メッセージブログ

2024年03月

2024.03.24

心配の特効薬は信仰(マタイ6:25-34)

 

さあっということで今日も山上の説教、マタイの福音書続きをやっていきたいと思います。今日の箇所、繰り返し出てくる言葉があります。「心配」ですね。この短い箇所で実に7回登場しますので必然的に今日のメッセージは「心配」をテーマとして取り扱っていきます。

心配に関するアンケート結果インターネットにいろいろ転がっていましたのでいくつか見ました。様々な統計の仕方がありますので一概には言えませんが、日本人の成人の約70%~80%が何らかの不安を、心配を抱えているという結果になっていました。皆さんはどうでしょう、心配事あるでしょうか?あるならどのようなことを思い煩っておられるのか?イエス様はここの箇所でおっしゃいます、「心配してはいけません。」心配する必要はありませんではなく、心配してはいけません。です。いったい心配の何がそんなにいけないのでしょうか?「心配するな」とは何も考えるなということなんでしょうか? そのような疑問を頭の片隅に置きながら聖書を開いていきたいと思います


マタイの福音書6:25-34


だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

マタイ6:25-34


早速25節から見ていきましょう。だからっというふうにスタートしていきます。

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。(25節)

つまりここまで語られたことを踏まえて考えるならという意味ですね。では24節以前は何が語られていたのかというと、先週Sho君がカバーしてくださいました。富に仕えるのか、主に仕えるのか、お金か神か、そのようなことがテーマでありました。その文脈で25節が始まっていきます。ある人は言いました「大切にしていないものについて心配する人はいない」逆に言うと、もし心配している自分がいるなら、そこには必ずあなたが大切にしているもの、失いたくないものが心配の裏には隠れているということです。


確かにそうだなあと思いますね、学生の皆さんがアサイメントの締め切りと常に戦っておられるという話を聞きます。もちろん祈ってほしいと言われればそのために祈ります。けれどもその方のアサイメントがちゃんと終わるか、あるいはいい評価が得られるかと心配で私自身が眠れなくなるなんてことはないわけですよ。正直次の日に気にもとめていない。でもご本人はそうはいかないわけですよね、自分がパスできるか、いい成績をとれるか心配で時には眠れないということはあるでしょう。なぜならその方にとってそれが大事なことだからですよね


 っとこのように、人は自分が本当に大事にしているものに関してのみ心配をします。だからこそイエス様も、主に仕えるのか富に仕えるのか、つまり神かお金かという文脈で「心配」について語られるんですね。もちろんお金以外のことに目が行く、他のことに心乱されるということは大いにあります。けれどもお金というものはやっぱり多くの人を惹きつけます。学生の時はそうでもないかもしれません、けれど自分で収入を得生活をし始めれば急に真剣な問題になります。だからこそお金の心配っというのは「大人」の間ではよく聞く話なのではないでしょうか。でそれは裏を返せば結局私たちクリスチャンでさえも神様ではなくお金に信頼をおいてしまっているということがあるからなんだろうなと思うんですね。イエス様はそんな私たちに問われる、いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

(25節)

お金を大事にすることが悪いわけではないです。食べ物も着るものも、生活というのはお金があって初めて成り立つ、必要なものです。けれど本当の意味で人生を豊かにするのはお金なのか?いやそうではない、なぜならそんなものよりはるかに大事ないのちそのものを与えてくださったのは神様ご自身です。そんな主が生きるのに必要な食べ物や着るものを、生活の必要を満たしてくださらないはずがない。空の鳥と野の花を見ればわかるではないかっと続いていきます。まずは26節

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(26節)


住宅ローンや税金、貯蓄、生活費のことで頭を悩ませている鳥を見たことがありますか。もちろんそんな鳥はいない。野生の鳥はその日暮らしです。それでもしっかりと神様によって養われている。鳥でさえそのよう養われているのだから神様は私たちを養ってくださらないはずがないということですね。さてここで気をつけたいのは、働かなくてもいいよっていうことではないということです。何の計画も持たずに、お金なんか気にせず適当に使ってその日暮らしをしましょうということではない。もちろん私たちは与えられた仕事、責任を主にあって果たしつつ。与えられたお金、祝福を計画的に使っていく責任はあるでしょう。けれどもそのことで思い悩む、つまり心配する必要はない。なぜなら最終的な責任を持ってくださるのは天の父だと。ここポイントですね。神様は私たちの父親です。私にも2歳の息子がいますけれども、彼にしっかりとごはんを食べさせる、必要なものを与えるのは親である私と妻の責任ですね。2歳の息子に全て自己責任で、とはもちろんなりません。心配をしなくていい、なぜなら私たちは必要を満たしてくださる父なる神を信じているからです。次28-30節


なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

マタイ6:28-30


ここまずポイントは「着飾る」という言葉です。しかもその比較対象はあのソロモン王。ソロモン王と言えばイスラエルの歴史の中で最も裕福で栄華を極めた王様でありました。どうでしょうクリスチャンが神様は必要なものは与えて下さるっという時に、どこかイメージ的に最低必要減、質素、ぎりぎり生活できるくらい与えられる。なんかそのような感じを想像してしまうのは私だけでしょうか。けれどよくよく読んでみるとそうではない。30節 明日は炉に投げ込まれる野の花さえそのソロモンよりも美しく装ってくださる神様があなた方に良くしてださらないはずがない。といいます。Tシャツとジーンズ、冬はヒートテックとダウンがあれば何とかなります。けれどそうではない。美しく装ってくださるとあります。つまり神様はただただ生き残るために必要なものを下さるだけでなく、プラスアルファ、私たちが楽しむための祝福というのも大いに与えてくださる。神様はそのような愛にあふれた父親のようなお方だとおっしゃっているんですね。


 そのような愛ある父親として神様を信頼しているのか、ここがまあ「心配」というものを考えていく時にポイントになってくるわけですよね。繰り返しになりますが、働くな、計画を立てるな、準備するな、貯金するなではない、問題は優先順位です。先週やりましたね自分の人生のNo1が何になっているのかということ。自分の必要や自分の楽しみを守ってくれるのは、お金だと信じてしまう時に、私たちは否が応でも心配になります。お金を失ったらどうしよう、お金が稼げなかったらどうしよう、お金が足りなかったらどうしたらいいんだろうと。イヤイヤそれらすべてを満たしてくださるのが神様だということを忘れてはならない。神様を第一にしているか。ですから今日の箇所最も大事なのは33節です


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 マタイ6:33


 どうでしょうかこれ読み方によっては単純に、神様を求めたら、裕福になる。っといったようなご利益的な意味にとれてしまうかなと思います。がしかし、もちろんそうではないんですね。とにかく神様に従ったら、ご褒美で与えられるっというような意味合いではないんだと思います。ではどういう意味か詳しくみていきましょう。


神の国とその義とをまず第一に求めなさい神の国ってなんなのかは、あとでちょっと詳しくやりたいと思います。ここでは簡単に神様の御心、つまり神様の願うことと理解していただければいいと思います。神様の御心を一番に求める、第一に求めることが大事だとおっしゃる。そもそもなぜイエス様は心配してはいけませんとおっしゃったのか。心配する必要はありません、ではなくして心配してはいけませんっとちょっと厳しめの表現になっています。その理由は、心配の裏には必ず偶像礼拝が隠れているからなんだと思うんですね。ずーっと見てきました。心配するということは何か自分が大切にしているものがあると。そして多くの場合、それらを神様よりも大事にしている、神様よりもそれらに頼っている状態にあるのではないでしょうか。言い換えれば「まず第一に」神を求めていないからこそ私たちは心配になる。お金ということをメインの文脈として語ってきましたが、それ以外にもいろいろあると思います。家族、子供、人間関係、仕事、学校の成績、結婚、健康、それらが失われそうになって、あるいはそれら本当に得られるかどうか人は「心配」になるわけでしょう。もちろんそれらを求めてはいけないわけではない、けれども「これがなくては私の人生はおしまいだ」そう思ってしまう時に、私たちは非常に不安定な土台に自分の人生を据えてしまうんですね。そうではなくして、まず第一に神様を、神様の御心を求めなさい。神様を私たちが求めるなら、それは確実に満たされる。けれどそれ以外が第一に来るときに、私たちはそれがなくなったらどうしようと心配になる。神様のなさることを信頼しなさい。愛にあふれた父である神様があなた方に最善をなしてくださらないはずがない。これを信じれるかどうかで私たちが抱える「心配」のサイズ感というのは変わってくるのではないでしょうか。


 さてとはいえですよ。とはいえ現実問題どうなんですかっていう、心配は簡単に拭うことはできませんよね。だってこの世はいいますよ。全てが自己責任だと。自分で頑張らなければ、しっかりと努力しなければ誰も面倒は見てくれない。だからみんな必死に頑張って、それでも心配を抱えて生きているのではないでしょうか。


 さてそこでも一度33節もどります。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 マタイ6:33

神の国を求めなさい。この神の国とはなにか、天国のことか。まあもちろんそれも含まれるんです。これ英語だとkingdom of Godという表現になります。神様がking、王様つまり神様の支配っという意味なんですね。神の御国とはつまり主の御心が100%反映される場所、空間っていうんでしょうか。ですから神の国を求めるとは、神の支配を求めるっということです。ちょっと抽象的にな表現でわかりにくいかもしれませんが。神の支配、神様に自分の人生の王様になっていただくということを求めるということなんですね。


 ある人は言いました。心配は自分にはどうにもできないことを、どうにかしようとする、つまりコントロールしようとする行為であると。34節このようにあります。


だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 マタイ6:34


人は明日のことを心配します。つまり未来のことを心配するんですね。まだ起こっていないこと。人の心配することの9割は実際はおこらないというのはよく言われていることで皆さんも聞いたことあるんじゃないでしょうか。明日、来週、来月、来年、数十年後、未来はどうなるかなんてわからないんですよ。わからないのに、いやわからないからこそ心配してしまう。けれどイエス様はおっしゃる、それはあなたの仕事ではないよと。だって私たちが変えられるのは過去でも未来でもなく、いま現在、今日しかないからです。そういう意味で労苦はその日その日十分にあるとおっしゃる。いやもっというと今日というこの日でさえ自分でどうにかできることは本当に限られている。にもかかわらず、それを自分の思う通りにコントロールしたい、だから思い悩む。こうなったら、ああなったらと自分の中でシミュレーションして、最悪のケースまで考えて心配する。そんな私たちにイエス様はおっしゃいます27節

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(27節)


答えは当然NOですよ。心配したら状況が改善するのか、いやそんなことはない。心配しようがしまいが、災難や試練は来ますよ。だからそれを前もって自分の中で言リハーサルしてそれを何度も味わう必要はない、その時にできることをやればいい。わかりますよ、わかります、ガッカリしたくないからあらかじめ最悪のケースを想定するんだとか、その時になって慌てたくない。だから最悪のケースを考えるんですよね。そのための準備することは必要です、悪いことではない。しかしながらその結果、心配という感情にとらわれて、今やるべきことができなくなってしまうようであればそれはどうなんでしょうか。


 もう20年くらいまえですがバイブルカレッジの最終学年のことです。当時今までにない大きな課題があって、頑張ってはいたのですが締め切りが近づいてくるのに思うように進んでいませんでした。いよいよ、これは間に合わないのではないか。そういう思いが心配となり、焦りとなり、その思いに押しつぶされて、なかなか机に向かえず、集中できず、結局は教授に頼み込んで締め切りの延長をしてもらったということがありました。


心配は変えることのできない未来にばかり私たちの目を向けてしまい、今は果たすべき責任から目をそらさせてしまうんですね。心配するだけで疲れてしまう。さてじゃあそれと、神の国とどう関係あるのかということですが。それは私というこの人生を本当は誰がコントロールしているのか、誰が支配しているのかっというそういう問いかけになってきます。神の国とは、神様の支配だということをお話ししました。私の人生において、本当に主の支配を、神の国を求めているのか。それとも自分の支配、つまり思い通りにしたいと思っているか。思い通りにしたいと思う時に、心配はしつこくつきまとってきます。


 このメッセージを準備していて、正直非常に難しかったです。何が難しいのかと言えば内容ではない。何なら解説はあまり必要ないくらい、この箇所のメッセージはクリアなのではないのかなと思います。しかしながら、それを語る私自身がどうにもこうにも心配性であるということは否めない。一このメッセージを準備しながら、うまくできるだろうかと「心配」していました。「心配するな」というメッセージに関して心配しているのだから世話ないなと思います。まあそんな話をABCの牧師であるヘイデンさんに雑談でしていました。すると「ほかにどんなことが心配なの」っと聞かれましたので「そうですね、常に日本人教会の今後どうなっていくのかはまあ心配になるときが正直あります」そう答えました。すると彼はすごくフランクですから。ふつうに聞いてくるんですね「最悪のケースはどんなことが考えられるの?」でまあ私もいいますよね、「そりゃあまあ経済的に、とかその他いろいろな理由で教会が続けられなったら単純に僕は職を失うよね、で日本に帰らなければいけなくなるかもしれない。」と。ごめんなさいね牧師としてこんな話をするのはどうかと自分でも思うんですよ。でもまあ牧師同士の半分冗談交じりの会話っていうやつです。でそれを受けて「なるほどノブは日本に帰らなきゃいけなくなることが怖いんだね、それを恐れているんだね」っとヘイデンさん。情けないかな、おそらくそうなんだと思います。教会としてのこの先どうこうよりも自分のことを心配している。つまり私にとってNZで生活を続けるということが偶像になりつつある、その運命を主にゆだね切れていない自分がいるのだなということを思わされました。


もちろんそうならないように私自身最善を尽くす、できることはやる、そういう責任はあります。けれどその後は主に任せする。それこそが神様の支配を自分の人生に願うということなんだと思うんですね。


 34節最後「労苦はその日その日十分にあります。」とありました。いいですか、信仰をもって神様の御心を求めれば、交換条件ですべてがうまくいくってそういう話ではないんです。労苦はあるんです。そして時には本当にこのままで大丈夫かと追い詰められることもある。それでも、それでも、神様が最終的な責任は持ってくださる。この人生は自己責任だけではない、私は私の人生の王ではない、主よあなたが王です。どうかわたしの人生を支配してください。あなたの心を信頼します。この真実にどれだけ根差して歩めるか。そういった意味で心配に対する特効薬はやはり信仰しかないと思うんですね。


 っとこのようにお話をしますとね。心配性の人は不信仰で、心配しない方は信仰があるみたいに思われるかもしれません。けれどもそういう単純な話ではない。心配をしない=信仰ではないんです。人が心配をしない理由はいくらでもあるでしょうね、そもそも細かいことは気にならないという性格だとか、下手したらただの無責任とか。あるいは生まれ持っての体力、適応力、精神力、才能そういったもので過去いろんな問題を自分の頑張りで乗り越えてきた。そのような経験を持っている、がゆえに心配しないと。それらは素晴らしいことです。正直うらやましいなあと思います。けれどそれが信仰かどうかはまた別の話ですよね。いいですか、だから人はいいんです。人と比べる必要はないんです。私はなんでこんなことで心配になってしまうんだろうと自分を責める必要もない。ただイエス様はおっしゃる。人はいい、私を見なさい。私をもう少し信頼してくれてもいいのではないかっと。


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ8:32

私たちが自分ではなく主を信頼し、お任せする根拠がここにあります。イエス様はご自身の命を私たちのためにささげてくださった。命がけで愛してくださった。その証が十字架です。ですから私たちがじぶんの願いに、思いにしがみついて心配になるときに、十字架を思い出したいと思うんですね。そんな命がけで愛してくださる神様が私たちの人生一番良いものを下さらないはずがない。自分の人生を自分で握るのではなく、その愛ある力強い神の御手にすべてをゆだねたいと思います。


さて長らく語ってきました。まあもちろんこのメッセージ一発で心配が吹き飛ぶなんてことはないと思います。けれどせっかくですから少しエクササイズをして終わりにしたいと思います。紙とペンをお配りします。いいですか、隣の人のは絶対にのぞき込まないでください。ご自分が心配に思っていることを、箇条書きでいいのでかきだしていただきたいと思います。そして声に出しても出さなくてもいいので、今書き出したことについて祈る時間を少しとりたいと思います。一つだけ自分は何を握りしめているんだろうかということを思いめぐらせながら、それをゆだねることができるように祈りましょう。


何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ピリピ4:6-7


2024.03.03

復讐の闇、愛の光(マタイ5:38-48)

復讐の闇、愛の光


さあっということで、今日もマタイの福音書5章の続きをやっていきたいと思います。今日の箇所はクリスチャンではない方でも言葉だけは聞いたことがあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。「右の頬ぶたれたら左の頬も向けなさい」とか「敵を愛しなさい」という言葉ですね。


 読んでいて内容として理解するのに難しいところは、それほどないのではないでしょうか。しかしながらこれを実際に実行していくということを考えるときに、現実的に実現可能なのかということを思わされる非常にチャレンジな箇所だと思います。早速前半部分の5:38-42を読みたいと思います。

38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。


マタイ5:38-42


まず38節「目には目で、歯には歯で」と出てきました。クリスチャンではない人も聞いたことあるかもしれませんね。古代ハンムラビ法典、学校の世界史でできたのを覚えているよ、と言う方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかしながらもちろんイエス様がここでお仰っているのは、ハンムラビ法典のことではありません。旧約聖書の律法のことをおっしゃっている。

もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。

レビ記24:19-20

どうでしょうか、「目には目を」ってちょっと野蛮なひびきというか、暴力的というか、そういう印象を受けます。そして何なら「やられたらやり返せ」という復讐を煽っているような感じさえします。


皆さん突然ですがこの映画ご存知でしょうか。「ジョンウィック」、キアヌリーブスがとにかく銃を撃ちまくるという、非常に単純なアクション映画なんですけれども。ストーリーはざっとこんな感じです。キアヌリーブス演じるジョンウィックは元伝説の殺し屋でした。しかしながら今はもう足を洗っているという状態です。悲しいことに愛する妻を亡くし、残った愛犬と静かにくらしていたジョン。そんなある日、ガソリンスタンドで若者が近づいてきて、ジョンの愛車を売ってくれという話を持ち掛けます。けれどジョンはそれを断るんですね。この若者、実はロシアマフィアのボスの息子でありました。プライドを傷つけられたと思った彼は、ジョンの家に乗り込み暴行のかぎりをつくします。その際にジョンの愛犬が命を落としてしまう。それを見てジョンは再び殺し屋としての自分に戻る決心をして復讐をするというストーリーです。結果このマフィアの息子、そしてほぼマフィア全員を殺してしまう。ジョンも代わりに彼の友人も殺されたりするわけなんですが。。。ただ「車を売ってくれなかった」ということからスタートして最終的には数えきれないほどの死人を出すという結末を迎えます。


っというまあ映画ですから、痛快な復讐劇として描かれていま。けれど復讐というものの恐ろしさがここにあります。復讐というものは必ずエスカレートする。子供のケンカもそうですね、最初は「バカ」っと悪口、けれど手が出て、足が出て、もう最終大ゲンカになりどちらかが泣いてしまうといような。子供ならかわいいものですけれど、大人は行くところまでいったら戦争にまで発展しますよね。いまだに戦争がなくならないのも基本的にはこの復讐の連鎖です。数年前にこんなドラマもありましたね。半沢直樹。そしてこのあまりにも有名なセリフ「やられたらやり返す、そっくりそのままだ」ではなく「倍返しだ」っと。復讐は倍返しの連続を生んでしまう。


聖書戻ってきますが。そういう復讐という人間の破壊的なサイクルを、せき止めるために与えられたのが、この律法だとういうことです。「目には目で」。つまり目をやられたら、命まではとるな、目には目だけで我慢しないと。ちょうど同じ分だけ罰を与える。(専門用語では同害報復法なんて言ったりするようです。)そしてそもそも、この律法は個人で行う復讐を禁ずるもので、裁判で行き過ぎた罰ではなく公平な裁きと罰をっという文脈で語られているものなんですね。そういうことを踏まえて読むと私たちが思うほど、この律法が残酷で野蛮なことではないというのがお分かりいただけるかと思います。


さて問題は次です。「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。」そしてあの有名な「右の頬たたかれたら左の頬も向けなさい。」という言葉につながっていきます。今あげた、ジョンウィック、半沢直樹、に限らず、時代劇の忠臣蔵など仇討ちの話はたくさんあります。日本人は復讐劇が大好きです。なぜなら見ていてすっきりする。でその感覚はどこから来るのかというのは正義を求める心です。悪しきは罰せられるべきだと。やられたらしっかり報復をする、それこそが正義を保つための唯一方法なのだと私たちは思っています。けれどイエス様はおっしゃる。悪いものに手向かってはいけません。でその御言葉を読んでいる私たちは思います。えっイエス様それじゃあ正義はどうなるんですかっと


 ここで誤解されがちなのが、この「手向かってはならない」の意味です。手向かってはならないと聞くと、なされるがまま、何もせずにただただやられるのをじっと我慢する、というような印象を受けるのではないでしょうか。けれどそうではない。多くの神学者はこの「手向かってはならない」とは、何もしてはならないではなくして、暴力をもって仕返しをしてはならないという意味だといいます。つまり復讐にとらわれるな、仕返しをするなというニュアンスですね。ですからもちろんイエス様は、社会にある悪や不正を放置しなさい、とにかく何もせずに我慢しなさい、と言っているわけではない。相手の間違いは指摘しつつも、悪に暴力をもって立ち向かうのではなく、別の方法を模索しなさいっとおっしゃっている。やられたらやり返す、ではなくて、やられっぱなしで我慢するでもなくて、別の第3の道。

 

 そしてこれは当時非常に身近な問題でありました。なぜならイスラエルは当時ローマ帝国に支配されていたからです。ですからローマ兵はあちこちにいて、支配されている側のユダヤ人たちは不当に扱われることも日常茶飯事。自分たちは神の民だという誇りがあるユダヤ人の中には、いつか目にもの見せてやるという思いがふつふつとあったに違いありません。したがっていつでも剣を持って戦う、暴力に訴えたいという機会が日常に転がっている状況だったことが容易に想像できます。そういう日常を背景にイエス様は3つの例を用いて暴力に訴えるのではない別の道を提示されます。一つ一つ見ていきましょう。まず一番目


あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(39節)


これは実際にやったほうがわかりやすいと思いますので、ちょっとショウ君前に出てきてもらって。右の頬を打つとありますね、右利きの人が普通平手打ちをするとき左の頬にあたるわけです。っということは右の頬を右手で打つには、手の甲でパチンとはたく形になる。そしてこれが当時の文化的に最も侮辱的なたたかれ方でありました。主人が奴隷を打つとき、ローマ兵がユダヤ人を打つとき、このようなたたき方をしたんですね。物理的な痛みというよりは人の尊厳をうばう暴力です。「お前は私より下の人間だ」と主張するたたき方でした。でそのようにたたかれたときイエス様は左の頬もむけなさいとおっしゃる。そうするとどうなるか、たたく側はもはや右手の甲ではたくことはできません。どうしたってグーで殴るか、手のひらで打つかになります。そしてそのたたき方は立ち場が対等な相手にのみ行うたたき方だったんですね。つまり左の頬を差し出すことによってたたかれた側は「私を打つなら、打てばいい、けれど私はあなたより下の人間ではなく対等な人間だ」という主張をするということになります。やったらやり返すの精神ではなく、暴力に訴えるのでもなく。けれどただただやられるのではなく、相手の間違いを指摘する非常に知恵のあるアクション。もちろん関係なくボコボコにする人もいるでしょう。けれど可能性として相手の暴力を留められるかもしれない。相手に考える機会を与えるっていんでしょうか。

 

 2番目

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40節)


ローマに支配されていた当時、重い税金で多くの人が経済的に苦しんでいました。結果自分の土地も奪われて、それでも借金が返せないという状態になることは珍しくありませんでした。そして下着が借金の担保に要求されることがありました。ですからこのシーンは裁判所です。裁判で下着まで担保に取られた、そういう時はイエス様は上着もやりなさい。とこうおっしゃる。当時の基本的な服装はまず下着と呼ばれるシャツですね。でその上に上着とを着る。シンプルな服装です。ズボンとかそういう概念はありません。基本この2枚の服しか着ていない。で裁判所で下着が担保にとられて上着まで差し出すとどうなるか。シンプルですね真っ裸になる。そしてユダヤの文化的に裸になる側ではなく、裸を見る側が恥を被るという価値観がありました。ですから上着も差し出すとによって、どれだけその相手がひどい搾取をしているかということを周りに露呈することができるんですね。そして願わくば、それを通して相手が悔い改める機会を与えるという、アクションです。


3番目

あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい(41節)


当時ローマの法律でローマ兵はユダヤ人を含め、支配している住民に自分の荷物を1ミリオン(約1.5km)まで運ばせても良いという法律がありました。いたるところにローマ兵はいるわけですよ、ですから家族で出かけているときであろうが、仕事中であろうが、ローマ兵がやってきて「おい、そこのお前俺の荷物を運べ」と言われたら全部いったんおいて、従うしかありませんでした。非常に屈辱的な瞬間だったと思います。さてここでのポイントはローマの法律が許容していたのは1ミリオンまでというところです。それ以上を強いるのは禁じられていました。荷物を運ばされて1ミリオンの距離まで来ました、けれどそこでとどまることなく荷物を運び続けたらどうなるか。今度はローマ兵側の都合としてちょっとまずいわけですよね。もしこのことが上官にばれたら、どうしようとなる。まあ基本的に誰も見ていないから気にしない、あるいは見つかっても「こいつが勝手にやったこと」と言い訳する兵士もいたでしょう。けれど中には、「うーんそろそろおろしてもらえるかなあ」っという兵士も出てくるかもしれない。相手を権力で押さえつけるのとは全く別の、暴力ではなく相手に仕えることによって得られる力。第3の道をイエス様は示された。


さて立て続けに見てきましたがどうでしょうか、なんかもう一休さんみたいな頓智の話のようで聞いてて面白いですし、さすがイエス様天才っというそういう感じがしますよね。けれど気をつけなくてはいけないのは、これ決してテクニックの話をしているのではないということです。知恵を尽くせば、何か道が開ける、相手も変わるっということでは必ずしもない。結局はボコボコにされたり、すべて奪われたり、搾取されて終わりということは大いにあります。また私たちが何かされたとき、単純に暴力に頼らなければOKということではない。もちろんされるがままではなく、知恵を用いて何が間違っているのかということを相手に伝える、主張するということは大事です。けれど頓智を利かして相手を懲らしめましょうではないんですよ。それでは結局ちがうかたちの復讐になるだけです。ですから復讐の連鎖を断ち切るには、結局は相手を赦すということが必要になってきますし、あるい程度の痛みを自分でぐっとこらえて耐えるということが必要になってくる。どうしたって簡単ではない。パウロはローマ人への手紙でこのように書いています。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」… 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

ローマ12:19,21

復讐の心は神様にお預けして、悪をもって悪に対するのではなく、善をもって悪に打ち勝てと。


 そして後半イエス様はさらにこうおっしゃる。43-48節

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。


「自分の敵を愛せ」です。「復讐するな」だけではなくして、敵を愛する。そんなことが可能なのか?けれど悪に悪をもって打ち勝つのでなく、善をもって打ち勝つというのであれば、「知恵」だけではなくおそらくこの愛というものが不可欠なんですよね。どのようにすれば敵を愛することができのか。詳しく見ていきましょう


まず43節「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」っと出てきます。でこれまた旧約聖書の引用になんですね。

復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

レビ記19:18


さて見ていただければわかりますが、敵を憎めという言葉は出てこない。ここだけではなく旧約聖書のどこにも出てきません。ではなぜ「敵を憎め」が出てくるのか?それは当時の人がこのレビ記の箇所をそのように解釈したからです。「隣人を愛しなさい」と言われたときにまず出てくる質問は、「じゃあその隣人って誰のことをさすの?」です。でそれは基本的に同国民、つまり同じユダヤ人のことをさすというのが当時の一般的な解釈でありました。ですから当然同じ国民のユダヤ人は「隣人」として愛する。けれどその愛する隣人を苦しめるローマ人は敵として憎む、ということが教えられるようになったのだと思います。


でそれは今でもあまり変わっていない、人間はみなそうじゃないですか。人は自分の仲の良い人、自分と似た考え方の人、自分に見返りをくれる人、自分と似たようなバックグラウンドを持っている人を愛します。いわゆる自分が持っている枠の内側にいる人っていうんですか。そういう境界線を私たちも無意識にでも持っているのではないでしょうか。けれどイエス様はおっしゃる


自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

マタイ5:46-47


そうではなくして、自分の枠の外側にいる人も、いやもっと言えば敵と言えるような人も愛しましょうっと。つまりは境界線をひろげなさい、いや広げるだけではなく取っ払ってしまえ、とイエス様はおっしゃる。ですから結局「隣人を愛する」というのは誰でも区別なく愛するということを意味するんですね。


さて隣人について考えました。次じゃあ「愛する」とはどういうことか考えたいと思います。愛という言葉、わかったようでわかりませんね。まず一般に愛ということを語るときに、それは感情を意味する場合が多いのではないでしょうか。愛=好きになる、好意を持つというようなですね。けれどイエス様の語る愛というのはどうやらそういう感情のお話しではない。なぜならだれでもかれでも好きになるなんて現実的ではないです。ましてや自分を攻撃してくる敵、恨みを持っている相手を好きになどなれるはずがない。じゃあ愛するってなにかというと、それは意志であり、行動です。と抽象的に言ってもわかりにくいでしょうから、イエス様具体的におっしゃってますね。44節あたり敵を愛し、その人のために祈れっと。でこれはアイツに罰が当たりますようにというそういう祈りではないです。主の祝福を祈るっということ、相手が悔い改めて自分の罪に気づくということも含めて、相手の最善を祈るっということです。それが敵を愛するということの第一歩。これは非常に難しい、そんなことを思えるわけがない。でも逆に言えば感情はついて行かなくてもいいんです。とりあえずやる。敵を愛するということは、敵のために祈るということから始まります。そして小さな一歩でいいと思うんです、行動で愛をしめしていく。47節にありましたね、挨拶をするとかそういうところから、初めてもいいかもしれません。苦手だなと思っている人、自分とはあわないなあと思っている人にあえて挨拶をする。そこから関係というのは始まっていきます。

 

 さてではなぜそうまでして敵を愛するべきなのか、イエス様の提示する理由はシンプルです。なぜなら神様とはそのようなお方だからと。45節

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

マタイ5:45

神様はいい人にも悪い人にも恵の雨を太陽をそそいでくださる。そしてそれは決して、神様が罪を見過ごしているっということではない。最終的に罪の裁きはされるわけです。けれども恵は差別なく、惜しみなく注がれる。それが神様っというお方なんですね。いやもっと言うと恵の雨、太陽、その他の祝福だけではなく、もっと貴重なものを神様は、分け隔てなく私たちに与えてくださった。それがイエス様の十字架です。


しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ローマ5:8


そのようなキリストの愛を受けているんだから、、それを隣人だけにではなく、あなたの敵にも流しましょうっとこうおっしゃる。

 さて「敵を愛する」言葉で言うのは簡単です。そして私自身正直ですね一生赦せないと思うような敵に幸いまだ人生で出会ったことがない。ですから、この箇所を取り扱う、メッセージをするというには非常に経験不足としか言いようがありません。自分でもメッセージしてる自分に対してどこかで思ってしまう。「口ではどうとでもいえるだろうと」。けれど忘れてはならないのは、これはイエス様の言葉であるということ。そしてイエス様は口だけではなく。実際にこの教えを生き抜かれました。先ほども見ました、罪人である私たちのために死んでくださった。そしてそれだけではなく、イエス様のことを十字架にかけて直接殺した相手のために、十字架の上でこう祈られたんですよね。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

ルカ23:34


そんな悪に対して悪を返すのではなく、愛をもって戦ったイエス様の足跡をたどるよう私たちクリスチャンは召されている。ということを今日覚えたいと思います。悪に悪ではなく愛を持って戦ったと言えばこの人、マーティンルーサーキングジュニアまさに彼は復讐や暴力ではなく、愛をもって人種差別という悪に戦った人でありました。そして彼のインスピレーションは、まさに今日見た個所から来ています。以前にも紹介したことがありますが、彼の言葉を紹介して終わりにしたいと思います。差別をしてくる相手に対する言葉です。


「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。…(中略)覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。」(マーティンルーサーキングジュニア)


自由を勝ち取るだけでなく、「あなたがた」つまり、苦しませている相手の心も勝ち取る。これが 私たちが受け取ったキリストの愛です。

一言に敵と言ってもいろいろあるでしょう、日常生活において憎しみが抑えられないような相手に出会うということはそう多くないかもしれません。単純に夫婦でケンカして、相手が敵のように思える。まあそういうレベルの話もあるでしょう。皆さんにとって「敵」とはどんな人でしょうか、頭に浮かんでいますでしょうか。


来る一週間、その人に挨拶をする、何か相手のためにできることをする、気持ちが乗らなくても相手のために祈る。小さなことからでいい、できるところからでいい、さばきは主に委ねて、憎しみという闇にとらわれるのではなく、赦し、イエス様が下さった愛の光のほうへと一歩一歩踏み出していくことができるように。

お祈りしましょう。


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