メッセージブログ

2024.07.14

心の穴を埋めるもの

 

「むなしい」それを口癖のように言っていた学生時代を覚えています。何をしてもむなしい、楽しめないと。中学生くらいだったかな、いわゆる中二病というやつでしょうか。いまでも気を付けていないと正直この言葉を口にしてしまうことがある。思い返してみれば私は本当に面倒くさい子供だったなあと思います。どうめんどくさかったかといえば、何か楽しいことやうれしいことがあると、もちろん楽しい!とか嬉しい!という感情が自分の中にありながらも、それの終わりがくることを同時に考えるような子供だった。わかりやすく言うとそうですね。旅行に行く予定があったとします。その旅行が楽しみで、出発の日が近づくにつれてテンションがあがる。あと何日頑張れば、旅行に行けるぞと思うわけです。そして出発当日、車や電車とかで考えることは、ああでもこの旅行も始まったということは終わりがくるんだなあなどと考え始めている。まさに今というその時を楽しめない、そんな子供でした。


 伝道者の書に出てくる最初の言葉「空」ということばも新共同訳では「空しい」と訳されています。伝道者の書は、結構日本人には人気があるみたいですが、わびさびというか、はかなさとか、そこらへんの感じがですね。一方で特に西洋の教会で講解説教の題材として扱われることは結構少ないようです。まあ内容的にもいきなりすべては「空だ」むなしいという一見ネガティブなオープニングを飾るように聖書の中でもかなり異質な内容になっています。もう一つ伝道者の書を難解にしている理由は歴史的背景が神学者の間でもつかめていないという難しさがあるようですね。つまり、誰が、いつ、何のために書いたのかっていうやつ。だからこそ、実際に書いてある内容から読み解く情報だけになるので、解釈が分かれるところが多かったりと、何かと難しい本のようですね。まあ最初に難しいという言い訳をさせていただいて始めていきたいと思います。


 さてこの伝道者の書に出てくる「空しい」は僕が中学生のころ言っていた空しいとは少し違うようですね。それを考えていくうえで、誰がこれを書いたのかというところを探っていきたいと思います。「伝道者の書」ですが新共同訳では「コヘレトの言葉」となっています。「伝道者」と訳されているヘブル語が「コヘレト」というわけですね。英語の聖書では「教師」などと訳されている場合もあります。もともとの意味は集める人という意味で、集まった群衆に教える人、あるいは様々な書物、知恵を集める人いう意味合いで、伝道者、教師などという風に言われているわけです。さて難しい話はさておきですね、じゃあそのコヘレトって実際にいったいいつの誰?っということですね。伝統的には、ソロモンだといわれてきました。実際に伝道者の書の中で語られることがさっき読みませんでしたが2章なんか特に、ソロモンのプロフィール(9節にエルサレムで誰よりも偉大だった)に一致すること、「エルサレムの王、ダビデの子」というサブタイトルもその一つです。ただし最近の研究では、ソロモンよりも後の時代おそらくバビロン捕囚後に書かれた、つまりソロモンではなく別の誰かが書いたという見解が非常に有力だそうです。まあ今日はその詳細に触れると時間がありませんので飛ばします。というのも書いたのはソロモンでないにしろ、筆者が誰であれ、ソロモン王をモデルとして伝道者の書が書かれているという点に関しては一致した見解がる。つまり伝道者の書を読むときに、ソロモン王を読者は思い浮かべて良いということです。筆者がだれかというよりも、あるいは誰であれソロモン王を心に浮かべながら読むということが筆者の意図だということですね。

 さて少し長く退屈な話をしてしまいました。だとすればですよ。「すべては空しい」と言っているのはソロモン王、あるいはソロモン王のような人です。ソロモンはどういう人物だったのか? ご存知のかたも多いと思いますが、少しふりかえりましょうか。列王記、歴代誌に出てきますし。2章に出てくる内容もそれと重なりますが。


神様によって知恵が与えられ、誰よりもかしこかった。 多くの書物や詩をたしなめました。富と名声に満ち、治めていた国は繁栄を極めて諸外国から訪問がくる。7年がけで達成した神殿建設のプロジェクト、(自宅には13年の年月を費やしたわけですが、、)そして700人の妻と300人のそばめ、息子や娘も数多くいたことでしょう。人類史上最も富と名声と知恵に満ちていた。何でも知ってたし、何でもやってきた人ランキングのトップワンといっても過言ではない。



ですからソロモンは中2の私みたいにもの想いにふけって「むなしい」といったわけではない。いったいこの世に生まれて何のために生きているのか?という、その誰しもが、一度は考える質問に真っ向から挑んで、すべてを試した人だった。


快楽だけじゃなく、知恵も

富や名声だけでなく、芸術家としての才能も

世のため、人のため何かを変えようという大義だけじゃなく、安定した平和な日々も

平和だけじゃなく戦争も

家族だけじゃなく、やりがいのある仕事や偉業も


それら全部持って、あるいは経験してなお、それらは「空」だという。「むなしい」という

普段私たちは、思いますねもっと~があればなあって、それらすべてを持っていたのがソロモンです。


この「空」あるいは「空しい」という言葉実は伝道者の書で30回以上登場します。それほど全部が「空しい」ということでしょうか。


英語ではmeaningless=無意味。Absurd=不合理な とかいう訳され方がされていますが。へブル語で“hebel”といいます。英語で言う、意味がない、あるいは日本語のむなしい、空っぽといった意味も間違いではないが、すこしわかりにくいかなと思いますね。


それこそ本当に、無意味で空っぽならこの人生には何の価値もないという結論になってしまう。実はこの言葉ですね、「息」とか「蒸気」という意味もあります。今夏なのでっちょっと想像しにくいとは思うんですが、


毎年クリスマス時期にはですね私の日本の教会は駅前でキャロリングをやるんですよ。駅近の教会ということもあるんですけどね。それで仕事帰りに、教会によるわけです。日本では原付のバイクで通勤してましたから。もうめちゃくちゃ寒いんですよ、何が寒いってね手が寒い。バイク乗ったことある人わかると思うんですけど、手が死ぬほど冷たくなる。そんなんで教会ついてキャロリングの歌詞を手に持って12月の寒空で風がびゅうびゅうふく中歌うからもう寒くてしょうがない。それでもちろんカイロとかで手をあっためたりするんですけど、やっぱり一番原始的な暖の取り方はどうするかといえば、こうやって手を合わせてはーっと息をかける。その時の息って白く見えるじゃないですか。でも一瞬見えてすぐ消える。一応伝わるかなと思って持ってきましたが霧吹き。 一瞬、現れてすぐ消える。 一瞬現れてすぐ消える。これがhebelです。


他の箇所でどのようにhebelが使われているか見たらわかりやすいかもしれないですね、例えば


人は息(hebel)にすぎずその日々は影のように過ぎ去ります。

詩篇144:4


つまり完全に無意味というよりは、一瞬の事ですよってことですね。まさに霧のようにさっと現れて消えると。


一瞬の事、大した影響もないこと、という感じでしょうか。

でも私たちの多くは、この息、水蒸気、一瞬で消えてなくなる霧に人生を翻弄されます。


自分の日常の生活で不安やストレスを覚えることを振り返ってみました。最近の一番のストレスは、まあ正直言えば、この説教が締め切りまでにしっかりとしたものが出来上がるかという事でした。なぜそれに頭を自分は悩ますのかといえば、それが自分にとって大事なものだからですね。そして説教自体がということもありますが同時に、間に合わなければ恥をかくし、人の期待を裏切ると。そういう意味でそれらを失いたくないと思ってしまう自分が無意識にも感じている自分がいるということです。もちろん好きでやっていることのなので、それがしんどいということではないです。逆に言うと好きだからこそだと思います。

どうでしょう人が悩みを抱える、怒る、不安を覚えるなどの感情を抱くとき、そこには常に自分にとって失いたくないもの、あるいはどうしても手に入れたいと思うものがその裏に隠れていることはじゃないでしょうか。伝道者はそれらがすべてがhebel 一瞬で無くなる、たいしたことの無いものだと。


皆さんにはどうしても欲しいもの、あるいは失いたくないものがあるでしょうか。


いろんなものあるでしょう

すべては「hebel」だと


つらつら色々言ってきましたが、

すべてがhebelならクリスチャンは なにしたってすべては霧なのだから,なににも気を留めずとにかく世の中とかかわらずに生きていけばいいのか、


そうではないんですね。もう一つ、重要な言葉「日の下で」という言葉、これも29回かな頻繁に出てくる言葉なんですね。意味は難しくない、文字通りこの世っていう意味ですよ。生きている人生の中でという意味。

もしこの生きている人生そして目に見えて触れるものがすべてだったとしたら、この人生はhebelという条件があるってことですね。


 もーっとわかりやすく言えば、この世がすべてで神様などいなかったとしたら、つまりは日の下ではすべてが hebel だと

どれだけ良いことをして、偉業をなしたって、究極的には世界は変わらないし

どれだけ快楽を追求したって、その報いは自分に返ってくるばかりか、結局満たされることはない。それが日の下にある人生だと伝道者は言う。


 では日の下だけではない、神様のいる人生とはじゃあ一体何か。ヒントが2:24-25

人には食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであることが分かった。実に神から離れて、誰が食べ、誰が楽しむことができるだろうか。


 神様から離れて誰が楽しむことができるだろうか?と問いかける伝道者。すべては空しい、でも神様がその中にいてくださればその空しい人生には何か変化があるのでしょうか。だとすればそれは何か。


 富であれ、名声であれ、知恵であれ、やりがいのある仕事であれ、家族であれ、おいしいごちそうであれ、それらは神の御手による、つまり神様からのギフトだと伝道者は言う。ギフトとは何か、それは与えられるもの。自分で勝ち取るものとはわけが違う、私たちは、裸で生まれ裸で帰っていく。すべてはギフトであると


 ルカの福音書12:16-20 に出てくる愚かな金持ちのたとえ話ごぞんじでしょうか。豊作で作物をたんまりと抱え込んだ金持ちは、それらを収める倉を作った後、心の中でこう思う

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた、さあ安心して、食べて、飲んで、楽しめ」

そこで神様がおっしゃる

た。『 愚か者。 おまえのたましいは、 今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』


そして21節で

自分のためにたくわえても、 神の前に富まない者はこのとおりです。


別に一生懸命働くこと、貯金することが悪いわけではないですね。それは明らかでしょう。そして私たちの魂が一瞬で取り去られるということは皆に起こることでもないと思います。ただこの金持ちの持っていた平安、あるいは楽しむことができる根拠、楽しめる根拠は神様への信頼ではなく、蔵の中にパンパンに詰まった作物だったというところが問題だった。彼にとってすべてはギフトではなく、勝ち取る、稼ぐ、ためておくそういうものだったということですね。彼は神の前に富まなかった。このたまりにたまった作物さえあれば人生を楽しむことができると思った。


 神様から離れて誰が楽しむことができるだろうか?と問いかける伝道者。その問いかけに私たちはどう答えるでしょうか。


 あの愚かな金持ちのようにお金があるから、あるいはこの仕事があるから、家族がいるからこの人生を楽しめるという答えになるのか。それとも何はなくとも神様がいるから楽しむことができると答えるのか。

すべては神様からのギフトで楽しむように与えられるもの、だけれどそれ以上の期待をギフト自体にしてしまうと、その期待にこの世のものは答えられない。

 最初のほうに私は昔何をやっても楽しめない子供だったとお話をしました。そんな私が人生の中で初めて出会った、これは楽しいずっとやっていたいと思ったもの、それはダンスでした。時間を忘れてずーっとやっていましたね、もう何十年も前のことです。そしてある時気づきました。ダンサーには2種類いるとA:ダンスが自分のすべてだと思っているダンサー B:ダンス以外にもいろいろやっているけどダンスが好きなダンサー


さて問題です、どちらのタイプのダンサーのほうがダンスを楽しめるでしょうか。Bですね。

Aは自分に自信が持てているうちはいい、でも他と比べて自分が劣っているとかひょんなことから自分のダンススキルはたいしたことの無いものだなどと思おうものなら、自分など価値がないというところまで、精神的に急降下。Bは例えダンスで少々自信を落としても、自分の価値がというところまでは考えない。

僕は典型的なAでした。だから、自信を落とすとあれだけ好きだったダンスを踊りたくさえないと思った。Bタイプのダンサーはいつだって素直にダンスを楽しめる、それは知ってか知らずが、彼らにとってダンスはギフトに過ぎないということを実感しているから。ダンスを通して自分の価値を勝ち取る必要がない。


極端な例かもしれません。でも伝道者が言うようにこの世のどんな素晴らしいものでも、それが「hebel」霧や息であるなら、それによりかかることはできない。しっかりとそれによりかかって立つことはできない。


日の下では、この人生を観察するだけでは、人生の意味など分からない。だから人は人生に大した意味などなく空しい思う。そしてよりかかることのできない霧を「hebel」を集めては、なるべく長くそれが消えないように努め、没頭し、永遠という視点から見ればそれが本当に一瞬現れて消えるもの、であるということを忘れてしまおうとする。


消えてなくなるものの究極はなんでしょう、この「命」です。ふつう世間話で死について語ることがないのはそのためですよ。だれもそんなこと考えたくない。


私たちが欲しいのは、なるべく長く、安定した、楽しい人生、たとえそれが霧だったとしてもです。だからクリスチャンでも霧をほしがり、霧について悩む、霧を欲しがり、霧が手に入らず、霧を失いそうになり、霧について悩む。命自体が神様からのギフトだということを忘れてです。


神の前に富むというのは、神様から与えられたものを感謝をもって楽しめる人。それを通して何かを得よう、何かを勝ち取ろうとしない人生。その瞬間瞬間に生きることができる人生。今をシンプルに楽しめる人の事を言うのかなと思います。


物は壊れ、天気は変わる

老いを止めることはできないし

どんなにお金があっても時間は買えず、

家族を含めたどんなに近しい人も本当の意味では変えることはできない、

やりがいのある仕事だって、引退がくる、


私たちにそれらをコントロールすることなどできないっというのが現実で、だからそれらは空しいと言えなくはない・けれどもそれその結果がどう出ようとそれを入れることができたなら少し変わってくるのかもしれない。


クリスチャンの先輩がある時こう言ってました、「人生どうころんだって、死ぬまで何十年しかないんだから」まあ人生の先輩でもあるのであれなんですけど、それを聞いたとき思いましたよね、っていや何十年って結構長くない?でもその方は人生を楽しむ達人といってもいいような人です。どうしたら楽しめるのか、つまりは生きているだけで丸儲け精神。死ぬわけじゃないのであれば、彼にとっては人生すべてがギフトで、手放しで楽しむことができるという事なんだと思います。ある意味ですべてを楽しむということが神様からのギフトに対して一番正しい反応なのではないかと思います。


どうやら新約聖書に登場するパウロもそのような人だったみたいですね。ちょっと聖書開きたいと思いますが。


私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。 

ピリピ1:21


もはやパウロにいたっては死さえも益だと言っています。この世のすべては「空」hebelで一瞬で消えてしまう何の意味もないことかもしれない、けれど彼はある時キリストに出会いました。そして仕事が、富が、名声が、やりがいが、家族が、結婚が、飲み食いが、彼にとっては厳格にパリサイ人として生きることが、自分の人生に必要なのではなく、神様がキリストを通して示された愛こそが自分に必要であったということを知った。だからもうその穴を「hebel」霧で必死に埋める必要はない、一番大きなギフトがしかもそれは霧ではなく実態をもったイエス様ご自身が与えられたということを、キリストに出会って見出した。霧の上に建てられた人生ではなく、イエスキリストという揺るがない岩に建てられた人生の上で、もはや何かを勝ち取る人生ではなく、すべてはすでにキリストをとおして与えられている人生に変わった。そんな彼にとってもはや「死」を含めたすべてが神様からの贈り物へと変化したというのは言い過ぎでしょうか。彼にとっては人生すべてがギフトで、手放しで楽しむことができるという事なんだと思います。ある意味ですべてを楽しむということが神様からのギフトに対して一番正しい反応なのではないでしょうか


 とはいえどうでしょう、死は益ですなんて言えるでしょうか?そりゃあまあ死んで天国に行けるって意味じゃあそうかもしれないけど、この世にある死、悲しみ、つらいことはやっぱり益ではないのではと、、 

 

もう7年以上が過ぎた東日本大震災は、多くの被害と犠牲を生みました。と同時に私たちの人生、積み上げているもの、安心を置いているものがどれだけ、不安定なものhebelであることかという現実を多くの方々につきつけることとなった。日本中が騒然としました。結果的に今までに届かなかった場所に、福音が届けられ、ちょっとしたリバイバルが起ったということもまた事実です。もちろんだから地震が起きて良かったということではもちろんない、けれども、文字通り私たちが立っている場所が揺るがされるぐらいのことが起きて初めて、私たちがささやかでも幸せを感じているのだとしたら、それは神様が与えてくださっているギフトに過ぎないと初めて気づくことができたということもあるんじゃないでしょうか。だから死は益だなどという単純な話ではない、けれど私たちはいろいろなものが取り去られて初めてその有難さに気づくものです。死は、生がどれほど尊いものであるのかということを改めて再認識させてくれます。


 だとすればどうか、私たちが、この命を人生を神様から与えられたギフトとして感謝して自由に手放しで楽しむためにすることは一つ。それは究極的に言えば、己に死ぬということを繰り返してのみ、自分がどうしても欲しいものを、自分からあるいは時に、仕方なく手放す。そうして初めてこの人生は霧で、コントロールができないものだということを心から受け入れることが身についていくのかなと思います。自分のどうしても手放したくないものに死ねるときに、この人生のすべては一瞬の霧かもしれないがその輝きを増し始める。キリストという岩に立ち自由にすべてを楽しむことができる。


 わたしたちの内にはパウロのように言い切る信仰はないかもしれないけれど、何かに心奪われ、霧をつかみそうになる時こう唱えることができたらと思います。


生きることはキリスト、死ぬことは益です。

生きることはキリスト、死ぬことは益です。

私に必要なものはすでにキリストを通して与えられているのだから。それ以外はすべて「hebel」空だと


祈り

恵み深い父なる神様。

この年末の時期にあって、一年を振り返り様々な恵みをいただきましたことありがとうございます。しかしながら同時に後悔や、あるいは迎える新たな年に様々な不安をいただいている方もいると思います。主よどうか私たちにすべてはhebel霧に過ぎないことを思い出させてください。そして本当に必要なもの、本当に私たちが欲しているものはすでにキリストを通してあなたが与えてくださっている事を教えてください。迎える新たな年が私たちオークランド日本人キリスト教会にとって生きることはキリスト、死ぬことは益だと大胆に語ることのできる年となりますように導き支えてください。そしてあなたが与えてくださる日々、瞬間瞬間を、ギフトとして感謝し楽しむことができますように。



イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン





Q伝道者は「空」という言葉を選びました。今年を振り返って一つ感じで表すとしたらあなたの一年はどのようなものでしたか。


Q楽しむのは得意なほうですか?人生を楽しむのを妨げる要因はどんなものが考えられますか



Q人生に意味はないと考えたことはありますか? 何かきっかけがありましたか?

 今自分の人生に意味を見出しているとすれば、それはどのようなものですか


Q神様を信じたことによって、自分の人生にどのような変化がでましたか。


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