メッセージブログ

2024.07.28

神の子とされる (ガラテヤ4:1-9)

 

一章から一貫して語られているガラテヤ人への手紙のテーマは、私たちは律法ではなく信仰によって救われるです。で3章ではですね、そのことが実は創世記のアブラハムの時代の約束からこう話がつながっているということが出てきたわけです。神様はアブラハムにその子孫を通して全世界を祝福するとおっしゃった。でその後モーセを通して律法がイスラエルに与えられたんだけれども、その律法は約束された祝福をもたらすというよりは、どちらかと言えば人間の心にある罪をよりはっきりと私たちに示す、まあそんな役割をもっていたと。ではどのようにしてアブラハムに約束された祝福はもたらされるのかと言うと、それはイエスキリストの十字架を信じる信仰によると。ああザーッっくり言うとそんな感じの話だったかと思います。さて今週はですね、じゃあそのイエス様を信じる信仰を通して与えられる祝福ってどんなものなのか?というそういうお話です。実は昨年の父の日にこの箇所からメッセージをしていますので、重なる部分もあると思いますがご容赦いただきたいと思います。

ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

ガラテヤ4:1-7


 イエス様の十字架を通して与えられる祝福はいろいろあるわけなんですが、今日の箇所でクローズアップされているのが、神様の子供とされるというポイントです。3:26にこのようにありました。


あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3:26


さて聖書の中であなた方は神の子ですという時にそれはいったいどういう意味なんでしょうか?人間は皆神様に作られた、そういった意味で神の子供というそういうことなのかと言うとそうではない。ここではいやそれ以上の特別な意味で言っています。4章4-5節 見てください。


しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

ガラテヤ4:4-5


注目していただきたいのは、「子としての身分を受ける。」という言葉です。ちょっと日本語ではわかりにくいですが、英語で見るとここは「adoption to sonship」となっています。adoptionつまり養子として受け入れられるということを言っているんですね。私たちが神の子供と呼ばれるのは、神様が私たちを養子として受け入れてくださったが故だと、生まれつき子供なのではない。養子として受け入れられた。ではどのようなプロセスがあって私たちは神様の子供になったんでしょうか?


もちろん現代でも養子制度というものはあるわけですけれども、当時一世紀ローマの文化、社会の中では、まあ今よりもわりと頻繁に養子をとるということが行われていたようです。たとえば裕福な家に、子供が生まれなかった、あるいは子供がいたとしてもこの子には家を継ぐ能力がないと父親が判断した場合、自分の召使、あるいは奴隷から一人をとって養子にする。そして養子とされた瞬間、その奴隷は子供として扱われ、法的にすべて実の子供と同じようになる。そういうことが普通に行われる世界でした。でその背景を例えとしてパウロはここで話を進めています。

戻って4節。御子を遣わし、、、贖いだすとありました。この「贖いだす」という言葉も耳慣れない聖書用語かなと思います。もともとのギリシャ語の意味で言いますと買い戻すという意味です。つまり費用を払って救い出す、奴隷を自由にするというニュアンスです。費用を払って奴隷を買い、自分の子供にする。では誰が費用を払って私たちを自由にしてくださったのかというと、それが神の御子つまりイエス様なんだというお話です。イエス様は本来私たちが受けるべき罪の罰を肩代わりしてくださり、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。っとこのようにイエス様がご自身の命という費用を支払って私たちを救い出してくださった。「贖われた」んですね。が故に私たちは罪赦されたものとされたばかりでなく、神様の子供として受け入れられる。


さてでは子供とされる前はいったい何者だったのか。ここでパウロが子と対比して登場させているのが奴隷です。出てくる箇所ずらーっとリストアップしました。1節奴隷と少しも違わず、3節この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。7節奴隷ではなく、子です。8節神でない神々の奴隷でした、9節再び新たにその奴隷になろうとするのですか。今日の箇所だけ見てもこれだけありますが、ほかの箇所も含め聖書は言います。私たちはイエス様を信じる以前は、皆奴隷だったのだと。


奴隷と子供の圧倒的な違いは何でしょうか、それは関係のベースにあるものが違いますよね。奴隷には失敗が許されません、主人を喜ばせることだけに全集中です。なぜならなにか不備があれば、主人から罰せられる。つまり仕事が良くできているかどうかということが関係のベースにあります。ですから奴隷が主人に従うとすればそれは主人の罰を恐れているからです。叱られないように頑張るそれがモチベーションっという感じでしょうか。一方親子関係というものはどうか?子供が何度失敗をし、愚かなことをしたとしても、子を見捨てる親というものは基本的にいません。(中にはひどい親もいますが)親子関係のベースにあるのは何ができるかというパフォーマンスではなく愛です。あなたがたは奴隷ではなく神の子どもなのだ、神の子供とされたのだから奴隷には戻ってはいけないよ。まあこれが今日の箇所通してパウロが語っている主軸のメッセージになります。


ではイエスキリストに出会う前は皆奴隷だったというのは具体的にどういうことなんでしょうか。3節見てください。

私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

ガラテヤ4:3


まだ小さかった時には、っというのは実際に年齢が若かった時ということではなくイエス様と出会う前はということです。イエス様と出会うまえは、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。幼稚な教えと訳されている言葉、ギリシャ語でストイケアという言葉です。日本語に訳すと「イロハ」英語で言うところ「ABC」というような意味があります。初歩的な教えと訳したらわかりやすいでしょうか。ではこの初歩の教えとは一体何か。結論から申し上げると、それはまず第一に律法のことをさしています。イエス様が現れる前、ずーっと前モーセを通してイスラエルに与えられた教え、まっそういう意味で初期段階の教えというニュワンスでしょうか。シリーズを通してみてきましたね。このユダヤの律法を守らなければ、つまり旧約聖書のルールを守ってユダヤ人のようにならなければ本当の意味では救われないそういう間違った教えに対してパウロは「救いは十字架を信じる信仰による」っと手紙の中で反論をしてきました。イエス様が現れて下さる前は、律法にがんじがらめ。奴隷が主人の罰を怖がるように、律法を守らなければ裁かれて罰を受ける。そう教えられてきただろうと。ある意味で律法に対して奴隷であった。っとそういう表現になっています。


もちろん私たちは現代を生きる日本人ですから、そもそもユダヤの律法なんて関係なく生きています。ですから律法の奴隷だと言われてもピンときません。しかしながら「本当に信じるだけで救われるのか、不十分ではないのか」という思いは自然と沸き起こってくるのではないでしょうか。なぜならそれはやはりこの世の中というのは、成果主義で回っているからですよね。どれだけ努力して、どれだけの成果をだしたのか、それによって私たちは評価される。学校でも、職場でも、下手したら家庭でも、そういう世界に生きています。ですから気をつけていなければ、いつの間にか自分の信仰もまたそのような価値観に染まっていくということがありますよね。

自分は聖書をしっかり読めているのか、毎日祈れているのか?教会の礼拝に毎週出れているのか、人に伝道しているのか、そういった様々な物差しで自分の信仰を測るようになっていってしまう。その結果自分が「しっかり」できていないと思えば、まじめな人ほど「あれもしなければ、これもしなければ」となっていきます。そうなってくるともうこれは律法と同じです。もちろん聖書に書いてることに従いたいという思いは大事なんです。信仰には行動が伴って然るべきだとも思います。しかしながら、こうしなければ、ああしなければ、神様は自分を受け入れてくださらない。っと考えるようになってしまうときに、私たちクリスチャンもまた知らず知らずの間にこの律法の奴隷になっていくということがあるんですね。非常に考えさせられます。


さてではクリスチャンではない人たちには全く関係のないお話なのか?そういうことになってきますよね。なぜなら別に聖書がとか、神の戒めがとか、そういう縛りはクリスチャンでない方々には関係のない話なわけで。まさに自分の思うがまま「自由」に生きていらっしゃるとすれば、あなたは奴隷だと言われたとてピンとこないのではないかと想像します。しかしながら聖書は言います。私たちは皆例外なく奴隷なのだと。では律法でも、聖書でもないとしたら、一体何に対しての奴隷だと言っているのでしょうか?


先ほど幼稚な教えと訳されているギリシャ語、ストイケアというのは初歩的な教えという意味だというお話をしました。そしてそれはつまりはユダヤ教の律法だと。さてこのガラテヤ人への手紙の宛先、ガラテヤの教会にいたのはユダヤ人だけだったのかと言うとそうではな。異邦人、つまりユダヤ人以外の人もたくさんいました、何なら半数以上そうだったのではないかと言われています。で彼らは異邦人ですからユダヤ教の律法など知らずに生きてきた人たちですよ。でパウロはここでその人たちも含めて以前は奴隷だったと言っている。では彼らはいったい何に対して奴隷だったのか?


私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

ガラテヤ4:3


そこで考えなければいけないのがこのストイケアという言葉のもう一つの意味です。実は「幼稚な教え」だけではなくして、新改訳2017見ていただきますとこの部分「もろもろの霊の下に奴隷となっていた」と訳されています。ストイケアという言葉には、天地万物を創造している基本的な要素/土、火、水、風という意味もあるんですね。英語で言うところのエレメントです。で小学校はエレメンタリースクールですから、初歩的なという意味もある。両方の意味があるわけです。でそこから派生して、もろもろのエレメント、でもろもろ霊と訳されます。ではもろもろの霊って一体何か?当時ローマの各地では様々な偶像が礼拝されていました。いわゆる多神教です。もちろんガラテヤにもそのような偶像がいっぱいあったであろうなと思います。いろんな種類の神々、これこそがもろもろの霊なのではないか。ですから8節にこのようにあります。


しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。(8節)


とあるわけです、そして続いて9節に本当の神様を知っているのに幼稚な教えに逆戻りしてという表現が出てきます。でここで使われているギリシャ語もまたストイケアです。つまりパウロはストイケアという言葉を両方の意味で使っている。イエスキリストと出会う前、ユダヤ人が律法に対して奴隷であったように、それ以外の異邦人は、キリストと出会う前、本来は神でない神々、つまり偶像に対して奴隷であったと。こう言っているのではないでしょうか。

                                  

じゃあ偶像に対しての奴隷ってどういう状態なのか?ちょっと考え行きたいと思います。例えばある人が農業の神、偶像を拝んでいたとします。でささげものをささげる、でも雨が降らない、収穫がとれない。これが続いたらどうなるか?ささげものを増やしていくしかないですよね。きっと農業の神が怒っているからこうなっているんだと。神よ怒りを静まり給え、と言って普段より上等なものをささげる。それでもその状況が続けばどうなるだろうか、もっともっとと、結果ささげものはエスカレートしていきます。それを繰り返していくと自分の子どもをささげたり、なんて言う話が古代の偶像礼拝では出てくるわけですよね。偶像に対して奴隷と言うのは、ささげても、ささげてもきりがないという状態のことをいいます。なぜなら神々、偶像がいつ満足するのかというのは、ささげている側には決してわからない。ですからいつも不安なんですね。いつ罰が当たるのかわからない。

 

 でそれに対して「いや私はほら無宗教なので、ささげものとか関係ないです。偶像礼拝とかとは無縁です。」っとこのようにおっしゃる人も多いと思います。有名なクリスチャンの著者で牧師であったティムケラーはこのように言っています。

全ての人は何かを礼拝している。私たちにあるのは何を礼拝するかという選択だけだ。

Tim Keller


すべての人は何かを礼拝しているってどういうことか?でそれは人は皆自分の中で一番大事にしているものがあり、それを優先順位として人生のかじ取りをしていくということです。意識的に自分はこのために生きているんだっと思っていることもあるでしょうし。多くの場合は無意識だと思います。自分が意識していようがいまいが関係ありません。自分の時間、エネルギー、お金、リソースそれらを何に一番さいているのかというのを見れば自分が最も大事にしているもの見えてくる。自分の偶像というものがはっきりしてきます。 例えば仕事が自分の人生に意味を与えてくれると信じている人は、そのために多くの時間を費やすでしょうし、頑張りすぎて家庭犠牲にする、あるいは体を壊してしまうということもあるかもしれません。すると仕事がこの人の偶像になる。ささげたのは家庭と健康という具合でしょうか。あるいはお金が大事だと思っている人は、稼いでも、稼いでも、満たされないかもしれない。そしてそのプロセスの中で結果的に人間関係を犠牲にするということがありうるでしょうし。見た目がすべてだと思う人はどれだけ美容に気を使ってお金をかけて、着飾ったとしても老いには勝てません。結局ハリウッドの女優は整形手術を重ねて本来の美しさを失っていくということがありますし。まあ今あげたようなわかりやすい形では出てこないかもしれません。けれども偶像を、つまり神様以外のものを第一として生きていく人生というのは、奴隷の人生だと。どれだけ頑張っても、ささげても自分は不十分なのではないか?という思いがつきまとう、そういう人生になってしまう。


律法にしろ、偶像にしろ、自分は成果を出し続けなければ、頑張り続けなければ、合格をもらえないという感覚。そのような成果主義、パフォーマンスベースで自分を量るときに私たちは奴隷になってしまう。そのような奴隷のような状態から、イエス様の十字架を信じるのであれば、解放されて自由になると。しかしそこで終わりではない。私たちはただ自由になってまっさらなスタートを切るだけではないんです。


 ある意味ガラテヤの教会に広まりつつあった教えも十字架によって救われるというところまでは同じだったわけです。彼らは言いますもちろん十字架によって私たちは救われる、けれどもその後は律法を守らなければ神様に本当には受け入れてもらえない。つまり十字架によってスタートラインにたつことはできる、けれどそれ以降は自分次第だ。っというそういう教えだったんですね。しかしパウロが言っているのは私たちはただ単に自由にされるのではなく、神様の子供になると言っている。ということを今日は特に覚えたい。


そこでもう一度4-5節戻ってみていただきたいと思います。

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

ガラテヤ4:4-5

女から生まれた者というのは、まあ端的に言って。イエス様は神様であられるにもかかわらず人間になられたという意味です。イエス様が私たち人間の罪の身代わりのために人とならなければならなかったのは何となくわかります。しかしながら注目していただきたいのは、その次。「また律法の下にある者となさいました。」というところです。これはイエス様がただ単に人として生まれてくださっただけでなく、本来私たちが努力して守らなければいけない律法、神の戒め、神様の言いつけを全て守ってくださったということを意味しているんですね。つまり、私たちの身代わりで単純に十字架で死んでくださった、だけではない。失敗ばかりする、罪ばかり犯す、不合格ばかりだす不十分な私たちの代わりに100点の人生を生きてくださったということを意味しています。


ある教会学校の教師が「神さまの成績表」というアクティビティを通して子供たちに福音の意味を教えたそうです。まず子供たちに成績表に似せた書式の紙を渡すんですって。で自分で自分の成績を書き込んでいくと。しかしながらそこにある評価項目は「国語」とか「算数」ではなく、「人にやさしくできているのか」とか「お父さん、お母さんの言うことを聞いているか」とか「自分より他人を優先しているか」とか。そういう科目がずらっと並んでいると。で自分にわりと自信があるこは、BとかB+とかちょっと苦手だなと思ったらCとかつけていくわけです。でそれぞれなぜそのような評価をつけたかなんかの話を聞いた後で、神様の基準に照らし合わせるならA+以外は落第だということを伝えます。つまりは例外なく皆落第だと。ところがイエス様の十字架がこの悪い成績表の問題を解決してくださった。で結構教会歴長い子は答えるわけですよ。「私知ってる、イエス様が十字架で代わりに死んでくださったから私たちは、真白の成績表がもらえるんでしょ?」先生はいいます。「そうだね、けれども真白の成績表なら、結局また頑張らないと、でもどれだけ頑張っても結局全部A+の成績はとれないでしょ?」そう話した後でもう一つの成績表を取り出します。そこにはイエスキリストという名前が書かれていいます。そしてもちろんすべての評価がA+になっている。その次にその成績表のイエス様の名前を消して、子供たちに自分の名前を入れるように言うんですね。すると子供たちは「いや、それはできない、だってそんなことしたらイエス様が落第になってしまう」そうしたら先生はいいます「そうなんだイエス様は十字架を通して僕たちにまっさらな人生を下さっただけでなく、オールA+の人生を下さった。だからイエス様の十字架を信じるとき、もう自分で頑張ってA+を取ろうとしなくていいんだよ。」


イエス様の完璧な人生と私たちのダメダメな人生を交換していただける、これが福音です。そしてだからこそ、私たちはただ罪赦されただけでなくして、私たちは神様の子供になれるんですね。自分で頑張って合格点をたたき出す、そのような私たちの奴隷の人生をイエス様はまるまる引き受けてくださった。代わりに私たちは神様の子供としていただける。人生が入れ替わるっていうんですか。だからこそ最後6節-7節


そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

ガラテヤ4:6-7

注目していただきたいのは「アバ、父」と呼ぶというこの部分です。アバっていうのはアラム語で「パパ」とか英語で言うところの「Dada」っという感じでしょうか。幼い子供が父親を呼ぶときによく使われる言葉です。


うちの息子も私のことを「ダダ」と呼びます。息子の恵信が父親の私を呼ぶとき、どのようなことを考えているでしょうか。いやまあ3歳児ですから、何にも考えていないんでしょうけれども。それでも一応この人は呼んだら来てくれる。自分の面倒を見てくれる。そういう安心感というものは持ってくれている。だから泣いてるとき、困ったときに、「ダダーっ」て力いっぱい叫んで呼んでくれるんだろと思うんですね。ま当然自分が呼べば親は答えてくれるという安心感、この安心感が「アバ」という言葉の響きにはある。

私たちはかつて奴隷でした。つまり頑張って、努力して、結果を残して、認められて、どうにかく合格点をたたき出さなければいけない人生でした。でそれはいろいろな形をとるというお話をしました。教会生活や信仰面で「良いクリスチャンであらねば」という形で出てくることもありますし。あるいは、「仕事でいい成果を残さなければ」とか「母親としてこうあらねば」とか「社会人としてこうでなければ」とか、とにかく「自分はこうあらねば」というものに縛られる人生ですね。しかしながら十字架を信じるときに、私たちは奴隷ではなくなり、子とされる。がゆえに神様のことを「アバ」と呼ぶことができる。安心して「ダダーッ」と呼んでいい。でそれは、イエス様が私たちの失敗、挫折、罪、恥、それらを全部引き受けてくださったからです。代わりに私たちに与えられたのは、イエス様の人生そのもの。だから「アバ」なんですよ。いいですかここだけアラム語で書かれている。不思議じゃないですか?ほかは全部ギリシャ語なのに、ここだけアラム語です。なぜか?でそれはイエス様が父なる神様を呼ぶときに使っていた言葉がアラム語の「アバ」だったからなんですね。そして私たちもイエス様の十字架のゆえに神様を「アバ」と呼ぶことができる。つまりイエス様が父なる神に対して持っていた同じ距離感で、同じ関係性で私たちも父なる神様に接することができる。ということを意味している。

 

 ですから私たちは十字架を通して、自分はなにができなくとも、どれだけ失敗したとしても、実の子供のように愛されているんだということを今日覚えていただきたいと思います。このような愛は他どこを探しても見つかりません。


2024.07.14

心の穴を埋めるもの

 

「むなしい」それを口癖のように言っていた学生時代を覚えています。何をしてもむなしい、楽しめないと。中学生くらいだったかな、いわゆる中二病というやつでしょうか。いまでも気を付けていないと正直この言葉を口にしてしまうことがある。思い返してみれば私は本当に面倒くさい子供だったなあと思います。どうめんどくさかったかといえば、何か楽しいことやうれしいことがあると、もちろん楽しい!とか嬉しい!という感情が自分の中にありながらも、それの終わりがくることを同時に考えるような子供だった。わかりやすく言うとそうですね。旅行に行く予定があったとします。その旅行が楽しみで、出発の日が近づくにつれてテンションがあがる。あと何日頑張れば、旅行に行けるぞと思うわけです。そして出発当日、車や電車とかで考えることは、ああでもこの旅行も始まったということは終わりがくるんだなあなどと考え始めている。まさに今というその時を楽しめない、そんな子供でした。


 伝道者の書に出てくる最初の言葉「空」ということばも新共同訳では「空しい」と訳されています。伝道者の書は、結構日本人には人気があるみたいですが、わびさびというか、はかなさとか、そこらへんの感じがですね。一方で特に西洋の教会で講解説教の題材として扱われることは結構少ないようです。まあ内容的にもいきなりすべては「空だ」むなしいという一見ネガティブなオープニングを飾るように聖書の中でもかなり異質な内容になっています。もう一つ伝道者の書を難解にしている理由は歴史的背景が神学者の間でもつかめていないという難しさがあるようですね。つまり、誰が、いつ、何のために書いたのかっていうやつ。だからこそ、実際に書いてある内容から読み解く情報だけになるので、解釈が分かれるところが多かったりと、何かと難しい本のようですね。まあ最初に難しいという言い訳をさせていただいて始めていきたいと思います。


 さてこの伝道者の書に出てくる「空しい」は僕が中学生のころ言っていた空しいとは少し違うようですね。それを考えていくうえで、誰がこれを書いたのかというところを探っていきたいと思います。「伝道者の書」ですが新共同訳では「コヘレトの言葉」となっています。「伝道者」と訳されているヘブル語が「コヘレト」というわけですね。英語の聖書では「教師」などと訳されている場合もあります。もともとの意味は集める人という意味で、集まった群衆に教える人、あるいは様々な書物、知恵を集める人いう意味合いで、伝道者、教師などという風に言われているわけです。さて難しい話はさておきですね、じゃあそのコヘレトって実際にいったいいつの誰?っということですね。伝統的には、ソロモンだといわれてきました。実際に伝道者の書の中で語られることがさっき読みませんでしたが2章なんか特に、ソロモンのプロフィール(9節にエルサレムで誰よりも偉大だった)に一致すること、「エルサレムの王、ダビデの子」というサブタイトルもその一つです。ただし最近の研究では、ソロモンよりも後の時代おそらくバビロン捕囚後に書かれた、つまりソロモンではなく別の誰かが書いたという見解が非常に有力だそうです。まあ今日はその詳細に触れると時間がありませんので飛ばします。というのも書いたのはソロモンでないにしろ、筆者が誰であれ、ソロモン王をモデルとして伝道者の書が書かれているという点に関しては一致した見解がる。つまり伝道者の書を読むときに、ソロモン王を読者は思い浮かべて良いということです。筆者がだれかというよりも、あるいは誰であれソロモン王を心に浮かべながら読むということが筆者の意図だということですね。

 さて少し長く退屈な話をしてしまいました。だとすればですよ。「すべては空しい」と言っているのはソロモン王、あるいはソロモン王のような人です。ソロモンはどういう人物だったのか? ご存知のかたも多いと思いますが、少しふりかえりましょうか。列王記、歴代誌に出てきますし。2章に出てくる内容もそれと重なりますが。


神様によって知恵が与えられ、誰よりもかしこかった。 多くの書物や詩をたしなめました。富と名声に満ち、治めていた国は繁栄を極めて諸外国から訪問がくる。7年がけで達成した神殿建設のプロジェクト、(自宅には13年の年月を費やしたわけですが、、)そして700人の妻と300人のそばめ、息子や娘も数多くいたことでしょう。人類史上最も富と名声と知恵に満ちていた。何でも知ってたし、何でもやってきた人ランキングのトップワンといっても過言ではない。



ですからソロモンは中2の私みたいにもの想いにふけって「むなしい」といったわけではない。いったいこの世に生まれて何のために生きているのか?という、その誰しもが、一度は考える質問に真っ向から挑んで、すべてを試した人だった。


快楽だけじゃなく、知恵も

富や名声だけでなく、芸術家としての才能も

世のため、人のため何かを変えようという大義だけじゃなく、安定した平和な日々も

平和だけじゃなく戦争も

家族だけじゃなく、やりがいのある仕事や偉業も


それら全部持って、あるいは経験してなお、それらは「空」だという。「むなしい」という

普段私たちは、思いますねもっと~があればなあって、それらすべてを持っていたのがソロモンです。


この「空」あるいは「空しい」という言葉実は伝道者の書で30回以上登場します。それほど全部が「空しい」ということでしょうか。


英語ではmeaningless=無意味。Absurd=不合理な とかいう訳され方がされていますが。へブル語で“hebel”といいます。英語で言う、意味がない、あるいは日本語のむなしい、空っぽといった意味も間違いではないが、すこしわかりにくいかなと思いますね。


それこそ本当に、無意味で空っぽならこの人生には何の価値もないという結論になってしまう。実はこの言葉ですね、「息」とか「蒸気」という意味もあります。今夏なのでっちょっと想像しにくいとは思うんですが、


毎年クリスマス時期にはですね私の日本の教会は駅前でキャロリングをやるんですよ。駅近の教会ということもあるんですけどね。それで仕事帰りに、教会によるわけです。日本では原付のバイクで通勤してましたから。もうめちゃくちゃ寒いんですよ、何が寒いってね手が寒い。バイク乗ったことある人わかると思うんですけど、手が死ぬほど冷たくなる。そんなんで教会ついてキャロリングの歌詞を手に持って12月の寒空で風がびゅうびゅうふく中歌うからもう寒くてしょうがない。それでもちろんカイロとかで手をあっためたりするんですけど、やっぱり一番原始的な暖の取り方はどうするかといえば、こうやって手を合わせてはーっと息をかける。その時の息って白く見えるじゃないですか。でも一瞬見えてすぐ消える。一応伝わるかなと思って持ってきましたが霧吹き。 一瞬、現れてすぐ消える。 一瞬現れてすぐ消える。これがhebelです。


他の箇所でどのようにhebelが使われているか見たらわかりやすいかもしれないですね、例えば


人は息(hebel)にすぎずその日々は影のように過ぎ去ります。

詩篇144:4


つまり完全に無意味というよりは、一瞬の事ですよってことですね。まさに霧のようにさっと現れて消えると。


一瞬の事、大した影響もないこと、という感じでしょうか。

でも私たちの多くは、この息、水蒸気、一瞬で消えてなくなる霧に人生を翻弄されます。


自分の日常の生活で不安やストレスを覚えることを振り返ってみました。最近の一番のストレスは、まあ正直言えば、この説教が締め切りまでにしっかりとしたものが出来上がるかという事でした。なぜそれに頭を自分は悩ますのかといえば、それが自分にとって大事なものだからですね。そして説教自体がということもありますが同時に、間に合わなければ恥をかくし、人の期待を裏切ると。そういう意味でそれらを失いたくないと思ってしまう自分が無意識にも感じている自分がいるということです。もちろん好きでやっていることのなので、それがしんどいということではないです。逆に言うと好きだからこそだと思います。

どうでしょう人が悩みを抱える、怒る、不安を覚えるなどの感情を抱くとき、そこには常に自分にとって失いたくないもの、あるいはどうしても手に入れたいと思うものがその裏に隠れていることはじゃないでしょうか。伝道者はそれらがすべてがhebel 一瞬で無くなる、たいしたことの無いものだと。


皆さんにはどうしても欲しいもの、あるいは失いたくないものがあるでしょうか。


いろんなものあるでしょう

すべては「hebel」だと


つらつら色々言ってきましたが、

すべてがhebelならクリスチャンは なにしたってすべては霧なのだから,なににも気を留めずとにかく世の中とかかわらずに生きていけばいいのか、


そうではないんですね。もう一つ、重要な言葉「日の下で」という言葉、これも29回かな頻繁に出てくる言葉なんですね。意味は難しくない、文字通りこの世っていう意味ですよ。生きている人生の中でという意味。

もしこの生きている人生そして目に見えて触れるものがすべてだったとしたら、この人生はhebelという条件があるってことですね。


 もーっとわかりやすく言えば、この世がすべてで神様などいなかったとしたら、つまりは日の下ではすべてが hebel だと

どれだけ良いことをして、偉業をなしたって、究極的には世界は変わらないし

どれだけ快楽を追求したって、その報いは自分に返ってくるばかりか、結局満たされることはない。それが日の下にある人生だと伝道者は言う。


 では日の下だけではない、神様のいる人生とはじゃあ一体何か。ヒントが2:24-25

人には食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであることが分かった。実に神から離れて、誰が食べ、誰が楽しむことができるだろうか。


 神様から離れて誰が楽しむことができるだろうか?と問いかける伝道者。すべては空しい、でも神様がその中にいてくださればその空しい人生には何か変化があるのでしょうか。だとすればそれは何か。


 富であれ、名声であれ、知恵であれ、やりがいのある仕事であれ、家族であれ、おいしいごちそうであれ、それらは神の御手による、つまり神様からのギフトだと伝道者は言う。ギフトとは何か、それは与えられるもの。自分で勝ち取るものとはわけが違う、私たちは、裸で生まれ裸で帰っていく。すべてはギフトであると


 ルカの福音書12:16-20 に出てくる愚かな金持ちのたとえ話ごぞんじでしょうか。豊作で作物をたんまりと抱え込んだ金持ちは、それらを収める倉を作った後、心の中でこう思う

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた、さあ安心して、食べて、飲んで、楽しめ」

そこで神様がおっしゃる

た。『 愚か者。 おまえのたましいは、 今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』


そして21節で

自分のためにたくわえても、 神の前に富まない者はこのとおりです。


別に一生懸命働くこと、貯金することが悪いわけではないですね。それは明らかでしょう。そして私たちの魂が一瞬で取り去られるということは皆に起こることでもないと思います。ただこの金持ちの持っていた平安、あるいは楽しむことができる根拠、楽しめる根拠は神様への信頼ではなく、蔵の中にパンパンに詰まった作物だったというところが問題だった。彼にとってすべてはギフトではなく、勝ち取る、稼ぐ、ためておくそういうものだったということですね。彼は神の前に富まなかった。このたまりにたまった作物さえあれば人生を楽しむことができると思った。


 神様から離れて誰が楽しむことができるだろうか?と問いかける伝道者。その問いかけに私たちはどう答えるでしょうか。


 あの愚かな金持ちのようにお金があるから、あるいはこの仕事があるから、家族がいるからこの人生を楽しめるという答えになるのか。それとも何はなくとも神様がいるから楽しむことができると答えるのか。

すべては神様からのギフトで楽しむように与えられるもの、だけれどそれ以上の期待をギフト自体にしてしまうと、その期待にこの世のものは答えられない。

 最初のほうに私は昔何をやっても楽しめない子供だったとお話をしました。そんな私が人生の中で初めて出会った、これは楽しいずっとやっていたいと思ったもの、それはダンスでした。時間を忘れてずーっとやっていましたね、もう何十年も前のことです。そしてある時気づきました。ダンサーには2種類いるとA:ダンスが自分のすべてだと思っているダンサー B:ダンス以外にもいろいろやっているけどダンスが好きなダンサー


さて問題です、どちらのタイプのダンサーのほうがダンスを楽しめるでしょうか。Bですね。

Aは自分に自信が持てているうちはいい、でも他と比べて自分が劣っているとかひょんなことから自分のダンススキルはたいしたことの無いものだなどと思おうものなら、自分など価値がないというところまで、精神的に急降下。Bは例えダンスで少々自信を落としても、自分の価値がというところまでは考えない。

僕は典型的なAでした。だから、自信を落とすとあれだけ好きだったダンスを踊りたくさえないと思った。Bタイプのダンサーはいつだって素直にダンスを楽しめる、それは知ってか知らずが、彼らにとってダンスはギフトに過ぎないということを実感しているから。ダンスを通して自分の価値を勝ち取る必要がない。


極端な例かもしれません。でも伝道者が言うようにこの世のどんな素晴らしいものでも、それが「hebel」霧や息であるなら、それによりかかることはできない。しっかりとそれによりかかって立つことはできない。


日の下では、この人生を観察するだけでは、人生の意味など分からない。だから人は人生に大した意味などなく空しい思う。そしてよりかかることのできない霧を「hebel」を集めては、なるべく長くそれが消えないように努め、没頭し、永遠という視点から見ればそれが本当に一瞬現れて消えるもの、であるということを忘れてしまおうとする。


消えてなくなるものの究極はなんでしょう、この「命」です。ふつう世間話で死について語ることがないのはそのためですよ。だれもそんなこと考えたくない。


私たちが欲しいのは、なるべく長く、安定した、楽しい人生、たとえそれが霧だったとしてもです。だからクリスチャンでも霧をほしがり、霧について悩む、霧を欲しがり、霧が手に入らず、霧を失いそうになり、霧について悩む。命自体が神様からのギフトだということを忘れてです。


神の前に富むというのは、神様から与えられたものを感謝をもって楽しめる人。それを通して何かを得よう、何かを勝ち取ろうとしない人生。その瞬間瞬間に生きることができる人生。今をシンプルに楽しめる人の事を言うのかなと思います。


物は壊れ、天気は変わる

老いを止めることはできないし

どんなにお金があっても時間は買えず、

家族を含めたどんなに近しい人も本当の意味では変えることはできない、

やりがいのある仕事だって、引退がくる、


私たちにそれらをコントロールすることなどできないっというのが現実で、だからそれらは空しいと言えなくはない・けれどもそれその結果がどう出ようとそれを入れることができたなら少し変わってくるのかもしれない。


クリスチャンの先輩がある時こう言ってました、「人生どうころんだって、死ぬまで何十年しかないんだから」まあ人生の先輩でもあるのであれなんですけど、それを聞いたとき思いましたよね、っていや何十年って結構長くない?でもその方は人生を楽しむ達人といってもいいような人です。どうしたら楽しめるのか、つまりは生きているだけで丸儲け精神。死ぬわけじゃないのであれば、彼にとっては人生すべてがギフトで、手放しで楽しむことができるという事なんだと思います。ある意味ですべてを楽しむということが神様からのギフトに対して一番正しい反応なのではないかと思います。


どうやら新約聖書に登場するパウロもそのような人だったみたいですね。ちょっと聖書開きたいと思いますが。


私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。 

ピリピ1:21


もはやパウロにいたっては死さえも益だと言っています。この世のすべては「空」hebelで一瞬で消えてしまう何の意味もないことかもしれない、けれど彼はある時キリストに出会いました。そして仕事が、富が、名声が、やりがいが、家族が、結婚が、飲み食いが、彼にとっては厳格にパリサイ人として生きることが、自分の人生に必要なのではなく、神様がキリストを通して示された愛こそが自分に必要であったということを知った。だからもうその穴を「hebel」霧で必死に埋める必要はない、一番大きなギフトがしかもそれは霧ではなく実態をもったイエス様ご自身が与えられたということを、キリストに出会って見出した。霧の上に建てられた人生ではなく、イエスキリストという揺るがない岩に建てられた人生の上で、もはや何かを勝ち取る人生ではなく、すべてはすでにキリストをとおして与えられている人生に変わった。そんな彼にとってもはや「死」を含めたすべてが神様からの贈り物へと変化したというのは言い過ぎでしょうか。彼にとっては人生すべてがギフトで、手放しで楽しむことができるという事なんだと思います。ある意味ですべてを楽しむということが神様からのギフトに対して一番正しい反応なのではないでしょうか


 とはいえどうでしょう、死は益ですなんて言えるでしょうか?そりゃあまあ死んで天国に行けるって意味じゃあそうかもしれないけど、この世にある死、悲しみ、つらいことはやっぱり益ではないのではと、、 

 

もう7年以上が過ぎた東日本大震災は、多くの被害と犠牲を生みました。と同時に私たちの人生、積み上げているもの、安心を置いているものがどれだけ、不安定なものhebelであることかという現実を多くの方々につきつけることとなった。日本中が騒然としました。結果的に今までに届かなかった場所に、福音が届けられ、ちょっとしたリバイバルが起ったということもまた事実です。もちろんだから地震が起きて良かったということではもちろんない、けれども、文字通り私たちが立っている場所が揺るがされるぐらいのことが起きて初めて、私たちがささやかでも幸せを感じているのだとしたら、それは神様が与えてくださっているギフトに過ぎないと初めて気づくことができたということもあるんじゃないでしょうか。だから死は益だなどという単純な話ではない、けれど私たちはいろいろなものが取り去られて初めてその有難さに気づくものです。死は、生がどれほど尊いものであるのかということを改めて再認識させてくれます。


 だとすればどうか、私たちが、この命を人生を神様から与えられたギフトとして感謝して自由に手放しで楽しむためにすることは一つ。それは究極的に言えば、己に死ぬということを繰り返してのみ、自分がどうしても欲しいものを、自分からあるいは時に、仕方なく手放す。そうして初めてこの人生は霧で、コントロールができないものだということを心から受け入れることが身についていくのかなと思います。自分のどうしても手放したくないものに死ねるときに、この人生のすべては一瞬の霧かもしれないがその輝きを増し始める。キリストという岩に立ち自由にすべてを楽しむことができる。


 わたしたちの内にはパウロのように言い切る信仰はないかもしれないけれど、何かに心奪われ、霧をつかみそうになる時こう唱えることができたらと思います。


生きることはキリスト、死ぬことは益です。

生きることはキリスト、死ぬことは益です。

私に必要なものはすでにキリストを通して与えられているのだから。それ以外はすべて「hebel」空だと


祈り

恵み深い父なる神様。

この年末の時期にあって、一年を振り返り様々な恵みをいただきましたことありがとうございます。しかしながら同時に後悔や、あるいは迎える新たな年に様々な不安をいただいている方もいると思います。主よどうか私たちにすべてはhebel霧に過ぎないことを思い出させてください。そして本当に必要なもの、本当に私たちが欲しているものはすでにキリストを通してあなたが与えてくださっている事を教えてください。迎える新たな年が私たちオークランド日本人キリスト教会にとって生きることはキリスト、死ぬことは益だと大胆に語ることのできる年となりますように導き支えてください。そしてあなたが与えてくださる日々、瞬間瞬間を、ギフトとして感謝し楽しむことができますように。



イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン





Q伝道者は「空」という言葉を選びました。今年を振り返って一つ感じで表すとしたらあなたの一年はどのようなものでしたか。


Q楽しむのは得意なほうですか?人生を楽しむのを妨げる要因はどんなものが考えられますか



Q人生に意味はないと考えたことはありますか? 何かきっかけがありましたか?

 今自分の人生に意味を見出しているとすれば、それはどのようなものですか


Q神様を信じたことによって、自分の人生にどのような変化がでましたか。


2024.06.23

人生の主語が変わる瞬間

 

ガラテヤ1:11-24

さっということでガラテヤ人への手紙のシリーズが先週からスタートしました。今週も続きをやっていきたいと思います。今日はもう早速ですね11-12節いただきたいと思います。

兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

ガラテヤ1:11-12


ハイもういきなり何のこと?そういうことですよね。パウロは何やら自分の宣べ伝えている福音は、人間によるものではないっということを言っています。で私たちからしたら、いやそりゃあそうなんでしょうと。聖書自体が神の言葉なのではないんですか?とこう思うわけです。ではなぜわざわざパウロは改めてこのように言っているのか?

そこで思い出していただきたいのが、このガラテヤ人への手紙が書かれた背景です。先週Timさんがシリーズの第一回目ということで1節から10節をカバーしてくださいました。そしてこれは手紙であるにもかかわらずパウロは挨拶を早々に切り上げてかなり厳しめトーンで6節にありますように「ほかの福音」に影響を受けつつあるガラテヤの教会に警鐘を鳴らしています。ガラテヤの教会はパウロが伝道をして建てた教会でありました。しかしながら彼が旅立ったのち、「ほかの福音」つまり間違った教えを広める人たちが表れ、その教えに翻弄されそうになっていた。で「ほかの福音」に流されつつあるガラテヤの教会を守るために書かれたのが、このガラテヤ人への手紙だと。さてではこの「ほかの福音」とはどのような間違った教えだったのか?まあ簡単に言いますと、「もちろん私たちは十字架によって救われる。だけれども本当の意味で神の民として受け入れられるには、本当の意味でクリスチャンになるには、旧約聖書に書いてある律法をすべて守らければだめですよ」っというそういう教えですね。でそれに対してパウロは「イヤイヤ、救いはイエス様の十字架を信じる信仰によってのみ、何も付け足してはならない」と主張している。教会を守るために、真っ向から戦いを挑むそんな手紙でありました。

 

で戻ってきまして11節。私の伝えている福音は人間によるものでもなければ、人間から受けたものでもないと。ありました。どういことか、間違った教えを広めていた輩も黙っていたわけではないようで、逆にパウロを批判していたようです。パウロが宣べ伝えている福音は、実は彼が自分で考え出したものなんだとか、エルサレムにいる12使徒たちから聞いたものを自分の解釈で広めているんだけなんだとか。そういうことを吹聴していた。でっそれに対して、パウロは「いや私は、この福音を人間からうけとったのではなくイエス様から直接受けたんだ。」と言っている。その表現が12節の「イエス・キリストの啓示によって受けたのです」というところです。


「えー啓示ってまた難しい言葉わかんないんですけど」ってそういうことですよね。まあ簡単に言うと啓示というのは神様からあらわにされた、示された真実という意味です。つまりパウロが伝えている福音とは、彼の考えや、あるいは経験談から、こうなったら幸せになりますよっ的なアドバイスではなくして、神様から直接与えられたメッセージだということを言っているんですね。


その流れで13節からパウロは自分の証を語っていきます。なぜいきなり証を始めるのか?でそれは、パウロにとって自分の人生におこった変化こそが福音を直接神様からうけとったという何よりの証拠だったからではないのかなと思います。 ちょっと13-14節ご覧になってください。


以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

ガラテヤ1:13-14

ここがパウロがイエス様と出会う前。Beforeの部分ですね。ポイントは二つです。一つ目はパウロはかつて教会を激しく迫害していた。使徒の働き22:4 でも「私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。」とパウロ自身が言っています。ステパノが処刑されたときに、石を打つ者たちの服が返り血を浴びないように、処刑する者たちの衣服の番をしていたのがパウロであったのは有名ではないでしょうか。直接ではないにしろ、パウロは教会を迫害し、結果クリスチャンたちを死にまでも追いやっていた。二つ目、でその激しい迫害の動機はどこから来ていたのかと言うと、彼が正しいと信じていたユダヤ教に対する熱心さから来ていました。これもパウロ自身が言っていることですが。使徒の働き26:5 「私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。」ユダヤ教ではトップの教育を受け、ことさら律法に厳しく生きてきたと、パリサイ人と言えば何といっても律法主義です。とにかく厳しく律法を学び、完璧に守るっということに誇りをかけてきた。その熱心から、その律法を守るのではなく、十字架を信じる信仰だけが救いをもたらすと説くようなキリスト教はけしからんと、積極的に迫害してきた。それこそが正義だと思って生きてきた。パウロというのはそういう人物でありました。けれどもそのパウロの人生が劇的に変えられます。


続いて15‐16節

けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき私はすぐに、人には相談せず、

ガラテヤ1:15-16


神様がパウロの人生に介入してくださいまいます。ここですね、「御子を私のうちに掲示することを良しとされた」。ちょっと難しい表現ですが、御子、つまりイエス様がパウロの前に掲示される、いや文字通り目の前に現れてくださる。そうして彼の人生は劇的に変わりました。ちょっと使徒の働き9章開いていただいて、どのようにイエス様がパウロに現れたのかということ具体的に見たいと思います。

さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

使徒の働き9:1-5

この出会いがあってパウロの人生は一変します。

パウロはだんだんと意見を変えたとかではなくして、ある時を境に彼の人生は180度転換し、キリストを教会を迫害するものから、今やキリストを福音を伝えるものへと変えられました。とすればこれは人間業ではない、自然の成り行きで、なんとなーくクリスチャンになったのとはわけが違います。パウロはそのことをさして「この劇的な変化こそが私がイエス様から直接福音を受け取った、という何よりの証拠でしょっ」と言っているわけですね。


17節以降は彼がキリストに出会い救われた後のことがかかれていますが。16節の最後にあったように「私はすぐ、人には相談せず」エルサレムにすぐ行って、12弟子に直接教えを乞うたのではないとか。3年間アラビアの荒野で過ごしたとか、まあとにかく誰かの教えに影響を受けたとか、そういうことではないんだよということが24節まで展開されていきます。長いので今日はちょっと省略させてください。是非皆さんご自身で読んでいただければと思いますが。要は彼が宣べ伝えている福音というのは、人から受け取った教えではないということが強調されています。

っというのがまあ今日の箇所の全体的な流れです。だから偽物の福音に流されるなとパウロは説いています。さてここからは改めて、なぜパウロはここで証を語ったのかということを考えていきたいと思います。でそれはまず第一に、彼の人生の変化、ある時点を境に、迫害するモノから福音を伝えるものに変えられたという事実こそが、パウロの語っている福音の真実性を担保する証拠になるからだ、ということをここまで話してきました。しかしながら実はもう一つ理由があるのではないか思うんですね。でそれは福音のメッセージの本質を理解するうえで、パウロの歩んだ人生の道のりというのは非常にわかりやすいイラストレーションになっているということが一つあるのではないでしょうか。


 どういうことか、冒頭でもみましたが。間違った教え「ほかの福音」のメッセージというのは要約すると。十字架によって救われるのだけれども、プラスアルファが必要だと。でそれは律法を守る、つまり人間の努力が必要だというものでした。


 でそれで言いますとね、このプラスアルファの部分、律法を守る、人間の努力、のエキスパートだったのがパウロなわけですよ。彼はエリート街道を走るパリサイ人でありました。そしてそのことに命を懸けていた。ね。これこそが自分の生きる道なんだとそう信じていたわけですよ。人間の努力という意味では、やれることはすべてやってきた人でした。先ほど13-14節でその様子をみましたね。人一倍熱心だったと。ちょっともう一度ご覧になっていただいて。

以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

使徒1:13-14

注目していただきたいのは、主語の部分ですね。ほぼ全部「私」です。「私の行動」「私は教会を迫害し」「私はユダヤ教に人一倍熱心でした。」イエス様に出会う前のパウロの人生はどこまでいっても「私」が中心の人生でありました。私が努力して律法を守り、私が頑張って聖書を学び、私の考えで徹底的に教会を迫害する。私の行動がすべてを決めていく、そういう感じでしょうか。


 でそれで言いますとね、私たちもまた同じではないかと思わされます。いやもちろん私はかつてキリスト教を迫害していましたという人はいないでしょう。けれどもキリストに出会う前の私たちの人生というのはやっぱり「私」が中心の人生だったのではないでしょうか。でそれは必ずしも、「わがまま」とか「自分勝手」とか「自己中心的」とかそういうことではないのかもしれない。特に日本人ならばそうですね。周りのことも考えて、迷惑をかけないように、礼儀正しく。ですから外から見れば、ほとんどの人は「いい人」でありましょう。けれども人生を歩んでいく時の根本的な価値観として、「私の行動」「私の考え」が人生を決めていくんだ。端的に言ってしまえば、自分の人生は自分次第だ。そう思って生きている人がほとんどなのではないか。なぜならやっぱり私たちの生きている世界は、努力とその結果が評価される世界だからです。学校には通信簿があり、社会に出て仕事をすれば、そのパフォーマンスがボーナスや昇進という形で反映される。生まれてこの方そういう世界に生きているわけですから、当然人生は努力次第だとこう思ってしまうでしょうね。

 

 けれどもパウロはそうではないということを、イエス様との出会いによって学びました。なぜなら、彼の努力、(ユダヤ教に熱心になることであれ、教会を迫害することであれ)それらは一応彼の中では神様のために行っていたことでした。けれどもそのような彼の努力で神の真実にたどりついたのかっというとそうではなかった。そうではなくして、「私の行動」「私の人生」と言って真逆の方向を走っていくパウロを引き留め、一方的にパウロの前に現れてくださったイエス様によって示されたのが福音でありました。これが12節にあった「イエスキリストの啓示」です。イエス様がパウロに出会うシーン15-16節もう一度みていただけますでしょうか。


けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき

これ主語が明確にならない日本語だと非常にわかりにくいんですけれども、ちょっと英語で見てください

 But when God, who set me apart from my mother’s womb and called me by his grace, was pleased 16 to reveal his Son in me so that I might preach him among the Gentiles,


出だしの部分、「But when God/しかし神は」っと始まっていきます。キリストに出会ったパウロの人生の主語は、「私」から「神様/主」に変わるんですね。生まれたときから私を選び分けられたのは「主」で、恵みをもって異邦人にイエス様のことを伝えるようにと召してくださったのも「主」でした。そして何より、教会を迫害していたパウロに、主ご自身が、イエス様が自ら現れてくださった。「しかし神は」、という決定的な転換点がここにあります。


私の行動、私の努力、私の考え、私の選択、私の計画、私の人生。この「私」という分厚い壁に閉ざされたパウロの人生、その壁をぶち壊してご自身を示してくださるイエス様。これが「イエスキリストの啓示」です。そのイエス様の光に照らされて、パウロはやっと理解する。自分の頑張りが人生ではないんだと。主の一方的な恵こそが救いなんだと。パウロは今まで「私」の人生を建てあげてきたと思ってきました。けれども、But when God. しかし神が、つまりイエス様が出会ってくださって「ああ実は生まれる前から主が私を一方的に選んでくださっていたんだ」ということに目が開かれたんですね。

 もちろん福音とは何ですかと聞かれれば、それは「行いではなくイエス様の十字架を信じる信仰によってのみ救われる。」っということです。それを教義として信じることはものすごく大事です。けれども福音派そこでは終わりません。福音というものは、自分の人生の見方をまるまる変えてしまう力があります。先ほど申し上げたように人生の主語が代るっていうんでしょうか。私が歩む人生から、主が歩ませてくださる人生へと変えられていくんですね。


でこういうことを語っていますとね、え?私が選ぶんんじゃくて、神様が選ぶの?っとそういうですね、自由意志vs神の摂理みたいなことを思う方がもしかしたらいらっしゃるかもしれません。けれどもポイントはそこではない。もちろん私たちに自由意志はあると思います。なんといっても私たちは神様を信じるのか、信じないのかということを選ぶ責任はあると思います。けれどもポイントは、私たちがその選択をする、ずーっと前から主は私たちを招いてくださっているということ今日覚えたいと思うんですね。神様の介入なしに私たちは変わることはできない。イエス様がパウロに出会ってくださったように、主が一方的に働きかけてくださるということがあって初めて私たちは神様の方向を向くことができるのではないでしょうか。自分の歩みを振り返ってもやはりそうだったのではないかと思います。


私はクリスチャンホームに生まれましたので、小さいころから教会に行っていましたし、神様のことも知っていました。それでもやっぱり、神様を信じると決めたのは自分だと思っています。18歳でNZに来て、19の時に色々経験し考えて自分でクリスチャンになるということを決めました。はじめての海外生活で痛いほど自分の弱さというものを痛感し、「信仰が弱い人が持つんだろ」という生意気な考えから、まさにその弱き者が自分であり、だからこそ神が必要なのだと思うようになりました。そうしてイエス様の愛を信じ、その愛に応える決心をした。それは確かに自分の決断だったんだと思います。と同時に自分では選ぶことができない状況が重なってその決断に至ったという事もまた事実です。どういうことか、さかのぼって考えますとね、なぜそもそも18歳の時にNZに来たのかというと、それは日本の高校生活で馴染めなかったということが大きかったと思います。大学付属の高校に通ってましたので、「このまま大学に進んでも楽しくはないだろ」という思いから海外にいこうとなり、NZに来たわけです。もう一個さかのぼって、ではなぜ高校生活に馴染めなかったのか、まあいろいろ理由はあると思います。けれど一つ大きかったのは入学早々アトピーがひどくなって1カ月半学校に行けなかった。学校に戻ったころには、周りは既に友達のグループができていた、ということが大きかったと思います。それを残りの3年間引きずったという感じでしょうか。でそれらの状況を自ら選んだのかと言われれば答えはNOです。好き好んでそんな状況は選びません。しかしながら振り返ってみればこの経験こそが、私にとっての神様の介入、But when Godの瞬間であったのかなあと思います。


いろんな人の証を聞いていてもそうじゃないですか。もちろんその人の道のりの中にはその人自身の選択がいっぱいあって証というのは物語をなしていきます。けれども逆に言えば様々なことが人生に起こるからこそ私たちは神様を信じるのか、それとも自分を信じるのかという選択に迫られる。多くの場合、自分で抱えきれない、困難や、試練、病気などに見舞われて、自分ではなく神様の方向を向く。そのような形でイエス様が人生に現れるということが大いにあるのではないか。そして気づくんですね、私たちが神様を求めるずっと前から、すでに神様は私たちを求めてくださっていたんだということに。

そういう一方的な恵というものを心で理解するということは非常に大事です。自分の選択や努力ではなく、すべては神様の恵。そしてその恵の究極の形が十字架ですよね。私たちが信じるかどうか、関係なく一方的に私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったイエス様。そのことを受け入れ信じるだけで救われる。私たちの努力ではない。これこそが福音の本質の部分ではないでしょうか。


でクリスチャンであればもちろん福音がどういうものかというのはわかっている。けれど私たちは、忘れてしまう。主に選ばれて、主に救われて、主に導かれて、主の恵みの中を歩んでいる人生。であるにもかかわらず、いつの間にか気づけば「いやまあとはいえ、結局は自分で努力しなきゃ」というこの世の声に耳を傾けてしまい、信仰生活にもその影響を受けるということは大いにありうる。そんな中試練が起きようものなら、私たちはストレスを抱え、不安を抱え、もうだめだと思ってしまう。でも本当に人生の主語が、「私」から「主/イエス様」に変わっているのだとしたら、それらの不安や恐れを自分で全て抱えてしまう必要はない。理解する必要さえない。全ては主の御手の中にあるんですよね。


 もちろんだからと言って人生投げやりになってもいいっていう、そういうことじゃあない。私たちは自分なりにベストを尽くす責任がありますし、祈って考えて、これがいいんじゃないかという選択を人生の中で責任をもってしていく必要があります。けれど現実問題、それでも間違ったり、罪を犯したり、愚かな行動をしてしまうのが人間ですよね。その時に思い出したいのは、やっぱり福音という主の恵の大きさです。


もう一度だけ16節見ていただけますでしょうか。

 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、(16節)

 この部分ですね、パウロが神様の一方的な恵、啓示によって救われたのは単なる祝福であっただけでなく、異邦人、つまり世界にイエス様のことを伝えるという大いなるミッションがありました。そしてそのミッションのために大いに用いられたのが、このパウロの過去です。彼のパリサイ人として得た豊富な聖書の知識、情熱、行動力そういったものが大いに用いられたということは間違いないでしょう。神様はパウロをそういったいみで準備しておられた。しかしながらそれ以上に、教会を迫害し、完全に律法主義という真反対の方向に進んでいた過去を持つパウロだからこそ、彼が十字架を信じる信仰だけが大事なのだと主張する時、そのメッセージには説得力や重みが加えられたということがあったのだろうなと思うんですね。いや、もちろんパウロが教会を迫害していたということが良かったわけではない、罪ですね、悪いことです。けれども主がその恵の中でそれをも用いてくださったということではないでしょうか。


 であるならば、であるならば、私たちの弱さ、罪、つらい経験、人生にあるその時には理解できない経験も全て、福音という一方的な恵の力によって、用いられるということがあると信じて歩んでいきたいと思うんですね。それこそが、人間的な努力ではなく、十字架に象徴される神の恵みを信頼するということなんだと思います。


 最後にイエス様がパウロに現れてくださったときにかけた言葉を見て終わりにしたいと思います。使徒の働き26:14


私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

使徒26:14

サウロというのはパウロの別の名前です。イエス様はおっしゃった「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」パウロ、お前は自分が正しいと思う人生を歩んでいるが、それはうまくいっているのか。痛くはないのか? そんな呼びかけでありました。でそのイエス様の呼びかけに対してパウロは悔い改め、自分ではなくイエス様を信じるという決断をします。


 皆さんはどうでしょうか。皆さんの人生の主語は「私」なのか「イエス様」なのか。もしそれが「私」なのだとすれば「私の考え」、「私の判断」、「私の努力」、「私の計画」、「私の信じる道」、「私の人生」はうまくいっているでしょうか?痛くはないのか?本当にそのまま歩んでいって希望はあるのか? その呼びかけに私たちはどのように応答するのか?願わくばパウロのように主の恵に目が開かれて、ああ自分の人生ではなく、主が歩ませてくださる人生なんだというこを信じ歩んでいく人生でありたいと思います。


2024.06.09

影響力のある信仰 (ダニエル6)

『正しいことをしたければ偉くなれ』「踊る大捜査線」というドラマの有名なセリフになります。もう何十年も前のドラマなので、完全に若者を置き去りしてしまう形になりますが、30代後半以上の方は知っておられる方多いのではないでしょうか。詳細を省いて言葉の意味だけを説明するなら。先輩刑事から主人公に向けて語られるセリフ。堕落した警察組織を変えたいなら、正しい思いだけを持っていてもダメだと。上の、つまり決定権や影響力のある立場にまで出世しなければ本当の変革は起こせない。まあっざくりいうと

そういう意味です。サラリーマンとか組織に属している人間であれば心に刺さる名セリフです。「あー気持ちだけあってもダメなんだ」と

 

 えっ急に何の話?って思われますよね?いやダニエル書は?と。しかしながらある意味、実際に偉くなって正しいことをした人ということで言うと、まさにダニエルがそうだったんじゃないかなと思います。ダニエルは正しい思いや信仰を持っていただけではなくして、能力を認められ国のトップまで出世した人だったんですよね。今日見ていく箇所でもそうですし、1章からこの6章までを通してもその姿が描かれてきました。どのようにダニエルがこのバビロンという異国の地において、信仰を失わず、逆に成功をおさめて影響力を持つ存在になっていったのかということが一つの中心的なテーマとしてあるのではないのかなと思うんですね。

今日でダニエル書最後ということで少し振り返ってから初めて行きたいと思います。イスラエルは罪の結果、主の裁きがくだりバビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。そして民衆はバビロンに連れて行かれます。これがいわゆるバビロン捕囚というやつですね。バビロンの意図としては故郷から民を切り離し、バビロニアまで連れてきて、そこの生活に慣れ親しませて、気づけばいつのまにか祖国のことを忘れている。そのようにして反乱が起きないように民を手なづける、治める。そのような政策をとっていました。

このバビロン捕囚を経験したのがダニエルと彼の友人3人です。彼らは異国の地、で自分たちの信仰と信念を全く理解しない社会の中でどのように生きていくのか?要はこの異国の地で、彼らは信仰を貫けるのか、それとも異国の文化、価値観に染められてしまうのか?っとそういうことですね。でその問いかけは、バビロンに移住した民すべてに問われていることでありました。そんな彼らがとった行動は大きく分けて二つです。一つ目それは、とにかく異国にアジャストする。悪く言えば流される、あるいは染まってしまう、です。もう一つのパターン、それはとにかく自分たちを守る、異国の文化や価値観にできるだけ触れないようにする。距離を置く、異国の人たちとなるべく関わらないようにする。ダニエルはどうしたのか、今までも見てきました。彼は染まってしまうことはありませんでした、1章で見ましたね、並べられた王のごちそうを自分の信仰と確信のゆえに、食べないという選択をしました。3章ではシャデラク、メシャク、アベデネゴは、金の像を拝まないという選択をしました。つまりしっかりと流されず、信仰に立ってNOと言ったわけです。けれど彼らはこの異教の世界、異国の地のすべてに足して何も考えずに「NO」と言ったわけではありませんでした。積極的に置かれた環境で異国の文化、学問を学んだ、だからこそ王の側近になるべくトレーニングを受けた若者たちの間でトップの成績を収めた。(これも1章でみました)そしてダニエルは王のために、夢の解き明かしをして、王にアドバイスまでする存在になっていきました。2章、4章、5章ですね。

っとこのように異国の地で、信仰に立ち、流されず。けれども自分の殻に閉じこもるわけでもなく、逆に影響を与えるような存在になっていくダニエルの姿は、私たちクリスチャンが信仰をもちながら、この世にあってどのように生きていくのかと言いう点で多くのことを教えてくれます。前置き長くなりました、今日はこのクリスチャンがこの世で持つ影響力という視点で6章を読んでいきたいと思います。例のごとく、要約しつつ必要なところは、聖書を6章を開いていきたいと思います。

先週みましたがついにバビロンはメディア・ペルシャという国に亡ばされてしまいました。ですから王様も変わってダリヨス王になっています。1-2節では政権が交代してもダニエルは大臣として登用されたということが書かれています。120人の太守(今でいう県知事みたいなローカルのリーダーたち)を束ねる3人の大臣の一人に選ばれたと。さてそれだけではなくして3節

ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。(王は)彼を任命して全国を治めさせようと思った。

ダニエル6:3

なんとその3人の大臣の中のトップ、つまり王様は自分の下にダニエルをおいて国のナンバー2にしようとします。でこの時ダニエルの年齢は何歳だったかと言うと、ちょうどダニエルがバビロンに来て70年たった時ということが9章を読むとわかりますので、80代だったのではないかと言われています。もうおじいちゃんですね、にもかかわらず国のナンバ-2を任せたい。それほどにダニエルは際立って優れていた。非常に有能で信頼に厚い人だったということです。

でこれは、この世を生きていくクリスチャンにとってもものすごく重要なのではないでしょうか。いやもちろん、みんながみんな国のトップになれるわけではない。ダニエルには才能があった、そして何より神様が祝福されたからこそ国のトップにまでけたんだ。そういってしまえばそれまでです。しかしながら、ダニエル自身も努力したに違いない、勉学に励み、一生懸命与えられた仕事をこなした。好きでやっていたわけではないと思います。完全に異国の文化、しかも敵国に仕えるというそういう状況なわけで。この仕事は生きがいだと思っていたわけではないと思います。けれども彼はベストを尽くしました。だからそれらが認められて国のトップまで行くわけですよね。でその地位を通して何度となく、バビロンの国中に神様の栄光を示してきたのをシリーズを通してみてきました。

で私たちもまた、自分に与えられている、仕事、役割、学生なら勉強、そういったものにおいて、良い成績をあげる、ベストを尽くす、いい仕事をするっということは実はとても大事な事なんだということをダニエルから学びたいと思います。どれだけ、聖書の知識があり、どれだけ毎日祈り、どれだけ教会の奉仕していたとしても、普段の仕事は不真面目、まったく適当な仕事しかしない。そういう人の話を誰が聞きたいのかということはやっぱりあるわけで。結局人は成功者、あるいは功績をあげた人から話を聞きたいと思いますし、そういう人の影響力というのがこの世においては大きい。もちろんクリスチャンにとって、社会的に成功するということが第一の目標ではないです。けれども主の栄光を証するためには、その要素もないがしろにはできない。結果がすべてではない、けれど仕事にしろ、勉強にしろ、主のためにベストを尽くすことが大事だと。

 さてダニエルがその能力を評価されてナンバー2に昇進します。当然それをよく思わなかったのは、残りの大臣でした。ですから彼らはダニエルをおとしめようと、身辺調査をして、あら捜しを始めます。何かスキャンダルがないかということですね。4節

大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。

ダニエル6:4

探しても、探しても一点の汚点も出てきませんでした。いやスキャンダルどころかダニエルは忠実で、怠慢も欠点も見られなかったとあります。つまり人格者としても文句がつけようがなかったということですね。ダニエルはただ仕事ができたわけではない、ものすごくいい人で、周りからの信頼も厚かった。でそれは公的な場のみならず、プライベートにおいても変わらなかったということではないでしょうか・

 

ですからクリスチャンもこの世にあって影響力を持つのであれば、仕事だけできてもダメですね。どれだけ才能があり、有能で仕事ができたとしても嫌な奴じゃあだめだと。「自分はとにかく出世するんだ」といって、その過程で人を押しのけたり、優しくできなかったり、人格を置き去りにしてしまうようであれば元も子もない。もちろん逆もありますね、めちゃくちゃいい人なんだけれども、全然仕事できないみたいな。(そっちのほうがましかなと思いますが)いずれしにろ両方、両方必要なんだと思います。もちろんパーフェクトである必要はない、けれども仕事、あるいは与えられた責任に関してベストを尽くしつつ、周りの人に対しても誠実であるということ。ダニエルはこの両面において非常にバランスの取れた人物でありました。

ダニエル書戻りましょう。どれだけ身辺調査を行っても何のスキャンダルも見つからないダニエル。それならということで他の大臣たちは、今度はダニエルの信仰心を逆手にとって罠にはめようとある法令を制定すべく、ダリヨス王に提案します。7節

国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。

ダニエル6:7

30日間王様以外に祈りをささげるものは処刑されると。この提案をした大臣たちは当然ダニエルが熱心に毎日祈っているということを知っていました。ですからこの法令を制定さえしていまえば、王様にサインさせてしまえば、確実にダニエルを殺すことができる。そういう思惑ですね。

 

さてこの法令が制定されてからダニエルはどうしたのか。10節

ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。—彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。—彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

ダニエル6:10

ダニエルはいつものように祈りました。しかも窓を開けて。今や国のトップの大臣にまでなっていたダニエルには他にもいろいろ選択肢はあったのではないかと私たちは思います。例えば、そんな法令は不当だとして訴え出るとか、王に直談判するとか。いやそんな直接的な方法に出なくても、30日という期限が定まっているわけですから、その間は祈らないということもできたのではないか。別に信仰を捨てろと言われているわけではないわけですし。ほかの偶像を拝めと言われているわけでもない。だからちょっとブレイクではないですけど30日だけ祈りをストップする、それは許容範囲だったのではないか。いやもっというと、祈るにしたって窓を閉めて誰にも見られないところで静かに祈るということができたはずです。そうすればだれに師も知られることはない。何故ダニエルは窓を開けてエルサレムの方向を向いていのったのか?おそらくそれは、かつてソロモン王が神殿奉献の時に祈った祈り、この聖書箇所がもとになっているのではないかと言われています

捕らわれていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、 あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。

2歴代誌6:38-39

それはバビロン捕囚を預言するような内容だったわけですよ。もし民が罪を犯して裁かれて違う土地に連れていかれるようなことがあっても、このエルサレムの神殿の方向を向いて祈るなら、その祈りを聞いてやってください。っというソロモンの祈り。ダニエルはこれをベースにエルサレムに向かって一日に3回祈っていました。しかしながらこれよく読んでくださればお分かりになると思いますが、命令ではない。絶対にエルサレムの方向向かって祈りなさいという命令として聖書に書いてあるわけではないんですね。つまり窓を開けずに静かに祈る形をとったとしても、神の律法を犯すということにはならない。罪ではないわけです。それでもあえてダニエルは、窓を開けて、エルサレムの方向を向いて祈るということを選択しました。なぜか?でそれは大きくわけて二つの理由があったのではないかなあと思います。

まず一つ目それは妥協なき信仰です。ダニエルにとって、信仰とは聖書に書かれているすべてのルールを守り、チェックリストをクリアするということではありませんでした。いやそうではなくして、自分の心が主にまっすぐ向いているのか?主だけを自分は恐れているのか?それこそが彼にとって最も重要な事だったのではないでしょうか。先ほども申し上げたとおり、もちろん戸を閉めて静かに祈ること自体は悪いことではないです。けれどポイントは、10節にありました、

彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。(10節)

ダニエルは今まで毎日窓を開けてエルサレムのほうを向いて祈ってきました。毎日いつも。で、この法令が出されたからと言って、窓を閉めて静かに祈るといことを自分が選んでしまうとしたら。それは彼にとって自分が主ではなく、その法令を、獅子の穴に入れらえるということを神様以上に恐れるということ、を意味したのではないでか。主のみを恐れるなら、神様だけを恐れるなら窓を閉める必要はないと、妥協はできないと。でそれに対して私たちは思います、いやそれはさすがに厳しすぎないか?と。しかしながらダニエルにとってこれは小さなことではなかったのではないでしょうか?

このバビロンという異国の地にあって、少しでも、たとえそれが心の中のことであったとしても妥協するということは、信仰にとって命とりであるということを彼は知っていました。異国の地で70年間も信仰人生を生き抜いてきたダニエルだからこそ、そのことを骨身にしみてわかっていたに違いありません。主だけを恐れるなら、他に何も恐れないというのであれば、自分はいつものように、窓を開けて、エルサレムの方を向いて祈るんだ。そういう覚悟と決心が彼の信仰を70年間も支えてきたんだと思うんですね。

 

 まったく価値観の違う異国ということを思う時に、やはりなかなかどうして日本のことを思わずにはいられない。私自身、15年ほど前NZ留学をおえて日本に帰国した時のことを思い出します。私はNZでクリスチャンになり、聖書の学校を卒業して日本に帰国、就職しました。日本人なので、日本が母国であるにもかかわらず、NZに長くいすぎたせいか、もはや日本の社会は私にとって異国となっていたんですね。逆カルチャーショックというやつでしょうか。加えて、日本のクリスチャン人口は1%以下。信仰面でのチャレンジもたくさんありました。私はとにかくこの新しい環境に慣れなければと必死でで気づけば、聖書を読むこともなくなり、祈ることも減り、なんだかんだで「仕事が大事」とか、「お金が大事」とか、そういう価値観に流されている自分がいたんですね。目立った罪を犯したとか、完全に道を外れたとか、そういうことではありませんでした。けれども小さな妥協が積み重なり。気づけばこの世の価値観に流されている、そういう感じでした。

 皆さんどうでしょうか、日本に比べればNZでのほうが信仰を保つのが難しくないかもしれません。けれどそれにしたって小さな心の中での妥協が積み重なり、気づけば流されているということが大いにありうる。でそれは何か表面的に罪を犯す、そういうことではないのかもしれない。けれど自分は主を第一として生きているのか、主だけを恐れて生きているのかということを、常に自分の行動と心に妥協なく問い続けるということをしなければ、気づかないうちに流されていくということが大いにありうる。ダニエルは心の中での妥協を良しとはしませんでした。

さてダニエルが窓を開けて祈ったもう一つの理由はなんだったのか。二つ目の理由は、証のためだったのではないかなと思います。ダニエルの信仰は隠れた信仰ではありませんでした。そもそもダニエルが毎日三回窓を開けて祈るということを、他の大臣が知っていたからこそ彼らはこの法令を作ってダニエルをはめようとしたわけですよね。結局ダニエルは、祈っている姿を目撃され、王に告げ口をされてライオンの穴に放りこまれることになってしまいます。14節に王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めたとあります。どれだけダニエルが王様に気に入られていたのかが伺い知れます。けれども王様も法令にサインをしてしまった以上、それを取り消すことはできませんでした。王様にできることは、ライオンの穴に投げ込まれるダニエルに声をかけることだけだった。16節

…「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」

ダニエル6:16

これはダリヨス王がダニエルに向かって語っている言葉です。つまりダニエルの信じている神様のことをダリヨス王はこの時点で認識していたということです。「あなたがいつも仕えている神が」特別なことがあったからとかではなくして、普段から「あっダニエルはこの神様に仕えているんだな」と言うことが敵の大臣含め周りの目にはあきらかだった。ダニエルの信仰のことを知らない人はいなかったということです。彼にとって信仰とはプライベートなものではありえなかった。『いやこれは個人的に信じていることなんで』特に周りには伝えず、そういうスタンスでダニエルは歩んでいませんでした。言葉、行動、生き様すべてが彼の信仰を語っていた。

 皆さんどうでしょうか、証をする、伝道する、神様のことを人に伝える。っと聞くとどのようなイメージを持たれるのか。苦手意識があるという人も多いのではないかと思います。下手したらあまり良いイメージを持っていないという、そういう方もいるかなと。「いきなりそんな神様の話を人にしても、引かれてしまって逆効果だ」とかですね。実際私もそういうイメージあります。牧師が伝道苦手ってどうなのと?正直自分でも思いますけれども。。。でそこでよく言われるのが、行動で、生き方で証をしてきましょうというお話ですよね。信仰をもって愛をもって誠実に人と接していくなら、それを通して神の栄光が周りに表されるというお話。私自身そういうメッセージをしたことがあります。そしてそれは間違いではない。ダニエルの生き方もある意味、行動で神の栄光表すという、そういうものだったと言えると思います。しかしながら本当に神様のかの字も一言も発せず、信仰の話を一切しないのだとしたら。本当に行動だけっとなると、それで神様のことは伝わっていくのか?難しいでしょうね。というか伝わらないでしょうね。行動で示す。めちゃくちゃ重要です。けれども機会があるごとに信仰の話をしていく、自分の信仰をオープンにしていくということもまた同時に大切なんだと思います。ダニエルの信仰は隠されたものではありませんでした、周りの人たちは、ダニエルが仕えている神様のことを知っていた。私たちはどうでしょうか、私たちの周りの人、同僚、友人、家族は、私がクリスチャンであるということを知っているだろうか。考えさせられます

 もちろん空気を読まずに、ただいきなり神様の話をすれば良いというわけではない。ダニエルだってそうですねよ、普段から神様の話ガンガンしていたわけではないと思います。あるいは大臣という立場を使って、国中に主を礼拝するようにという政治的な動きをしたわけでもないでしょう。伝道という観点から言ってダニエルは自分からアクティブに攻めていったという印象はありません。けれども機会があるたびに、彼は自分の信仰をオープンにし、証をしてきた。だから今回の法令が制定されて、命の危機にあっても、ダニエルは自分の信仰を隠さないということを選んだのではないでしょうか。

さてその後どうなったのか。ダニエルがライオンの穴に入れられて一日たった後、王様は様子を見に行きます。21節から

すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

ダニエル6:21-22

 神様はダニエルを守ってくださいました。23節にある通り、それは彼が神に信頼していたという見事な証だったんですね。結果ダリヨス王は国中にダニエルの神、主を褒めたたえるようにということを書き贈ります。絶体絶命のピンチにあって、ダニエルは神様を信頼したことによって、逆にそれが用いられて主の栄光があらわされるという結末で6章は幕を閉じます。っと本来はここが一番ドラマチックで説教としてもメインで語られるところなんでしょうけれども、今日はちょっと違った視点で。ダニエルが異国の地にあって持っていた影響力という角度から6章を見てきました。

まとめましょう。ダニエルが持っていた影響力の秘密、4つくらいあったのではないかなと思います。まず一つ目、ダニエルは仕事ができた。彼は与えられたエリアでベストを尽くしました。その結果影響力のある地位に行くことができた。二つ目、仕事ができるだけでなく、人格も素晴らしかった。「いやな奴」ではなく「いい人」だった。三つ目、妥協のない信仰。ただ罪を犯さない、だけでなく、主だけを恐れるという覚悟をもって歩む人生でありました。それこそ今回命を懸けてその信仰を貫きました。四つ目、自分の信仰をオープンにしていた。決して人に押し付けるわけではなく、けれども周りに自分の信仰が伝わる、そういう人生をダニエルは歩んだんですね。

 結果異国の地にあって捕虜としてスタートしたダニエルの人生は、王様をも動かし、国中に主の栄光を表す、そんな影響力を持つようになった。

 さて結果だけ見るとすごすぎて、完璧すぎて、いや私はダニエルみたいにはなれない。そう思ってしまいますね。けれど最後に覚えたいのは、そんなダニエルの信仰人生を支えたのは、おそらく毎日の祈りだったのではないかということです。10節で見ましたね、彼は「いつものように」日に三度祈ったと。信仰は一日で一気に成長するということはない、ダニエルの信仰人生も日々祈りを積み重ねることで、成長していったのではないでしょうか。あるい人は言いました。

卓越性とは行為ではなく習慣なのだ  (ウィル・ダラント)

‘Excellence is not an act, it’s a habit.’ Will Durant

 英語のほうがわかりやすいかもしれません。まあ要はよく言われる「習慣が人を作る」というよというやつです。急に命の危機にあって、信仰を選ぶということはできないかもしれません。しかしながら日々祈る、聖書を読む、神様と時間を過ごすっということを、選んでいくということは私たちもできるのではないか。そしてそれを積み重ねていく時に、影響力のある信仰を養っていくことができるんだと思うんですね。

 で最後余談ですけれども、28節

このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。

ダニエル6:28

さらっと書いていますが、クロス王というの出てきますね。彼にもダニエルは仕えたわけです。じゃあこのクロス王ってだれかというと、2歴代誌36:22-23にのっていますが、実はこの王様が、ユダヤ人たちにエルサレムに戻って神殿を再建するようにという指示を出すんですよね。いやもちろん主の霊が、王様の心を動かしただから、そのような命令をが出された。間違いないです。そう書いてありますから。ただもしかしたらダニエルの影響というものもあったのかなあ。ね、あくまで推測ですけれども、だとするとかなりかっこいい。ダニエルの信仰は、ダニエルの人生は国を動かした。

私たちはダニエルのように立派ではないかもしれない、才能もダニエルに比べれば微々たるもので、持っている影響力も限られているでしょう。けれどもそれぞれに与えられた場所があり、与えられた人々が周りにいるわけで。地の塩、世の光として、今いるその場所で主栄光を証するものでありたいと思います。

2024.05.26

傲慢という病と 試練という治療薬(ダニエル4)

 

ネブカデネザル王が見た夢はどういうものだったのでしょうか。さっそく夢の内容を見ていきたいと思います。10-17節の部分になりますが長いので夢の前半は私の方で要約させてください。

まずものすごく巨大な木が王様の夢の中に登場します。その木の高さは天に届くほどで、地の果てのどこからでも見えるほどでした。そしてただサイズがでかいだけでなくして、その木は豊かに実り、あらゆる動物を養っているそんな木でありました。っとここで夢は終わりません、後半はちょっと聖書を実際に読んでいきましょうか

ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。その心を、人間の心から変えて、獣の心にそれを与え、七つの時をその上に過ごさせよ…

ダニエル書4:13-16

 さてこの夢を見たネブカデネザル王は、この夢を見て恐れおびえてしまったっと5節にあります。そしてどうしたか、呪法師、呪文師、星占いたちを集めて夢の意味を聞き出そうとします。けれど残念ながら彼らには解き明かしができませんでした、結果ダニエルが呼ばれます。ここまでの流れ、ほぼ2章と同じですよね。

 ここで少し思うのは、「いや最初からダニエル呼んでよ」ということです。2章であれだけの解き明かしをして見せたダニエルを真っ先に呼べばいいじゃないっと。けれど性懲りもなく、ネブカデネザルは、呪法師、呪文師、星占い、まあ当時で言う王の相談役、を集めます。つまりこの世の知恵に頼ったということです。2章で経験したことから何も学んでないではないかと私たちは思います。けれど同時にどうでしょうか、私たちもまた人生で何か問題が起こるたびに、まず祈るではなくして、まずネットで情報を集めるっという流れになっていないでしょうか。最近AIも話題になっていますが。近しい未来には、祈る前にAIに聞くなんて言う時代がすぐそこまで来ているかもしれませんね。とこのように世の知恵、情報っというものは力があるように見えてしまうもので、考えさせられます。

 さて話を戻しまして、ではこの夢の意味は何だったのか。ダニエルの夢の解釈、解き明かしが20節から始まっていきます。ここも長いので前半は私の方で説明して後半の部分は聖書を開くという形にしたいと思います。まずダニエルは率直に「その夢に登場した巨大な木はあなたです。」と王様に伝えます。この4章の出来事いつ頃の話かというと、おおよそネブカデネザルの統治の晩年だったのではないかと言われています。飛ばして読みませんでしたけれども、ちょっと4節ご覧になっていただいて。

私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき

ダニエル4:4

私の家で気楽にしており」とありますがこれ別にリビングでコーヒーを飲んでた、とかそういうことではないんです。意味合いとしては、もうかなりの領土を征服しきって目立った戦争がなく平和な状態だったということです。つまりかつて彼が抱いていた、偉大な王国を建てあげるという野望が実現した後ということですね。2章の時にもやりました、ネブカデネザル王の時代にバビロンは当時世界で最も富と力のある国となったということが歴史的にわかっています。ですから文字通り、世界で一番巨大な力のある国を建てたあなたはその巨大な木です。っとダニエルは言います。ここまでは特に解き明かしが必要ないくらい誰にでもわかるんではなかなろうかと思います。しかしながら問題は天の御使いが来て、その木が切り倒されてしまうっという夢の後半ですよね。

その部分の解き明かしが24節から始まります。ここは聖書を開きたいと思います。

王さま。その解き明かしは次のとおりです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。(24-25節)

木が切り倒されるということは、ネブカデネザル王に起きる神様の裁きだというんですね。じゃあそれは何に対する裁きなのか、それは明白です。25節の最後のところ、このことによって「あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国を御心にかなうものにお与えになることを知るようになる。」つまり王の傲慢、プライド、自分の力、栄光ばかりを誇っている心に対しての裁きだというわけです。では具体的にどういうことがおこるのか?人間の中から追い出されて、獣のような生活をするとありました。はて?これは何かの例えなのかと思いきや、文字通りのことが起こります。33節

彼は(王様は)人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり爪は鳥の爪のようになった

ダニエル書4:33

実際にボアンソロピー(Boanthropy)と呼ばれる精神疾患が現代でも報告されているそうです。どういう病かというと、もう自分は人間じゃなくて動物なのだと思い込んでしまうという精神病です。ネブカデネザルもそれに侵されたのではないか、そして実際に野で生活するようになり、髪の毛も爪も伸びっぱなしで見た目まで動物に変わっていった。そんな状態になってしまえば、偉大な国の王でもなんでもありません。当然国を治めるどころの話ではない。いやそれどころか人間以下です。パンパンに膨れ上がった王様のエゴか砕かれる、そんな裁きでありました。一つ救いがあったのは、傲慢になったネブカデネザルを神様が完全にほろぼされるということではなかったということですね。26節

ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。

ダニエル4:26

つまり悔い改めて謙虚になって、主こそが、神様こそが、真の支配者であるということを認めれば再び国は固く立ちます。っとそういう救いのある内容でした。だからこそダニエルは裁きが下らないように誠心誠意王様に進言します。27節

それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。

ダニエル4:27

結果どうなったのか。残念ながら結局ネブカデネザルは悔い改めることなく、裁きが下ります。先ほど33節でみた通り、王は獣のようになり、人間以下の生活をするようになります。

っとまあ大筋のあらすじをおってきましたが、ここまで見てきますと冒頭でも申し上げたように2章と非常に似ているのがお分かりいただけると思います。そして似ているのは、話の流れだけではなくして夢を通して語られているテーマも非常に近しいものがあります。それは、主を支配者として王として認めるのか、それとも自分が王なのか。そういうテーマです。覚えてらっしゃいますでしょうか、自分の人生の王座に座っているのは自分なのか、神様なのかということを2章のメッセージでやりました。


 でですね、まあこれは説教者としての都合なので、皆さんには関係ないんですけど。ぶっちゃけ、私はえ?また同じようなメッセージになってちゃうじゃん。っとこう思ったわけです。けれどまあ考えているうちに思いました。いやそれこそが重要なポイントなのではないか。つまり新しい内容では別段ない、中心的なメッセージはかわらない、繰り返しと言ってもいいかもしれない。まさに繰りかえしです。けれど問題はなぜ繰り返されているのかということ。

 ネブカデネザル王が夢を見て、その意味を知りたいというところから、4章は話がスタートしました。つまりネブカデネザルが求めていたのは、知識、「もっと知りたい」ということだったんですよね。で最終的にダニエルが夢の意味を解き明かしをしその夢の意味を「知る」ことができた。しかしながら解き明かしが本当に必要だったのかというと、どうなんだろうかと思わざるを得ません。先ほどお読みしませんでしたが、夢の内容を説明しているシーンに戻っていただいて16節の次17節

それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。(17節)

これ王様本人がダニエルに夢の内容を語っているシーンです。いやもうほとんど、夢の中で夢の意味が明かされてるではないか?っとつっこみたくなります。へりくだって神様を、主を認める。はたから見れば語られていることは明らかだろと思います。しかしながらネブカデネザルにはそれが見えていない。なぜか?でそれは、ネブカデネザルに必要なものは、知識ではなかった、新しい情報ではなかったからです。

ちょっと振り返ってみたいと思います。いいですか2章ではダニエルの夢の解き明かしによって、王様はこんなことができる神はダニエルの神以外いないとほめたたえ(2:47)3章では、先週やりましたね、シャデラク、メシャク、アベデネゴが炎の炉から救い出されたのを見て「このように救い出すことのできる神は、ほかにいない」(3:28)と本人が言ったわけですよ。さすがにネブカデネザル王は心を入れ替えるのではないか。っとこうダニエル書を読んでいる私たちは期待するわけですよね。けれど相も変わらず、主の前に遜ることはなく、自分こそが偉大な王であるという傲慢な態度を持ち続けるネブカデネザルがいます。そして今回4章では三度目の正直だっと言わんばかりに、神様の前に遜りなさい、というメッセージがもう直接にダニエルの口を通して語られます。(27節)悔い改めてください王様と。でどうなったのか29-30節

十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」

ダニエル4:29-30

まず注目すべきは、出だし「12カ月の後」、つまり裁きが下るまでそれだけの猶予が与えられたということです。正確に言うと12カ月どころではないですよね、2章から始まって長いこと、主はネブカデネザルの傲慢を裁かず、あわれみ深く忍耐深く待ってくださった。ダニエルを通して悔い改めるようにと忠告もした、にもかかわらず、彼の口から出てくる言葉は、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。私、私、私、どこまでいっても私の人生。これこそが傲慢という、プライドという、霊的な病です。

ネブカデネザルに知識は十分にありました、主の御業も見た、もう充分「知って」いました。にもかかわらず彼の心の姿勢は変わることはなかった。つまり信仰というのは知識だけでは不十分だということです。先ほどこの世の知恵に頼るのではなく祈りが、御言葉が大事だっという話はしました。まあだからこそ、このように毎週礼拝では聖書からメッセージをし、聖書を読みましょうねと皆さんにお勧めしています。しかしながらその目的が何か新しい情報を得る、つまる「知る」というところだけにとどまってしまうなら意味がない。御言葉を通して、心の姿勢が変えられ、生き方が変えられていかなければ意味がないんですね。

 残念ながらネブカデネザル王の場合、神様のことを「知る」ということだけでは心を入れ変えるまでには至りませんでした。それほどにこの傲慢というもの、プライドという霊的な病は根深い、そして何より本人が気づきにくいものなんですね。さてだとすると私たちはどうでしょうか。私たちも知らず知らずの間に、この傲慢という病が心に根を張ってしまうということはないでしょうか。それに対して「いやいや私はそんな、ネブカデネザルみたいに大成功を収めているわけではないし、所詮庶民だし、俺はすごいんだっと言って誇って傲慢になることはないですよ。」っそう思われる方も多いかもしれません。特に日本人はおそらくそうですよね。控えめ、謙虚っていうんでしょうか。けれども傲慢というものは成功者だけが抱える問題ではないのではないかと思うんですね。

そもそも傲慢、プライドのエッセンスはなんでしょうか?それはネブカデネザルの言葉に良く現れていました。私の権力、私の威光、私が建てた、私、私、私、どこまでいっても私の人生。でこれは人生がうまくいっているとき、つまり成功しているときの症状は割とわかりやすいです。まさにネブカデネザル王のように、私の功績を見てくれ、私がこれだけ良いものに囲まれているのは、私が頑張ったからだ。まあそれを口に出すかどうかは別として、そのように心の中で思っている状態という感じでしょうか。

では物事がうまくいっていない時、プライドはどのような形で表面にあらわれてくるのか?でそれは、愚痴とか、妬みとか、時には鬱、落ち込みっといった形で表面化します。「なんで自分の人生はこうなんだろう」「なんで私だけこうなるんだろうフェアじゃない」「どうせ自分の人生はもうだめだ」っというそういう思い。いやいやこれらのマイナスな思いのどこが傲慢なのかと、思われるかもしれません。しかしながらこれらの思いを掘り下げていくと、そのおおもとに実は、「自分はもっと良いものを受ける資格がある」っという思いがあることに気づきます。なぜなら本当に心底自分が嫌いで自分の人生などどうでもよいと思っているなら、人は落ち込まないからです。現実と理想、つまり本来こうあるべきだと思っているものの間にあるギャップに人は苦しむんですよね。

 さてではこの根深い霊的な病、傲慢、プライドはどのようにしたらとりのぞくことができるのか。どのようにすれば、表面的にだけではなく、本当に心からへりくだり謙虚になることができるのか。 

ネブカデネザル王に必要だったのは、聖書の学びではなく端的に言って試練でありました。遜ることのなかった王様は結局裁かれて、獣のような姿になり、人間以下の生活をすることになりました。そして7つの時が過ぎたと32節に書いてあります。これが具体的に7カ月だったのか7年だったのか、それはわかっていません。まあ重要なのは実際の長さよりも、その数字が持つ意味です。ユダヤ人にとって7というのは完全数、つまり完成するという意味合いがあります。じゃあ何が完成するのか、それはネブカデネザルの悔い改めです。言い換えると「7つの時」とはネブカデネザルが悔い改めるのに必要な年月という意味ではないかと言われています。ここも重要なポイントですね、悔い改めるには時間がかかるということ。何かレッスンを学んですっと心が変わるならば、そもそも試練はいらなかったでしょう。人の心が変わるには時間がかかります。

 そうしてその期間が終わった時34節

その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。

ダニエル4:34

ネブカデネザルはついに天を見上げます。あの傲慢に満ちて全てを見下している状態から、見上げる。自分の目線が、私、私、私と自分にばかり向いていたのがついに神様を見上げるようになる。これが遜るということなんですね。

皆さんもどうでしょうか、霊的に成長したのはいつですかと聞かれたらどのようなお答えになるでしょうか。教会でバイブルスタディをしていて、あるいは説教を聞いていてっという話にはあまりならないのではないでしょうか。やはり帰ってくる答えは、病気をしたときにとか、人間関係で問題を抱えていた時にとか、仕事で悩んでいた時にとか、将来や進路で悩んでいた時にとか。そのような話を聞くことが多い。でそれはやはり試練というものを通して、ある程度の時間をかけて、自分のプライド、傲慢というものが砕かれてはじめて私たちは遜り、霊的に成長するということが多いからだと思うんですね

 かくいうわたしもこのネブカデネザルの物語は読むときに他人事とは思えない。いや俺はすごいだろっというそっちの傲慢はおそらくほとんどないと思います。どちらかというと自分には自信がないタイプです。しかしながら、自分の人生に納得がいかず、落ち込むっというそっち方面の傲慢さというものは長いこと抱えていました。一応過去形にさせてください、まだ完全に治ったわけではありませんが、少しはましになったのではないかと思います。もう何度もメッセージでシェアさせていただいていますが、私は5年前NZに移ってくる前、日本で生活をしていました。そのころの私はずーっとこの傲慢という病に憑りつかれていたんだなっということを今振り返って思います。当時私には理想というものがありました、日本の社会で立派にクリスチャンとして生活する、ある程度社会的にも成功したい、経済的にも安定したい、結婚をして家族をもってっと。いやもちろんそれらすべてが叶うなんてことは思っていませんでした。けれど思い描いたものが何一つ実現しないまま35歳をむかえた私は、静かに自分の人生に絶望していました。「どうせ自分の人生はだめだ」っというそういう思いに憑りつかれていたんですね。そしてその根っこの部分には「もちろん完璧ではない、けれどそれなりに努力してきたじゃないか、自分はもっと良いものを受ける資格があるんじゃないか」っという思いがあったのだと思います。そんな鬱っぽい状態の私を心配して、父がこのような事を言っていのを覚えています。「感謝できることを書き出してみたらいいんじゃないか」っと。非常に知恵ある言葉ですね。傲慢に対する良い薬は確かに感謝だと思います。しかしできませんでした。「感謝だって?どこに感謝することがあるんだ?」っと当時思っていました。これを傲慢と言わずして何というのでしょうか。っとまあ獣のような生活を強いられたわけではありませんが、そのような心の状態で何年も過ごした。次第に私のプライドは砕かれ、主に委ねてNZに来たのが5年前っとそういう感じです。ではNZに来て心の姿勢がすぐ良くなったかと言うと、それでもなかなかこのマイナス思考というのは抜けませんでした。けれども時間をかけて主は、妻を与えて下さり、息子を与えて下さり、この至らないものに牧師という役目を与えて下さり。最近やっと、ふと心から自然に感謝だなあと思うことがあります。

 逆に思います。日本で自分の理想とする人生がかけらでも手に入っていたとしたら、いまでも自分は傲慢という病を患ったままであったろうなと。長い試練の時があり、はじめて、ああ自分の頑張りで人生をどうにかするのではなく、すべては主が与えてくださるものなのだ、受ける資格があるとか、どうとか、そういうことではないのだなと、まあ少しは思えるようになったんだと思うんですね。

遜るということは、すべては主からの贈り物なのだということを信じることなんだと思います。自分の人生がうまくいっているのであれば、自分の頑張りではなく、主が与えてくださった祝福に感謝し、試練に会うのであれば主が何か自分に語り掛けておられるっという見方で受け取る。なかなか難しいですね。特に試練の真っただ中にいるときそれは非常に難しい。けれどそのくらいトンネルを抜けるときに、その先には喜びと賛美が待っている。悔い改めた後のネブカデネザルにそれを見るうことができます。

 ネブカデネザル王は天を見上げ、理性が戻ると、ダニエルが言った通り王国もその手に戻り、何なら以前より栄えたと36節にあります。全ては元通り、けれどネブカデネザルは自分の王国が自分の力で建て挙げたものではなく、主より賜った、与えられたものだということを試練を通して、頭ではなく心で深く学んだんですね。で実は4章冒頭戻っていただいて1-4節を読むと、この顛末を語っているのはネブカデネザル本人だということがわかります。自分が経験したことを思い出しながら王様本人が証を語っているという具合です。注目するべきは2節、

㉑いと高き神が私に行われたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。

ダニエル4:2

真にへりくだる心を学んだネブカデネザルはもはや自分の栄光ではなく、主の栄光を伝えるものへと変えられました。でなにより「私の喜びとする」というところ。遜るものの心は、賛美と感謝と喜びで満たされます。そしてそれはこの世のどんな富、権力、名声にも代えがたい。

皆さんどうでしょうか、ご自身の心をご覧になって、賛美と感謝と喜びがあるのか、それとも、傲慢、自分の力でどうにかしなくては、あるいは自分の人生はダメだという苦々しい思いがあるのか。もし傲慢という病が芽を出しつつあるなら、やはり十字架を思い出していただきたいなあと思います。ネブカデネザルとは対照的に、すべてを捨てて自ら遜り、この地上に来てくださったイエス様。そしてそのイエス様の十字架のゆえに、私たちは受けるに値しない救いを与えられました。そして救いだけではなく人生の全ては恵、与えられたものなのだということを十字架に見出だしていただきたい。さてとはいえ、試練の真っただ中でそのようなこと思うのは難しい。さきほどもいったように心が変わるには時間がかかります。けれど焦る必要はない。なぜなら主は忍耐強くネブカデネザルに寄り添ってくださったように私たちにも忍耐強く寄り添ってくださるに違いないからです。


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