メッセージブログ

2024年04月

2024.04.14

求めることは信頼すること(マタイ7:7-11)

マタイ7: 7-8を読みたいと思います。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

マタイ7:7-8

「求めよさらば与えられん」という言葉、教会や聖書に馴染みない人でも、もしかしたら耳にしたことがあるのではないでしょうか。さまざまなドラマや映画で引用されています。実はこの聖書箇所が引用元になっていますが、一般的にどういう意味として捉えられている言葉なのでしょうか。インターネットでこのような定義づけがされていました。

「求めよさらば与えられん」とは、「与えられるのを待つのではなく、積極的に自分から求め、努力する姿勢が大切である」という意味を持つことわざです。

いやまずことわざではないんですけどねーっと思うわけなんですが、なるほど確かに7節だけを取り出してパッと読むと、こう読めなくはないのかとも思いました。「とにかく夢をもって頑張りましょう」「自分の心にある願いを恐れず求めて行動を起こしていきましょう」「あきらめずに努力すれば、求め続ければ夢は実現します!」的な自己啓発本とかに書いていそうな感じでしょうか。もちろんそういうニュワンスが全くないというわけではないと思います。クリスチャンの間でも言いますよね、ただただ祈って何もしないのは信仰ではないと。求めるのであれば、祈るだけではなく自分のできることをしていくべきとか、問題がたちはだかりドアが閉じているように見えても、あきらめずにドアをたたき続けなさいとか。なんならそれが信仰だ、くらいのことを言いますよ。そういう意味で私たちは祈ることそして信仰を持って行動する。この両面の大切さをもちろん知っています。


しかしながらしっかりと文脈を捕らえて読んでいく時に、この箇所は単純にあきらめず積極的に求めて行動していくことの大切さをメインに語っているのではないということは明白だと思います。なぜなら9節以降、後々詳しく見ていきたいと思いますが、父親が子供に良いものを与える、もっと言うと天の父なる神様が私たちに良いものをくださるということが語られていきます。つまり神様と私たちの関係というものがメインのテーマとしてあります。実は平行記事であるルカの福音書11章には、ここと同じことばが登場します。「求めなさい。そうすれば与えられます。」(ルカ11:9)時間がないので詳しく読みませんが前後関係で言うと、その直前ルカの福音書11章の一番最初にはイエス様が弟子たちに祈り方をお教えになるシーンが登場します。いわゆる主の祈りの場所です。それがあっての「求めなさい」っというながれにルカの福音書ではなっています。つまり、この求めなさいっというのは、強く願って行動をおこせというよりは、遠慮なく大胆に神様に祈り求めなさい。っという意味合いが強いんですね。


さてその前置きをしたうえで、皆さん「求めなさい。そうすれば与えられます。」と聞いてどのようなことを思われるでしょうか。本当にそうだな思われるでしょうか、いやそう単純ではないと思われるでしょうか。もちろん素晴らしい約束だなと思いますし、励まされる御言葉です。しかしながら信仰生活が長くなればなるほど、祈ったけれども、求めたけれども、与えられなかった。探したけれども、見つからなかった。叩いたけれども、結局は、開かなかった。っという経験が1度や2度ではななくなっていくというのが現実ではないでしょうか。では私たちが経験するその「現実」とこのイエス様の仰った言葉と、どのように折り合いをつけて理解していけばいいのか考えていきたいと思います。


先ほど9節以降親子関係ということをベースに祈りということが語られていくといいましたが、このメッセージを準備していてちょっと笑ってしまったことがありました。私にも2歳の息子がいます。家では日本語、保育園では英語、まあそんな環境も手伝ってでしょうか。決して言葉という面では成長が早いほうとは言えません。ですからまだ彼のしゃべる言葉、覚えている言葉というのは限られています。ミルク、肉、パン、ジャム、っと。まあ好きこそものの上手なれではないですけれども、ほとんど食べ物ばかりでして。毎朝うちで一番早く起きるのがだいたい恵信です。寝ている妻あるいは私のところまできてまず第一声「パン」そして次に「ジャム」それの繰り返し。もう少し寝ようなんて言う交渉が通じるはずもなく、私か妻、いや正直ほとんど妻がやってくれていますが、そのリクエストに応えてパンをトースターにセットします。9節「自分の子供がパンを下さいという時にとでてきますので、」ってこんなに文字通り当てはまることあるかなっとちょっと私は笑ってしまいました。


息子が喋れる言葉が少ないということももちろんあります。でもたとえ「おはよう」という言葉を知っていたとしても、おそらく彼から最初出てくる言葉は「パン」なのかもなあと思います。でそれは良い意味で、私たち親と息子の関係の中心にあるものは多分シンプルなんですね。少なくとも息子にとってはシンプルです。パンっといてそれが出てくる。。肉と言って与えられる。ミルクと言って与えられる。チーチと言っておむつを替えてもらう。つまり求めて与えられるとういうシンプルなこと。そういうシンプルなやり取りを繰り返して愛とか信頼とか、いわゆる親子関係というものになっていくんだと思います。親子だけでなくして、人間関係の中心にあるものってやっぱり、この「求める」ということなのではないでしょうか。大人でもそうですよね。ちょっと困ったことがあって助けてもらった、逆に自分が助けてあげた。そういうことを通して人間関係というものは育まれていきます。求めるということがなければ信頼は生まれません。人には頼らず生きていくんだ、助けなどいらないと思ってそれぞれが生活をしていれば、一向に距離感は縮まっていかないでしょう。現代人が孤独に悩む原因がそこにあるのではないかと思ったりしますが。


話を戻しましょう。ですからシンプルに「求めなさい、そうすれば与えられます」というのは、何かこうアマゾンで注文したものが確実に届くとか、自動販売機お金を入れてボタンを押したら好きな飲み物がでてくるとか、そういうことではないわけですよね。求めなさいっと神様はがおっしゃるとき、それは言い換えると「私と関係を持とうよ」とこうおっしゃっている。ということなんだと思うんですね


 ではそれはどのような関係かというと、9節戻っていただいて親子のような関係だとイエス様はおっしゃる。神様が父親で、私たちが子供ですね。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

マタイ7:9-11

 親は子供に良いものを与える。まあこれは当たり前なわけですよね。基本的には子供の欲するものは全て与えてあげたい、それが親というもの。しかしながらじゃあ何でもかんでも与えたらいいのかっというともちろんそうではない。そんなことをすれば大げさに言えばですよ、その子の人生がめちゃくちゃになりかねない。無責任な親になってしまいます。


うちでは食事中に息子も私たち親と同じメニューをだいたい食べます。けれど時にちょっとスパイシーなものもたべますので、そういう場合は別の味付けになります。で好みでラー油とかコショウとか、キムチとか後で足しながら食べたりします。すると当然息子のめにはいって「アレ」ちょうだいっとなる。けれどそれに対しては「いやいやこれはあんたには辛い」と息子のリクエストに対してNoっと父親である私は言います。あるいは息子はミニオンというキャラクターの登場する映画が好きなんですが、そのテレビを見たい、見たい、と隙あらば言ってきます。もちろん見せるときもあれば、いや今日はちょっともうテレビは見すぎだなと思えば、ハイもうおしまいっと言ってテレビを消す。当然息子は怒り、泣き崩れます。「No-!」みたいな。この世の終わりだみたいな。で当然親は決していじわるしてそうしているわけではないですよ。本人が欲しがっているものでも、与えてしまえば害になるものがやっぱりこの世界にはあるわけですよね。それこそラー油なんて赤くておいしそうだなと息子は思うわけです。けれども実際口に入れようものなら確実に吐き出して、泣くでしょうね。テレビばかり見ていれば目が悪くなるかもしれない。そんなことは一ミリも本人は気づいていない、けれど親である私たちはわかっています。がゆえに彼のために愛を持ってそのリクエストに対してはNOっという。


 同じように神様も私たちのことを思って私たちの祈り、リクエストにNoとおっしゃるときがあります。

あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

ヤコブ 4:2-3

 

まあよく言われることですが、私たちの祈りもまた自分たちの願っているものが本当に自分にとってベストなものなのかどうか実は判断できていないということが良くあります。なぜなら私たちの視野はやっぱり狭い。どれだけ情報を集め、客観的に考えれたとしても、神様が持っておられる視野、知恵に比べれば比較にならないでしょう。ですから祈神様は私たちの祈りを無視しているのではなくしっかりと聞いたうえで、それにたいして「NO」という事もあれば、「まだもうちょっと待とうか」と言われるときもある。ラー油は成長したらしっかりと味わえるようになるわけですよ。けれどタイミングがいまではないと。でそうしたときに人間側から見るとなかなか祈りが答えられないなーと感じてしまうっという具合でしょうか


 クリスチャン生活が長くなっていくとそういう経験は増えていきますよね。振り返ってみて、あああの時祈り求めていたものは与えられなくて逆に自分のために良かったんだなと今となっては思えるようになったというような経験。皆さんもあるのではないでしょうか。


 私で言うと結婚についてですかね。正直に言いましょう、私の計画ではもっと早くに結婚しているはずだった。30歳になる前に結婚するのが理想でした。ですからそのために祈りましたよね、いい出会いがありますようにとか。でもそううまくはいきませんでした。私が結婚したのは35歳になってからです。しかしながら振り返ってみるとこれでよかったなあと思いますよね。もっと前に結婚していたら、今の妻にも出会えず、恵信にも出会えず。っというわかりやすいところももちろんそうなんですが、例えば若くして結婚していたら、そのありがたみとかわからなかっと思うんですよね。まだまだ足りませんけれども、あの結婚できない期間が私のなかに少なからず謙虚さというものを育てたのではないかなと思っていますし。そういった意味でも、正しいタイミングというものがあったのだろうなと思います。


さて、まあここまでは割とスムーズにストンっと降りてくるというか納得しやすい。なるほど自分が欲していることがベストかどうかというのはわからない。神様は私たちよりも何倍も広い視野で物事を捕らえ、私たちにベストな道へと導かれる。がゆえに祈りにNoあるいはNot yet(まーだだよ)が神様から返ってくることはあると。なるほどなあと思います。ただ一方でひねくれている私はこうも思ってしまうわけです。結局何を与えるかは完全に神様が決める、つまり御心にかなうものだけが与えられるのだとしたら、私たちが祈るか祈らないかなんて関係あるのだろうかと。でもっというと少し前の6章ではこうもおっしゃっているわけですよ


あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

マタイ6:8


ならなおさらなぜ祈るのか?そしてこの思いに追い打ちをかけるのは、やはり「聞かれない祈り」ではないでしょうか。もちろん自分勝手な祈り、あるいは自分の視野が狭くて、後になってやっぱりこれでよかったと思えることに関しては時間がたてば納得がいくのかもしれない。けれどもその「聞かれない祈り」の内容が、たとえば家族の病気を癒してください、命を救ってください、あるいは信仰を持っていない家族の救いを願う。そういうものだったとしたらどうか。やっぱり思いますね、さすがにこれは神様も望まれることなのではないだろうか、さすがにこれは御心にかなう祈りなのではないのか?っと。それでも主から一向に答えは返ってこず、沈黙が保たれる。そんな時間が長く続いたらどうでしょうか。

 

どれだけ私が祈ったとしても結局主は御心をなさるというのなら、何のために祈るのか?祈っても祈らなくても一緒じゃないのか。そうして次第に祈りが減ってきてついには祈らなくなるという事もあるかもしれない。期待するのに疲れてしまう。求めなければ傷つかなくて済む。けれどその代償は何かというと、神様との距離感ではないでしょうか。何度かメッセージでシェアしていますが、私は持病である神経痛がありまして、いまだに良くなったり悪くなったり繰り返しています。まあもちろん生死にかかわらないだけ感謝ですし、間違いなく忍耐とか自分の霊的成長、人格形成に役立っているとも思います。でもやっぱり思っちゃいますね。なんで治らないの?なんでこれが御心じゃないの?まあもちろんそういう思いも、時間とともに「受け入れる」という方向には向いていきます。神様との関係性において決定的なダメージとはなっていないと思います。でも今回のメッセージを準備するうえで気づいたんですね、私はどこかで自分の求めるものをサイズダウンする癖があるなあっと。これはたぶん無理だよねとか、まあこれは別に自分が頑張るべきことだよねとか、祈るほどのことじゃないよねとか。で心を掘り下げていくとやっぱり根っこにはこの「求める」ということを恐れてしまっている自分がいるということに気づかされました。でそれは確実に神様と自分の関係の距離感に影響を与えていると感じたんですね。ちょっと一歩下がっている感じというのでしょうか。


 何故神様はある人の命を救ってくださいという祈りにはこたえられて、ほかの人の同じような祈りにはNOと言われるのか、ある人は奇跡的に癒されて、ある人は何年たっても癒されないのか。それに納得のいく答えなんて正直持ち合わせていません。わからない。牧師でもわかりません。けれどもはっきりしていることがあります。それは私たちはそれでも祈るべきだということです。


 何故それでも祈るのか?に対する最もシンプルな答えはおそらくイエス様も祈られたからという答えになるでしょう。そしてイエス様ご自身も神様から祈りの答えとしてNOを頂くという経験をされたということにやはり目を留めたいと思います。イエス様は神様です、にもかかわらずこの「聞かれない祈り」というものを経験された。しかも命がかかった場面でです。どこででしょう? ゲツセマネ、ゲツセマネの祈り。十字架につく前の夜イエス様が祈られた有名な祈りですね。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

ルカ22:42


さすがイエス様、最後は御心の通りにと祈られている。ってそう簡単な話ではない。聖書には血の汗を流されたと書いてあります。つまりそれほどに必死だったということです。しかも一度ではなく三度祈られました。つまりそれだけ避けたかった。当たり前です誰も世界の罪を背負って十字架になど行きたくはない。そして神の御子がこの窮地から救われる、これこそが神の望むこと、神の御心だって普通は思いますよね。結果どうなったか。その願いはかなえられずイエス様は十字架で苦しみを受けられます。父なる神様から帰ってきた祈りの答えはNOでした。求めたものは与えられなかった。ではなぜ祈られたのか?イエス様は神様ですから、ご自身祈りの、リクエストの答えがNOであるということはわかっていたかもしれない。それでも祈られた。なぜか?それはイエス様の祈りの最終ゴールは祈り求めたものが与えられるということではなかったからですね。求めたものは与えられなかった、それでも、それでも父なる神様あなたを信頼しますというところにイエス様ご自身が祈りを通してたどりついたというところに非常に重要な意味があるんだと思います。そしてこれは最初からあきらめてしまうのとはわけが違う。求めることなくして、信頼関係というのはあり得ない。求めたうえでゆだねるということが信頼でしょう。


 求めるということはリスクです。答えがNOかもしれないから。けれど私たちが祈りのなかで恐れず求めるときにそれは、「神様、私はこれだけあなたを信頼します」っというしるしなんだと思うんですね。

 ある人がこんなことを言いました。


どちらのほうが優れた奇跡だろうか?癒されえることか、それとも癌に侵されてもなお、神に礼拝を捧げる心なのか?私にはわからない。ただ、私はそんな心が欲しかった

What was more supernatural? A healing or a heart that still worshipped as cancer ravaged the body in which it beat? I can't say. I just wanted a heart like that

Jack Deere


私もそんな心が欲しいなあと思います。

最後にちょっと使徒の働き12章開いていただきたいと思います。ちょっと時間ないので全部は読みません。ぜひご自身で時間のある時に読んでいただきたいと思います。まあざっくりあらすじを言いますと、イエス様のことを福音を宣べ伝えている使徒たちはその福音の広がりとともに迫害に会うようになります。その迫害のゆえにペテロがヘロデ王という王様に捕らえられてしまうということが起きるんですね。で5節見ていただければわかりますけれども、教会はそんな捕まってしまったペテロのために熱心に祈ります。すると真夜中ごろ御使いがあらわれて、奇跡的にペテロがつながれていた鎖は落ち、牢屋の門も開いて助け出されるということが起きます。ペテロは彼のために祈っている教会のところまでいってサプライズ!と言わんばかりに皆会う。で皆神を褒めたたえると。まざっくり言うとそういうエピソードが17節ぐらいまで展開するんですね。で今日注目したいのはその奇跡ではなくして、12章の1-2節、迫害が厳しくなっていった様子がかかれています。


そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

使徒12:1-2

この流れでペテロが捕まっていくわけなんですが。2節ヤコブは殺されたとさらっと書いてある。これペテロと同じ12使徒のひとりのヤコブです。なぜペテロは奇跡的に助けられて、ヤコブは無残にも殺されたのか?どちらも使徒です。福音を伝えていくという重要な役割があったはずです。なぜペテロだけ助かったのか?


 その理由を答えられる人はいないでしょうね。わからない。わからない。けれど明らかなのは、ペテロのために祈った教会は、ヤコブのためにも熱心に祈ったに違いない。ヤコブが助かるように、ヤコブが救われるように、皆で心を一つにして祈ったことでしょう。そのうえでヤコブは殺される。そうして間もなくしてペテロが捕まる。もしかしたらヤコブが殺された次の日だったかもしれませんね。教会はどうしたか、祈った。ペテロのために祈りました。ヤコブを救ってくださいという祈りが聞かれなかったという現実直前に経験してもなお、教会は熱心にペテロのために祈ったんですね。


 どちらのほうがより優れた奇跡だろうか?鎖が落ち、牢屋が空き、ペテロの命がすくわれたことか?それとも聞かれない祈りを直前に経験してなお、あきらめることなく主を信頼し熱心に祈りつづける教会か?私にはわからない。ただ私はそんな教会の一員でありたい。と思うんですね。

 祈りというのは深いです。説明しつくせません、なぜならロジックではない、リレイションシップ/関係だからです。そしてだからこそ難しくて時に混乱します。これが正解の祈りだということは言えないでしょう。しかしながら祈りに関しての不正解はあります、でそれは祈りを辞めてしまうということ。なぜならそれは神様との対話を辞めてしまう。関係を断ってしまう、あるい距離を開けてしまうということだからです。祈るこころ、求める心を主が与えてくださるようお祈りしたいと思います。

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