が、どんどん膨らんでいった。だからこそ不安になって、心配になって眠れず、自分のもっているあらゆる権力をもってしても何もできないことにいら立ち、怒り狂ったのではないでしょうか。加えていうなら、この後3章では、実際文字通り黄金でできた像をネブカデネザルは自分のために作るんですよね。ですからこの夢に出てきた像と自分を重ねていてもおかしくないかなと思います。


でその姿を見て私たちは思うわけですよ。ああやっぱり権力って人を狂わすのね、クレイジーな王様と。けれどこのネブカデネザルの姿は、程度は違えど私たちの姿なのではないかなと思います。もちろん皆さんには、世界で一番の王になりたいという野望を持っている人はいないでしょう、王国を建て挙げていくという使命を持っている人もゼロだと思います。しかしながら、自分の人生を王国と置き換えてみれば、少しはネブカデネザルの気持ちがわかるのではないでしょうか。理想像と言ってもいいかもしれませんね。この仕事に就きたい、家を買いたい、結婚したい、家族がほしい、お金持ちになりたい、いい環境の職場がほしい、ビジネスをしたい、はやめにお金をためてリタイアしたい、夢をかなえたい、美人でありたい、経済的な安定とそれぞれ人生においてこうありたい、これは欲しい、というものはそれぞれかなあと思います。そしてその思いが強ければ強いほど、もしかしたらそれがかなわないのではないかと思わせる何かが起こった時に不安になったり、心配になったり、時には眠れなくなるということがあるのではないでしょうか。


あるいは、ある程度年齢を重ねるとこれからの人生に関しての夢というよりは、今まで気づき上げてきたものの心配ということもあったりするかもしれません。ネブカデネザルもこの夢を見た時点である程度の成功をおさめ、富も力もありました。けれどもそれがもろくも一つの石によって崩されるという夢を見る。そりゃあ不安になるでしょう。私たちも自分が気づき上げてきた人生、キャリア、貯蓄、家庭、人間関係、それらが失われるかもしれない、そういうことが起きるときに不安になり、心配になり、眠れなくなり、何ならネブカデネザルのように、常にイライラしてしまうということがあるのかなと思うんですね。


さてここでついにダニエルの出番です。ダニエルは、王様に少しの猶予を下さいというと、帰って祈り。主が夢の内容と解き明かしをビジョンの中でダニエルに示してくださいます。ダニエルは感謝と賛美をささげて後、ネブカデネザルの前に出ていき夢の内容と解き明かしを説明します。36-45節あたりのところですね。夢の意味とはどんなものだったのでしょうか。ここもかなり長いセクションなので要約しながらいきたいと思います。


38節後半から40節をまず読みたいと思います。

あなたはあの金の頭です。あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。

ダニエル書2:38-40


まずダニエルはネブカデネザルにあなたは夢に出てきた像の金の頭です。と伝えます。つまり金の頭はバビロンだと、そしてその後で3つの国がおこる、銀、青銅、鉄っといふうに移り変わっていくというんですね。そして41節からはこの第4番目足の部分にあたる鉄の国の詳細が説明されます。全部読むと長いので割愛させてください。


そして注目すべきは44節-45節


 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅しています。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。

ダニエル書2:44-45


最終的に夢に出てくる像を壊す原因となる石は、神様によって建てられる国だと。つまり人間の国々を滅ぼす神の国が、人間の手によらず神様によって建てらえる。そしてその神の国は永遠に立ち続ける。これがダニエルによる夢の解釈でした。


はい、で良く説教ではじゃあこの4つの国は実際どの国なのかっということをまあ世界史と照らし合わせながら見ていくということをしますよね。ネブカデネザルの国、つまりバビロンが金の国ということは、その次に覇権をとるメディア・ペルシャが銀の国、でその次に出てくるアレクサンダー大王率いるギリシャが青銅の国、そして四番目の鉄の国はローマ、鉄の国と言うだけあって一番強いのだけれど、結局分裂してしまう。一部が鉄で一部に土が混じっているということもそのこととマッチします。とここまで見て、さすが神様、未来まですべてを見通して居らえる方。とまあそういう具合に説明されることが多いと思います。そして実際に、第4の国ローマ帝国の時に、イエス様が表れてこうおっしゃる。時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)だからイエス様が人の手によらない神の国をもたらす石だと、まあね、処女マリアから生まれるわけで、そういった意味でも人間の手によらずにこの世に来てくださる石ですよね。


もちろん、この解釈は間違いではない。正しいと思います。ここまできれいにマッチすると気持ちいいなあと思いますし。やっぱり聖書はすごい、正確に書かれているんだと胸を張ることができるかなと思います。そういった意味で意味はある。


しかしながら、じゃあこの夢をみたネブカデネザルはそんな先のことまで知る必要があったのかと言うとどうなんでしょうか。注目すべきは29-30節ダニエルが夢の内容と解き明かしを始めるシーンです。


王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。この秘密が私にあらわされたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。

ダニエル2:29-30


29節後に起こるをあなたにお示しになったのです。まあですから未来の預言であることは間違いない。しかしながら30節この秘密が私に表されたのは、、、、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためですつまりこの夢を通して神様はネブカデネザルに何かを語っておられる。単なる未来予知だけということではない。じゃあネブカデネザルの心にあったものはなにか?それは偉大な国を建てあげるのだ、自分が最強の王になるのだという野望とそれに伴う不安だったのではないかという話でした。


さてこの夢が単なる未来予知だけではないとしたらこの夢が持つ意味とは何か?また私たちはこの夢の意味をどのように受け取ったらいいのでしょうか?


夢の意味まず一つ目のポイントそれは「人の作り上げる王国は、もろい」です。頭は純金で始まり、銀、青銅、鉄、土とどんどん価値が下がっていくのがわかると思います。まあ鉄は強さで言ったら強いんですけれども、価値としてはさがります。しかも一番した足の部分は粘土と。土は価値もなければ、素材としても一番弱い。ですから頭が純金でできていようが、つまりパッ見すごく力があるようなものでも、足元はぐらぐらで不安定。人の作る王国とは不安定なもの。そしていつの世も権力というのは、移ろいで行きますよね、一つの国が台頭したら、次の時代には全く違う国、そういう不安定さを持っています。日本も今ね円安でどうのこうの言っていますけれども、アジアナンバー1だった時代もあるわけで、いつの間にか中国に追い越されて。まあ移ろいで行く。脆いものですよね。で何より重要なのは、そんな弱く脆い、人間の国が力を一時でも持つとしたら、2つ目のポイんとそれは、「神様がその力を権力者に与えられるからに他ならない。」ここがポイントですね。ダニエルも37-38節で言っています。


王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、 また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。

ダニエル2:37-38

ネブカデネザルはそんなことをかけらも知りませんでした。ネブカデネザルは自分の力で王国を築いてきたのだと思っていた。逆に言えばだからこそ不安だったと言えるのではないでしょうか。


少し前に王国と自分の人生というものを置き換えてお話をしましたけれども。人生も同じです。今皆さんの人生が少しでもうまくいっているのであれば、もちろん皆さんの努力もありますが、究極的にはそれは神様が与えてくださった祝福であり、恵みでしかないということを忘れてはならない。でこのことを知らない、あるいは忘れてしまうととどうなるか。ネブカデネザルが自分の国の王であって、自分の力でこの王国を建てあげてきたと思っていたように、私たちもまた自分の人生の王は自分だと思ってしまう。ある意味今の時代は、みんながみんな王様の時代なのではないかなと思います。生まれたときから身分が決まっている時代ではない。だから人に迷惑をかけない限り誰にも何も言わせない。自分の好きなように生きる、自分の人生は自分の選択によって決まっていく。まあそう信じているからこそ、必死に幸せをつかもうと皆頑張るわけですよね。全部自分次第。自己責任と。


自分が王様の人生は、もろいです。だってどんなに頑張ったって人生うまくいかないことは出てくる。そんな時私たちは自分の大事にしていたものを失いそうになって、不安になり眠れなくなります。一方そんな脆い人間の国を軽々打ち砕くのが神の国であり、その神の国は永遠に固くたつと言っていました。これが三つ目のポイントですね。人の国と神の国のコントラストですね。いうなれば自分のための人生なのか、神様のための人生なのか。自分のための人生は不安定です。けれど神の国、神様のための人生は安定感が違う。

でそれは何も問題が起こらない人生という、そういう安定感ではない。問題はおこるんです、クリスチャンだって人生いろいろある。で時に眠れない夜、不安な夜があるかもしれない。しかしながら自分の人生の王は自分ではなく、神様だということを知っているからこそ、全部自己責任っという暗闇に完全にほっぽり出されることはない。神様が自分の人生の王様として責任を持ってくださる。それが神様のための人生。神の国



人の国か、神の国か。自分のための人生か、神様のための人生か、この対比はネブカデネザルの人生とダニエルの人生にもよーくあらわされているのではないでしょうか。


ネブカデネザルは自分の王国を自分のために、大いなる権力と力をもって建て挙げようとしていました。がゆえに不安と恐れにとらわれてしまう。そしてその恐れからすべての知者を滅ぼせという命令を出します。それによって命の危機にあうダニエル、けれど彼には恐れはありませんでした。ちょっと飛ばしましたけれどもその命令が出されたときどうしたか。逃げ出したのか?そうではない16節


ダニエルは王のところに行き、王にその解き明かしをするため、しばらくの時を与えてくれるように願った。

ダニエル2:16

いや今めちゃめちゃ機嫌がわるいんですよ、皆殺しにしろっといた王に直談判し、時間を下さいというダニエル。8節では時間稼ぎをするということに関してめちゃくちゃ怒っている王に対して堂々とそのことを願い出るダニエル。その勇気はどこからくるのか?


でそれは、ダニエルが本当の王はネブカデネザルではないということを知っていたからですよね。神様がすべてを治める方だと知っていた。だからこそネブカデネザルを恐れる必要もなければ、命の危機にあっても不安に押しつぶされるわけでもなく、冷静に対処することができた。本当にダニエルの運命を握っているのはネブカデネザルでもなければ、自分でさえない、それは神様だということをダニエルは信じていました。そこから来る勇気ですね。


そしてもう一つ対照的なのは、ネブカデネザルは国中のトップを集めて、それでも夢のことがわからない。つまり自分の圧倒的な力つくしても解決できない問題に対して絶望し彼は不安になります。一方ダニエルはどうか、いやそりゃあダニエルにだって、夢を言い当てるなんてことはできない。ダニエルももちろん自分の力では無理だということを知っていました。けれどそこで絶望、ではないんですね。なぜなら、ダニエルの人生の王は、主なる神様だからです。だから彼は18節、祈ります。ダニエルと3人の友人は心を合わせて祈る、結果人には不可能なことが主に拠って明らかにされ解決がもたらされる。自分の力が及ばないことに絶望ではなく、神様の力に頼ることができる。そこに神様のための人生の強さがあります。


まあこうやって比べますと、やっぱりダニエルのほうがかっこいいなあと思います。さて最後ではどのようにすればネブカデネザルではなくダニエルのようになれるのか。


夢の解釈において金、銀、青銅、鉄、それらが具体的にどのくになのかという区別はそこまで重要ではないというお話をしました。しかしながら最後夢に出てくる像の足元を打ち砕く石がイエス様である、っということは非常に重要です。いろいろな点で予言とマッチするという話はしました。ルカの福音書20章でご本人が神の国を建てあげる基盤の石は自分だということを話されています。


イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

ルカ20:17-18

 イエス様を土台とする人生そこに鍵がある。ということですね。


神のための人生、とは神様を自分の人生の王とするということだと話をしました。クリスチャンはイエス様を主と呼ぶのだからそんなことは頭では知識的にはわかっていますよね。にもかかわらず、気づけば私は自分のための人生を歩んでしまい、心配ばかりしてしまうと言ことがやっぱりある。でそれは、自分の人生にとって何がベストな事なのかを知っているのは自分だと無意識にでもどこかで思ってしまうからです。いまいち神様を信頼しきれない自分がいる。そんなときに私たちにはやっぱりイエス様の十字架が必要なんだと思います。イエス様の十字架を思い出すときに、命をさえ惜しまれずに私のためにささげてくださった方が、私を愛し、最善を願っていてくださるならば、この人生のかじ取りを主にゆだねてもいいのではないかと思えるのではないでしょうか。

 

 っと偉そうなことを言ってきましたが、私は以前にもシェアした通り心配性で、寝つきのいいほうではありません。で数日前ですね、そのような話をやすさんとしていました。まあ次のメッセージこんな話をするんですということを軽く話していて、「やすさんは、寝つきがいいほうですか?」と聞いてみました。すると「そうですね、気づいたら寝てます」とおしゃって。イヤーうらやましいなと思いながら「いいですねえ、昔からそうですか?」と聞くと、「いや昔は寝つきがわるくて、信仰をもってからだいぶ変わった気がします。洗礼受けて1年くらいですけど、以前はいろいろな悩んで寝付けないこともありました。でも神様をしって、いやそりゃあ今でも心配なることはあるんですけど、まあ祈ってこう思うようになったんですよ。「自分ではなにもできない。神様に任せればいいじゃん」って。それから寝つき良くなった気がします。」


 イエス様を土台とする人生がこれです。「自分では何もできない。神様にまかせればいいじゃん」という人生。皆さんの人生どうでしょうか。よく眠れていますでしょうか。いや不眠イコール不信仰ではないですよ、色々なメディカルコンディションやもともとの体の性質もありますから。けれどももし不安で眠れない夜を過ごしているなら、皆さん自分に問いかけてほしいと思います。自分のための人生なのか、それとも神様のための人生なのか。自分が自分の人生の王なのか、それとも神様が王なのか。そしてすぐには「神様のための人生だ」と思えなかとしても、祈ったうえで「自分では何もできない。神様にまかせればいいじゃん」ということができるなら、ダニエルのような人生を歩んでいけるのではないかなと思うんですね。そして何よりその土台となるイエス様のことをまだ知らない、信じていないという方がいらっしゃったら、イエス様に是非出会っていただきたいと思います。


2024.04.14

求めることは信頼すること(マタイ7:7-11)

マタイ7: 7-8を読みたいと思います。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

マタイ7:7-8

「求めよさらば与えられん」という言葉、教会や聖書に馴染みない人でも、もしかしたら耳にしたことがあるのではないでしょうか。さまざまなドラマや映画で引用されています。実はこの聖書箇所が引用元になっていますが、一般的にどういう意味として捉えられている言葉なのでしょうか。インターネットでこのような定義づけがされていました。

「求めよさらば与えられん」とは、「与えられるのを待つのではなく、積極的に自分から求め、努力する姿勢が大切である」という意味を持つことわざです。

いやまずことわざではないんですけどねーっと思うわけなんですが、なるほど確かに7節だけを取り出してパッと読むと、こう読めなくはないのかとも思いました。「とにかく夢をもって頑張りましょう」「自分の心にある願いを恐れず求めて行動を起こしていきましょう」「あきらめずに努力すれば、求め続ければ夢は実現します!」的な自己啓発本とかに書いていそうな感じでしょうか。もちろんそういうニュワンスが全くないというわけではないと思います。クリスチャンの間でも言いますよね、ただただ祈って何もしないのは信仰ではないと。求めるのであれば、祈るだけではなく自分のできることをしていくべきとか、問題がたちはだかりドアが閉じているように見えても、あきらめずにドアをたたき続けなさいとか。なんならそれが信仰だ、くらいのことを言いますよ。そういう意味で私たちは祈ることそして信仰を持って行動する。この両面の大切さをもちろん知っています。


しかしながらしっかりと文脈を捕らえて読んでいく時に、この箇所は単純にあきらめず積極的に求めて行動していくことの大切さをメインに語っているのではないということは明白だと思います。なぜなら9節以降、後々詳しく見ていきたいと思いますが、父親が子供に良いものを与える、もっと言うと天の父なる神様が私たちに良いものをくださるということが語られていきます。つまり神様と私たちの関係というものがメインのテーマとしてあります。実は平行記事であるルカの福音書11章には、ここと同じことばが登場します。「求めなさい。そうすれば与えられます。」(ルカ11:9)時間がないので詳しく読みませんが前後関係で言うと、その直前ルカの福音書11章の一番最初にはイエス様が弟子たちに祈り方をお教えになるシーンが登場します。いわゆる主の祈りの場所です。それがあっての「求めなさい」っというながれにルカの福音書ではなっています。つまり、この求めなさいっというのは、強く願って行動をおこせというよりは、遠慮なく大胆に神様に祈り求めなさい。っという意味合いが強いんですね。


さてその前置きをしたうえで、皆さん「求めなさい。そうすれば与えられます。」と聞いてどのようなことを思われるでしょうか。本当にそうだな思われるでしょうか、いやそう単純ではないと思われるでしょうか。もちろん素晴らしい約束だなと思いますし、励まされる御言葉です。しかしながら信仰生活が長くなればなるほど、祈ったけれども、求めたけれども、与えられなかった。探したけれども、見つからなかった。叩いたけれども、結局は、開かなかった。っという経験が1度や2度ではななくなっていくというのが現実ではないでしょうか。では私たちが経験するその「現実」とこのイエス様の仰った言葉と、どのように折り合いをつけて理解していけばいいのか考えていきたいと思います。


先ほど9節以降親子関係ということをベースに祈りということが語られていくといいましたが、このメッセージを準備していてちょっと笑ってしまったことがありました。私にも2歳の息子がいます。家では日本語、保育園では英語、まあそんな環境も手伝ってでしょうか。決して言葉という面では成長が早いほうとは言えません。ですからまだ彼のしゃべる言葉、覚えている言葉というのは限られています。ミルク、肉、パン、ジャム、っと。まあ好きこそものの上手なれではないですけれども、ほとんど食べ物ばかりでして。毎朝うちで一番早く起きるのがだいたい恵信です。寝ている妻あるいは私のところまできてまず第一声「パン」そして次に「ジャム」それの繰り返し。もう少し寝ようなんて言う交渉が通じるはずもなく、私か妻、いや正直ほとんど妻がやってくれていますが、そのリクエストに応えてパンをトースターにセットします。9節「自分の子供がパンを下さいという時にとでてきますので、」ってこんなに文字通り当てはまることあるかなっとちょっと私は笑ってしまいました。


息子が喋れる言葉が少ないということももちろんあります。でもたとえ「おはよう」という言葉を知っていたとしても、おそらく彼から最初出てくる言葉は「パン」なのかもなあと思います。でそれは良い意味で、私たち親と息子の関係の中心にあるものは多分シンプルなんですね。少なくとも息子にとってはシンプルです。パンっといてそれが出てくる。。肉と言って与えられる。ミルクと言って与えられる。チーチと言っておむつを替えてもらう。つまり求めて与えられるとういうシンプルなこと。そういうシンプルなやり取りを繰り返して愛とか信頼とか、いわゆる親子関係というものになっていくんだと思います。親子だけでなくして、人間関係の中心にあるものってやっぱり、この「求める」ということなのではないでしょうか。大人でもそうですよね。ちょっと困ったことがあって助けてもらった、逆に自分が助けてあげた。そういうことを通して人間関係というものは育まれていきます。求めるということがなければ信頼は生まれません。人には頼らず生きていくんだ、助けなどいらないと思ってそれぞれが生活をしていれば、一向に距離感は縮まっていかないでしょう。現代人が孤独に悩む原因がそこにあるのではないかと思ったりしますが。


話を戻しましょう。ですからシンプルに「求めなさい、そうすれば与えられます」というのは、何かこうアマゾンで注文したものが確実に届くとか、自動販売機お金を入れてボタンを押したら好きな飲み物がでてくるとか、そういうことではないわけですよね。求めなさいっと神様はがおっしゃるとき、それは言い換えると「私と関係を持とうよ」とこうおっしゃっている。ということなんだと思うんですね


 ではそれはどのような関係かというと、9節戻っていただいて親子のような関係だとイエス様はおっしゃる。神様が父親で、私たちが子供ですね。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

マタイ7:9-11

 親は子供に良いものを与える。まあこれは当たり前なわけですよね。基本的には子供の欲するものは全て与えてあげたい、それが親というもの。しかしながらじゃあ何でもかんでも与えたらいいのかっというともちろんそうではない。そんなことをすれば大げさに言えばですよ、その子の人生がめちゃくちゃになりかねない。無責任な親になってしまいます。


うちでは食事中に息子も私たち親と同じメニューをだいたい食べます。けれど時にちょっとスパイシーなものもたべますので、そういう場合は別の味付けになります。で好みでラー油とかコショウとか、キムチとか後で足しながら食べたりします。すると当然息子のめにはいって「アレ」ちょうだいっとなる。けれどそれに対しては「いやいやこれはあんたには辛い」と息子のリクエストに対してNoっと父親である私は言います。あるいは息子はミニオンというキャラクターの登場する映画が好きなんですが、そのテレビを見たい、見たい、と隙あらば言ってきます。もちろん見せるときもあれば、いや今日はちょっともうテレビは見すぎだなと思えば、ハイもうおしまいっと言ってテレビを消す。当然息子は怒り、泣き崩れます。「No-!」みたいな。この世の終わりだみたいな。で当然親は決していじわるしてそうしているわけではないですよ。本人が欲しがっているものでも、与えてしまえば害になるものがやっぱりこの世界にはあるわけですよね。それこそラー油なんて赤くておいしそうだなと息子は思うわけです。けれども実際口に入れようものなら確実に吐き出して、泣くでしょうね。テレビばかり見ていれば目が悪くなるかもしれない。そんなことは一ミリも本人は気づいていない、けれど親である私たちはわかっています。がゆえに彼のために愛を持ってそのリクエストに対してはNOっという。


 同じように神様も私たちのことを思って私たちの祈り、リクエストにNoとおっしゃるときがあります。

あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

ヤコブ 4:2-3

 

まあよく言われることですが、私たちの祈りもまた自分たちの願っているものが本当に自分にとってベストなものなのかどうか実は判断できていないということが良くあります。なぜなら私たちの視野はやっぱり狭い。どれだけ情報を集め、客観的に考えれたとしても、神様が持っておられる視野、知恵に比べれば比較にならないでしょう。ですから祈神様は私たちの祈りを無視しているのではなくしっかりと聞いたうえで、それにたいして「NO」という事もあれば、「まだもうちょっと待とうか」と言われるときもある。ラー油は成長したらしっかりと味わえるようになるわけですよ。けれどタイミングがいまではないと。でそうしたときに人間側から見るとなかなか祈りが答えられないなーと感じてしまうっという具合でしょうか


 クリスチャン生活が長くなっていくとそういう経験は増えていきますよね。振り返ってみて、あああの時祈り求めていたものは与えられなくて逆に自分のために良かったんだなと今となっては思えるようになったというような経験。皆さんもあるのではないでしょうか。


 私で言うと結婚についてですかね。正直に言いましょう、私の計画ではもっと早くに結婚しているはずだった。30歳になる前に結婚するのが理想でした。ですからそのために祈りましたよね、いい出会いがありますようにとか。でもそううまくはいきませんでした。私が結婚したのは35歳になってからです。しかしながら振り返ってみるとこれでよかったなあと思いますよね。もっと前に結婚していたら、今の妻にも出会えず、恵信にも出会えず。っというわかりやすいところももちろんそうなんですが、例えば若くして結婚していたら、そのありがたみとかわからなかっと思うんですよね。まだまだ足りませんけれども、あの結婚できない期間が私のなかに少なからず謙虚さというものを育てたのではないかなと思っていますし。そういった意味でも、正しいタイミングというものがあったのだろうなと思います。


さて、まあここまでは割とスムーズにストンっと降りてくるというか納得しやすい。なるほど自分が欲していることがベストかどうかというのはわからない。神様は私たちよりも何倍も広い視野で物事を捕らえ、私たちにベストな道へと導かれる。がゆえに祈りにNoあるいはNot yet(まーだだよ)が神様から返ってくることはあると。なるほどなあと思います。ただ一方でひねくれている私はこうも思ってしまうわけです。結局何を与えるかは完全に神様が決める、つまり御心にかなうものだけが与えられるのだとしたら、私たちが祈るか祈らないかなんて関係あるのだろうかと。でもっというと少し前の6章ではこうもおっしゃっているわけですよ


あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

マタイ6:8


ならなおさらなぜ祈るのか?そしてこの思いに追い打ちをかけるのは、やはり「聞かれない祈り」ではないでしょうか。もちろん自分勝手な祈り、あるいは自分の視野が狭くて、後になってやっぱりこれでよかったと思えることに関しては時間がたてば納得がいくのかもしれない。けれどもその「聞かれない祈り」の内容が、たとえば家族の病気を癒してください、命を救ってください、あるいは信仰を持っていない家族の救いを願う。そういうものだったとしたらどうか。やっぱり思いますね、さすがにこれは神様も望まれることなのではないだろうか、さすがにこれは御心にかなう祈りなのではないのか?っと。それでも主から一向に答えは返ってこず、沈黙が保たれる。そんな時間が長く続いたらどうでしょうか。

 

どれだけ私が祈ったとしても結局主は御心をなさるというのなら、何のために祈るのか?祈っても祈らなくても一緒じゃないのか。そうして次第に祈りが減ってきてついには祈らなくなるという事もあるかもしれない。期待するのに疲れてしまう。求めなければ傷つかなくて済む。けれどその代償は何かというと、神様との距離感ではないでしょうか。何度かメッセージでシェアしていますが、私は持病である神経痛がありまして、いまだに良くなったり悪くなったり繰り返しています。まあもちろん生死にかかわらないだけ感謝ですし、間違いなく忍耐とか自分の霊的成長、人格形成に役立っているとも思います。でもやっぱり思っちゃいますね。なんで治らないの?なんでこれが御心じゃないの?まあもちろんそういう思いも、時間とともに「受け入れる」という方向には向いていきます。神様との関係性において決定的なダメージとはなっていないと思います。でも今回のメッセージを準備するうえで気づいたんですね、私はどこかで自分の求めるものをサイズダウンする癖があるなあっと。これはたぶん無理だよねとか、まあこれは別に自分が頑張るべきことだよねとか、祈るほどのことじゃないよねとか。で心を掘り下げていくとやっぱり根っこにはこの「求める」ということを恐れてしまっている自分がいるということに気づかされました。でそれは確実に神様と自分の関係の距離感に影響を与えていると感じたんですね。ちょっと一歩下がっている感じというのでしょうか。


 何故神様はある人の命を救ってくださいという祈りにはこたえられて、ほかの人の同じような祈りにはNOと言われるのか、ある人は奇跡的に癒されて、ある人は何年たっても癒されないのか。それに納得のいく答えなんて正直持ち合わせていません。わからない。牧師でもわかりません。けれどもはっきりしていることがあります。それは私たちはそれでも祈るべきだということです。


 何故それでも祈るのか?に対する最もシンプルな答えはおそらくイエス様も祈られたからという答えになるでしょう。そしてイエス様ご自身も神様から祈りの答えとしてNOを頂くという経験をされたということにやはり目を留めたいと思います。イエス様は神様です、にもかかわらずこの「聞かれない祈り」というものを経験された。しかも命がかかった場面でです。どこででしょう? ゲツセマネ、ゲツセマネの祈り。十字架につく前の夜イエス様が祈られた有名な祈りですね。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

ルカ22:42


さすがイエス様、最後は御心の通りにと祈られている。ってそう簡単な話ではない。聖書には血の汗を流されたと書いてあります。つまりそれほどに必死だったということです。しかも一度ではなく三度祈られました。つまりそれだけ避けたかった。当たり前です誰も世界の罪を背負って十字架になど行きたくはない。そして神の御子がこの窮地から救われる、これこそが神の望むこと、神の御心だって普通は思いますよね。結果どうなったか。その願いはかなえられずイエス様は十字架で苦しみを受けられます。父なる神様から帰ってきた祈りの答えはNOでした。求めたものは与えられなかった。ではなぜ祈られたのか?イエス様は神様ですから、ご自身祈りの、リクエストの答えがNOであるということはわかっていたかもしれない。それでも祈られた。なぜか?それはイエス様の祈りの最終ゴールは祈り求めたものが与えられるということではなかったからですね。求めたものは与えられなかった、それでも、それでも父なる神様あなたを信頼しますというところにイエス様ご自身が祈りを通してたどりついたというところに非常に重要な意味があるんだと思います。そしてこれは最初からあきらめてしまうのとはわけが違う。求めることなくして、信頼関係というのはあり得ない。求めたうえでゆだねるということが信頼でしょう。


 求めるということはリスクです。答えがNOかもしれないから。けれど私たちが祈りのなかで恐れず求めるときにそれは、「神様、私はこれだけあなたを信頼します」っというしるしなんだと思うんですね。

 ある人がこんなことを言いました。


どちらのほうが優れた奇跡だろうか?癒されえることか、それとも癌に侵されてもなお、神に礼拝を捧げる心なのか?私にはわからない。ただ、私はそんな心が欲しかった

What was more supernatural? A healing or a heart that still worshipped as cancer ravaged the body in which it beat? I can't say. I just wanted a heart like that

Jack Deere


私もそんな心が欲しいなあと思います。

最後にちょっと使徒の働き12章開いていただきたいと思います。ちょっと時間ないので全部は読みません。ぜひご自身で時間のある時に読んでいただきたいと思います。まあざっくりあらすじを言いますと、イエス様のことを福音を宣べ伝えている使徒たちはその福音の広がりとともに迫害に会うようになります。その迫害のゆえにペテロがヘロデ王という王様に捕らえられてしまうということが起きるんですね。で5節見ていただければわかりますけれども、教会はそんな捕まってしまったペテロのために熱心に祈ります。すると真夜中ごろ御使いがあらわれて、奇跡的にペテロがつながれていた鎖は落ち、牢屋の門も開いて助け出されるということが起きます。ペテロは彼のために祈っている教会のところまでいってサプライズ!と言わんばかりに皆会う。で皆神を褒めたたえると。まざっくり言うとそういうエピソードが17節ぐらいまで展開するんですね。で今日注目したいのはその奇跡ではなくして、12章の1-2節、迫害が厳しくなっていった様子がかかれています。


そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

使徒12:1-2

この流れでペテロが捕まっていくわけなんですが。2節ヤコブは殺されたとさらっと書いてある。これペテロと同じ12使徒のひとりのヤコブです。なぜペテロは奇跡的に助けられて、ヤコブは無残にも殺されたのか?どちらも使徒です。福音を伝えていくという重要な役割があったはずです。なぜペテロだけ助かったのか?


 その理由を答えられる人はいないでしょうね。わからない。わからない。けれど明らかなのは、ペテロのために祈った教会は、ヤコブのためにも熱心に祈ったに違いない。ヤコブが助かるように、ヤコブが救われるように、皆で心を一つにして祈ったことでしょう。そのうえでヤコブは殺される。そうして間もなくしてペテロが捕まる。もしかしたらヤコブが殺された次の日だったかもしれませんね。教会はどうしたか、祈った。ペテロのために祈りました。ヤコブを救ってくださいという祈りが聞かれなかったという現実直前に経験してもなお、教会は熱心にペテロのために祈ったんですね。


 どちらのほうがより優れた奇跡だろうか?鎖が落ち、牢屋が空き、ペテロの命がすくわれたことか?それとも聞かれない祈りを直前に経験してなお、あきらめることなく主を信頼し熱心に祈りつづける教会か?私にはわからない。ただ私はそんな教会の一員でありたい。と思うんですね。

 祈りというのは深いです。説明しつくせません、なぜならロジックではない、リレイションシップ/関係だからです。そしてだからこそ難しくて時に混乱します。これが正解の祈りだということは言えないでしょう。しかしながら祈りに関しての不正解はあります、でそれは祈りを辞めてしまうということ。なぜならそれは神様との対話を辞めてしまう。関係を断ってしまう、あるい距離を開けてしまうということだからです。祈るこころ、求める心を主が与えてくださるようお祈りしたいと思います。

2024.03.24

心配の特効薬は信仰(マタイ6:25-34)

 

さあっということで今日も山上の説教、マタイの福音書続きをやっていきたいと思います。今日の箇所、繰り返し出てくる言葉があります。「心配」ですね。この短い箇所で実に7回登場しますので必然的に今日のメッセージは「心配」をテーマとして取り扱っていきます。

心配に関するアンケート結果インターネットにいろいろ転がっていましたのでいくつか見ました。様々な統計の仕方がありますので一概には言えませんが、日本人の成人の約70%~80%が何らかの不安を、心配を抱えているという結果になっていました。皆さんはどうでしょう、心配事あるでしょうか?あるならどのようなことを思い煩っておられるのか?イエス様はここの箇所でおっしゃいます、「心配してはいけません。」心配する必要はありませんではなく、心配してはいけません。です。いったい心配の何がそんなにいけないのでしょうか?「心配するな」とは何も考えるなということなんでしょうか? そのような疑問を頭の片隅に置きながら聖書を開いていきたいと思います


マタイの福音書6:25-34


だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6:25-34


早速25節から見ていきましょう。だからっというふうにスタートしていきます。

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。(25節)

つまりここまで語られたことを踏まえて考えるならという意味ですね。では24節以前は何が語られていたのかというと、先週Sho君がカバーしてくださいました。富に仕えるのか、主に仕えるのか、お金か神か、そのようなことがテーマでありました。その文脈で25節が始まっていきます。ある人は言いました「大切にしていないものについて心配する人はいない」逆に言うと、もし心配している自分がいるなら、そこには必ずあなたが大切にしているもの、失いたくないものが心配の裏には隠れているということです。


確かにそうだなあと思いますね、学生の皆さんがアサイメントの締め切りと常に戦っておられるという話を聞きます。もちろん祈ってほしいと言われればそのために祈ります。けれどもその方のアサイメントがちゃんと終わるか、あるいはいい評価が得られるかと心配で私自身が眠れなくなるなんてことはないわけですよ。正直次の日に気にもとめていない。でもご本人はそうはいかないわけですよね、自分がパスできるか、いい成績をとれるか心配で時には眠れないということはあるでしょう。なぜならその方にとってそれが大事なことだからですよね


 っとこのように、人は自分が本当に大事にしているものに関してのみ心配をします。だからこそイエス様も、主に仕えるのか富に仕えるのか、つまり神かお金かという文脈で「心配」について語られるんですね。もちろんお金以外のことに目が行く、他のことに心乱されるということは大いにあります。けれどもお金というものはやっぱり多くの人を惹きつけます。学生の時はそうでもないかもしれません、けれど自分で収入を得生活をし始めれば急に真剣な問題になります。だからこそお金の心配っというのは「大人」の間ではよく聞く話なのではないでしょうか。でそれは裏を返せば結局私たちクリスチャンでさえも神様ではなくお金に信頼をおいてしまっているということがあるからなんだろうなと思うんですね。イエス様はそんな私たちに問われる、いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

(25節)

お金を大事にすることが悪いわけではないです。食べ物も着るものも、生活というのはお金があって初めて成り立つ、必要なものです。けれど本当の意味で人生を豊かにするのはお金なのか?いやそうではない、なぜならそんなものよりはるかに大事ないのちそのものを与えてくださったのは神様ご自身です。そんな主が生きるのに必要な食べ物や着るものを、生活の必要を満たしてくださらないはずがない。空の鳥と野の花を見ればわかるではないかっと続いていきます。まずは26節

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(26節)


住宅ローンや税金、貯蓄、生活費のことで頭を悩ませている鳥を見たことがありますか。もちろんそんな鳥はいない。野生の鳥はその日暮らしです。それでもしっかりと神様によって養われている。鳥でさえそのよう養われているのだから神様は私たちを養ってくださらないはずがないということですね。さてここで気をつけたいのは、働かなくてもいいよっていうことではないということです。何の計画も持たずに、お金なんか気にせず適当に使ってその日暮らしをしましょうということではない。もちろん私たちは与えられた仕事、責任を主にあって果たしつつ。与えられたお金、祝福を計画的に使っていく責任はあるでしょう。けれどもそのことで思い悩む、つまり心配する必要はない。なぜなら最終的な責任を持ってくださるのは天の父だと。ここポイントですね。神様は私たちの父親です。私にも2歳の息子がいますけれども、彼にしっかりとごはんを食べさせる、必要なものを与えるのは親である私と妻の責任ですね。2歳の息子に全て自己責任で、とはもちろんなりません。心配をしなくていい、なぜなら私たちは必要を満たしてくださる父なる神を信じているからです。次28-30節


なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

マタイ6:28-30


ここまずポイントは「着飾る」という言葉です。しかもその比較対象はあのソロモン王。ソロモン王と言えばイスラエルの歴史の中で最も裕福で栄華を極めた王様でありました。どうでしょうクリスチャンが神様は必要なものは与えて下さるっという時に、どこかイメージ的に最低必要減、質素、ぎりぎり生活できるくらい与えられる。なんかそのような感じを想像してしまうのは私だけでしょうか。けれどよくよく読んでみるとそうではない。30節 明日は炉に投げ込まれる野の花さえそのソロモンよりも美しく装ってくださる神様があなた方に良くしてださらないはずがない。といいます。Tシャツとジーンズ、冬はヒートテックとダウンがあれば何とかなります。けれどそうではない。美しく装ってくださるとあります。つまり神様はただただ生き残るために必要なものを下さるだけでなく、プラスアルファ、私たちが楽しむための祝福というのも大いに与えてくださる。神様はそのような愛にあふれた父親のようなお方だとおっしゃっているんですね。


 そのような愛ある父親として神様を信頼しているのか、ここがまあ「心配」というものを考えていく時にポイントになってくるわけですよね。繰り返しになりますが、働くな、計画を立てるな、準備するな、貯金するなではない、問題は優先順位です。先週やりましたね自分の人生のNo1が何になっているのかということ。自分の必要や自分の楽しみを守ってくれるのは、お金だと信じてしまう時に、私たちは否が応でも心配になります。お金を失ったらどうしよう、お金が稼げなかったらどうしよう、お金が足りなかったらどうしたらいいんだろうと。イヤイヤそれらすべてを満たしてくださるのが神様だということを忘れてはならない。神様を第一にしているか。ですから今日の箇所最も大事なのは33節です


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 マタイ6:33


 どうでしょうかこれ読み方によっては単純に、神様を求めたら、裕福になる。っといったようなご利益的な意味にとれてしまうかなと思います。がしかし、もちろんそうではないんですね。とにかく神様に従ったら、ご褒美で与えられるっというような意味合いではないんだと思います。ではどういう意味か詳しくみていきましょう。


神の国とその義とをまず第一に求めなさい神の国ってなんなのかは、あとでちょっと詳しくやりたいと思います。ここでは簡単に神様の御心、つまり神様の願うことと理解していただければいいと思います。神様の御心を一番に求める、第一に求めることが大事だとおっしゃる。そもそもなぜイエス様は心配してはいけませんとおっしゃったのか。心配する必要はありません、ではなくして心配してはいけませんっとちょっと厳しめの表現になっています。その理由は、心配の裏には必ず偶像礼拝が隠れているからなんだと思うんですね。ずーっと見てきました。心配するということは何か自分が大切にしているものがあると。そして多くの場合、それらを神様よりも大事にしている、神様よりもそれらに頼っている状態にあるのではないでしょうか。言い換えれば「まず第一に」神を求めていないからこそ私たちは心配になる。お金ということをメインの文脈として語ってきましたが、それ以外にもいろいろあると思います。家族、子供、人間関係、仕事、学校の成績、結婚、健康、それらが失われそうになって、あるいはそれら本当に得られるかどうか人は「心配」になるわけでしょう。もちろんそれらを求めてはいけないわけではない、けれども「これがなくては私の人生はおしまいだ」そう思ってしまう時に、私たちは非常に不安定な土台に自分の人生を据えてしまうんですね。そうではなくして、まず第一に神様を、神様の御心を求めなさい。神様を私たちが求めるなら、それは確実に満たされる。けれどそれ以外が第一に来るときに、私たちはそれがなくなったらどうしようと心配になる。神様のなさることを信頼しなさい。愛にあふれた父である神様があなた方に最善をなしてくださらないはずがない。これを信じれるかどうかで私たちが抱える「心配」のサイズ感というのは変わってくるのではないでしょうか。


 さてとはいえですよ。とはいえ現実問題どうなんですかっていう、心配は簡単に拭うことはできませんよね。だってこの世はいいますよ。全てが自己責任だと。自分で頑張らなければ、しっかりと努力しなければ誰も面倒は見てくれない。だからみんな必死に頑張って、それでも心配を抱えて生きているのではないでしょうか。


 さてそこでも一度33節もどります。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 マタイ6:33

神の国を求めなさい。この神の国とはなにか、天国のことか。まあもちろんそれも含まれるんです。これ英語だとkingdom of Godという表現になります。神様がking、王様つまり神様の支配っという意味なんですね。神の御国とはつまり主の御心が100%反映される場所、空間っていうんでしょうか。ですから神の国を求めるとは、神の支配を求めるっということです。ちょっと抽象的にな表現でわかりにくいかもしれませんが。神の支配、神様に自分の人生の王様になっていただくということを求めるということなんですね。


 ある人は言いました。心配は自分にはどうにもできないことを、どうにかしようとする、つまりコントロールしようとする行為であると。34節このようにあります。


だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 マタイ6:34


人は明日のことを心配します。つまり未来のことを心配するんですね。まだ起こっていないこと。人の心配することの9割は実際はおこらないというのはよく言われていることで皆さんも聞いたことあるんじゃないでしょうか。明日、来週、来月、来年、数十年後、未来はどうなるかなんてわからないんですよ。わからないのに、いやわからないからこそ心配してしまう。けれどイエス様はおっしゃる、それはあなたの仕事ではないよと。だって私たちが変えられるのは過去でも未来でもなく、いま現在、今日しかないからです。そういう意味で労苦はその日その日十分にあるとおっしゃる。いやもっというと今日というこの日でさえ自分でどうにかできることは本当に限られている。にもかかわらず、それを自分の思う通りにコントロールしたい、だから思い悩む。こうなったら、ああなったらと自分の中でシミュレーションして、最悪のケースまで考えて心配する。そんな私たちにイエス様はおっしゃいます27節

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(27節)


答えは当然NOですよ。心配したら状況が改善するのか、いやそんなことはない。心配しようがしまいが、災難や試練は来ますよ。だからそれを前もって自分の中で言リハーサルしてそれを何度も味わう必要はない、その時にできることをやればいい。わかりますよ、わかります、ガッカリしたくないからあらかじめ最悪のケースを想定するんだとか、その時になって慌てたくない。だから最悪のケースを考えるんですよね。そのための準備することは必要です、悪いことではない。しかしながらその結果、心配という感情にとらわれて、今やるべきことができなくなってしまうようであればそれはどうなんでしょうか。


 もう20年くらいまえですがバイブルカレッジの最終学年のことです。当時今までにない大きな課題があって、頑張ってはいたのですが締め切りが近づいてくるのに思うように進んでいませんでした。いよいよ、これは間に合わないのではないか。そういう思いが心配となり、焦りとなり、その思いに押しつぶされて、なかなか机に向かえず、集中できず、結局は教授に頼み込んで締め切りの延長をしてもらったということがありました。


心配は変えることのできない未来にばかり私たちの目を向けてしまい、今は果たすべき責任から目をそらさせてしまうんですね。心配するだけで疲れてしまう。さてじゃあそれと、神の国とどう関係あるのかということですが。それは私というこの人生を本当は誰がコントロールしているのか、誰が支配しているのかっというそういう問いかけになってきます。神の国とは、神様の支配だということをお話ししました。私の人生において、本当に主の支配を、神の国を求めているのか。それとも自分の支配、つまり思い通りにしたいと思っているか。思い通りにしたいと思う時に、心配はしつこくつきまとってきます。


 このメッセージを準備していて、正直非常に難しかったです。何が難しいのかと言えば内容ではない。何なら解説はあまり必要ないくらい、この箇所のメッセージはクリアなのではないのかなと思います。しかしながら、それを語る私自身がどうにもこうにも心配性であるということは否めない。一このメッセージを準備しながら、うまくできるだろうかと「心配」していました。「心配するな」というメッセージに関して心配しているのだから世話ないなと思います。まあそんな話をABCの牧師であるヘイデンさんに雑談でしていました。すると「ほかにどんなことが心配なの」っと聞かれましたので「そうですね、常に日本人教会の今後どうなっていくのかはまあ心配になるときが正直あります」そう答えました。すると彼はすごくフランクですから。ふつうに聞いてくるんですね「最悪のケースはどんなことが考えられるの?」でまあ私もいいますよね、「そりゃあまあ経済的に、とかその他いろいろな理由で教会が続けられなったら単純に僕は職を失うよね、で日本に帰らなければいけなくなるかもしれない。」と。ごめんなさいね牧師としてこんな話をするのはどうかと自分でも思うんですよ。でもまあ牧師同士の半分冗談交じりの会話っていうやつです。でそれを受けて「なるほどノブは日本に帰らなきゃいけなくなることが怖いんだね、それを恐れているんだね」っとヘイデンさん。情けないかな、おそらくそうなんだと思います。教会としてのこの先どうこうよりも自分のことを心配している。つまり私にとってNZで生活を続けるということが偶像になりつつある、その運命を主にゆだね切れていない自分がいるのだなということを思わされました。


もちろんそうならないように私自身最善を尽くす、できることはやる、そういう責任はあります。けれどその後は主に任せする。それこそが神様の支配を自分の人生に願うということなんだと思うんですね。


 34節最後「労苦はその日その日十分にあります。」とありました。いいですか、信仰をもって神様の御心を求めれば、交換条件ですべてがうまくいくってそういう話ではないんです。労苦はあるんです。そして時には本当にこのままで大丈夫かと追い詰められることもある。それでも、それでも、神様が最終的な責任は持ってくださる。この人生は自己責任だけではない、私は私の人生の王ではない、主よあなたが王です。どうかわたしの人生を支配してください。あなたの心を信頼します。この真実にどれだけ根差して歩めるか。そういった意味で心配に対する特効薬はやはり信仰しかないと思うんですね。


 っとこのようにお話をしますとね。心配性の人は不信仰で、心配しない方は信仰があるみたいに思われるかもしれません。けれどもそういう単純な話ではない。心配をしない=信仰ではないんです。人が心配をしない理由はいくらでもあるでしょうね、そもそも細かいことは気にならないという性格だとか、下手したらただの無責任とか。あるいは生まれ持っての体力、適応力、精神力、才能そういったもので過去いろんな問題を自分の頑張りで乗り越えてきた。そのような経験を持っている、がゆえに心配しないと。それらは素晴らしいことです。正直うらやましいなあと思います。けれどそれが信仰かどうかはまた別の話ですよね。いいですか、だから人はいいんです。人と比べる必要はないんです。私はなんでこんなことで心配になってしまうんだろうと自分を責める必要もない。ただイエス様はおっしゃる。人はいい、私を見なさい。私をもう少し信頼してくれてもいいのではないかっと。


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ8:32

私たちが自分ではなく主を信頼し、お任せする根拠がここにあります。イエス様はご自身の命を私たちのためにささげてくださった。命がけで愛してくださった。その証が十字架です。ですから私たちがじぶんの願いに、思いにしがみついて心配になるときに、十字架を思い出したいと思うんですね。そんな命がけで愛してくださる神様が私たちの人生一番良いものを下さらないはずがない。自分の人生を自分で握るのではなく、その愛ある力強い神の御手にすべてをゆだねたいと思います。


さて長らく語ってきました。まあもちろんこのメッセージ一発で心配が吹き飛ぶなんてことはないと思います。けれどせっかくですから少しエクササイズをして終わりにしたいと思います。紙とペンをお配りします。いいですか、隣の人のは絶対にのぞき込まないでください。ご自分が心配に思っていることを、箇条書きでいいのでかきだしていただきたいと思います。そして声に出しても出さなくてもいいので、今書き出したことについて祈る時間を少しとりたいと思います。一つだけ自分は何を握りしめているんだろうかということを思いめぐらせながら、それをゆだねることができるように祈りましょう。


何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ピリピ4:6-7


2024.03.03

復讐の闇、愛の光(マタイ5:38-48)

復讐の闇、愛の光


さあっということで、今日もマタイの福音書5章の続きをやっていきたいと思います。今日の箇所はクリスチャンではない方でも言葉だけは聞いたことがあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。「右の頬ぶたれたら左の頬も向けなさい」とか「敵を愛しなさい」という言葉ですね。


 読んでいて内容として理解するのに難しいところは、それほどないのではないでしょうか。しかしながらこれを実際に実行していくということを考えるときに、現実的に実現可能なのかということを思わされる非常にチャレンジな箇所だと思います。早速前半部分の5:38-42を読みたいと思います。

38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。


マタイ5:38-42


まず38節「目には目で、歯には歯で」と出てきました。クリスチャンではない人も聞いたことあるかもしれませんね。古代ハンムラビ法典、学校の世界史でできたのを覚えているよ、と言う方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかしながらもちろんイエス様がここでお仰っているのは、ハンムラビ法典のことではありません。旧約聖書の律法のことをおっしゃっている。

もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。

レビ記24:19-20

どうでしょうか、「目には目を」ってちょっと野蛮なひびきというか、暴力的というか、そういう印象を受けます。そして何なら「やられたらやり返せ」という復讐を煽っているような感じさえします。


皆さん突然ですがこの映画ご存知でしょうか。「ジョンウィック」、キアヌリーブスがとにかく銃を撃ちまくるという、非常に単純なアクション映画なんですけれども。ストーリーはざっとこんな感じです。キアヌリーブス演じるジョンウィックは元伝説の殺し屋でした。しかしながら今はもう足を洗っているという状態です。悲しいことに愛する妻を亡くし、残った愛犬と静かにくらしていたジョン。そんなある日、ガソリンスタンドで若者が近づいてきて、ジョンの愛車を売ってくれという話を持ち掛けます。けれどジョンはそれを断るんですね。この若者、実はロシアマフィアのボスの息子でありました。プライドを傷つけられたと思った彼は、ジョンの家に乗り込み暴行のかぎりをつくします。その際にジョンの愛犬が命を落としてしまう。それを見てジョンは再び殺し屋としての自分に戻る決心をして復讐をするというストーリーです。結果このマフィアの息子、そしてほぼマフィア全員を殺してしまう。ジョンも代わりに彼の友人も殺されたりするわけなんですが。。。ただ「車を売ってくれなかった」ということからスタートして最終的には数えきれないほどの死人を出すという結末を迎えます。


っというまあ映画ですから、痛快な復讐劇として描かれていま。けれど復讐というものの恐ろしさがここにあります。復讐というものは必ずエスカレートする。子供のケンカもそうですね、最初は「バカ」っと悪口、けれど手が出て、足が出て、もう最終大ゲンカになりどちらかが泣いてしまうといような。子供ならかわいいものですけれど、大人は行くところまでいったら戦争にまで発展しますよね。いまだに戦争がなくならないのも基本的にはこの復讐の連鎖です。数年前にこんなドラマもありましたね。半沢直樹。そしてこのあまりにも有名なセリフ「やられたらやり返す、そっくりそのままだ」ではなく「倍返しだ」っと。復讐は倍返しの連続を生んでしまう。


聖書戻ってきますが。そういう復讐という人間の破壊的なサイクルを、せき止めるために与えられたのが、この律法だとういうことです。「目には目で」。つまり目をやられたら、命まではとるな、目には目だけで我慢しないと。ちょうど同じ分だけ罰を与える。(専門用語では同害報復法なんて言ったりするようです。)そしてそもそも、この律法は個人で行う復讐を禁ずるもので、裁判で行き過ぎた罰ではなく公平な裁きと罰をっという文脈で語られているものなんですね。そういうことを踏まえて読むと私たちが思うほど、この律法が残酷で野蛮なことではないというのがお分かりいただけるかと思います。


さて問題は次です。「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。」そしてあの有名な「右の頬たたかれたら左の頬も向けなさい。」という言葉につながっていきます。今あげた、ジョンウィック、半沢直樹、に限らず、時代劇の忠臣蔵など仇討ちの話はたくさんあります。日本人は復讐劇が大好きです。なぜなら見ていてすっきりする。でその感覚はどこから来るのかというのは正義を求める心です。悪しきは罰せられるべきだと。やられたらしっかり報復をする、それこそが正義を保つための唯一方法なのだと私たちは思っています。けれどイエス様はおっしゃる。悪いものに手向かってはいけません。でその御言葉を読んでいる私たちは思います。えっイエス様それじゃあ正義はどうなるんですかっと


 ここで誤解されがちなのが、この「手向かってはならない」の意味です。手向かってはならないと聞くと、なされるがまま、何もせずにただただやられるのをじっと我慢する、というような印象を受けるのではないでしょうか。けれどそうではない。多くの神学者はこの「手向かってはならない」とは、何もしてはならないではなくして、暴力をもって仕返しをしてはならないという意味だといいます。つまり復讐にとらわれるな、仕返しをするなというニュアンスですね。ですからもちろんイエス様は、社会にある悪や不正を放置しなさい、とにかく何もせずに我慢しなさい、と言っているわけではない。相手の間違いは指摘しつつも、悪に暴力をもって立ち向かうのではなく、別の方法を模索しなさいっとおっしゃっている。やられたらやり返す、ではなくて、やられっぱなしで我慢するでもなくて、別の第3の道。

 

 そしてこれは当時非常に身近な問題でありました。なぜならイスラエルは当時ローマ帝国に支配されていたからです。ですからローマ兵はあちこちにいて、支配されている側のユダヤ人たちは不当に扱われることも日常茶飯事。自分たちは神の民だという誇りがあるユダヤ人の中には、いつか目にもの見せてやるという思いがふつふつとあったに違いありません。したがっていつでも剣を持って戦う、暴力に訴えたいという機会が日常に転がっている状況だったことが容易に想像できます。そういう日常を背景にイエス様は3つの例を用いて暴力に訴えるのではない別の道を提示されます。一つ一つ見ていきましょう。まず一番目


あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(39節)


これは実際にやったほうがわかりやすいと思いますので、ちょっとショウ君前に出てきてもらって。右の頬を打つとありますね、右利きの人が普通平手打ちをするとき左の頬にあたるわけです。っということは右の頬を右手で打つには、手の甲でパチンとはたく形になる。そしてこれが当時の文化的に最も侮辱的なたたかれ方でありました。主人が奴隷を打つとき、ローマ兵がユダヤ人を打つとき、このようなたたき方をしたんですね。物理的な痛みというよりは人の尊厳をうばう暴力です。「お前は私より下の人間だ」と主張するたたき方でした。でそのようにたたかれたときイエス様は左の頬もむけなさいとおっしゃる。そうするとどうなるか、たたく側はもはや右手の甲ではたくことはできません。どうしたってグーで殴るか、手のひらで打つかになります。そしてそのたたき方は立ち場が対等な相手にのみ行うたたき方だったんですね。つまり左の頬を差し出すことによってたたかれた側は「私を打つなら、打てばいい、けれど私はあなたより下の人間ではなく対等な人間だ」という主張をするということになります。やったらやり返すの精神ではなく、暴力に訴えるのでもなく。けれどただただやられるのではなく、相手の間違いを指摘する非常に知恵のあるアクション。もちろん関係なくボコボコにする人もいるでしょう。けれど可能性として相手の暴力を留められるかもしれない。相手に考える機会を与えるっていんでしょうか。

 

 2番目

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40節)


ローマに支配されていた当時、重い税金で多くの人が経済的に苦しんでいました。結果自分の土地も奪われて、それでも借金が返せないという状態になることは珍しくありませんでした。そして下着が借金の担保に要求されることがありました。ですからこのシーンは裁判所です。裁判で下着まで担保に取られた、そういう時はイエス様は上着もやりなさい。とこうおっしゃる。当時の基本的な服装はまず下着と呼ばれるシャツですね。でその上に上着とを着る。シンプルな服装です。ズボンとかそういう概念はありません。基本この2枚の服しか着ていない。で裁判所で下着が担保にとられて上着まで差し出すとどうなるか。シンプルですね真っ裸になる。そしてユダヤの文化的に裸になる側ではなく、裸を見る側が恥を被るという価値観がありました。ですから上着も差し出すとによって、どれだけその相手がひどい搾取をしているかということを周りに露呈することができるんですね。そして願わくば、それを通して相手が悔い改める機会を与えるという、アクションです。


3番目

あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい(41節)


当時ローマの法律でローマ兵はユダヤ人を含め、支配している住民に自分の荷物を1ミリオン(約1.5km)まで運ばせても良いという法律がありました。いたるところにローマ兵はいるわけですよ、ですから家族で出かけているときであろうが、仕事中であろうが、ローマ兵がやってきて「おい、そこのお前俺の荷物を運べ」と言われたら全部いったんおいて、従うしかありませんでした。非常に屈辱的な瞬間だったと思います。さてここでのポイントはローマの法律が許容していたのは1ミリオンまでというところです。それ以上を強いるのは禁じられていました。荷物を運ばされて1ミリオンの距離まで来ました、けれどそこでとどまることなく荷物を運び続けたらどうなるか。今度はローマ兵側の都合としてちょっとまずいわけですよね。もしこのことが上官にばれたら、どうしようとなる。まあ基本的に誰も見ていないから気にしない、あるいは見つかっても「こいつが勝手にやったこと」と言い訳する兵士もいたでしょう。けれど中には、「うーんそろそろおろしてもらえるかなあ」っという兵士も出てくるかもしれない。相手を権力で押さえつけるのとは全く別の、暴力ではなく相手に仕えることによって得られる力。第3の道をイエス様は示された。


さて立て続けに見てきましたがどうでしょうか、なんかもう一休さんみたいな頓智の話のようで聞いてて面白いですし、さすがイエス様天才っというそういう感じがしますよね。けれど気をつけなくてはいけないのは、これ決してテクニックの話をしているのではないということです。知恵を尽くせば、何か道が開ける、相手も変わるっということでは必ずしもない。結局はボコボコにされたり、すべて奪われたり、搾取されて終わりということは大いにあります。また私たちが何かされたとき、単純に暴力に頼らなければOKということではない。もちろんされるがままではなく、知恵を用いて何が間違っているのかということを相手に伝える、主張するということは大事です。けれど頓智を利かして相手を懲らしめましょうではないんですよ。それでは結局ちがうかたちの復讐になるだけです。ですから復讐の連鎖を断ち切るには、結局は相手を赦すということが必要になってきますし、あるい程度の痛みを自分でぐっとこらえて耐えるということが必要になってくる。どうしたって簡単ではない。パウロはローマ人への手紙でこのように書いています。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」… 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

ローマ12:19,21

復讐の心は神様にお預けして、悪をもって悪に対するのではなく、善をもって悪に打ち勝てと。


 そして後半イエス様はさらにこうおっしゃる。43-48節

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。


「自分の敵を愛せ」です。「復讐するな」だけではなくして、敵を愛する。そんなことが可能なのか?けれど悪に悪をもって打ち勝つのでなく、善をもって打ち勝つというのであれば、「知恵」だけではなくおそらくこの愛というものが不可欠なんですよね。どのようにすれば敵を愛することができのか。詳しく見ていきましょう


まず43節「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」っと出てきます。でこれまた旧約聖書の引用になんですね。

復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

レビ記19:18


さて見ていただければわかりますが、敵を憎めという言葉は出てこない。ここだけではなく旧約聖書のどこにも出てきません。ではなぜ「敵を憎め」が出てくるのか?それは当時の人がこのレビ記の箇所をそのように解釈したからです。「隣人を愛しなさい」と言われたときにまず出てくる質問は、「じゃあその隣人って誰のことをさすの?」です。でそれは基本的に同国民、つまり同じユダヤ人のことをさすというのが当時の一般的な解釈でありました。ですから当然同じ国民のユダヤ人は「隣人」として愛する。けれどその愛する隣人を苦しめるローマ人は敵として憎む、ということが教えられるようになったのだと思います。


でそれは今でもあまり変わっていない、人間はみなそうじゃないですか。人は自分の仲の良い人、自分と似た考え方の人、自分に見返りをくれる人、自分と似たようなバックグラウンドを持っている人を愛します。いわゆる自分が持っている枠の内側にいる人っていうんですか。そういう境界線を私たちも無意識にでも持っているのではないでしょうか。けれどイエス様はおっしゃる


自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

マタイ5:46-47


そうではなくして、自分の枠の外側にいる人も、いやもっと言えば敵と言えるような人も愛しましょうっと。つまりは境界線をひろげなさい、いや広げるだけではなく取っ払ってしまえ、とイエス様はおっしゃる。ですから結局「隣人を愛する」というのは誰でも区別なく愛するということを意味するんですね。


さて隣人について考えました。次じゃあ「愛する」とはどういうことか考えたいと思います。愛という言葉、わかったようでわかりませんね。まず一般に愛ということを語るときに、それは感情を意味する場合が多いのではないでしょうか。愛=好きになる、好意を持つというようなですね。けれどイエス様の語る愛というのはどうやらそういう感情のお話しではない。なぜならだれでもかれでも好きになるなんて現実的ではないです。ましてや自分を攻撃してくる敵、恨みを持っている相手を好きになどなれるはずがない。じゃあ愛するってなにかというと、それは意志であり、行動です。と抽象的に言ってもわかりにくいでしょうから、イエス様具体的におっしゃってますね。44節あたり敵を愛し、その人のために祈れっと。でこれはアイツに罰が当たりますようにというそういう祈りではないです。主の祝福を祈るっということ、相手が悔い改めて自分の罪に気づくということも含めて、相手の最善を祈るっということです。それが敵を愛するということの第一歩。これは非常に難しい、そんなことを思えるわけがない。でも逆に言えば感情はついて行かなくてもいいんです。とりあえずやる。敵を愛するということは、敵のために祈るということから始まります。そして小さな一歩でいいと思うんです、行動で愛をしめしていく。47節にありましたね、挨拶をするとかそういうところから、初めてもいいかもしれません。苦手だなと思っている人、自分とはあわないなあと思っている人にあえて挨拶をする。そこから関係というのは始まっていきます。

 

 さてではなぜそうまでして敵を愛するべきなのか、イエス様の提示する理由はシンプルです。なぜなら神様とはそのようなお方だからと。45節

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

マタイ5:45

神様はいい人にも悪い人にも恵の雨を太陽をそそいでくださる。そしてそれは決して、神様が罪を見過ごしているっということではない。最終的に罪の裁きはされるわけです。けれども恵は差別なく、惜しみなく注がれる。それが神様っというお方なんですね。いやもっと言うと恵の雨、太陽、その他の祝福だけではなく、もっと貴重なものを神様は、分け隔てなく私たちに与えてくださった。それがイエス様の十字架です。


しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ローマ5:8


そのようなキリストの愛を受けているんだから、、それを隣人だけにではなく、あなたの敵にも流しましょうっとこうおっしゃる。

 さて「敵を愛する」言葉で言うのは簡単です。そして私自身正直ですね一生赦せないと思うような敵に幸いまだ人生で出会ったことがない。ですから、この箇所を取り扱う、メッセージをするというには非常に経験不足としか言いようがありません。自分でもメッセージしてる自分に対してどこかで思ってしまう。「口ではどうとでもいえるだろうと」。けれど忘れてはならないのは、これはイエス様の言葉であるということ。そしてイエス様は口だけではなく。実際にこの教えを生き抜かれました。先ほども見ました、罪人である私たちのために死んでくださった。そしてそれだけではなく、イエス様のことを十字架にかけて直接殺した相手のために、十字架の上でこう祈られたんですよね。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

ルカ23:34


そんな悪に対して悪を返すのではなく、愛をもって戦ったイエス様の足跡をたどるよう私たちクリスチャンは召されている。ということを今日覚えたいと思います。悪に悪ではなく愛を持って戦ったと言えばこの人、マーティンルーサーキングジュニアまさに彼は復讐や暴力ではなく、愛をもって人種差別という悪に戦った人でありました。そして彼のインスピレーションは、まさに今日見た個所から来ています。以前にも紹介したことがありますが、彼の言葉を紹介して終わりにしたいと思います。差別をしてくる相手に対する言葉です。


「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。…(中略)覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。」(マーティンルーサーキングジュニア)


自由を勝ち取るだけでなく、「あなたがた」つまり、苦しませている相手の心も勝ち取る。これが 私たちが受け取ったキリストの愛です。

一言に敵と言ってもいろいろあるでしょう、日常生活において憎しみが抑えられないような相手に出会うということはそう多くないかもしれません。単純に夫婦でケンカして、相手が敵のように思える。まあそういうレベルの話もあるでしょう。皆さんにとって「敵」とはどんな人でしょうか、頭に浮かんでいますでしょうか。


来る一週間、その人に挨拶をする、何か相手のためにできることをする、気持ちが乗らなくても相手のために祈る。小さなことからでいい、できるところからでいい、さばきは主に委ねて、憎しみという闇にとらわれるのではなく、赦し、イエス様が下さった愛の光のほうへと一歩一歩踏み出していくことができるように。

お祈りしましょう。


2024.02.18

愛と情欲の違い (マタイ5:27-30)

 

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

マタイ5:27-30


はい、どうでしょう。今日初めて教会に来られた、あるいは聖書を開いたという人がもしいらっしゃったらちょっと強烈ですね。もちろんこのセクションは第一にキリストの弟子たちに向けて語られていますので、クリスチャンに対するメッセージということになります。ですからクリスチャンでない方からすると、やっぱり宗教って「性に関してはお堅いのね」とか、「なんと前時代的な」っという印象受けるかもしれません。もしかしたらクリスチャンであってもえ?そうなの?っという方もいらっしゃるかもしれません。

特にこの箇所取り扱うテーマが非常にパーソナルということともさることながら、表面的にさっと読んでしまいますと「性欲を持っていたら地獄行」というふうに読めてしまいます。しかしながらもちろん、もちろん、そういうことではない、じゃあどういうことかということをまあ今日お話しさせていただきたいと思います。


がそのまえに前置きをさせてください。今日の箇所のテーマは必然的に性とかSEXといったものに入っていきます。教会学校に小さなお子さんたちは出ているかと思いますが、もしちょっと内容的にどうかなと思われたら、気にせずお子さんを連れて退出していただいて大丈夫です。なるべくexplicitな表現は避けますが、そこら辺は親御さんの方針もあるかと思いますので、ご自身の判断でよろしくお願いいたします。前置き二つ目、どうしてもやはりこの性というパーソナルなテーマを取り扱っていくうえで、メッセージの受け取り方は様々になるかなと想像します。それぞれの性別、状況、経験、過去の傷、トラウマなんかによってですね。ですから私の表現あるいは言葉によって傷つく人がいるかもしれません。しかしながら前提として決して語っている私はパーフェクトで、皆さんを裁きたい、そういうことではないということは心にとめていただきたいと思います。ただ私の祈りとしては、この箇所を通して神様が私自身を含め皆さんの心に触れて下さり、癒されるべきところ、悔い改めるべきことをそれぞれ示してくだる。そして何より主にあって情欲から自由になるということのすばらしさが伝わればと思っています。


27節「姦淫をしてはならない」とありました。前回からイエス様が律法を引用してその真意を語るというセクションにはいっていますが、これまたモーセの十戒で第7番目の戒めになります。姦淫ってね、あんまり言葉として使いませんけれども要は不倫です。自分の夫、妻以外の人と性的な関係を持つということ。どうでしょう、現代で不倫は犯罪ではありませんが、まだ一般的に間違っているという認識があると言っていいでしょう?なんかそれも時代とともに変わってしまいつつのかもしれませんが、今のところは日本でもアウトっという認識ですね。有名人の不倫はもう間違いなく炎上しますし、何ならそれが原因で活動自粛とかねよくニュースで聞きます。で旧約聖書の律法でも姦淫は、不倫は、当然アウトですよっとそして、さばきの対象になります。ここまではいいでしょう。


しかしながら問題は28節ですね「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」怒りの時もそうでしたが、急にハードルが上がります。実際のアクションではなく心という表面的にはわからないところでも情欲を抱くならアウトだとイエス様はおっしゃる。えーっ、いやもうそれは厳しすぎる。っというかそんなことを言い出したらもう世の中の男性すべてアウトでしょっとまあこう思われるのではないでしょうか。いやもちろん情欲というのは、男性だけの問題ではない。女性が男性に対して情欲を持つということはあるでしょう、けれどもやはり比べてしまうと男性の方が弱いエリアと言わざるを得ない。そもそもイエス様はここで男性へ向けて語られているので、どうしても今日は男性視点よりのお話しが多くなると思いますがご容赦いただきたいと思います。もちろん女性にも適応できる部分も語っていきますので、男女限らず、心を柔軟に耳を傾けていただければ幸いです。


さて28節一つ一つのことばを詳しく見ていきたいと思います。まず誰でもとありました。ですから当然、これは結婚している人に限った話ではない、独身の人も含まれます。つまりだれでも情欲を抱いて異性を見るならっということです。しかしながらこの「情欲」という言葉が非常に難しい。まずもって単純に普段生活のなかで使わない言葉なのでどういう意味ということもあるでしょうし、冒頭でも言ったようにぱっと見「情欲=性欲」というふうに読んでしまいがちなのではないでしょうか。しかしながらそうではない。なぜならそもそも性欲をお作りになったのは神様だからですね。創世記1,2章を見れば明らかですが、神様はわざわざ人間を女性と男性に作られた、そして当然その体の仕組みを作られたのも神様です。ということはSEXは神様の発明です。そのうえで、「それらは非常に良かったと」。創世記に書いてある。SEXも体も悪ではない、従って性欲も悪ではない、良いものです。で創世記だけではなくして、旧約聖書には雅歌という本があります。でその内容はシンプルにそれは男女の性的な関係を歌った非常に官能的な詩/ポエムになっているんですね。雅歌全部が性というもののすばらしさを伝えるものになっています。そんなものが聖書に一部になっているわけですから聖書はSEXそして性欲に対して否定的であるはずがない。雅歌の最後の章にはこのようにあります。

…その炎は火の炎、すさまじい炎です。 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。…

雅歌8:6-7


性欲、男女がお互い欲するその思いというのは炎、火のようだとここでは例えられている。それくらいに力のあるものだということですね。どうでしょう?火って良いものでしょうか、悪いものかでしょうか? 「答えは使い方による」ですよね。もちろん火があるから、暖がとれる、あるいは料理に使ったり、暗闇を照らすことができる。そういった様々なメリット、良いことがあります。一方で近づきすぎるとやけど、服が燃えてしまうとか、火事とか、破壊的な側面もその持っている力がゆえにあります。火からは多くの恩恵を受けられるけれども、使い方をあやまると、あるいはその安全な囲いを超えて近づくと危険だと。SEXあるいは性欲も同じで、本質的には良いもの、素晴らしいものなんだけれども、使い方をまちがえると、安全な囲いを超えてしまうと危険だというわけですね。聖書は性を肯定して尊ぶがゆえに、大切に取り扱いましょうっといいいます。じゃあその正しい使い方、あるいは安全な囲いとは何かというと、後で詳しく見ていきますが、それは結婚です。結婚という契約・関係でのみSEXは安全に取り扱うことができるし、その素晴らしさというものを最も発揮する。だからそれを壊すような、姦淫、つまり結婚関係をベースとしない性的な関係はだめだよというか、危険だよと言うことをここでイエス様はおっしゃる。


加えてイエス様は実際の行為だけではなく、もうそれは心の中でスタートするのだ、とおっしゃるから、これは非常に複雑というか難しい。なぜなら心で始まると言われればどこまでが性欲で、どこからが情欲なんだと。こうなってしまう。さてそこで注目したいのは情欲を抱いて見るの「見る」という言葉です。この言葉もともとのギリシャ語では「見続ける」というニュアンスがあるそうです。ですからぱっと見るとか、目に入るということではなくして、ずーっと故意に見続ける、見つめるということを意味します。そして「見る」に付随して使用されている<プロス>という前置詞は、「目的に向かって」というニュアンスがありますので、それを全部含めて訳すと。「自分の情欲を満たすために見続ける」となる。ですから例えば道端で美人、あるいはイケメンが目に入って、あーあの人キレイ、あの人かっこいいと思うこと自体はもちろん罪ではない。そうでないと誰も目を開けて生活できないでしょう。パッと目に入る、魅力を感じる、それはいい。けれどその後、二度見するとか、見続けるとか、あるいは見ないにしても性的な妄想を膨らませていくとかですね、魅力を感じた後のこの自分の選択が非常に重要になってくる。そこが境目になってきます。


つまり情欲を抱いて見るというのは、「目に映る相手を自分の欲を刺激し満たす為に利用するということです。」そのプロセスを通して、ものすごく嫌な言い方をすれば、自分の中で相手が、対象の人が尊厳をもった人間ではなく、自分の欲のために消費するモノになってしまうっというところに問題があるんですね。でその最たるものがポルノです。もはや相手が実際に目の前にいる人間でもないわけですよ。自分の都合のいい時に、都合の良い形で、好み通りに、思い通りに手軽に消費するという行為。まあ主にそこの誘惑があるのは男性の方だと思います。一応女性の目線もと思いまして、この「相手を消費する」という観点から何かないかなと妻に聞いてみました。帰ってきた答えは「友達で韓流ドラマにドはまりしている人とかいるかな」。さすがに韓流ドラマ=ポルノという意味ではないです。どう考えたってポルノのほうがアウトでしょう。けれども自分の都合のいい時に、都合のいい方法で、自分の好み通りに消費するという観点から言えば多少なりと共通点があるのではないでしょうか。


いやおおげさだよ、別にそういうつもりじゃあないし。害はないし、迷惑もかけていないし。何がそんなに問題なの?そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。この情欲の危険性は、非常にわかりづらいです。表面的にはすぐにその影響はでないかもしれない。けれどそれは確実に私たちの心を侵食します。相手との関係性、特に異性との関係性において、情欲、つまり「相手を消費する」というマインドが与える影響は大きいのではないでしょうか。関係のベースが相手に「与える」「仕える」ではなく自分が相手からどれだけ「得られるか」という自己中心的な姿勢に知らない間に傾いていく。まあ単純にポルノの場合は性的な満たしを対象から得たい、ゲットしたいということなんでしょうけれども。もし結婚している方なら、性的な面だけでなく結婚関係そのものにおいてその影響がでないはずがない。


 前半でも触れました。性というものは結婚とセットでそもそもデザインされたわけです。イエス様も創世記を引用してこのようにおっしゃいました。

イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。(マタイ19:4-5)


一体となる、文字通り一つの体となる。もちろん性的な関係も含まれますが、それ以上に死が分かつまで、お互いに与え、お互いに仕え、互いに愛することをコミットする、その契約が結婚です。でこの関係のベースは消費するということとは真逆にあるんですよね。消費するっというのは一方的じゃないですか。良い商品、自分がその商品を気に入っているうちは使い続ける、けれどもっといい商品が出れば買い替える。もしこの消費というものが異性との関係のベースになってしまうのであれば、それは愛ではない。自分の都合がいい時だけ、好きな感情が続く間だけ、自分にメリットがある間だけ関係を続けます。でもっとよさそうな人が現れれば、アップグレードと。そんな基盤でセックスを安全に扱えるはずがない。一体となったもの無理やりはがせば、接着剤でもそうですが、ボロボロになります。そしてそれを繰り返せば傷つくことも減る代わりに、どんどんその粘着力はなくなっていってしまう。


いやいや愛と性欲とは別なんだ、そういう価値観ものこの世にはあるでしょう。けれどこの二つは深く結びついてデザインされていると聖書は言います。都合のいいところだけ、おいしいところだけつまんでいて影響がでないわけがない。そうして知らない間に本来は素晴らしくデザインされている性、性欲、SEXというものが自分の中でどんどんチープになっていき、味のしないものになってしまう。そうではなく良い時も悪い時も、互いに与え、仕え、愛することをコミットする関係、結婚という囲いがあって初めてSEXは安全に扱うことができる。なぜなら結婚は契約だからですね、感情ではない、感情だけなら覚めたら終わりじゃないですか。そうではなく神様の前で誓う。そうして初めて体だけではなく心も魂も一つになる素晴らしい祝福となります。


ちょっと話それますが、先日ラジオで2023年の日本での男女の出会い方のランキングはマッチングアプリが一位になったという話をしていました。いやーもうそういう時代なのかあ、自分もおじさんになったんだなあと改めて思いました。まあもちろん利用者が伸びた要因には、コロナの影響もあるようですが、何よりもタイパ(時間効率)がいいということがあるみたいですね。1日あれば何百という人を閲覧することができてしまう。気に入ればイイねを押してそうじゃなければスワイプして、そういう感じなのかな。「いやもうそれってネットショッピングやん」っとこうおじさんは思ってしまいます。別にマッチングアプリを否定したいわけではない。出会いがない環境でニーズもあるでしょうし、クリスチャンのそういうアプリもありますよね。もちろん使い方によるんだと思います。しかしながら気をつけていなければその仕組みが私たちの価値観に与える影響って大きいのではないでしょうか。まさに人を消費するっという方向に傾いていくということがやっぱりあるかなと。


女性の場合男性のようにわかりやすい性的な消費ということではないにしろ、女性の間でも男性のことを「物件」というような言葉で表現したりしますよね。あーこの人は収入はいくらいくら、身長はこれくらいで、顔もいいかんじ、優良物件ね、みたいな。ですから情欲というときにそれは単純な性欲だけの話ではない。男女関係なくそういう相手を消費する心、相手から何を得られるかというところに心が向いていく時、これが情欲の正体なのではないでしょうか。そしてそれは絶望的に隣人を自分自身のように愛するということとはかけ離れている。だからこそはイエス様は厳しいことをおっしゃっているのではないでしょうか。


さて情欲と訳されているギリシャ語の言葉単体では必ずしも性的な欲望という意味を持つものではいそうです。どちらかというと「渇望する」とか「強すぎる欲」とかまあそういう意味だと。情欲の何が問題なのか、相手の人間性を否定し、消費するマインドになるということを先ほど見ました。でもう一つがこれです。渇望する。つまり、I must have it これがなくては生きていけないという、そういう強く過ぎる欲望にブラックホールのように飲まれてしまうということに問題がある。2010年以降インターネットポルノは薬物中毒と同じくらいの中毒性があるという研究結果がいろいろと出ているそうです。中毒性だけでなく、その影響で脳の機能不全が出てくる、やる気、集中力が落ちるということが脳科学的にもにもわかってきているようです。スマホが登場してからというもの、このエリアで苦しむ人が増えたことは間違いないのではないでしょうか。これから育っていく子供たちのことを思うと、心配になります。


 さてもちろんここ聖書で言っているのは医学的にどうこうということではないです。けれど性というものは容易に偶像になりうるということ。性がなくては自分の人生には意味がない。まあそこまで自覚的に思っているかどうかは別として、性がメディアにあふれているこの世の中で気づけば、流されているということがあるのではないでしょうか。そしてそれはもちろんそれはいわゆるポルノだけの話ではないですね。たとえば彼氏、彼女がいなければという恋愛至上主義、結婚していなければ人生に価値がないと思ってしまう等。そういう形の性に対する執着、あるいは依存というのもあるでしょうね。GKチェスタートンという昔のイギリスのクリスチャン作家がこんなことを言っています。

売春宿のドアをノックする男は皆、神を捜している


まあこれも男性的な目線ですけれども。何が言いたいのかというと、本当は神様しか埋めることのできない心の穴を、人は性的な欲望を満たすことで埋めようとする。まあそういう傾向があるということですね。神様を渇望する、そのように私たちの心には穴が開いているんです。にもかかわらず、神様ではなく私たちはSEXで男女の関係でそれを埋めようとする。どうがんばっても埋まるはずがない。欲して、欲して、満たされない、ブラックホールのように吸い込まれていく。そこに問題がある。そしてこれは単なる中毒だけのお話ではないです。結婚関係の中でもこれは起こりうることです、夫や妻で自分の心の穴を埋めようとしてしまうなら、埋まるわけがない(既婚者は深くうなづいていることでしょう)。つまり既婚者、シングルにかぎらず、自分を満たすものが、まず第一に神様でないなら、それは危険信号なんですね。


 さて、重ーい話をしていますけれども皆さん。なんとかついてきていただいているでしょうか。なんとなく言っていることはわかる。でもじゃあどうすればいいの?解決策はないのか?そう思ってらっしゃるかもしれません。

 ということで後半29-30節見ていきたいと思います。


もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。


なるほどそうすればいいのね、とはいきませんね。いやいくら何でも目をえぐりだす、手を切って捨てるってクレイジーですよね?ですからもちろん、文字通りということではない。教会史の中ではこれを文字通り実践した人もいたようですが、右目をとっても左目がありますし。それに体の部分を切り落とすということでいえば、もっと切り落とさなければいけないところあるだろっということになりますよね(明確にいいませんけれども)。。。体が悪いわけではない、体に問題があるのではない。どこに問題があるのか、イエス様はおっしゃいました、心に問題があると。ですからイエス様が手を切り取る、目をえぐるという時に、それは文字通り体を切り刻めということではなく、それぐらい大胆な方法で、あるいは犠牲覚悟で対処をしましょうということを意味しています。まずもってそれぐらいに情欲というのは軽く見るべきではない、真剣に向き合いなさい、とイエス様はおっしゃっているということです。そしてこの部分「からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」前回のメッセージでやりましたが、ゲヘナというのは地獄を象徴する言葉でした。つまり情欲を軽く見ていると、火のように燃え広がる、だからどんな犠牲を払っても早い段階で切り捨てろっとこうイエス様はおっしゃる。


じゃあ具体的にどういうことかというと、それは自分を情欲に駆り立てる要因となりうるいっさいの道を断つということです(たとえそれ自体に何の害がなくとも)。人によってはスマホじゃなくてガラケーにするとかね(僕の友人に実際そうした人いました)。人によってはお酒を飲むと自制心が弱くなるからお酒自体を断つということも必要かもしれませんし。人によってはSNSの使い方を考えるとかね、私はインスタグラムを個人的に安全に使用するのが難しいと感じたのでアプリごと消しました。あるいは自分で見るべきエンターテイメントを選ぶとかね、映画やドラマのシーン、それぞれ自分の心に影響があるレベルというのは違うと思います。これくらい大丈夫と思うのではなく、ちょっとでも影響があるなら、もう見ないという決断をする。あるいはお付き合いをしている方がいて、情欲のほうに持っていかれるなら、付き合い方を考えなおす、ルールをお互いで決める。対処法は人によって様々です。他人がこうこうこうしなさいと律法的に言えるものではない。けれどポイントは情欲をかけらも入れてはならない、火だねを入れない、これぐらい大丈夫だろうは、すぐに燃え広がります。燃える可能性のあるものは全て断ち切る、だいぶと手前で、大胆に、犠牲が伴ったとしても断ち切る。ガラケーは不便でしょうね、ネットも自由にできたほうがいいでしょうね、別に気にせずエンタメも見れたら楽でしょうね、けれどその結果罪の火が自分の中に燃え広がるよりはいい。情欲の量をコントロールしろではない、おおもとを断ち切れ。オールorナッシングのアプローチです。


もう一つ重要な要素、これひとりでは戦えない。もし情欲で葛藤を覚えてらっしゃる方がいらっしゃたら、ぜひ信頼できるクリスチャンに打ち明けて相談してほしいなあと思います。もちろん男性なら私でもいいですしTimさんでもいいですし。私は幸いなことにそういう誘惑にあったとき、葛藤をシェアできるクリスチャンの友人のライングループが学生のころからありまして、まあもう全員日本にいるおじさんなのですけど。そこで祈ってもらったりとかですね非常に力になります。とにかく一緒に戦ってくれる仲間が必要だと思うんですね。でこういうパーソナルな問題を他人にシェアするっていうのは、特に男性にとってものすごく抵抗を感じると思います。それこそ犠牲が伴うものなんでしょう。けれど必要なら思い切ってその手段をとっていきましょう。


三つ目、神様と自分の関係を改めて見直す。先ほどもちょっと触れました。情欲というのは性を偶像化することだと。神様よりも性を欲している状態っていうんでしょうか。でそれは、その穴は結局うまらない。だからこそ神様に癒しを喜びを見いだせていない時に危うくなります。改めて自分はなぜ神様にそれらを見いだせないのか、ということを見つめなおし、主が癒しを満たしを与えてくださるように祈る。忙しすぎて、神様との時間を持てていないなら、少し仕事のペースを落とすとか。生活パターンを見直すとか、いろいろ方法はあるかなと思います。情欲と戦うのは、我慢することを学んで、何かそれによって聖くなりましょう、ってそういうことではない。性は素晴らしいものです、神様からのギフトです。けれどそれにとらわれてしまうなら、そこに自由はない。主にある喜び、満たしにこそ本当の自由がある。その自由を勝ち取るための戦いなんですね。


さてとはいえ、とはいえ、これも繰り返しになりますが、私たちは罪人です。ですから毎回この戦いに完全勝利とはいかないでしょう。そして敗北するときには、恥、罪悪感、自分を責める心、そういったものがつきまとうかもしれない。だからこそイエス様の十字架が必要で、悔い改めて、前を向いて進んでいけばいいんです。最後に姦淫を犯して捕まった女性にかけたイエス様の言葉を見て終わりにしたいと思います。


 わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。

ヨハネ8:11

性的な罪は赦されない罪ではないです。そんな罪は十字架の前には何一つない。すべての罪を赦してくださり、私たちを新しく生まれ変わらせてくださる。それがイエス様の十字架です。けれどそれで終わりではない。行きなさい。今からは罪を犯してはなりません。とイエス様はおっしゃる。ですからこの声に励まされ、悔い改めて前を向いて戦うことをあきらめず進んでいくものでありたいと思います。


2024.02.04

燃える怒りの取り扱い方(マタイ5:21-26)

 

マタイ5:21-26


21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

マタイ5:21-22

 

まず21節の部分、「殺してはならない」は出エジプト記20:13と申命記5:17にある十戒の第6戒の言葉です。6番目の戒め。いやというよりそんな解説は別に必要はないほど、人を殺してはならないっていうのは当たり前の話ですよね。特に聖書を知らなくたって、それに対して「いや、そんなことはない!」という人はいません。今の時代世界のどこに行ったって基本的に殺人は犯罪で、さばきを受けます。でそこが一般的によく善人と悪人の境目として見られているのではないでしょうか。よく聖書の中の「罪」についてお話をすると、「自分は善人ではないかもしれないけれど罪人と言われてもピンとこない、人を殺したわけでもないし。」というようなことをおっしゃる方いらっしゃいます。

 

 けれどイエス様はそこで終わらない。続いて22節しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。イエス様はいきなりハードルをぐんっと上げてこられる。この中で人を殺したことがある人はいますかっと聞いて手が上がることはまずないでしょう。けれども人に対して腹を立てたことがある人はどうでしょうか、と聞けば間違いなく全員の手が上がるのではないでしょうか。もちろん人によって怒りやすさには個人差があるでしょうね。あるいはその怒りの表現の仕方もそれぞれじゃないでしょうか。特に日本人は、本音と建て前がありますので、キレて怒鳴り散らすっとか、暴力をふるうというケースは多くないかもしれません。そうではなくて、たとえば口論になるとか、もうちょっと陰湿になると陰口を言うとか、愚痴をこぼすとか。あるいは最近で言うと、もはや直接自分の怒りの原因とは関係なくても、自分の抱えている怒りのはけ口として、ネットで誹謗中傷、暴言コメントを書くだとか、いろいろあるかなと思います、ただどのような表現になるにせよ、いやもっと言うと外に出さずに自分の中でぐっとこらえて持っているだけだったとしても、怒りというのはイエス様曰く裁きの対象になるということですね。


 さすがに当時聞いていた人は驚いたことでしょう。殺してはならない。っという戒めは守っている、けれど腹を立ててはならない、そんなこと言いだしたら全員アウトではないかっと思ったのではないでしょうか。でここは非常に重要なポイントです。どれだけ自分は善人だとおもっていたとしても、イエス様の仰ることに真摯に向き合おうとするときに、いやこれ人間には無理だっということを知る。私にはできない、やっぱり罪がある、だからこそイエス様の十字架が必要なんだと。さて話を進めていく前に、押さえておかなければならないのは、怒り=罪ではないということです。この箇所さっと読んだらそのように読めてしまうかもしれません。けれどそうではない、なぜなら福音書見ていく時にイエス様ご自身が怒るシーンが複数回出てきます。自分のためにというよりはどちらかというと、人のために怒るシーンですが。ということは聖書において怒り自体は感情として罪ではなくニュートラルな位置づけになっているということですね。しかしながら人間が怒るとき、それは要注意です。何に対していかっているのか、何のために怒っているのか。ここですね。悪に対する怒りは逆に必要だったりするわけです。けれども怒りの取扱いをまちがえるとエライことになります。パウロもこのように言っています。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

エペソ4:26

怒っても罪を犯すなということは、怒りと罪は別物ですね。しかしながら、怒っている状態というのは非常に罪を犯しやすい状態になるということなのではないでしょうか。だから続いて「憤ったまま日が暮れるようであってはいけない」とあるのではないでしょうか。たとえ正当な理由があって怒ったとしても、そのままの状態に長い時間自分をおいてしまうと、罪を犯してしまう可能性がどんどん高まるっということです。


 さてマタイの福音書もどりますが。怒りを表すギリシャ語はパッと燃え上ってすぐ収まるものと、長く根に持つものの2種類があるそうです。で今日の箇所22節で使われているのはこの後者の長く続く怒り、でそれが問題だと。人への怒りが長く続くと、どうなるでしょうか。段々その人のいろいろなところが鼻につき、気に入らなくなって赦せなくなっていく。そしてその感情は言葉となって出てきますね。直接相手にぶつける言葉なのか、あるいは陰口、悪口となっててでくるのか。そこらへんが22節後半ですよね、兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。最高議会っというのは今でいうところの最高裁という感じでしょうか。燃えるゲヘナっというのは、っちょっと馴染みないかもしれませんので一応解説をしておきますとイスラエルにある実際の場所の名前になります。ゲヘナで意味としてはヒノムの谷。そこはかつて旧約の時代に忌々しい偶像礼拝が行われている場所でした。自分の子供を偶像にいけにえにとしてささげらる場所だったんですね。(2歴代誌なんかで出てきます)。ですから後に穢れた場所とされ、ゴミ捨て場になりました。そこでは常にごみが燃やされ文字通り火が絶えない場所になったんですね。で次第に神の裁きの象徴の場所として見られるようになった。まあですから平たく言って地獄です。陰口、悪口を言ったら最高裁で裁かれて、地獄行。ちょっとさすがに厳しすぎませんって思いますよね。

 

 けれどイエス様がおっしゃりたいのは人の持つ人に対する怒りというのは、私たちが思っている以上に危険だということです。怒りを持ち続ければ、持ち続けるほど、私たちの心はむしばまれていく、どんどん膨らんでいくんですね。そして最終的には「あんな奴いなくなればいい」というところまで行ってしまう。「自分の人生から切り捨てる」っていうこと言ったりしますよね。でその究極の形が殺人だと。その大元とになっているのが、実は私たちの中にある怒り。だから表面的にただただ殺してはいけないという律法をまもっていても仕方がない、その原因となる怒りをどうにかしなくてはいけないと仰っている。さてとはいえ冒頭でも言いましたように腹を立てない人間なんていないわけで、それほど怒りというのは私たちの日常生活に転がっています。腹を立てないようにするなんてことは果たして可能かってやはり思いますよね。


少し話がそれますが、パワハラが良く問題になる昨今、ビジネスの世界ではアンガーマネージメントという怒りと向き合う心理トレーニングがあるというのを耳にしたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。一般的にも怒りという感情の取り扱いについては気をつけなくてはならないという認識が広まってきているということでしょう。でその中で言われているのはそもそも怒りというのは二次感情だというんですね。つまり怒りが起こってくる、さらに深い層には、本来分かってほしい感情である『一次感情』がある。でその一次感情というのは、悲しみ、虚しさ、心配、寂しさ、苦しみ、焦り、罪悪感などなど人それぞれです。そしてそういう感情が底にあるがゆえに結果として怒りが表面化してくるそういう仕組みだそうです。インターネットで見つけた記事ではこのように説明されていました。怒りの感情が起こる様子は、火をつけるライターに例えることができます。ライターに火をつけるには2つの要素が必要で、1つは着火石、もう1つがガスです。ガス、つまり燃料は先ほど言っていた一次感情、苦しいと悲しいとか疲れたとかですね。でもう一つの要素、着火石つまり火種の部分は「~するべき」「~あるべき」という自分が普段信じていること、判断基準だそうです。人によっていろいろありますよね、文化によっても違うんじゃないでしょうか。夫はこうあるべき、妻はこうあるべき、上司はこうあるべき、仕事とはこうあるべき、挨拶はするべき、クリスチャンはこうあるべき、常識的にはこうだとか、当然こうでしょっと思っていること。でそういった自分の中にある「べき」が裏切られると、火花が散って燃料である一次感情に燃え移り、怒りが燃え上がるというそういう仕組みだというんですね



なるほど確かに振り返ってみますと、自分が余裕があるとき、リラックスしているときに怒ることはあまりないなあと思いますし。「~はこうあるべき」という考え方が強い人ほど、自分にも人にも厳しめで怒る傾向にあるのではないでしょうか。


最近まさにそれを実感することがありました。まあ昨年末からですね、右足の神経痛が再発しまして。基本起きている間はずっと地味に足が痛い、しびれがあるっという状態です。でこの図で言いますと結果常に燃料のところに「痛い」、あるいは「不安」、「このままでやっていけるのか」という思いがたまっている感じですね。でそんな時にちょっとしたことがきっかけで数週間前、妻と口論までいかないですけど、私が一方的に悪いんですが、勝手に怒ってしまったということがありました。でそのきっかけは別に大したことではなかったんです。けれどもどこかで妻には私のこの痛みの状況を理解してほしい、(いや十二分にケアしてくれてるんですよ)それでも私の方の甘えで「もっとわかってほしい」「もっとわかってくれるべきだ」っという思いがありました。それが火種になって痛みや不安に引火して、勝手に私のなかで怒りに変わったんだと思います。妻には申し訳ないなあと思います。同時に相手が妻以外の他の人だったら、そこまでケンカにはならなかっただろうなあとも思いますね。一方的な期待っていうんですかそういうものがあったから怒りになってしまった。


 でまあ私の話はいいんですけれども、アンガーマネージメントの世界ではこの火種と燃料をなるべく減らしてコントロールしましょうっというのが一つあるみたいですね。そもそもなるべくマイナスな感情、つまり怒りの燃料となる思いを増やさないように、適度に休息しましょうとか、自分をケアしましょうよとか。そして火種に関しては、自分の中にある「~するべき」「~あるべき」っというのは本当にゆずれないものなのか、しっかりと客観的に考えて本当に許容できないものとできる者を区別する、そのような訓練をするそうです。


 なるほどなあと読んでいて思いました。ある程度そのようなテクニックも役には立つでしょうけれども、やはり罪人あある私にはそういう人間的なテクニックだけでは不十分なのかなとも思うんですね。では私たちクリスチャンはこの怒りの火種と燃料にどう向き合うのか。まず燃料の方から行きたいと思います。悲しみ、虚しさ、心配、寂しさ、苦しみ、焦り、こういった感情をどするか。3つぐらいオプションがあるんじゃないでしょうか。①とにかく我慢する、耐える、日本人ぽいですねえ。どうでしょう結局限界が来てある日プツンと切れてしまうかもしれません。②人にシェアする、助けてもらう。我慢するよりはよさそうです、コミュニケーション大事ですよね。けれども人間には限界がありますし不完全です。だから結局勝手に裏切られたと思ってしまうのがオチじゃないでしょうか。③それらのマイナスな感情、思いを主のみ前に持っていく。神様苦しいです、しんどいです、痛いです、どうか私一人では背負いきれないこの重荷を背負ってください。(マタイ11:28)と主のみ前に思いを葛藤を注ぎだす。もちろんそれでインスタントにそれらの状況がよくなるとか、マイナスな感情がなくなるっということではないでしょう。それでも主の前にただただ自分の重荷を下ろすということは非常に大事ですね。


次に自分の中にある「~するべき」「~あるべき」という火種の方の取り扱いです。どちらかというとこちらのほうが重要なのかなと思います。人としてこうあるべきだ、常識的にこうだ、それぞれ皆さん持ってらっしゃる、言い換えればそれぞれの正義っていうんですか。聖書的に言うと人間の義ですね。人が本当に腹を立てるとき、自分が本当は悪いんだけどなんて思いながら怒っているということはほぼないですよね。自分が正しいんだ、相手が間違っている、そう信じているからこそ、怒るわけでしょう。正義と正義がぶつかる、だからこそケンカというか中互いというのは深く大きくなってしまうわけです。


 私たちはそれぞれ自分が正しいと思っている、それが怒りの原因のひとつなわけです。。けれども本当の意味で正義、義を持っているのはイエス様しかいないと聖書は言います・(ローマ3:10)私たちはどこまでいっても罪人で完全な正義なんて持ってないんですよね。ですから本当の意味で「こうあるべき」といえる権利をもっているのはイエス様/神様しかいません。だから相手に自分の義である「~するべき」「~あるべき」をぶつけるのではなく、それを十字架の前に持ってくる必要があるんですね。今日の箇所、個人的に非常に刺さりました。というのも私は比較的「べき」が強い人間だと自分でも思います。これはこうあるべきなんだ、こうするべきなんだ、そういうこだわりが強くて(妻にもよく指摘されるんですが)。もちろん間違ったことは、間違っていると主張する、コミュニケーションをとる、それらは大事です。けれど自分の持っている「~べき」自分の義というのは絶対ではないということを忘れてはならないなと思います。下手をしたら、律法学者のように勝手に自分で作ったルールをあたかも絶対的なものであるかのように掲げ、正義だと思っていないだろうか。そしてそれら自分がもっている「べき」はブーメランのように自分に返ってきます。最終的にこうあるべき、あああるべきなんだと他人ばかりではなく自分の首を絞めてしまう。その「~あるべき」をすべて背負って十字架にかかってくださったのがイエス様なんですよね。だからそのイエス様が十字架につけてくださったそれらの「べき」、自分の正義を勝手に自分でまた持ち出すのではなく十字架の前で主にゆだねる。裁くのは私ではなくあなたですっと、明け渡すということですね。


 さてとはいえ、これで怒りが完全に解決するのかというと、もちろんそうではないでしょうね。やっぱりそれでも腹は立つだろうし、ケンカも、いざこざも起こしてしまう。それが人間なのではないでしょうか。


ある牧師さんが、面白いことをおっしゃっていました。世の「怒り」の対処、いわゆるアンガーマネージメントの目標は自分の感情のコントロールであるのに対して、聖書の「怒り」の対処の目標はそもそも相手との良い関係づくりを念頭に置いていると。そこが圧倒的に違うっていうんですね。ですからそもそも腹を立てないというのがゴールではなくて相手との良い関係づくり、これが大事だと。なるほどなあと思いました。ですからイエス様は腹を立てるなと言うだけではなくして、23節以降実際に怒りで関係が悪くなってしまった場合、その後どうするべきかということを語ってらっしゃいます。26節まで読んでしまいましょう。


だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら、 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

マタイ5:23-26


これ注目していただきたいのは、23節以降はもはや怒りの感情、あるいは恨みを抱いているのは自分側ではなく、すくなくとも文面上では相手側だということです。23節兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、25節ではあなたを告訴する者とは、っと。つまり相手が怒っている場合のはなしをしているわけです。でその場合においても和解に向けて自分から動きなさいっとイエス様はおっしゃるわけ。「自分だけ怒りの感情をコントロール出来たらそれでいいわ、勝手に怒っておいてちょうだいよ」とはいかない。ではなくて、自ら仲直りできるように動きましょうということ。これがどれだけ大事なのかということが、23節-24節から伝わってきます。供え物をささげようとしているときに、恨まれていると思いだしたなら、供え物は置いて仲直りをしに行けと。つまり神様の礼拝よりも、人間関係が大事だということではなくして神様との関係(縦の関係)と人間関係(横の関係)両方良好ではじめて礼拝が成り立つということですね。赦せてない相手がいるのに、神様を礼拝しても意味がないよっと。でもう一つ、供え物を備えるの場所はどこでしょうか。エルサレムですね、で今イエス様がこのメッセージを語られているのはどこか、ガリラヤです。距離にして歩いたら2日ほどかかる。エルサレムで「アッ私恨まれている」と思ったら2日かかって戻って、仲直りして、また2日かけてエルサレムに帰ってきて礼拝をする。いやそんなコスパのわるいっと思ってしまいますが。それぐらい和解するということは、最優先なんだとイエス様はおっしゃっているということですね。


 さてではどのように和解すればいいのか、さらっと仲直りしなさいと書いてありますが、そんなに簡単じゃあないですよね。特に相手側の怒りが持続している場合どうしたらいいのか。でまあ答えはシンプルで、自分の悪かったところは謝る、そして相手を赦す。これしかない。まあ口で言ったらシンプルなんだけどこれが難しい。難しいですね。大人になればなるほど難しいんじゃないでしょうか。自分が正しいと思っているから


ここでも重要になってくるのはが、やはり自分の中にある「べき」、自分の義、正義の取り扱いなのではないか。なぜなら自分に正義があると思っているうちは、自分から和解のために動くのは難しいです。和解するということは、自分側の非は認めて謝るということを避けては通れません。もしかしたら相手が9割悪いのかもしれない、けれども、相手に対してきつい言い方をしてしまった。悪口/陰口を言ってしまった。あるいは心の中でそのようなことを思ってしまった。それら含めて100/0で自分が正しい、相手が全て悪いということはおそらくないでしょう。ですからここでも自分の正義、をイエス様の十字架の前にもっていくっということが大事です。自分が正しいと思っているそのことは言ったんイエス様にお預けする。そして私たちは自分のちっぽけな正義を十字架の前に持っていく時に気づくんですね、圧倒的に大きく完全な正義を持ってらっしゃるイエス様が、まず私たちを赦してくださったということに。十字架の上で「父よ彼らをお許しください」っと100/0で悪い私たちのためにイエス様は祈ってくださいました。


 そうして自分は赦された者なのだ。っということに目を向けるとき、本当の意味で自分には正義がないということを私たちは知り、相手を赦す。自分の悪かったところは認め和解へとアクションを起こすことができるのではないでしょうか。


さてとはいえ、とはいえ、和解のため自分から動けばすべての人間関係が修復されるのかっというと、もちろんそうではない。自分が相手を赦し、自分の非を認めたとしても相手は怒ったままということは現実的にあるでしょうね。また和解するということは、イコール元の関係に戻るということでもないでしょう。ローマ人への手紙にこのようにあります。


だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。


ローマ12:17-18


自分に関する限りとあります。相手の反応までコントロールはできません。問題は自分側の責任として、できうる限り和解にむけてのアクションをとるということ。そして後は主に委ねる、ということです。


どうでしょうか、皆さん人生振り返っていただいて、赦せていないなあとか、逆にあの人に謝らなきゃなあというかた、頭に浮かぶでしょうか。赦すって、謝るって難しいですよね、難しいです。ほぼ不可能。自分の力だけではできません。だから十字架が必要で、主よどうか私が自分が赦されたように、人を赦すことができるようにしてくださいと祈りたいと思います。


 まとめに入ります。皆さんご自身が、イライラしている、怒りにとらわれているっということに気づいたなら。まず自分はなぜ怒っているのだろうかということに目を向けていただきたいなあと思います。悲しいから怒っているのか、苦しいから怒っているのか、心配だから、不安だから、恐れているから怒っているのか。そういった怒りの燃料になる、マイナスな一次感情、重荷を自分で頑張って背負うのではなく、是非一緒に背負って下さっる主のみ前に注ぎだしてください。そして自分の中にある義、「~するべき」「~こうあるべき」っというちっぽけな己の正義を、十字架の前にもっていくということ。そうするときにイエス様がまず私たちを赦してくださったんだということを知り、相手を赦し、自分もごめんなさいと言えるようなるのではないか。主がその力を与えてくださるようお祈りしたいと思います。


2024.01.07

幸せとは?(マタイ5:1-12)

 

新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。さてマルコの福音書のシリーズ昨年末で終了しましたので、新しいシリーズに入っていきます。新シリーズはマタイの福音書5-7章ピックアップしたいと思います。よくこの部分は山上の垂訓、あるいは山上の説教と呼ばれる部分でして、福音書に記されているイエス様の教えの中で最も長い部類に入ります。長いだけではなくして非常に内容がぎっしり詰まっているといいます。キリストの弟子になるということ、イエス様につき従っていくというのはこういうことなんだよ、ということが教えとしてまとめられている有名な箇所です。読んでいただければ、聞いたことあるなという言葉がいくつか出てくると思います。日本語のことわざのもとになったものも出てきますね『豚に真珠』とかその代表なのではないでしょうか。だいたい4月くらいまでかかるかなあと思っていますが皆さんとじっくり学んでいければと思います。さて早速ですが聖書読んでいきましょう。

 1 この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。


 今読んでいただきました。この部分は山上の説教の中でも八福の教えと呼ばれている部分です。なんか七福神っぽい響きがありますが、もちろんそういうご利益的なことを言っているわけではありません。ここの部分繰り返し出てくる言葉がありますね、「幸いです」です。3節からずらーっとそのリストがあるっといった感じでしょうか。でまあもちろんカウントの仕方によっては9つあるわけなんですが、11節以降は10節の説明と考えると8つ「幸いです」とそれで八福の教えと呼ばれています。


どういう人が幸いなのか、単純にリストアップしてみますと

心の貧しいもの(3節)

悲しむ者(4節)

柔和な者(5節)

義に飢え渇く者(6節)

あわれみ深い者(7節)

心のきよい者(8節)

平和を作る者(9節)

義のために迫害されている者(10節)


このような人たちは幸いだとイエス様おっしゃる。リストご覧になっていかがでしょうか?どのようなこと皆さん感じられるのか。幸いとはいったい何でしょうか。幸い、まあ端的に言って幸せって何でしょう?誰しもが幸せになりたい、幸せでいたい。そう思うのは人間の常です。インターネットでこのようなアンケートを見つけました。20代から50代までの日本の男女500人を対象とした「幸せ」に関するアンケートです。

まず一つ目の質問「あなたは今幸せですか?」

30%くらいが幸せだと、これは多いと思うのか、少ないと思うのか?皆さん自身はこの質問にどのようにお答えになるでしょうか。

二つ目の質問「普段どのようなときに幸せを感じますか」。日常で感じる幸せ、一番身近なリアルな幸せっていうんですか。そういう瞬間それぞれあるかなと思います

おいしいもの食べるとか、趣味の時間とか、旅行、家族・友人との時間とか。

三つ目の質問、この質問が一番今日の箇所に関係あるかなと思いますが。「幸せに必要だと思うものは?」まあこれさえあれば自分は幸せになれる、あるいは幸せでいられるもの


お金

健康

自由な時間

家族・パートナー

精神的なゆとり

居住環境(家持ちとかでしょうか)

趣味

友人

っというまあいうなればこれが一般的な幸せのリストになるかなあと思います。今日読んだ箇所に合わせていうとすれば例えば

お金がある人は幸いです。人生が安定するからです

健康な人は幸いです。何をするにもまず健康でなければ始まりません

っといった具合でしょうか。

けれどもイエス様のおっしゃるリストに上にあげたものは一つも入ってきません。どういうこと何でしょうか。このポイントに関しては最後に戻ってきたいと思います。頭の片隅に置いておいてください。


さて今日お読みした個所。文章的にわかりにくいところはないのではないでしょうか?けれどその意味を深く考えていく時に、いったいイエス様はこのリストを通して何をおっしゃりたかったのかということはなかなかどうして読み解くのが難しいかなと思います。

まず八福の「教え」というぐらいですから、一見すると「このようにありましょうね」という目標にすべきリストに見えるのではないでしょうか。特に後半がそうですよね、7節以降あわれみ深い者(7節)心のきよい者(8節)平和を作る者(9節)義のために迫害されている者(10節)。迫害されるを除けば、あわれみ深くありましょう。心のきよいものでありましょう。平和を作るものでありましょう。まあそういう道徳的な教えとして通りそうです。けれど問題はリストの前半です。心の貧しいものでありましょう。あるいは悲しむものでありましょう。っというのはちょっとね。自分から進んでそうある必要はさらさらないわけで。どういうことなんだとなってしまう。


そこでよく言われるのが、心の貧しい状態というのは、とにかく謙虚にあるということなんだと。「心の」つまり霊的な謙虚さっていうんですか。自分の信仰や行いではなく、自分を空っぽにして神様に頼っている状態だという説明ですね。で悲しむというのは自分の罪に悲しんでいる状態のことを言うんだ。っと。だからこのリストにあるような生き方を目指しましょうっというそういうメッセージになってしまいがちです。もちろんそのニュワンスがないわけではない、先ほども申し上げたように、あわれみ深くある、心がきよくある結構です。しかしながらよくよく見ると、こうしたら幸せになりますよという構文にはなっていないわけですよね。「心を貧しくすれば、幸せになりますよ」ではなくて「心の貧しいものは幸いです」と言っているだけ。つまりこうなったら幸せにりますよという条件、あるいは目指すべき道徳的な要素ということでイエス様はこのリストを挙げられたのではない。っということです。では一体このリストは何なのか?


でそれを読み解く鍵はイエス様がどのような文脈で、どのような人たちにこの山上の説教を始められたのかというところにあります。誰に向かってイエス様語られたのか1節にありました。


この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。(1節)


弟子たちが身元に来た。っとここですぐに12弟子を想像してしまいがちですが、実はこの時点でまだ12弟子はいないんです。10章まで12弟子はでてきません。4章戻っていただくとわかりますが、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師が弟子になるシーンがでてきます。12弟子で言うとまだこの4人だけ、そして23-25節


イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群集がイエスにつき従った


マタイ4:23-25

4章がここまでで今日の箇所が始まっていきます。ですからイエス様はもちろんペテロ達弟子に向けられて語られたわけですけれども、同時にこのイエス様についてきた群衆に向けても語られた。ということです。でその群衆とはいったいどういう人たちだったのか。さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人でありました。そしてそれは単に身体的、精神的な病に苦しんでいる人たちということだけではなくして、当時社会からつまはじきにされ、虐げられていた人達を意味していました。なぜなら当時医療も福祉もあったもんじゃない。ですから病にかかっても、保険も病院もない。障碍者になったって障害年金もありません。ですからそのような人たちは生きていくので精一杯、いや生きていくのでさえ危うい、そういう状態の人たちです。加ええていうのであれば、当時ユダヤ教的な目線で言っても病気になるというのは、自分もしくは家族の罪の結果、呪われた者とみられていました。ですから一般的にも、信仰的にも底の底にいる。そういう人たちにイエス様はおっしゃる。


心の貧しいものは幸いです(3節)。です。

間違いなく集まっている人たちは貧しい人ばかりです。まず単純に経済的に貧しい。そして経済的な豊かさと貧しさはユダヤ教的に言えば霊的な面と直結します。そこに区別がそもそもない。当時の彼らの感覚からしたら、信仰的に霊的にしっかりしていれば豊かになる、罪人は貧しくなる。まあそういう世界観です。ですから現代的なお金はないけど、心はきよいなんて見られ方はしないんですね。ですから心の貧しい者というのは、物質的にだけではなく、霊的にでさえも、何もオファーできるものがない人たちっということです。そしてそれはまさにこの教えを聞いていた群衆のことでありました。その人たちに対してイエス様はおっしゃる。天の御国はその人たちのものだと。


続いて悲しむものは幸いです(4節)。

でこれは罪に悲しむものっとかそんなきれいごとではなくして、シンプルに悲しむものっととっていいのではないでしょうか。社会から追いやられ、自分の価値を見出すこともなく、病や、痛みを抱え、悲しんでいる人、落ち込んでいる人たちですね。


続いて柔和なものは幸いです。(5節)

柔和って言葉ほとんど使いませんね。もちろんそこにはへりくだる者。謙虚なものと言う意味もありますが。低くされているもの、もっというと押さえつけられている者、虐げられているもの、弱き者という意味にも訳せるみたいなんですね。つまりローマ帝国に押さえつけられ、パリサイ人にも、律法学者にも押さえつけられ社会の底辺にいるような人たち、聞いていた群衆はそういう状態にありました。


続いて義に飢え渇くものは幸いです。(6節)

これはどうか。なんかこうよさそうに聞こえますよ、義に飢え渇くって非常に道徳的な響きがあるじゃないですか。けれどよく考えますと、義に飢え渇いているっということはその人たちの周りに、義は「ある」のか「ない」のかどっちですか?ない、ないです。だから飢え渇くわけでしょう。義がない状態。つまり自分が罪を犯しているということもさることながら、周りから不当に扱われたり、人間関係がめちゃくちゃだったり、人生がとっ散らかっている状態っていうんでしょうか。そういう状態にあって義を欲している、そういう人たちが集まって来ていた。


そのような、当時おそらく周りからも本人自身も「きっと自分は神様から呪われているんだ」とそのように感じていた人たち対して、あなた方は幸いだとイエス様おっしゃった。


つまりこのリストは、こうすれば神の御国に入れますよっ、こうなれば幸せになりますよというそういう、目指すべき目標のリストではなくして、このような人たちにさえ、いやこのような人たちにこそ、神の御国は開かれているんですよっという宣言なんですね。だからイエス様あなた方は幸いです。呪いではなく祝福を宣言される。少なくとも今見たリストの前半は道徳的なリストというよりは、そこに集まった群衆のあるがままの状態を表しているように見えます。

 集まった群衆は、衝撃を受けたことと思いますね。きっと彼らは、どうすれば神の御国に入れるのか、どうすればこの最悪な状況から幸いになれるのか、ある意味ハウツーの教えを期待していたはずです。けれどイエス様はそんな彼らに対してまず祝福を宣言される。あるがままであなた方は受け入れられている、あなた方は幸いだと。山上の説教がここから始まっていくということにも注目して考えるとなおさら腑に落ちるかなと思いますね。まず祝福、そして誰ももれることなく、すべての人にしたいして、特に苦しんでいる人に対してイエス様の仰る神の御国は開かれている。っという宣言。それがあったうえで、その後キリストについて行く、弟子となるっというのはこういう生き方なんですよ、ということが展開されていく。こうこうこうしたら、受け入れられるではなくして、神様に受け入れられているという前提からスタートしていく。それが福音です。


 さてとはいえですよ、集まったすべての人間の病がいやされたのかっというと恐らく癒されない人もいたのではないかと思いますね。もっと言うと、すべての人は経済的には貧しいまま家に帰らなければならなかったでしょう。悲しみに暮れている人の悲しみがインスタントに消えたということでもないと思います。っとするとイエス様いったい何が幸いなんですかっとこういいたくなってしまいます。

もう一度リスト見てみましょう。

3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。


7節この世界で、あわれみ深い人は、いつもいつもあわれみを受けるでしょうか?そうとは限らない。3節柔和な人は、地を受け継ぐ、つまり国を治めたりするでしょうか?どちかというと権力と力が席巻していますよね。だからぱっと見これがすべてこの生きている間に実現するということを言っているのではないんだろうなということはお分かりになるかと思います。じゃあ天国に行ってから、つまり死んで復活して、イエスキリストが再びこの地上に来られる、そのときに癒されたり満たされたりっという、そういう未来の約束のことをここで語っていらっしゃるのか。別の言い方をすれば、今はつらいけど何とか耐えて、我慢してとにかく天国を待ち望めってっとそうおっしゃっているのかというと、必ずしもそれだけではないのかなと思います。


これ日本語で見るとわかりにくいですが、英語で見てみましょう。

“Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

“Blessed are those who mourn, for they shall be comforted.

“Blessed are the meek, for they shall inherit the earth.

“Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they shall be satisfied.

“Blessed are the merciful, for they shall receive mercy.

“Blessed are the pure in heart, for they shall see God.

“Blessed are the peacemakers, for they shall be called sons[a] of God.

“Blessed are those who are persecuted for righteousness' sake, for theirs is the kingdom of heaven.

 

 現在系の動詞と未来形の動詞と混ざっている。で現在系の動詞を見ると幸いです。っということと3節10節にある「天の御国はその人たちのものだ」っというこの二つです。でそれに挟まれるような形で2-9節までの約束(shall~)が未来形で書かれている。つまり既に神の御国はあなたがたのものなんだけれども、その祝福が100%になるのはまだだよ、それはキリストの再臨を待たなくてはならい。っというそういう状態に私たちはいるんですね


 っということは、イエス様が心の貧しいものは幸いだという時、それは遠い未来のことだけではなく(もちろんそれも含むんですが)、既に受け取ることのできる祝福が100%ではないけどはあるよと言うことなんですね。


 ではこの貧しいものが、悲しいものが、追いやられているものが、弱いものが、この世において価値のないとされるものが、おおよそこの世界において「幸せ」とはま反対にいる人たちが今受け取れる「祝福」「幸せ」っとはいったい何なのでしょうか。だってこの世は言いますよ、冒頭で見ましたね。幸せになるには

お金

健康

自由な時間

家族・パートナー

精神的なゆとり

居住環境(家持ちとかでしょうか)

趣味

友人

 

が必要だと。クリスチャンだってそう思いますよね。信仰を持ちつつ、わかりやすい形で祝福されたいじゃないですか。もちろんそれは悪いことじゃない、これらが与えられたら感謝です。しかしながらイエス様の幸いです。のリスト、八福の教えにはこういったものが入っていません。っというかどちらかというと、そんな状態は不幸ではないか、逆だろうっとというようなそういうリストでした。なぜか


 でそれは、おそらくイエス様はここで「幸せ」とはどういうことなのかということを再定義されたということなんだと思うんですね。再定義っていうちょっと難しい言葉使いましたけど、つまり私たちが思う幸せをひっくり返された。っということです。幸せをひっくり返すイエス様。ひとつ前の4章でこのようにあります。

 悔い改めなさい、天の御国が近づいたから

マタイ4:17


でこれこそがイエス様の福音のメッセージでありました。神の御国が近づいた、だから悔い改めよ。でこの悔い改めるというのは、よく言われることですけれども、方向転換を意味します。180度変えるということ言うことです。生き方を考え方を180度神様の方向転換する。そこでイエス様はまずもって、「幸せ」とは何かと言うことに関して180度考え方を変え方を変えましょう。そういうことをおっしゃっているのではないでしょうか。

 だってそうでしょう。もし幸せに必要なものが、お金であり、健康であり、家族であり、友人であり、精神的余裕であり、っということなのであれば、それを失ったじてんで終了。幸せにはなれない。けれどもイエス様はおっしゃる、いやいや神の御国の視点で考えるときに、幸せ、幸いというのは、周りの状況に依存しないんだと。むしろ心の貧しいものほど、悲しむものほど、自分には価値がないと思っているものほど、本当の祝福に目が開かれることがある。ではその本当の祝福とはなにか?シンプルですが神様との関係なのではないでしょうか。「主がともにいてくださる」というこのシンプルな祝福を最も感じやすいのは、お金持ちではなく、貧しいものであり、健康なものよりも病を負っているものであり、才能に満ち溢れ力があるものではなく、弱いものであり。っとそういうことがある。そういうこの世が定義づける幸せとは別の祝福に目を留めることができるなら、それこそが本当に幸いなことなのだっと。


 でこれは非常にチャレンジです。私個人的にもものすごくチャレンジでした。っといいますのも、ちょうどクリスマスあたりから、また例の神経痛が再発しまして結構よくない。なんとか薬で押さえていますが、痛みの中に今あります。めちゃくちゃひどいわけじゃないけど、強めの薬がないと気になって眠れないという感じでしょうか。まあそういう状況で、痛みや不便さもさることながら、ああまたいつ治るかわからない、治らないかもしれないっというこの不安の中を通らなければならないのかっと。まあ正直葛藤があります。もちろんね、来週には治っていてということもありうるし、ずーっと治らないかもしれないし、わかりません。でもそれが堪えます。

 でそのなかにあって、悲しむものは幸いです。というこのイエス様の言葉を真正面から受け止められるのか。確かに痛みがあるから自分の力ではなく、神様の力に頼るようになるんでしょうし、祈る時間も若干増えたような気がします。でもやはり私はまだどこかで、健康なほうが幸せだよなって。もっと正確に言うと、健康がなければ幸せになれないだろっと思う気持ち。そして一方で主はこの状況を用いてくださるのかな、そういう気持ちの間で葛藤している。これが私のリアルなところですね。でもおそらくそういうプロセスを通して、神様を近くに感じるようになるのではないでしょうか。

 皆さんの今の状況はどうでしょうか、イエス様が挙げられたようなリストに当てはまっているのか、それともいわゆるこの世が定義づける幸せのリストに入っているのか?誤解しないでいただきたいのは、お金がある、健康がある、余裕がある、そういう状態が悪いということではない。もし自分がどちらかというと、持たざるものではなく、持っているほうだなと感じるなら別に罪悪感を覚える必要はない。神様に感謝して受け取ってください。そして大いに人のため、神様のために用いてください。目に見える祝福があるということは素晴らしい間違いなく神様が与えられるものです。ですから自ら貧しくなりましょうとか、苦しみに会いに行きましょうというのは絶対に違います。けれどもし皆さんの中に、もし悲しんでいる人がいるなら、苦しんでいる人がいるなら、自分は貧しい、価値がない、そう思っている人がいるなら、イエス様の仰ったこの祝福、幸いを受けとることができるように、私も含め、お祈りしたいと思うんです。イエス様はおっしゃった。


心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちの者だからです。


神様はそのような人たちとともにいてくださる。この幸いに目を留めたいと思います。


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