2024.03.03
①復讐の闇、愛の光
さあっということで、今日もマタイの福音書5章の続きをやっていきたいと思います。今日の箇所はクリスチャンではない方でも言葉だけは聞いたことがあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。「右の頬ぶたれたら左の頬も向けなさい」とか「敵を愛しなさい」という言葉ですね。
読んでいて内容として理解するのに難しいところは、それほどないのではないでしょうか。しかしながらこれを実際に実行していくということを考えるときに、現実的に実現可能なのかということを思わされる非常にチャレンジな箇所だと思います。早速前半部分の5:38-42を読みたいと思います。
②
38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
マタイ5:38-42
まず38節「目には目で、歯には歯で」と出てきました。クリスチャンではない人も聞いたことあるかもしれませんね。古代ハンムラビ法典、学校の世界史でできたのを覚えているよ、と言う方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかしながらもちろんイエス様がここでお仰っているのは、ハンムラビ法典のことではありません。旧約聖書の律法のことをおっしゃっている。
③
もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。
レビ記24:19-20
どうでしょうか、「目には目を」ってちょっと野蛮なひびきというか、暴力的というか、そういう印象を受けます。そして何なら「やられたらやり返せ」という復讐を煽っているような感じさえします。
④
皆さん突然ですがこの映画ご存知でしょうか。「ジョンウィック」、キアヌリーブスがとにかく銃を撃ちまくるという、非常に単純なアクション映画なんですけれども。ストーリーはざっとこんな感じです。キアヌリーブス演じるジョンウィックは元伝説の殺し屋でした。しかしながら今はもう足を洗っているという状態です。悲しいことに愛する妻を亡くし、残った愛犬と静かにくらしていたジョン。そんなある日、ガソリンスタンドで若者が近づいてきて、ジョンの愛車を売ってくれという話を持ち掛けます。けれどジョンはそれを断るんですね。この若者、実はロシアマフィアのボスの息子でありました。プライドを傷つけられたと思った彼は、ジョンの家に乗り込み暴行のかぎりをつくします。その際にジョンの愛犬が命を落としてしまう。それを見てジョンは再び殺し屋としての自分に戻る決心をして復讐をするというストーリーです。結果このマフィアの息子、そしてほぼマフィア全員を殺してしまう。ジョンも代わりに彼の友人も殺されたりするわけなんですが。。。ただ「車を売ってくれなかった」ということからスタートして最終的には数えきれないほどの死人を出すという結末を迎えます。
っというまあ映画ですから、痛快な復讐劇として描かれていま。けれど復讐というものの恐ろしさがここにあります。復讐というものは必ずエスカレートする。子供のケンカもそうですね、最初は「バカ」っと悪口、けれど手が出て、足が出て、もう最終大ゲンカになりどちらかが泣いてしまうといような。子供ならかわいいものですけれど、大人は行くところまでいったら戦争にまで発展しますよね。いまだに戦争がなくならないのも基本的にはこの復讐の連鎖です。⑤数年前にこんなドラマもありましたね。半沢直樹。そしてこのあまりにも有名なセリフ「やられたらやり返す、そっくりそのままだ」ではなく「倍返しだ」っと。復讐は倍返しの連続を生んでしまう。
聖書戻ってきますが。そういう復讐という人間の破壊的なサイクルを、せき止めるために与えられたのが、この律法だとういうことです。「目には目で」。つまり目をやられたら、命まではとるな、目には目だけで我慢しないと。ちょうど同じ分だけ罰を与える。(専門用語では同害報復法なんて言ったりするようです。)そしてそもそも、この律法は個人で行う復讐を禁ずるもので、裁判で行き過ぎた罰ではなく公平な裁きと罰をっという文脈で語られているものなんですね。そういうことを踏まえて読むと私たちが思うほど、この律法が残酷で野蛮なことではないというのがお分かりいただけるかと思います。
⑥さて問題は次です。「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。」そしてあの有名な「右の頬たたかれたら左の頬も向けなさい。」という言葉につながっていきます。今あげた、ジョンウィック、半沢直樹、に限らず、時代劇の忠臣蔵など仇討ちの話はたくさんあります。日本人は復讐劇が大好きです。なぜなら見ていてすっきりする。でその感覚はどこから来るのかというのは正義を求める心です。悪しきは罰せられるべきだと。やられたらしっかり報復をする、それこそが正義を保つための唯一方法なのだと私たちは思っています。けれどイエス様はおっしゃる。悪いものに手向かってはいけません。でその御言葉を読んでいる私たちは思います。えっイエス様それじゃあ正義はどうなるんですかっと
ここで誤解されがちなのが、この「手向かってはならない」の意味です。手向かってはならないと聞くと、なされるがまま、何もせずにただただやられるのをじっと我慢する、というような印象を受けるのではないでしょうか。けれどそうではない。多くの神学者はこの「手向かってはならない」とは、何もしてはならないではなくして、暴力をもって仕返しをしてはならないという意味だといいます。つまり復讐にとらわれるな、仕返しをするなというニュアンスですね。ですからもちろんイエス様は、社会にある悪や不正を放置しなさい、とにかく何もせずに我慢しなさい、と言っているわけではない。相手の間違いは指摘しつつも、悪に暴力をもって立ち向かうのではなく、別の方法を模索しなさいっとおっしゃっている。やられたらやり返す、ではなくて、やられっぱなしで我慢するでもなくて、別の第3の道。
そしてこれは当時非常に身近な問題でありました。なぜならイスラエルは当時ローマ帝国に支配されていたからです。ですからローマ兵はあちこちにいて、支配されている側のユダヤ人たちは不当に扱われることも日常茶飯事。自分たちは神の民だという誇りがあるユダヤ人の中には、いつか目にもの見せてやるという思いがふつふつとあったに違いありません。したがっていつでも剣を持って戦う、暴力に訴えたいという機会が日常に転がっている状況だったことが容易に想像できます。そういう日常を背景にイエス様は3つの例を用いて暴力に訴えるのではない別の道を提示されます。一つ一つ見ていきましょう。まず一番目
⑦あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(39節)
これは実際にやったほうがわかりやすいと思いますので、ちょっとショウ君前に出てきてもらって。右の頬を打つとありますね、右利きの人が普通平手打ちをするとき左の頬にあたるわけです。っということは右の頬を右手で打つには、手の甲でパチンとはたく形になる。そしてこれが当時の文化的に最も侮辱的なたたかれ方でありました。主人が奴隷を打つとき、ローマ兵がユダヤ人を打つとき、このようなたたき方をしたんですね。物理的な痛みというよりは人の尊厳をうばう暴力です。「お前は私より下の人間だ」と主張するたたき方でした。でそのようにたたかれたときイエス様は左の頬もむけなさいとおっしゃる。そうするとどうなるか、たたく側はもはや右手の甲ではたくことはできません。どうしたってグーで殴るか、手のひらで打つかになります。そしてそのたたき方は立ち場が対等な相手にのみ行うたたき方だったんですね。つまり左の頬を差し出すことによってたたかれた側は「私を打つなら、打てばいい、けれど私はあなたより下の人間ではなく対等な人間だ」という主張をするということになります。やったらやり返すの精神ではなく、暴力に訴えるのでもなく。けれどただただやられるのではなく、相手の間違いを指摘する非常に知恵のあるアクション。もちろん関係なくボコボコにする人もいるでしょう。けれど可能性として相手の暴力を留められるかもしれない。相手に考える機会を与えるっていんでしょうか。
2番目
⑧あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40節)
ローマに支配されていた当時、重い税金で多くの人が経済的に苦しんでいました。結果自分の土地も奪われて、それでも借金が返せないという状態になることは珍しくありませんでした。そして下着が借金の担保に要求されることがありました。ですからこのシーンは裁判所です。裁判で下着まで担保に取られた、そういう時はイエス様は上着もやりなさい。とこうおっしゃる。⑨当時の基本的な服装はまず下着と呼ばれるシャツですね。でその上に上着とを着る。シンプルな服装です。ズボンとかそういう概念はありません。基本この2枚の服しか着ていない。で裁判所で下着が担保にとられて上着まで差し出すとどうなるか。シンプルですね真っ裸になる。そしてユダヤの文化的に裸になる側ではなく、裸を見る側が恥を被るという価値観がありました。ですから上着も差し出すとによって、どれだけその相手がひどい搾取をしているかということを周りに露呈することができるんですね。そして願わくば、それを通して相手が悔い改める機会を与えるという、アクションです。
3番目
⑩あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい(41節)
当時ローマの法律でローマ兵はユダヤ人を含め、支配している住民に自分の荷物を1ミリオン(約1.5km)まで運ばせても良いという法律がありました。いたるところにローマ兵はいるわけですよ、ですから家族で出かけているときであろうが、仕事中であろうが、ローマ兵がやってきて「おい、そこのお前俺の荷物を運べ」と言われたら全部いったんおいて、従うしかありませんでした。非常に屈辱的な瞬間だったと思います。さてここでのポイントはローマの法律が許容していたのは1ミリオンまでというところです。それ以上を強いるのは禁じられていました。荷物を運ばされて1ミリオンの距離まで来ました、けれどそこでとどまることなく荷物を運び続けたらどうなるか。今度はローマ兵側の都合としてちょっとまずいわけですよね。もしこのことが上官にばれたら、どうしようとなる。まあ基本的に誰も見ていないから気にしない、あるいは見つかっても「こいつが勝手にやったこと」と言い訳する兵士もいたでしょう。けれど中には、「うーんそろそろおろしてもらえるかなあ」っという兵士も出てくるかもしれない。相手を権力で押さえつけるのとは全く別の、暴力ではなく相手に仕えることによって得られる力。第3の道をイエス様は示された。
さて立て続けに見てきましたがどうでしょうか、なんかもう一休さんみたいな頓智の話のようで聞いてて面白いですし、さすがイエス様天才っというそういう感じがしますよね。けれど気をつけなくてはいけないのは、これ決してテクニックの話をしているのではないということです。知恵を尽くせば、何か道が開ける、相手も変わるっということでは必ずしもない。結局はボコボコにされたり、すべて奪われたり、搾取されて終わりということは大いにあります。また私たちが何かされたとき、単純に暴力に頼らなければOKということではない。もちろんされるがままではなく、知恵を用いて何が間違っているのかということを相手に伝える、主張するということは大事です。けれど頓智を利かして相手を懲らしめましょうではないんですよ。それでは結局ちがうかたちの復讐になるだけです。ですから復讐の連鎖を断ち切るには、結局は相手を赦すということが必要になってきますし、あるい程度の痛みを自分でぐっとこらえて耐えるということが必要になってくる。どうしたって簡単ではない。パウロはローマ人への手紙でこのように書いています。
⑪
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」… 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
ローマ12:19,21
復讐の心は神様にお預けして、悪をもって悪に対するのではなく、善をもって悪に打ち勝てと。
そして後半イエス様はさらにこうおっしゃる。43-48節
⑫『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
「自分の敵を愛せ」です。「復讐するな」だけではなくして、敵を愛する。そんなことが可能なのか?けれど悪に悪をもって打ち勝つのでなく、善をもって打ち勝つというのであれば、「知恵」だけではなくおそらくこの愛というものが不可欠なんですよね。どのようにすれば敵を愛することができのか。詳しく見ていきましょう
まず43節「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」っと出てきます。でこれまた旧約聖書の引用になんですね。
⑬復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。
レビ記19:18
さて見ていただければわかりますが、敵を憎めという言葉は出てこない。ここだけではなく旧約聖書のどこにも出てきません。ではなぜ「敵を憎め」が出てくるのか?それは当時の人がこのレビ記の箇所をそのように解釈したからです。「隣人を愛しなさい」と言われたときにまず出てくる質問は、「じゃあその隣人って誰のことをさすの?」です。でそれは基本的に同国民、つまり同じユダヤ人のことをさすというのが当時の一般的な解釈でありました。ですから当然同じ国民のユダヤ人は「隣人」として愛する。けれどその愛する隣人を苦しめるローマ人は敵として憎む、ということが教えられるようになったのだと思います。
でそれは今でもあまり変わっていない、人間はみなそうじゃないですか。人は自分の仲の良い人、自分と似た考え方の人、自分に見返りをくれる人、自分と似たようなバックグラウンドを持っている人を愛します。いわゆる自分が持っている枠の内側にいる人っていうんですか。そういう境界線を私たちも無意識にでも持っているのではないでしょうか。けれどイエス様はおっしゃる
⑭自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
マタイ5:46-47
そうではなくして、自分の枠の外側にいる人も、いやもっと言えば敵と言えるような人も愛しましょうっと。つまりは境界線をひろげなさい、いや広げるだけではなく取っ払ってしまえ、とイエス様はおっしゃる。ですから結局「隣人を愛する」というのは誰でも区別なく愛するということを意味するんですね。
⑮さて隣人について考えました。次じゃあ「愛する」とはどういうことか考えたいと思います。愛という言葉、わかったようでわかりませんね。まず一般に愛ということを語るときに、それは感情を意味する場合が多いのではないでしょうか。愛=好きになる、好意を持つというようなですね。けれどイエス様の語る愛というのはどうやらそういう感情のお話しではない。なぜならだれでもかれでも好きになるなんて現実的ではないです。ましてや自分を攻撃してくる敵、恨みを持っている相手を好きになどなれるはずがない。じゃあ愛するってなにかというと、それは意志であり、行動です。と抽象的に言ってもわかりにくいでしょうから、イエス様具体的におっしゃってますね。44節あたり敵を愛し、その人のために祈れっと。でこれはアイツに罰が当たりますようにというそういう祈りではないです。主の祝福を祈るっということ、相手が悔い改めて自分の罪に気づくということも含めて、相手の最善を祈るっということです。それが敵を愛するということの第一歩。これは非常に難しい、そんなことを思えるわけがない。でも逆に言えば感情はついて行かなくてもいいんです。とりあえずやる。敵を愛するということは、敵のために祈るということから始まります。そして小さな一歩でいいと思うんです、行動で愛をしめしていく。47節にありましたね、挨拶をするとかそういうところから、初めてもいいかもしれません。苦手だなと思っている人、自分とはあわないなあと思っている人にあえて挨拶をする。そこから関係というのは始まっていきます。
さてではなぜそうまでして敵を愛するべきなのか、イエス様の提示する理由はシンプルです。なぜなら神様とはそのようなお方だからと。45節
⑯
天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
マタイ5:45
神様はいい人にも悪い人にも恵の雨を太陽をそそいでくださる。そしてそれは決して、神様が罪を見過ごしているっということではない。最終的に罪の裁きはされるわけです。けれども恵は差別なく、惜しみなく注がれる。それが神様っというお方なんですね。いやもっと言うと恵の雨、太陽、その他の祝福だけではなく、もっと貴重なものを神様は、分け隔てなく私たちに与えてくださった。それがイエス様の十字架です。
⑰しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ローマ5:8
そのようなキリストの愛を受けているんだから、、それを隣人だけにではなく、あなたの敵にも流しましょうっとこうおっしゃる。
さて「敵を愛する」言葉で言うのは簡単です。そして私自身正直ですね一生赦せないと思うような敵に幸いまだ人生で出会ったことがない。ですから、この箇所を取り扱う、メッセージをするというには非常に経験不足としか言いようがありません。自分でもメッセージしてる自分に対してどこかで思ってしまう。「口ではどうとでもいえるだろうと」。けれど忘れてはならないのは、これはイエス様の言葉であるということ。そしてイエス様は口だけではなく。実際にこの教えを生き抜かれました。先ほども見ました、罪人である私たちのために死んでくださった。そしてそれだけではなく、イエス様のことを十字架にかけて直接殺した相手のために、十字架の上でこう祈られたんですよね。
⑱
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
ルカ23:34
そんな悪に対して悪を返すのではなく、愛をもって戦ったイエス様の足跡をたどるよう私たちクリスチャンは召されている。ということを今日覚えたいと思います。悪に悪ではなく愛を持って戦ったと言えばこの人、マーティンルーサーキングジュニアまさに彼は復讐や暴力ではなく、愛をもって人種差別という悪に戦った人でありました。そして彼のインスピレーションは、まさに今日見た個所から来ています。以前にも紹介したことがありますが、彼の言葉を紹介して終わりにしたいと思います。差別をしてくる相手に対する言葉です。
⑲「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。…(中略)覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。」(マーティンルーサーキングジュニア)
自由を勝ち取るだけでなく、「あなたがた」つまり、苦しませている相手の心も勝ち取る。これが 私たちが受け取ったキリストの愛です。
一言に敵と言ってもいろいろあるでしょう、日常生活において憎しみが抑えられないような相手に出会うということはそう多くないかもしれません。単純に夫婦でケンカして、相手が敵のように思える。まあそういうレベルの話もあるでしょう。皆さんにとって「敵」とはどんな人でしょうか、頭に浮かんでいますでしょうか。
来る一週間、その人に挨拶をする、何か相手のためにできることをする、気持ちが乗らなくても相手のために祈る。小さなことからでいい、できるところからでいい、さばきは主に委ねて、憎しみという闇にとらわれるのではなく、赦し、イエス様が下さった愛の光のほうへと一歩一歩踏み出していくことができるように。
お祈りしましょう。