2024.06.09
『正しいことをしたければ偉くなれ』「踊る大捜査線」というドラマの有名なセリフになります。もう何十年も前のドラマなので、完全に若者を置き去りしてしまう形になりますが、30代後半以上の方は知っておられる方多いのではないでしょうか。詳細を省いて言葉の意味だけを説明するなら。先輩刑事から主人公に向けて語られるセリフ。堕落した警察組織を変えたいなら、正しい思いだけを持っていてもダメだと。上の、つまり決定権や影響力のある立場にまで出世しなければ本当の変革は起こせない。まあっざくりいうと
そういう意味です。サラリーマンとか組織に属している人間であれば心に刺さる名セリフです。「あー気持ちだけあってもダメなんだ」と
えっ急に何の話?って思われますよね?いやダニエル書は?と。しかしながらある意味、実際に偉くなって正しいことをした人ということで言うと、まさにダニエルがそうだったんじゃないかなと思います。ダニエルは正しい思いや信仰を持っていただけではなくして、能力を認められ国のトップまで出世した人だったんですよね。今日見ていく箇所でもそうですし、1章からこの6章までを通してもその姿が描かれてきました。どのようにダニエルがこのバビロンという異国の地において、信仰を失わず、逆に成功をおさめて影響力を持つ存在になっていったのかということが一つの中心的なテーマとしてあるのではないのかなと思うんですね。
③今日でダニエル書最後ということで少し振り返ってから初めて行きたいと思います。イスラエルは罪の結果、主の裁きがくだりバビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。そして民衆はバビロンに連れて行かれます。これがいわゆるバビロン捕囚というやつですね。バビロンの意図としては故郷から民を切り離し、バビロニアまで連れてきて、そこの生活に慣れ親しませて、気づけばいつのまにか祖国のことを忘れている。そのようにして反乱が起きないように民を手なづける、治める。そのような政策をとっていました。
このバビロン捕囚を経験したのがダニエルと彼の友人3人です。彼らは異国の地、で自分たちの信仰と信念を全く理解しない社会の中でどのように生きていくのか?要はこの異国の地で、彼らは信仰を貫けるのか、それとも異国の文化、価値観に染められてしまうのか?っとそういうことですね。でその問いかけは、バビロンに移住した民すべてに問われていることでありました。そんな彼らがとった行動は大きく分けて二つです。④一つ目それは、とにかく異国にアジャストする。悪く言えば流される、あるいは染まってしまう、です。⑤もう一つのパターン、それはとにかく自分たちを守る、異国の文化や価値観にできるだけ触れないようにする。距離を置く、異国の人たちとなるべく関わらないようにする。⑥ダニエルはどうしたのか、今までも見てきました。彼は染まってしまうことはありませんでした、1章で見ましたね、並べられた王のごちそうを自分の信仰と確信のゆえに、食べないという選択をしました。3章ではシャデラク、メシャク、アベデネゴは、金の像を拝まないという選択をしました。つまりしっかりと流されず、信仰に立ってNOと言ったわけです。けれど彼らはこの異教の世界、異国の地のすべてに足して何も考えずに「NO」と言ったわけではありませんでした。積極的に置かれた環境で異国の文化、学問を学んだ、だからこそ王の側近になるべくトレーニングを受けた若者たちの間でトップの成績を収めた。(これも1章でみました)そしてダニエルは王のために、夢の解き明かしをして、王にアドバイスまでする存在になっていきました。2章、4章、5章ですね。
っとこのように異国の地で、信仰に立ち、流されず。けれども自分の殻に閉じこもるわけでもなく、逆に影響を与えるような存在になっていくダニエルの姿は、私たちクリスチャンが信仰をもちながら、この世にあってどのように生きていくのかと言いう点で多くのことを教えてくれます。前置き長くなりました、今日はこのクリスチャンがこの世で持つ影響力という視点で6章を読んでいきたいと思います。例のごとく、要約しつつ必要なところは、聖書を6章を開いていきたいと思います。
先週みましたがついにバビロンはメディア・ペルシャという国に亡ばされてしまいました。ですから王様も変わってダリヨス王になっています。1-2節では政権が交代してもダニエルは大臣として登用されたということが書かれています。120人の太守(今でいう県知事みたいなローカルのリーダーたち)を束ねる3人の大臣の一人に選ばれたと。さてそれだけではなくして3節
⑦ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。(王は)彼を任命して全国を治めさせようと思った。
ダニエル6:3
なんとその3人の大臣の中のトップ、つまり王様は自分の下にダニエルをおいて国のナンバー2にしようとします。でこの時ダニエルの年齢は何歳だったかと言うと、ちょうどダニエルがバビロンに来て70年たった時ということが9章を読むとわかりますので、80代だったのではないかと言われています。もうおじいちゃんですね、にもかかわらず国のナンバ-2を任せたい。それほどにダニエルは際立って優れていた。非常に有能で信頼に厚い人だったということです。
⑨でこれは、この世を生きていくクリスチャンにとってもものすごく重要なのではないでしょうか。いやもちろん、みんながみんな国のトップになれるわけではない。ダニエルには才能があった、そして何より神様が祝福されたからこそ国のトップにまでけたんだ。そういってしまえばそれまでです。しかしながら、ダニエル自身も努力したに違いない、勉学に励み、一生懸命与えられた仕事をこなした。好きでやっていたわけではないと思います。完全に異国の文化、しかも敵国に仕えるというそういう状況なわけで。この仕事は生きがいだと思っていたわけではないと思います。けれども彼はベストを尽くしました。だからそれらが認められて国のトップまで行くわけですよね。でその地位を通して何度となく、バビロンの国中に神様の栄光を示してきたのをシリーズを通してみてきました。
で私たちもまた、自分に与えられている、仕事、役割、学生なら勉強、そういったものにおいて、良い成績をあげる、ベストを尽くす、いい仕事をするっということは実はとても大事な事なんだということをダニエルから学びたいと思います。どれだけ、聖書の知識があり、どれだけ毎日祈り、どれだけ教会の奉仕していたとしても、普段の仕事は不真面目、まったく適当な仕事しかしない。そういう人の話を誰が聞きたいのかということはやっぱりあるわけで。結局人は成功者、あるいは功績をあげた人から話を聞きたいと思いますし、そういう人の影響力というのがこの世においては大きい。もちろんクリスチャンにとって、社会的に成功するということが第一の目標ではないです。けれども主の栄光を証するためには、その要素もないがしろにはできない。結果がすべてではない、けれど仕事にしろ、勉強にしろ、主のためにベストを尽くすことが大事だと。
さてダニエルがその能力を評価されてナンバー2に昇進します。当然それをよく思わなかったのは、残りの大臣でした。ですから彼らはダニエルをおとしめようと、身辺調査をして、あら捜しを始めます。何かスキャンダルがないかということですね。4節
⑨大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。
ダニエル6:4
探しても、探しても一点の汚点も出てきませんでした。いやスキャンダルどころかダニエルは忠実で、怠慢も欠点も見られなかったとあります。つまり人格者としても文句がつけようがなかったということですね。ダニエルはただ仕事ができたわけではない、ものすごくいい人で、周りからの信頼も厚かった。でそれは公的な場のみならず、プライベートにおいても変わらなかったということではないでしょうか・
⑩ですからクリスチャンもこの世にあって影響力を持つのであれば、仕事だけできてもダメですね。どれだけ才能があり、有能で仕事ができたとしても嫌な奴じゃあだめだと。「自分はとにかく出世するんだ」といって、その過程で人を押しのけたり、優しくできなかったり、人格を置き去りにしてしまうようであれば元も子もない。もちろん逆もありますね、めちゃくちゃいい人なんだけれども、全然仕事できないみたいな。(そっちのほうがましかなと思いますが)いずれしにろ両方、両方必要なんだと思います。もちろんパーフェクトである必要はない、けれども仕事、あるいは与えられた責任に関してベストを尽くしつつ、周りの人に対しても誠実であるということ。ダニエルはこの両面において非常にバランスの取れた人物でありました。
ダニエル書戻りましょう。どれだけ身辺調査を行っても何のスキャンダルも見つからないダニエル。それならということで他の大臣たちは、今度はダニエルの信仰心を逆手にとって罠にはめようとある法令を制定すべく、ダリヨス王に提案します。7節
⑪国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。
ダニエル6:7
30日間王様以外に祈りをささげるものは処刑されると。この提案をした大臣たちは当然ダニエルが熱心に毎日祈っているということを知っていました。ですからこの法令を制定さえしていまえば、王様にサインさせてしまえば、確実にダニエルを殺すことができる。そういう思惑ですね。
さてこの法令が制定されてからダニエルはどうしたのか。10節
⑫ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。—彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。—彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
ダニエル6:10
ダニエルはいつものように祈りました。しかも窓を開けて。今や国のトップの大臣にまでなっていたダニエルには他にもいろいろ選択肢はあったのではないかと私たちは思います。例えば、そんな法令は不当だとして訴え出るとか、王に直談判するとか。いやそんな直接的な方法に出なくても、30日という期限が定まっているわけですから、その間は祈らないということもできたのではないか。別に信仰を捨てろと言われているわけではないわけですし。ほかの偶像を拝めと言われているわけでもない。だからちょっとブレイクではないですけど30日だけ祈りをストップする、それは許容範囲だったのではないか。いやもっというと、祈るにしたって窓を閉めて誰にも見られないところで静かに祈るということができたはずです。そうすればだれに師も知られることはない。何故ダニエルは窓を開けてエルサレムの方向を向いていのったのか?おそらくそれは、かつてソロモン王が神殿奉献の時に祈った祈り、この聖書箇所がもとになっているのではないかと言われています
⑬捕らわれていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、 あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。
2歴代誌6:38-39
それはバビロン捕囚を預言するような内容だったわけですよ。もし民が罪を犯して裁かれて違う土地に連れていかれるようなことがあっても、このエルサレムの神殿の方向を向いて祈るなら、その祈りを聞いてやってください。っというソロモンの祈り。ダニエルはこれをベースにエルサレムに向かって一日に3回祈っていました。しかしながらこれよく読んでくださればお分かりになると思いますが、命令ではない。絶対にエルサレムの方向向かって祈りなさいという命令として聖書に書いてあるわけではないんですね。つまり窓を開けずに静かに祈る形をとったとしても、神の律法を犯すということにはならない。罪ではないわけです。それでもあえてダニエルは、窓を開けて、エルサレムの方向を向いて祈るということを選択しました。なぜか?でそれは大きくわけて二つの理由があったのではないかなあと思います。
⑮まず一つ目それは妥協なき信仰です。ダニエルにとって、信仰とは聖書に書かれているすべてのルールを守り、チェックリストをクリアするということではありませんでした。いやそうではなくして、自分の心が主にまっすぐ向いているのか?主だけを自分は恐れているのか?それこそが彼にとって最も重要な事だったのではないでしょうか。先ほども申し上げたとおり、もちろん戸を閉めて静かに祈ること自体は悪いことではないです。けれどポイントは、10節にありました、
⑯彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。(10節)
⑰ダニエルは今まで毎日窓を開けてエルサレムのほうを向いて祈ってきました。毎日いつも。で、この法令が出されたからと言って、窓を閉めて静かに祈るといことを自分が選んでしまうとしたら。それは彼にとって自分が主ではなく、その法令を、獅子の穴に入れらえるということを神様以上に恐れるということ、を意味したのではないでか。主のみを恐れるなら、神様だけを恐れるなら窓を閉める必要はないと、妥協はできないと。でそれに対して私たちは思います、いやそれはさすがに厳しすぎないか?と。しかしながらダニエルにとってこれは小さなことではなかったのではないでしょうか?
このバビロンという異国の地にあって、少しでも、たとえそれが心の中のことであったとしても妥協するということは、信仰にとって命とりであるということを彼は知っていました。異国の地で70年間も信仰人生を生き抜いてきたダニエルだからこそ、そのことを骨身にしみてわかっていたに違いありません。主だけを恐れるなら、他に何も恐れないというのであれば、自分はいつものように、窓を開けて、エルサレムの方を向いて祈るんだ。そういう覚悟と決心が彼の信仰を70年間も支えてきたんだと思うんですね。
まったく価値観の違う異国ということを思う時に、やはりなかなかどうして日本のことを思わずにはいられない。私自身、15年ほど前NZ留学をおえて日本に帰国した時のことを思い出します。私はNZでクリスチャンになり、聖書の学校を卒業して日本に帰国、就職しました。日本人なので、日本が母国であるにもかかわらず、NZに長くいすぎたせいか、もはや日本の社会は私にとって異国となっていたんですね。逆カルチャーショックというやつでしょうか。加えて、日本のクリスチャン人口は1%以下。信仰面でのチャレンジもたくさんありました。私はとにかくこの新しい環境に慣れなければと必死でで気づけば、聖書を読むこともなくなり、祈ることも減り、なんだかんだで「仕事が大事」とか、「お金が大事」とか、そういう価値観に流されている自分がいたんですね。目立った罪を犯したとか、完全に道を外れたとか、そういうことではありませんでした。けれども小さな妥協が積み重なり。気づけばこの世の価値観に流されている、そういう感じでした。
皆さんどうでしょうか、日本に比べればNZでのほうが信仰を保つのが難しくないかもしれません。けれどそれにしたって小さな心の中での妥協が積み重なり、気づけば流されているということが大いにありうる。でそれは何か表面的に罪を犯す、そういうことではないのかもしれない。けれど自分は主を第一として生きているのか、主だけを恐れて生きているのかということを、常に自分の行動と心に妥協なく問い続けるということをしなければ、気づかないうちに流されていくということが大いにありうる。ダニエルは心の中での妥協を良しとはしませんでした。
⑱さてダニエルが窓を開けて祈ったもう一つの理由はなんだったのか。二つ目の理由は、証のためだったのではないかなと思います。ダニエルの信仰は隠れた信仰ではありませんでした。そもそもダニエルが毎日三回窓を開けて祈るということを、他の大臣が知っていたからこそ彼らはこの法令を作ってダニエルをはめようとしたわけですよね。結局ダニエルは、祈っている姿を目撃され、王に告げ口をされてライオンの穴に放りこまれることになってしまいます。14節に王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めたとあります。どれだけダニエルが王様に気に入られていたのかが伺い知れます。けれども王様も法令にサインをしてしまった以上、それを取り消すことはできませんでした。王様にできることは、ライオンの穴に投げ込まれるダニエルに声をかけることだけだった。16節
⑲…「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」
ダニエル6:16
これはダリヨス王がダニエルに向かって語っている言葉です。つまりダニエルの信じている神様のことをダリヨス王はこの時点で認識していたということです。「あなたがいつも仕えている神が」特別なことがあったからとかではなくして、普段から「あっダニエルはこの神様に仕えているんだな」と言うことが敵の大臣含め周りの目にはあきらかだった。ダニエルの信仰のことを知らない人はいなかったということです。彼にとって信仰とはプライベートなものではありえなかった。『いやこれは個人的に信じていることなんで』特に周りには伝えず、そういうスタンスでダニエルは歩んでいませんでした。言葉、行動、生き様すべてが彼の信仰を語っていた。
皆さんどうでしょうか、証をする、伝道する、神様のことを人に伝える。っと聞くとどのようなイメージを持たれるのか。苦手意識があるという人も多いのではないかと思います。下手したらあまり良いイメージを持っていないという、そういう方もいるかなと。「いきなりそんな神様の話を人にしても、引かれてしまって逆効果だ」とかですね。実際私もそういうイメージあります。牧師が伝道苦手ってどうなのと?正直自分でも思いますけれども。。。でそこでよく言われるのが、行動で、生き方で証をしてきましょうというお話ですよね。信仰をもって愛をもって誠実に人と接していくなら、それを通して神の栄光が周りに表されるというお話。私自身そういうメッセージをしたことがあります。そしてそれは間違いではない。ダニエルの生き方もある意味、行動で神の栄光表すという、そういうものだったと言えると思います。しかしながら本当に神様のかの字も一言も発せず、信仰の話を一切しないのだとしたら。本当に行動だけっとなると、それで神様のことは伝わっていくのか?難しいでしょうね。というか伝わらないでしょうね。行動で示す。めちゃくちゃ重要です。けれども機会があるごとに信仰の話をしていく、自分の信仰をオープンにしていくということもまた同時に大切なんだと思います。ダニエルの信仰は隠されたものではありませんでした、周りの人たちは、ダニエルが仕えている神様のことを知っていた。私たちはどうでしょうか、私たちの周りの人、同僚、友人、家族は、私がクリスチャンであるということを知っているだろうか。考えさせられます
もちろん空気を読まずに、ただいきなり神様の話をすれば良いというわけではない。ダニエルだってそうですねよ、普段から神様の話ガンガンしていたわけではないと思います。あるいは大臣という立場を使って、国中に主を礼拝するようにという政治的な動きをしたわけでもないでしょう。伝道という観点から言ってダニエルは自分からアクティブに攻めていったという印象はありません。けれども機会があるたびに、彼は自分の信仰をオープンにし、証をしてきた。だから今回の法令が制定されて、命の危機にあっても、ダニエルは自分の信仰を隠さないということを選んだのではないでしょうか。
さてその後どうなったのか。ダニエルがライオンの穴に入れられて一日たった後、王様は様子を見に行きます。21節から
⑳すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」
ダニエル6:21-22
神様はダニエルを守ってくださいました。23節にある通り、それは彼が神に信頼していたという見事な証だったんですね。結果ダリヨス王は国中にダニエルの神、主を褒めたたえるようにということを書き贈ります。絶体絶命のピンチにあって、ダニエルは神様を信頼したことによって、逆にそれが用いられて主の栄光があらわされるという結末で6章は幕を閉じます。っと本来はここが一番ドラマチックで説教としてもメインで語られるところなんでしょうけれども、今日はちょっと違った視点で。ダニエルが異国の地にあって持っていた影響力という角度から6章を見てきました。
まとめましょう。ダニエルが持っていた影響力の秘密、4つくらいあったのではないかなと思います。まず一つ目、ダニエルは仕事ができた。彼は与えられたエリアでベストを尽くしました。その結果影響力のある地位に行くことができた。二つ目、仕事ができるだけでなく、人格も素晴らしかった。「いやな奴」ではなく「いい人」だった。三つ目、妥協のない信仰。ただ罪を犯さない、だけでなく、主だけを恐れるという覚悟をもって歩む人生でありました。それこそ今回命を懸けてその信仰を貫きました。四つ目、自分の信仰をオープンにしていた。決して人に押し付けるわけではなく、けれども周りに自分の信仰が伝わる、そういう人生をダニエルは歩んだんですね。
結果異国の地にあって捕虜としてスタートしたダニエルの人生は、王様をも動かし、国中に主の栄光を表す、そんな影響力を持つようになった。
さて結果だけ見るとすごすぎて、完璧すぎて、いや私はダニエルみたいにはなれない。そう思ってしまいますね。けれど最後に覚えたいのは、そんなダニエルの信仰人生を支えたのは、おそらく毎日の祈りだったのではないかということです。10節で見ましたね、彼は「いつものように」日に三度祈ったと。信仰は一日で一気に成長するということはない、ダニエルの信仰人生も日々祈りを積み重ねることで、成長していったのではないでしょうか。あるい人は言いました。
㉒卓越性とは行為ではなく習慣なのだ (ウィル・ダラント)
‘Excellence is not an act, it’s a habit.’ Will Durant
英語のほうがわかりやすいかもしれません。まあ要はよく言われる「習慣が人を作る」というよというやつです。急に命の危機にあって、信仰を選ぶということはできないかもしれません。しかしながら日々祈る、聖書を読む、神様と時間を過ごすっということを、選んでいくということは私たちもできるのではないか。そしてそれを積み重ねていく時に、影響力のある信仰を養っていくことができるんだと思うんですね。
で最後余談ですけれども、28節
このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。
ダニエル6:28
さらっと書いていますが、クロス王というの出てきますね。彼にもダニエルは仕えたわけです。じゃあこのクロス王ってだれかというと、2歴代誌36:22-23にのっていますが、実はこの王様が、ユダヤ人たちにエルサレムに戻って神殿を再建するようにという指示を出すんですよね。いやもちろん主の霊が、王様の心を動かしただから、そのような命令をが出された。間違いないです。そう書いてありますから。ただもしかしたらダニエルの影響というものもあったのかなあ。ね、あくまで推測ですけれども、だとするとかなりかっこいい。ダニエルの信仰は、ダニエルの人生は国を動かした。
㉓私たちはダニエルのように立派ではないかもしれない、才能もダニエルに比べれば微々たるもので、持っている影響力も限られているでしょう。けれどもそれぞれに与えられた場所があり、与えられた人々が周りにいるわけで。地の塩、世の光として、今いるその場所で主栄光を証するものでありたいと思います。