2024.02.18
『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
マタイ5:27-30
はい、どうでしょう。今日初めて教会に来られた、あるいは聖書を開いたという人がもしいらっしゃったらちょっと強烈ですね。もちろんこのセクションは第一にキリストの弟子たちに向けて語られていますので、クリスチャンに対するメッセージということになります。ですからクリスチャンでない方からすると、やっぱり宗教って「性に関してはお堅いのね」とか、「なんと前時代的な」っという印象受けるかもしれません。もしかしたらクリスチャンであってもえ?そうなの?っという方もいらっしゃるかもしれません。
特にこの箇所取り扱うテーマが非常にパーソナルということともさることながら、表面的にさっと読んでしまいますと「性欲を持っていたら地獄行」というふうに読めてしまいます。しかしながらもちろん、もちろん、そういうことではない、じゃあどういうことかということをまあ今日お話しさせていただきたいと思います。
がそのまえに前置きをさせてください。今日の箇所のテーマは必然的に性とかSEXといったものに入っていきます。教会学校に小さなお子さんたちは出ているかと思いますが、もしちょっと内容的にどうかなと思われたら、気にせずお子さんを連れて退出していただいて大丈夫です。なるべくexplicitな表現は避けますが、そこら辺は親御さんの方針もあるかと思いますので、ご自身の判断でよろしくお願いいたします。前置き二つ目、どうしてもやはりこの性というパーソナルなテーマを取り扱っていくうえで、メッセージの受け取り方は様々になるかなと想像します。それぞれの性別、状況、経験、過去の傷、トラウマなんかによってですね。ですから私の表現あるいは言葉によって傷つく人がいるかもしれません。しかしながら前提として決して語っている私はパーフェクトで、皆さんを裁きたい、そういうことではないということは心にとめていただきたいと思います。ただ私の祈りとしては、この箇所を通して神様が私自身を含め皆さんの心に触れて下さり、癒されるべきところ、悔い改めるべきことをそれぞれ示してくだる。そして何より主にあって情欲から自由になるということのすばらしさが伝わればと思っています。
27節「姦淫をしてはならない」とありました。前回からイエス様が律法を引用してその真意を語るというセクションにはいっていますが、これまたモーセの十戒で第7番目の戒めになります。姦淫ってね、あんまり言葉として使いませんけれども要は不倫です。自分の夫、妻以外の人と性的な関係を持つということ。どうでしょう、現代で不倫は犯罪ではありませんが、まだ一般的に間違っているという認識があると言っていいでしょう?なんかそれも時代とともに変わってしまいつつのかもしれませんが、今のところは日本でもアウトっという認識ですね。有名人の不倫はもう間違いなく炎上しますし、何ならそれが原因で活動自粛とかねよくニュースで聞きます。で旧約聖書の律法でも姦淫は、不倫は、当然アウトですよっとそして、さばきの対象になります。ここまではいいでしょう。
しかしながら問題は28節ですね「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」怒りの時もそうでしたが、急にハードルが上がります。実際のアクションではなく心という表面的にはわからないところでも情欲を抱くならアウトだとイエス様はおっしゃる。えーっ、いやもうそれは厳しすぎる。っというかそんなことを言い出したらもう世の中の男性すべてアウトでしょっとまあこう思われるのではないでしょうか。いやもちろん情欲というのは、男性だけの問題ではない。女性が男性に対して情欲を持つということはあるでしょう、けれどもやはり比べてしまうと男性の方が弱いエリアと言わざるを得ない。そもそもイエス様はここで男性へ向けて語られているので、どうしても今日は男性視点よりのお話しが多くなると思いますがご容赦いただきたいと思います。もちろん女性にも適応できる部分も語っていきますので、男女限らず、心を柔軟に耳を傾けていただければ幸いです。
さて28節一つ一つのことばを詳しく見ていきたいと思います。まず誰でもとありました。ですから当然、これは結婚している人に限った話ではない、独身の人も含まれます。つまりだれでも情欲を抱いて異性を見るならっということです。しかしながらこの「情欲」という言葉が非常に難しい。まずもって単純に普段生活のなかで使わない言葉なのでどういう意味ということもあるでしょうし、冒頭でも言ったようにぱっと見「情欲=性欲」というふうに読んでしまいがちなのではないでしょうか。しかしながらそうではない。なぜならそもそも性欲をお作りになったのは神様だからですね。創世記1,2章を見れば明らかですが、神様はわざわざ人間を女性と男性に作られた、そして当然その体の仕組みを作られたのも神様です。ということはSEXは神様の発明です。そのうえで、「それらは非常に良かったと」。創世記に書いてある。SEXも体も悪ではない、従って性欲も悪ではない、良いものです。で創世記だけではなくして、旧約聖書には雅歌という本があります。でその内容はシンプルにそれは男女の性的な関係を歌った非常に官能的な詩/ポエムになっているんですね。雅歌全部が性というもののすばらしさを伝えるものになっています。そんなものが聖書に一部になっているわけですから聖書はSEXそして性欲に対して否定的であるはずがない。雅歌の最後の章にはこのようにあります。
…その炎は火の炎、すさまじい炎です。 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。…
雅歌8:6-7
性欲、男女がお互い欲するその思いというのは炎、火のようだとここでは例えられている。それくらいに力のあるものだということですね。どうでしょう?火って良いものでしょうか、悪いものかでしょうか? 「答えは使い方による」ですよね。もちろん火があるから、暖がとれる、あるいは料理に使ったり、暗闇を照らすことができる。そういった様々なメリット、良いことがあります。一方で近づきすぎるとやけど、服が燃えてしまうとか、火事とか、破壊的な側面もその持っている力がゆえにあります。火からは多くの恩恵を受けられるけれども、使い方をあやまると、あるいはその安全な囲いを超えて近づくと危険だと。SEXあるいは性欲も同じで、本質的には良いもの、素晴らしいものなんだけれども、使い方をまちがえると、安全な囲いを超えてしまうと危険だというわけですね。聖書は性を肯定して尊ぶがゆえに、大切に取り扱いましょうっといいいます。じゃあその正しい使い方、あるいは安全な囲いとは何かというと、後で詳しく見ていきますが、それは結婚です。結婚という契約・関係でのみSEXは安全に取り扱うことができるし、その素晴らしさというものを最も発揮する。だからそれを壊すような、姦淫、つまり結婚関係をベースとしない性的な関係はだめだよというか、危険だよと言うことをここでイエス様はおっしゃる。
加えてイエス様は実際の行為だけではなく、もうそれは心の中でスタートするのだ、とおっしゃるから、これは非常に複雑というか難しい。なぜなら心で始まると言われればどこまでが性欲で、どこからが情欲なんだと。こうなってしまう。さてそこで注目したいのは情欲を抱いて見るの「見る」という言葉です。この言葉もともとのギリシャ語では「見続ける」というニュアンスがあるそうです。ですからぱっと見るとか、目に入るということではなくして、ずーっと故意に見続ける、見つめるということを意味します。そして「見る」に付随して使用されている<プロス>という前置詞は、「目的に向かって」というニュアンスがありますので、それを全部含めて訳すと。「自分の情欲を満たすために見続ける」となる。ですから例えば道端で美人、あるいはイケメンが目に入って、あーあの人キレイ、あの人かっこいいと思うこと自体はもちろん罪ではない。そうでないと誰も目を開けて生活できないでしょう。パッと目に入る、魅力を感じる、それはいい。けれどその後、二度見するとか、見続けるとか、あるいは見ないにしても性的な妄想を膨らませていくとかですね、魅力を感じた後のこの自分の選択が非常に重要になってくる。そこが境目になってきます。
つまり情欲を抱いて見るというのは、「目に映る相手を自分の欲を刺激し満たす為に利用するということです。」そのプロセスを通して、ものすごく嫌な言い方をすれば、自分の中で相手が、対象の人が尊厳をもった人間ではなく、自分の欲のために消費するモノになってしまうっというところに問題があるんですね。でその最たるものがポルノです。もはや相手が実際に目の前にいる人間でもないわけですよ。自分の都合のいい時に、都合の良い形で、好み通りに、思い通りに手軽に消費するという行為。まあ主にそこの誘惑があるのは男性の方だと思います。一応女性の目線もと思いまして、この「相手を消費する」という観点から何かないかなと妻に聞いてみました。帰ってきた答えは「友達で韓流ドラマにドはまりしている人とかいるかな」。さすがに韓流ドラマ=ポルノという意味ではないです。どう考えたってポルノのほうがアウトでしょう。けれども自分の都合のいい時に、都合のいい方法で、自分の好み通りに消費するという観点から言えば多少なりと共通点があるのではないでしょうか。
いやおおげさだよ、別にそういうつもりじゃあないし。害はないし、迷惑もかけていないし。何がそんなに問題なの?そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。この情欲の危険性は、非常にわかりづらいです。表面的にはすぐにその影響はでないかもしれない。けれどそれは確実に私たちの心を侵食します。相手との関係性、特に異性との関係性において、情欲、つまり「相手を消費する」というマインドが与える影響は大きいのではないでしょうか。関係のベースが相手に「与える」「仕える」ではなく自分が相手からどれだけ「得られるか」という自己中心的な姿勢に知らない間に傾いていく。まあ単純にポルノの場合は性的な満たしを対象から得たい、ゲットしたいということなんでしょうけれども。もし結婚している方なら、性的な面だけでなく結婚関係そのものにおいてその影響がでないはずがない。
前半でも触れました。性というものは結婚とセットでそもそもデザインされたわけです。イエス様も創世記を引用してこのようにおっしゃいました。
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。(マタイ19:4-5)
一体となる、文字通り一つの体となる。もちろん性的な関係も含まれますが、それ以上に死が分かつまで、お互いに与え、お互いに仕え、互いに愛することをコミットする、その契約が結婚です。でこの関係のベースは消費するということとは真逆にあるんですよね。消費するっというのは一方的じゃないですか。良い商品、自分がその商品を気に入っているうちは使い続ける、けれどもっといい商品が出れば買い替える。もしこの消費というものが異性との関係のベースになってしまうのであれば、それは愛ではない。自分の都合がいい時だけ、好きな感情が続く間だけ、自分にメリットがある間だけ関係を続けます。でもっとよさそうな人が現れれば、アップグレードと。そんな基盤でセックスを安全に扱えるはずがない。一体となったもの無理やりはがせば、接着剤でもそうですが、ボロボロになります。そしてそれを繰り返せば傷つくことも減る代わりに、どんどんその粘着力はなくなっていってしまう。
いやいや愛と性欲とは別なんだ、そういう価値観ものこの世にはあるでしょう。けれどこの二つは深く結びついてデザインされていると聖書は言います。都合のいいところだけ、おいしいところだけつまんでいて影響がでないわけがない。そうして知らない間に本来は素晴らしくデザインされている性、性欲、SEXというものが自分の中でどんどんチープになっていき、味のしないものになってしまう。そうではなく良い時も悪い時も、互いに与え、仕え、愛することをコミットする関係、結婚という囲いがあって初めてSEXは安全に扱うことができる。なぜなら結婚は契約だからですね、感情ではない、感情だけなら覚めたら終わりじゃないですか。そうではなく神様の前で誓う。そうして初めて体だけではなく心も魂も一つになる素晴らしい祝福となります。
ちょっと話それますが、先日ラジオで2023年の日本での男女の出会い方のランキングはマッチングアプリが一位になったという話をしていました。いやーもうそういう時代なのかあ、自分もおじさんになったんだなあと改めて思いました。まあもちろん利用者が伸びた要因には、コロナの影響もあるようですが、何よりもタイパ(時間効率)がいいということがあるみたいですね。1日あれば何百という人を閲覧することができてしまう。気に入ればイイねを押してそうじゃなければスワイプして、そういう感じなのかな。「いやもうそれってネットショッピングやん」っとこうおじさんは思ってしまいます。別にマッチングアプリを否定したいわけではない。出会いがない環境でニーズもあるでしょうし、クリスチャンのそういうアプリもありますよね。もちろん使い方によるんだと思います。しかしながら気をつけていなければその仕組みが私たちの価値観に与える影響って大きいのではないでしょうか。まさに人を消費するっという方向に傾いていくということがやっぱりあるかなと。
女性の場合男性のようにわかりやすい性的な消費ということではないにしろ、女性の間でも男性のことを「物件」というような言葉で表現したりしますよね。あーこの人は収入はいくらいくら、身長はこれくらいで、顔もいいかんじ、優良物件ね、みたいな。ですから情欲というときにそれは単純な性欲だけの話ではない。男女関係なくそういう相手を消費する心、相手から何を得られるかというところに心が向いていく時、これが情欲の正体なのではないでしょうか。そしてそれは絶望的に隣人を自分自身のように愛するということとはかけ離れている。だからこそはイエス様は厳しいことをおっしゃっているのではないでしょうか。
さて情欲と訳されているギリシャ語の言葉単体では必ずしも性的な欲望という意味を持つものではいそうです。どちらかというと「渇望する」とか「強すぎる欲」とかまあそういう意味だと。情欲の何が問題なのか、相手の人間性を否定し、消費するマインドになるということを先ほど見ました。でもう一つがこれです。渇望する。つまり、I must have it これがなくては生きていけないという、そういう強く過ぎる欲望にブラックホールのように飲まれてしまうということに問題がある。2010年以降インターネットポルノは薬物中毒と同じくらいの中毒性があるという研究結果がいろいろと出ているそうです。中毒性だけでなく、その影響で脳の機能不全が出てくる、やる気、集中力が落ちるということが脳科学的にもにもわかってきているようです。スマホが登場してからというもの、このエリアで苦しむ人が増えたことは間違いないのではないでしょうか。これから育っていく子供たちのことを思うと、心配になります。
さてもちろんここ聖書で言っているのは医学的にどうこうということではないです。けれど性というものは容易に偶像になりうるということ。性がなくては自分の人生には意味がない。まあそこまで自覚的に思っているかどうかは別として、性がメディアにあふれているこの世の中で気づけば、流されているということがあるのではないでしょうか。そしてそれはもちろんそれはいわゆるポルノだけの話ではないですね。たとえば彼氏、彼女がいなければという恋愛至上主義、結婚していなければ人生に価値がないと思ってしまう等。そういう形の性に対する執着、あるいは依存というのもあるでしょうね。GKチェスタートンという昔のイギリスのクリスチャン作家がこんなことを言っています。
売春宿のドアをノックする男は皆、神を捜している
まあこれも男性的な目線ですけれども。何が言いたいのかというと、本当は神様しか埋めることのできない心の穴を、人は性的な欲望を満たすことで埋めようとする。まあそういう傾向があるということですね。神様を渇望する、そのように私たちの心には穴が開いているんです。にもかかわらず、神様ではなく私たちはSEXで男女の関係でそれを埋めようとする。どうがんばっても埋まるはずがない。欲して、欲して、満たされない、ブラックホールのように吸い込まれていく。そこに問題がある。そしてこれは単なる中毒だけのお話ではないです。結婚関係の中でもこれは起こりうることです、夫や妻で自分の心の穴を埋めようとしてしまうなら、埋まるわけがない(既婚者は深くうなづいていることでしょう)。つまり既婚者、シングルにかぎらず、自分を満たすものが、まず第一に神様でないなら、それは危険信号なんですね。
さて、重ーい話をしていますけれども皆さん。なんとかついてきていただいているでしょうか。なんとなく言っていることはわかる。でもじゃあどうすればいいの?解決策はないのか?そう思ってらっしゃるかもしれません。
ということで後半29-30節見ていきたいと思います。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
なるほどそうすればいいのね、とはいきませんね。いやいくら何でも目をえぐりだす、手を切って捨てるってクレイジーですよね?ですからもちろん、文字通りということではない。教会史の中ではこれを文字通り実践した人もいたようですが、右目をとっても左目がありますし。それに体の部分を切り落とすということでいえば、もっと切り落とさなければいけないところあるだろっということになりますよね(明確にいいませんけれども)。。。体が悪いわけではない、体に問題があるのではない。どこに問題があるのか、イエス様はおっしゃいました、心に問題があると。ですからイエス様が手を切り取る、目をえぐるという時に、それは文字通り体を切り刻めということではなく、それぐらい大胆な方法で、あるいは犠牲覚悟で対処をしましょうということを意味しています。まずもってそれぐらいに情欲というのは軽く見るべきではない、真剣に向き合いなさい、とイエス様はおっしゃっているということです。そしてこの部分「からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」前回のメッセージでやりましたが、ゲヘナというのは地獄を象徴する言葉でした。つまり情欲を軽く見ていると、火のように燃え広がる、だからどんな犠牲を払っても早い段階で切り捨てろっとこうイエス様はおっしゃる。
じゃあ具体的にどういうことかというと、それは自分を情欲に駆り立てる要因となりうるいっさいの道を断つということです(たとえそれ自体に何の害がなくとも)。人によってはスマホじゃなくてガラケーにするとかね(僕の友人に実際そうした人いました)。人によってはお酒を飲むと自制心が弱くなるからお酒自体を断つということも必要かもしれませんし。人によってはSNSの使い方を考えるとかね、私はインスタグラムを個人的に安全に使用するのが難しいと感じたのでアプリごと消しました。あるいは自分で見るべきエンターテイメントを選ぶとかね、映画やドラマのシーン、それぞれ自分の心に影響があるレベルというのは違うと思います。これくらい大丈夫と思うのではなく、ちょっとでも影響があるなら、もう見ないという決断をする。あるいはお付き合いをしている方がいて、情欲のほうに持っていかれるなら、付き合い方を考えなおす、ルールをお互いで決める。対処法は人によって様々です。他人がこうこうこうしなさいと律法的に言えるものではない。けれどポイントは情欲をかけらも入れてはならない、火だねを入れない、これぐらい大丈夫だろうは、すぐに燃え広がります。燃える可能性のあるものは全て断ち切る、だいぶと手前で、大胆に、犠牲が伴ったとしても断ち切る。ガラケーは不便でしょうね、ネットも自由にできたほうがいいでしょうね、別に気にせずエンタメも見れたら楽でしょうね、けれどその結果罪の火が自分の中に燃え広がるよりはいい。情欲の量をコントロールしろではない、おおもとを断ち切れ。オールorナッシングのアプローチです。
もう一つ重要な要素、これひとりでは戦えない。もし情欲で葛藤を覚えてらっしゃる方がいらっしゃたら、ぜひ信頼できるクリスチャンに打ち明けて相談してほしいなあと思います。もちろん男性なら私でもいいですしTimさんでもいいですし。私は幸いなことにそういう誘惑にあったとき、葛藤をシェアできるクリスチャンの友人のライングループが学生のころからありまして、まあもう全員日本にいるおじさんなのですけど。そこで祈ってもらったりとかですね非常に力になります。とにかく一緒に戦ってくれる仲間が必要だと思うんですね。でこういうパーソナルな問題を他人にシェアするっていうのは、特に男性にとってものすごく抵抗を感じると思います。それこそ犠牲が伴うものなんでしょう。けれど必要なら思い切ってその手段をとっていきましょう。
三つ目、神様と自分の関係を改めて見直す。先ほどもちょっと触れました。情欲というのは性を偶像化することだと。神様よりも性を欲している状態っていうんでしょうか。でそれは、その穴は結局うまらない。だからこそ神様に癒しを喜びを見いだせていない時に危うくなります。改めて自分はなぜ神様にそれらを見いだせないのか、ということを見つめなおし、主が癒しを満たしを与えてくださるように祈る。忙しすぎて、神様との時間を持てていないなら、少し仕事のペースを落とすとか。生活パターンを見直すとか、いろいろ方法はあるかなと思います。情欲と戦うのは、我慢することを学んで、何かそれによって聖くなりましょう、ってそういうことではない。性は素晴らしいものです、神様からのギフトです。けれどそれにとらわれてしまうなら、そこに自由はない。主にある喜び、満たしにこそ本当の自由がある。その自由を勝ち取るための戦いなんですね。
さてとはいえ、とはいえ、これも繰り返しになりますが、私たちは罪人です。ですから毎回この戦いに完全勝利とはいかないでしょう。そして敗北するときには、恥、罪悪感、自分を責める心、そういったものがつきまとうかもしれない。だからこそイエス様の十字架が必要で、悔い改めて、前を向いて進んでいけばいいんです。最後に姦淫を犯して捕まった女性にかけたイエス様の言葉を見て終わりにしたいと思います。
わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。
ヨハネ8:11
性的な罪は赦されない罪ではないです。そんな罪は十字架の前には何一つない。すべての罪を赦してくださり、私たちを新しく生まれ変わらせてくださる。それがイエス様の十字架です。けれどそれで終わりではない。行きなさい。今からは罪を犯してはなりません。とイエス様はおっしゃる。ですからこの声に励まされ、悔い改めて前を向いて戦うことをあきらめず進んでいくものでありたいと思います。