メッセージブログ

2024.05.26

傲慢という病と 試練という治療薬(ダニエル4)

 

ネブカデネザル王が見た夢はどういうものだったのでしょうか。さっそく夢の内容を見ていきたいと思います。10-17節の部分になりますが長いので夢の前半は私の方で要約させてください。

まずものすごく巨大な木が王様の夢の中に登場します。その木の高さは天に届くほどで、地の果てのどこからでも見えるほどでした。そしてただサイズがでかいだけでなくして、その木は豊かに実り、あらゆる動物を養っているそんな木でありました。っとここで夢は終わりません、後半はちょっと聖書を実際に読んでいきましょうか

ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。その心を、人間の心から変えて、獣の心にそれを与え、七つの時をその上に過ごさせよ…

ダニエル書4:13-16

 さてこの夢を見たネブカデネザル王は、この夢を見て恐れおびえてしまったっと5節にあります。そしてどうしたか、呪法師、呪文師、星占いたちを集めて夢の意味を聞き出そうとします。けれど残念ながら彼らには解き明かしができませんでした、結果ダニエルが呼ばれます。ここまでの流れ、ほぼ2章と同じですよね。

 ここで少し思うのは、「いや最初からダニエル呼んでよ」ということです。2章であれだけの解き明かしをして見せたダニエルを真っ先に呼べばいいじゃないっと。けれど性懲りもなく、ネブカデネザルは、呪法師、呪文師、星占い、まあ当時で言う王の相談役、を集めます。つまりこの世の知恵に頼ったということです。2章で経験したことから何も学んでないではないかと私たちは思います。けれど同時にどうでしょうか、私たちもまた人生で何か問題が起こるたびに、まず祈るではなくして、まずネットで情報を集めるっという流れになっていないでしょうか。最近AIも話題になっていますが。近しい未来には、祈る前にAIに聞くなんて言う時代がすぐそこまで来ているかもしれませんね。とこのように世の知恵、情報っというものは力があるように見えてしまうもので、考えさせられます。

 さて話を戻しまして、ではこの夢の意味は何だったのか。ダニエルの夢の解釈、解き明かしが20節から始まっていきます。ここも長いので前半は私の方で説明して後半の部分は聖書を開くという形にしたいと思います。まずダニエルは率直に「その夢に登場した巨大な木はあなたです。」と王様に伝えます。この4章の出来事いつ頃の話かというと、おおよそネブカデネザルの統治の晩年だったのではないかと言われています。飛ばして読みませんでしたけれども、ちょっと4節ご覧になっていただいて。

私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき

ダニエル4:4

私の家で気楽にしており」とありますがこれ別にリビングでコーヒーを飲んでた、とかそういうことではないんです。意味合いとしては、もうかなりの領土を征服しきって目立った戦争がなく平和な状態だったということです。つまりかつて彼が抱いていた、偉大な王国を建てあげるという野望が実現した後ということですね。2章の時にもやりました、ネブカデネザル王の時代にバビロンは当時世界で最も富と力のある国となったということが歴史的にわかっています。ですから文字通り、世界で一番巨大な力のある国を建てたあなたはその巨大な木です。っとダニエルは言います。ここまでは特に解き明かしが必要ないくらい誰にでもわかるんではなかなろうかと思います。しかしながら問題は天の御使いが来て、その木が切り倒されてしまうっという夢の後半ですよね。

その部分の解き明かしが24節から始まります。ここは聖書を開きたいと思います。

王さま。その解き明かしは次のとおりです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。(24-25節)

木が切り倒されるということは、ネブカデネザル王に起きる神様の裁きだというんですね。じゃあそれは何に対する裁きなのか、それは明白です。25節の最後のところ、このことによって「あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国を御心にかなうものにお与えになることを知るようになる。」つまり王の傲慢、プライド、自分の力、栄光ばかりを誇っている心に対しての裁きだというわけです。では具体的にどういうことがおこるのか?人間の中から追い出されて、獣のような生活をするとありました。はて?これは何かの例えなのかと思いきや、文字通りのことが起こります。33節

彼は(王様は)人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり爪は鳥の爪のようになった

ダニエル書4:33

実際にボアンソロピー(Boanthropy)と呼ばれる精神疾患が現代でも報告されているそうです。どういう病かというと、もう自分は人間じゃなくて動物なのだと思い込んでしまうという精神病です。ネブカデネザルもそれに侵されたのではないか、そして実際に野で生活するようになり、髪の毛も爪も伸びっぱなしで見た目まで動物に変わっていった。そんな状態になってしまえば、偉大な国の王でもなんでもありません。当然国を治めるどころの話ではない。いやそれどころか人間以下です。パンパンに膨れ上がった王様のエゴか砕かれる、そんな裁きでありました。一つ救いがあったのは、傲慢になったネブカデネザルを神様が完全にほろぼされるということではなかったということですね。26節

ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。

ダニエル4:26

つまり悔い改めて謙虚になって、主こそが、神様こそが、真の支配者であるということを認めれば再び国は固く立ちます。っとそういう救いのある内容でした。だからこそダニエルは裁きが下らないように誠心誠意王様に進言します。27節

それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。

ダニエル4:27

結果どうなったのか。残念ながら結局ネブカデネザルは悔い改めることなく、裁きが下ります。先ほど33節でみた通り、王は獣のようになり、人間以下の生活をするようになります。

っとまあ大筋のあらすじをおってきましたが、ここまで見てきますと冒頭でも申し上げたように2章と非常に似ているのがお分かりいただけると思います。そして似ているのは、話の流れだけではなくして夢を通して語られているテーマも非常に近しいものがあります。それは、主を支配者として王として認めるのか、それとも自分が王なのか。そういうテーマです。覚えてらっしゃいますでしょうか、自分の人生の王座に座っているのは自分なのか、神様なのかということを2章のメッセージでやりました。


 でですね、まあこれは説教者としての都合なので、皆さんには関係ないんですけど。ぶっちゃけ、私はえ?また同じようなメッセージになってちゃうじゃん。っとこう思ったわけです。けれどまあ考えているうちに思いました。いやそれこそが重要なポイントなのではないか。つまり新しい内容では別段ない、中心的なメッセージはかわらない、繰り返しと言ってもいいかもしれない。まさに繰りかえしです。けれど問題はなぜ繰り返されているのかということ。

 ネブカデネザル王が夢を見て、その意味を知りたいというところから、4章は話がスタートしました。つまりネブカデネザルが求めていたのは、知識、「もっと知りたい」ということだったんですよね。で最終的にダニエルが夢の意味を解き明かしをしその夢の意味を「知る」ことができた。しかしながら解き明かしが本当に必要だったのかというと、どうなんだろうかと思わざるを得ません。先ほどお読みしませんでしたが、夢の内容を説明しているシーンに戻っていただいて16節の次17節

それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。(17節)

これ王様本人がダニエルに夢の内容を語っているシーンです。いやもうほとんど、夢の中で夢の意味が明かされてるではないか?っとつっこみたくなります。へりくだって神様を、主を認める。はたから見れば語られていることは明らかだろと思います。しかしながらネブカデネザルにはそれが見えていない。なぜか?でそれは、ネブカデネザルに必要なものは、知識ではなかった、新しい情報ではなかったからです。

ちょっと振り返ってみたいと思います。いいですか2章ではダニエルの夢の解き明かしによって、王様はこんなことができる神はダニエルの神以外いないとほめたたえ(2:47)3章では、先週やりましたね、シャデラク、メシャク、アベデネゴが炎の炉から救い出されたのを見て「このように救い出すことのできる神は、ほかにいない」(3:28)と本人が言ったわけですよ。さすがにネブカデネザル王は心を入れ替えるのではないか。っとこうダニエル書を読んでいる私たちは期待するわけですよね。けれど相も変わらず、主の前に遜ることはなく、自分こそが偉大な王であるという傲慢な態度を持ち続けるネブカデネザルがいます。そして今回4章では三度目の正直だっと言わんばかりに、神様の前に遜りなさい、というメッセージがもう直接にダニエルの口を通して語られます。(27節)悔い改めてください王様と。でどうなったのか29-30節

十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」

ダニエル4:29-30

まず注目すべきは、出だし「12カ月の後」、つまり裁きが下るまでそれだけの猶予が与えられたということです。正確に言うと12カ月どころではないですよね、2章から始まって長いこと、主はネブカデネザルの傲慢を裁かず、あわれみ深く忍耐深く待ってくださった。ダニエルを通して悔い改めるようにと忠告もした、にもかかわらず、彼の口から出てくる言葉は、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。私、私、私、どこまでいっても私の人生。これこそが傲慢という、プライドという、霊的な病です。

ネブカデネザルに知識は十分にありました、主の御業も見た、もう充分「知って」いました。にもかかわらず彼の心の姿勢は変わることはなかった。つまり信仰というのは知識だけでは不十分だということです。先ほどこの世の知恵に頼るのではなく祈りが、御言葉が大事だっという話はしました。まあだからこそ、このように毎週礼拝では聖書からメッセージをし、聖書を読みましょうねと皆さんにお勧めしています。しかしながらその目的が何か新しい情報を得る、つまる「知る」というところだけにとどまってしまうなら意味がない。御言葉を通して、心の姿勢が変えられ、生き方が変えられていかなければ意味がないんですね。

 残念ながらネブカデネザル王の場合、神様のことを「知る」ということだけでは心を入れ変えるまでには至りませんでした。それほどにこの傲慢というもの、プライドという霊的な病は根深い、そして何より本人が気づきにくいものなんですね。さてだとすると私たちはどうでしょうか。私たちも知らず知らずの間に、この傲慢という病が心に根を張ってしまうということはないでしょうか。それに対して「いやいや私はそんな、ネブカデネザルみたいに大成功を収めているわけではないし、所詮庶民だし、俺はすごいんだっと言って誇って傲慢になることはないですよ。」っそう思われる方も多いかもしれません。特に日本人はおそらくそうですよね。控えめ、謙虚っていうんでしょうか。けれども傲慢というものは成功者だけが抱える問題ではないのではないかと思うんですね。

そもそも傲慢、プライドのエッセンスはなんでしょうか?それはネブカデネザルの言葉に良く現れていました。私の権力、私の威光、私が建てた、私、私、私、どこまでいっても私の人生。でこれは人生がうまくいっているとき、つまり成功しているときの症状は割とわかりやすいです。まさにネブカデネザル王のように、私の功績を見てくれ、私がこれだけ良いものに囲まれているのは、私が頑張ったからだ。まあそれを口に出すかどうかは別として、そのように心の中で思っている状態という感じでしょうか。

では物事がうまくいっていない時、プライドはどのような形で表面にあらわれてくるのか?でそれは、愚痴とか、妬みとか、時には鬱、落ち込みっといった形で表面化します。「なんで自分の人生はこうなんだろう」「なんで私だけこうなるんだろうフェアじゃない」「どうせ自分の人生はもうだめだ」っというそういう思い。いやいやこれらのマイナスな思いのどこが傲慢なのかと、思われるかもしれません。しかしながらこれらの思いを掘り下げていくと、そのおおもとに実は、「自分はもっと良いものを受ける資格がある」っという思いがあることに気づきます。なぜなら本当に心底自分が嫌いで自分の人生などどうでもよいと思っているなら、人は落ち込まないからです。現実と理想、つまり本来こうあるべきだと思っているものの間にあるギャップに人は苦しむんですよね。

 さてではこの根深い霊的な病、傲慢、プライドはどのようにしたらとりのぞくことができるのか。どのようにすれば、表面的にだけではなく、本当に心からへりくだり謙虚になることができるのか。 

ネブカデネザル王に必要だったのは、聖書の学びではなく端的に言って試練でありました。遜ることのなかった王様は結局裁かれて、獣のような姿になり、人間以下の生活をすることになりました。そして7つの時が過ぎたと32節に書いてあります。これが具体的に7カ月だったのか7年だったのか、それはわかっていません。まあ重要なのは実際の長さよりも、その数字が持つ意味です。ユダヤ人にとって7というのは完全数、つまり完成するという意味合いがあります。じゃあ何が完成するのか、それはネブカデネザルの悔い改めです。言い換えると「7つの時」とはネブカデネザルが悔い改めるのに必要な年月という意味ではないかと言われています。ここも重要なポイントですね、悔い改めるには時間がかかるということ。何かレッスンを学んですっと心が変わるならば、そもそも試練はいらなかったでしょう。人の心が変わるには時間がかかります。

 そうしてその期間が終わった時34節

その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。

ダニエル4:34

ネブカデネザルはついに天を見上げます。あの傲慢に満ちて全てを見下している状態から、見上げる。自分の目線が、私、私、私と自分にばかり向いていたのがついに神様を見上げるようになる。これが遜るということなんですね。

皆さんもどうでしょうか、霊的に成長したのはいつですかと聞かれたらどのようなお答えになるでしょうか。教会でバイブルスタディをしていて、あるいは説教を聞いていてっという話にはあまりならないのではないでしょうか。やはり帰ってくる答えは、病気をしたときにとか、人間関係で問題を抱えていた時にとか、仕事で悩んでいた時にとか、将来や進路で悩んでいた時にとか。そのような話を聞くことが多い。でそれはやはり試練というものを通して、ある程度の時間をかけて、自分のプライド、傲慢というものが砕かれてはじめて私たちは遜り、霊的に成長するということが多いからだと思うんですね

 かくいうわたしもこのネブカデネザルの物語は読むときに他人事とは思えない。いや俺はすごいだろっというそっちの傲慢はおそらくほとんどないと思います。どちらかというと自分には自信がないタイプです。しかしながら、自分の人生に納得がいかず、落ち込むっというそっち方面の傲慢さというものは長いこと抱えていました。一応過去形にさせてください、まだ完全に治ったわけではありませんが、少しはましになったのではないかと思います。もう何度もメッセージでシェアさせていただいていますが、私は5年前NZに移ってくる前、日本で生活をしていました。そのころの私はずーっとこの傲慢という病に憑りつかれていたんだなっということを今振り返って思います。当時私には理想というものがありました、日本の社会で立派にクリスチャンとして生活する、ある程度社会的にも成功したい、経済的にも安定したい、結婚をして家族をもってっと。いやもちろんそれらすべてが叶うなんてことは思っていませんでした。けれど思い描いたものが何一つ実現しないまま35歳をむかえた私は、静かに自分の人生に絶望していました。「どうせ自分の人生はだめだ」っというそういう思いに憑りつかれていたんですね。そしてその根っこの部分には「もちろん完璧ではない、けれどそれなりに努力してきたじゃないか、自分はもっと良いものを受ける資格があるんじゃないか」っという思いがあったのだと思います。そんな鬱っぽい状態の私を心配して、父がこのような事を言っていのを覚えています。「感謝できることを書き出してみたらいいんじゃないか」っと。非常に知恵ある言葉ですね。傲慢に対する良い薬は確かに感謝だと思います。しかしできませんでした。「感謝だって?どこに感謝することがあるんだ?」っと当時思っていました。これを傲慢と言わずして何というのでしょうか。っとまあ獣のような生活を強いられたわけではありませんが、そのような心の状態で何年も過ごした。次第に私のプライドは砕かれ、主に委ねてNZに来たのが5年前っとそういう感じです。ではNZに来て心の姿勢がすぐ良くなったかと言うと、それでもなかなかこのマイナス思考というのは抜けませんでした。けれども時間をかけて主は、妻を与えて下さり、息子を与えて下さり、この至らないものに牧師という役目を与えて下さり。最近やっと、ふと心から自然に感謝だなあと思うことがあります。

 逆に思います。日本で自分の理想とする人生がかけらでも手に入っていたとしたら、いまでも自分は傲慢という病を患ったままであったろうなと。長い試練の時があり、はじめて、ああ自分の頑張りで人生をどうにかするのではなく、すべては主が与えてくださるものなのだ、受ける資格があるとか、どうとか、そういうことではないのだなと、まあ少しは思えるようになったんだと思うんですね。

遜るということは、すべては主からの贈り物なのだということを信じることなんだと思います。自分の人生がうまくいっているのであれば、自分の頑張りではなく、主が与えてくださった祝福に感謝し、試練に会うのであれば主が何か自分に語り掛けておられるっという見方で受け取る。なかなか難しいですね。特に試練の真っただ中にいるときそれは非常に難しい。けれどそのくらいトンネルを抜けるときに、その先には喜びと賛美が待っている。悔い改めた後のネブカデネザルにそれを見るうことができます。

 ネブカデネザル王は天を見上げ、理性が戻ると、ダニエルが言った通り王国もその手に戻り、何なら以前より栄えたと36節にあります。全ては元通り、けれどネブカデネザルは自分の王国が自分の力で建て挙げたものではなく、主より賜った、与えられたものだということを試練を通して、頭ではなく心で深く学んだんですね。で実は4章冒頭戻っていただいて1-4節を読むと、この顛末を語っているのはネブカデネザル本人だということがわかります。自分が経験したことを思い出しながら王様本人が証を語っているという具合です。注目するべきは2節、

㉑いと高き神が私に行われたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。

ダニエル4:2

真にへりくだる心を学んだネブカデネザルはもはや自分の栄光ではなく、主の栄光を伝えるものへと変えられました。でなにより「私の喜びとする」というところ。遜るものの心は、賛美と感謝と喜びで満たされます。そしてそれはこの世のどんな富、権力、名声にも代えがたい。

皆さんどうでしょうか、ご自身の心をご覧になって、賛美と感謝と喜びがあるのか、それとも、傲慢、自分の力でどうにかしなくては、あるいは自分の人生はダメだという苦々しい思いがあるのか。もし傲慢という病が芽を出しつつあるなら、やはり十字架を思い出していただきたいなあと思います。ネブカデネザルとは対照的に、すべてを捨てて自ら遜り、この地上に来てくださったイエス様。そしてそのイエス様の十字架のゆえに、私たちは受けるに値しない救いを与えられました。そして救いだけではなく人生の全ては恵、与えられたものなのだということを十字架に見出だしていただきたい。さてとはいえ、試練の真っただ中でそのようなこと思うのは難しい。さきほどもいったように心が変わるには時間がかかります。けれど焦る必要はない。なぜなら主は忍耐強くネブカデネザルに寄り添ってくださったように私たちにも忍耐強く寄り添ってくださるに違いないからです。


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